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おばあちゃんは散歩する。




 おばあちゃんが歩いている。
 ワンピースのおばあちゃんが歩いている。
 しわの多い顔。丸く後ろでゆった白髪。
 柔和そうな笑顔で歩いている。
 いつもの街並みいつもの昼間。
 おばあちゃんが歩いている。
 雑然とした大通りを一歩横に入ると閑静な住宅街が続く。
 細い道には二階建ての家の前に植木がいくつも並んでいる。
 丹念に育てられた植木。
 それはきっと愛情のたまものに違いない。
 花もあるが、その緑と茶の枝の微妙さ加減というものは、通、である。
 おばあちゃんは植木を見て一人うなずいている。
「よう、元気かい」
 そこに年季の入った老いた男が立っていた。
 老年は時代を越えた伝統、その植木のようである。
「ええ、そうねえ。そこそこかしら」
 おばあちゃんはそう答える。
 にこやかに笑ったおばあちゃんの笑顔は、陽気な日差しにも増して、明るいものだった。
「最近は陽気もいいねえ。花々も元気いいよ」
 やさしいまなざしで数々の植木を眺める男。
 男は植木を育てるのが老後の趣味でもあった。
「そうねえ、ずいぶん暖かくなりましたねえ」
 おばあちゃんはそう言うと、ほがらかに笑っている。
 おばあちゃんはこうして近所の人と話してるのが好きだった。
 なんとなくくりかえされる日々の散歩。
 それがおばあちゃんの日課でもあったのだ。
「こんな植木がなんになるってんだい」
 その声はおばあちゃんの横でした。
 そこに、短い白髪にしわだらけの顔の老いた男がいた。
「木は家になることこそが目的なんでえ」
 老いた男はそう言いきる。
 その年季のしわは、頑固さが年輪になったものに見えた。
 近所の老人は植木をばかにされたと思い、あからさまに嫌な顔をしている。
 おばあちゃんは空を見上げる。
「今日はいい天気ねえ」
 まぶしそうにそう言う。
「木材こそが木の本質よ。鑑賞用なんて遊びよ」
 年のいった男はなおもまくしたてる。
「木の家はいいわねえ」
 おばあちゃんはにっこりと笑う。
「おっわかってるね。そうだよ。家は木造。それが日本の伝統なのさ。木の家を見るとな、木が生えてるところが見えるんだ。風にそよぐ木々の流れ。木の年輪なんていつまで見てたっていいね。その家がね、木から地球を感じられてね。まるで自然の中にいるような錯覚になるのさ。自然とは生命、生きることを考えさせてくれるのが木の家なのさ。それを支えるのは本当に職人冥利につきるね。建てる時はこれほどおもしろいものはないね。あんたも一度立ててみるといい」
 おばあちゃんはゆっくりとうなずく。
「ねえ、あなた。お茶でもいかかでかしら」
 おばあちゃんはそう言う。
「いいねえ、どこの喫茶店だい」
 おばあちゃんは歩いていく。
 ついていく年老いた男。
 道をまっすぐ行って何度か曲がる。
 あいかわらず住宅街だ。
「いいねえ、ここいらはまだ木造の古い家が残ってやがる。これぞ日本の心よ」 「ここでお茶しましょ」
 そこは鉄筋で出来た四階建ての家だった。
「ここは?」
「あたしとあたしの家族の家でねえ」
 家に上がると、中は普通の台所とソファとイスとテーブルがある。
 年老いた男はイスに座る。
か  おばあちゃんがお茶を入れてくれた。
 おばあちゃんが席に着くと、男はすぐに話始めた。
「だからさ、おれの息子が父さんは引退したんだから、仕事に口出すなって言うんですよ。これが。でもね、若い連中ときたら、あたりまえのこともわからない。ひとつひとつ教えてやらねえといけねえんで。大工の基本はねえ、心ですよ。それが連中にはわからないんだなあ。もっと感覚的なものを理解してくんねえとねえ。だのに、いまどき古いだの、論理性にかけるだの、口だけは一人前なんだなこいつが。まったくまいりますでしょう、ねえ」
 おばあちゃんはにこにこと聞いている。
 引退した大工の男は、楽しそうに話し続けている。
 おばあちゃんがぽんと手を打つ。
「そういえばあなたのお名前聞いてなかったわね。なんておっしゃるのかしら」
「それを忘れてた。あっしはですねえ、源(げん)って言いましてねえ。まあ、大工の源さんとでも呼んでくださいよ」
「ありがとう源さん。あたしはねえ、空海(くうかい)千恵子(ちえこ)って言うのよ。げんさんも結構お年ねえ、いくつになるのかしら」
「あっしはねえ、八十八歳になりまさあね。大工歴はニ十二で始めて六十六年になります。まあ、引退してしばらくたちますがね」
「あたしはねえ、七十八になるわねえ。主婦をしてたけど、いまはおばあちゃんをしてるわ」
 そう言うとにっこりと笑うおばあちゃん。
「そうですかい。それはいいです。いいですよ」
 源はそれからそれまでの建てた家のあらましを詳しく話した。
 その目は生き生きとしていた。
「家主にこうと言ってゆずらなかったんだよ。それで出来上がった時の家主の顔の輝いていたことのないったらないね。もっとこう、家は厳しい日々のアオシスであるべきでね。歩いているとなんとなくそこにいたくなる場所であるべきなんですよ。それがね、家主の人にはわかりにくいね。こうね、木が歌いだす家というのをね、建てたいね。家がね、帰ってくるのを喜んでくれるような家にしたいんだよね。いつかその家がなくなってもね、ああ、あそこはいい場所だったって思ってもらえるような家がね、いいんですよ。きっとそうなんですよ。今度あっしが建てた家を紹介しますよ。それがいい。いつひまですか。まあ、いつでもいいんですけどね。思いのままに出来上がった家が出来たら、引退してもいいんですよ。ほんとですよ」
「あらまあそうそう」
 ぽんと、おばあちゃんは手をあわせ打つ。
「いま雨漏りしてるとこがありましてねえ。大工さんに見てもらいたいなと思ってたのよ」
「そりゃいけない。そこはどこですな」
 源さんは現場を見ると、うなずく。
「すぐ直しましょう。なに、お茶のお礼ですよ」
「あら、助かるわ」
 源さんは道具を取ってくると、天井の板をはずして仕事にとりかかる。
 トンカントンカントン。
 大工の源さんは木材を持ち込み、雨漏りを直している。
「どうしたんですかおばあちゃん」
 四十代くらいの男がそこにいた。
「あらあら三条さん。もうお帰りなの。まだおふろわいてないのよ」
「それよりもこれは一体なんですか」
「大工の源さんが雨漏り直してくれるっていうのよ。ありがたいわねえ」
「そんなこと言って、相談してくれなくちゃ。それに料金の話しとか」
「だんな」
 源さんがはしごから三条を見ている。
 しわの顔がゆがむ。
 柔和に源さんが笑ったのだ。
「なに、こんなものうちの廃材でぱっぱっと直しちゃいますから、金はいりやせんよ」
「源さん、これは息子の空海三条(さんじょう)というの。よろしくね」
「そいつあだんな。これからもよろしく願います。これでも腕は確かですでな」
「いや、でも母さん、これはどうしたことですか。こんなこと聞いてないですよ」
「この子ったらね、勉強がいつも良く出来てねえ」
「それはいい。だんな、勉強は出来たほうがいいですさ。なにせ人はその人の本質を学業で見るところがありますからね。仕事も選択肢は多いほうがいいですよ」
「え、あ、いや、まあ、どうもありがとうございます」
「あら、お母様。夕飯の準備しますよ」
 ストレートに腰まである黒髪の中年女性が顔を出す。
「まあひさしぶり」
「お母さん、朝会いましたよ」
「源さん、これはうちの嫁よ」
「いや、これは奥さんどうも」
「あらどうも」
「遠いところから嫁に来てくれたのよ。なかなか良く出来た嫁でねえ」
「そうですか、ご苦労ですな」
「え、まあそれほどでもある、かしら。えへへ」
「いや、なかなか出来ることじゃないですよ」
「とにかくまあ、もう母さん、もう食事の時間ですよ」
「あらそう。源さん、もうお終いになるかしら」
「ええ、もうこれで終わりですよ」
 源さんは天井のふたを閉める。
 ゆっくりと脚立から降りる源さん。
 その動きはまさに職人の動きだ。
「だんな、これからもごひいきにお願いしますですよ」
 そう言うと減さんは笑った。
 それはしわのよった、いい感じの笑顔だった。
「はあ、まあ、どうも」
 唖然と三条は立っていた。
 夕方。
 夕日はすべてを色に沈めていく。<BR>  その色は昨日との別れ。
 現実との邂逅。
 時間は戻らないとも、夕日だけは誰をもやさしくその色に気持ちを風にして物質の影となった闇に帰っていく。
 おばあちゃんはうっとりと夕日に見入っている。
「夕日はいいわねえ。今日一日の心のあかが落とされる思いよねえ」
 おばあちゃんの言葉に源さんはうなずく。
「歌いたい気持ちだわ」
 おばあちゃんは歌う。
「願い。時。人はそれでもいてもたってもいられずなにもできなくても、また思い、考え、その中に眠りにつくとしても、また歩いている人よ、その力になりたい時よ。なにもできないで泣いている人よ。鳴いている鳥よ。それでも、世界は回転しているのだから。力なんてない。けれど、本質こそが力だと言うのですか。なにが世界こそだと歌い歌うのでしょうか。それでいいというならば、力なんてないでしょう。それでもまた、人よ、こそ、だから。世界は混沌としていて、季節、過ぎていくから、雲が空をおおっていても、心がなにもかも失ってしまっても、力よ、この思いよ、それでも人は青春よ。その言葉よ、その情動よ。人の感情は誰にも止められないけれども、その気持ちだけが世界だと言うことではないのですから。なにを得たのですか。なにを失ったのですか。いつから言葉は涙に変わり、人は過去の邂逅(かいこう)に迷いだしたのですか。あなたの言葉が誰かの力でありますよに」
 おばあちゃんはそこまで歌う。
 源さんは笑った。
「いやあ、今日は退屈しなかったね。またお茶にさそってくんな。廃材はまだいっぱいありますよ。物置も貧弱だしね。まだ直したいところがいっぱい見つけましたよ。あっしだったらこの家を家族の居場所に変えて見せますよ。なに、お金の心配はしなさんな。あっしの趣味みたいなものなんですからね。なに、退屈はさせません。いいものは人の心をゆったりと静かにやすらぎにいざないます。それがこの家だと言えるようにしてみますですよ。いつかこの家が人で幸福の場所であることを願ってまさ」
「はい。わかりました。また来てなおしてくださいな。雨漏りは助かりました。これからうちで良ければ、気のすむまで家に手を入れてくださいな。それじゃ、源さんまたね」
「それはありがたい。それじゃあ、そんじゃあ失礼しますよ」
 源さんは夕日の道を帰っていく。
 入れ替わりに少女が家に走って来る。<BR> 「おばあちゃんただいま!」
 赤いランドセルしょった少女が家に駆け込んでいく。
「ああ、おかえり。今日もいい一日だったかい」
「うん!」
 少女は家に入る。
「さて、今日も一日ありがとうございました」
 おばあちゃんは夕日におじぎすると、家に入っていった。
 一日が過ぎていく。
 それはいつもと変わらぬ、穏やかな一日なのだった。





















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