これまでの経緯。
私が生まれたのは日本の千葉の銚子という市だった。
父と母と東京にいる父方の父母に結婚を反対されたため、母方の父母がいる千葉で子供を産んだ。
なので、私と姉の生地は千葉である。
私が生まれたのは1973年(昭和48年)だった。
私の赤ん坊の時の写真は白黒で、これはまだ当時は白黒カメラも多くあったようだ。
元々私の父と母の仕事も千葉にあり、両親は若くして家を買った。
バブル前の千葉のちょい田舎というかはずれでは、一軒家土地付きでも買える値段だったそうだ。
母は保育園の先生で、父は絵本を売る仕事をしていた。
父は会社が勧める絵本ではなく、自分で本を薦めたいと、サラリーマンを辞めて千葉に店を開いた。
もちろんサラリーが払われないのだから、最初はちょいちょい赤字だったそうだ。
その家庭を経済的に支えたのは母で、だからうちの大黒柱であった。
その時に家族四人で住んでいた家の記憶はほとんどない。
石の階段を三段くらい上がって入る木造の一軒家で、ちょっと庭まであったようだ。
私はまだ保育園に通う程度だったが、この地域が停電して、テレビも映らず、真っ暗な中蝋燭(ロウソク)で家族と過ごす時間が印象に残っている。
ひとつ目の転機はここで起きる。
それは東京に移り住むことになったのだ。
父方の父母が年ということで、介護を目的に一緒に住むことで一定和解したのだ。
二階建ての祖父母の家は建て直して鉄筋四階建てになった。
鉄筋コンクリートではない。
かなり頑丈(?)な作りであり、これはその当時なりに地震対策をしたとのことだった。
一階は居間と祖父が背広の仕立屋の店として、二階が祖父母の住居、三階が子供たちの部屋と風呂場、四階が両親の部屋とベランダとなった。
かなり狭い土地ではあるが、アキバの横の浅草橋に土地があるのは凄いと言われたものだった。
祖父が戦争前に土地を買ったそうだが、その時はもろちんまだバブルなどはなかった。
祖父は片耳が悪く、なので身体障害者として徴兵されなかった。
祖母は婦人服を作っていて、まあだから、服作りで生計を立てていたという。
最盛期には弟子もたくさんいて、結構盛況だったらしい。
私が会った時には祖父母はもう引退していて、趣味に精を出すようになっていた。
本人たちは仕事だと言っていたが、既に社員としての弟子もいなく、ちょいと小遣い程度にお得意さんの服を作ったりする程度だった。
千葉から東京に来て感慨深いことは私にはなかった。
いやつまりは千葉に住んでいた時の記憶など幼すぎてほとんどないのだ。
小学校に入る直前に引っ越したので、私にとって子供の時の記憶はほとんどが東京なのだ。
私が子供の時にテレビにはまだリモコンがなくて、がちゃがちゃノブを回してチャンネルを変えていた。
だからチャンネルを変えることをがちゃがちゃすると言ったものだった。
チャンネルをどんどん変えているとあまりがちゃがちゃチャンネルを変えないのと、両親に叱られたものだった。
テレビのリモコンが出来てからはどんどんチャンネルを変える両親を見て、リモコンならばいいのかいとツッコミで言ったのを覚えている。
小学校三年程度で月の小遣いは300円程度で、500円になったことに嬉しくなって、すぐに銀玉鉄砲を買ってすべて使ってしまって、お金の使い方がなってないと、また300円に戻されてしまった。
短い賃上げ(?)となってしまった。
当時は銀玉鉄砲といって、へぼいバネでプラスチックの鉄砲からプラスチックの玉を出しては打ち合うのが流行っていた。
距離は出なくて、それは輪ゴム鉄砲に毛のついたようなものだった。
いやまあその分あぶなくなくていいのかな。
商店街や公園では、銀玉がよく転がっていた。
それを拾ってポケットに入れたりしていた。
学校の制服も普段の服も短パンで、冬などは寒くて仕方なかった。
この時期遊ぶことと言ったら、家の外に出てみんなで鬼ごっことか、ケイドロなどであった。
サッカーボールを公園で蹴ったりとか、まあとにかくみんなが外で遊んでいた最後の世代だろう。
子供は風の子、家にいると病気に弱い子になると言われた時代だった。
それが変わったのはもちろんファミリーコンピュータ。
ファミコンの発売による。
本体が2万円というのは、そこそこな値段のイメージがあるが、当時にしてみれば安かった。
なにせこの時期のコンピュータは軽く百万円とかする時代である。
それはアップル2程度のボードにプラスチックの箱をかぶせた程度のものであったが、非常に画期的ではあった。
その前にカセットビジョンなどが流行っていて、私も友達もカセットビジョン持っている家に毎日のように遊びに行った。
カセットビジョンやその他のテレビゲーム機がまだミニゲーム程度であったのに対して、ファミコンはウィザードリィなどを一定再現する力があった。
ゲーム&ウォッチという携帯ゲーム機がファミコン前から発売されていたが、まだカセットを交換出来ず、1携帯機で1ゲームしか出来ないというものだった。
私はこの当時小4であったが、既に電話で話していることが出ていて、ファミコンの立ち上げに(?)一定影響を与えていたのかなあ。
超時空要塞マクロスが放映されている時は小3程度ではあったが、この時には既に現場に影響を与え始めていたようだ。
それは友達にも及び、言った悪口がすぐに友達に伝わってしまう。
そのため遊び友達がいなかった時期が半年程度あった。
いや、隣のクラスの一人と毎日のように遊んでいて、それでなんとかしのいでいた。
この時は電話友達か誰かひとりに言うと人づてにクラス中に広まってしまうのだと思い、以降悪口はほとんど言わなくなっていく。
幼いながらに、なんとかかんとかまわりに合わせていたという感じだろうか。
おかんなども近所にママさん友達がなかなか出来なかったそうだ。
いまみたいにネットの掲示板でママさん友達探すなどはまだ出来ない時代だった。
テレビドラマのウチの子にかぎってなどを見ていて、お年玉を大学とか高校進学の学費のためだと言って生活費に使っていたおかんに猛威に怒った話がテーマとなる回があった。
似た時期に似たようなテーマの話をするものだと思ったものだった。
逆に言えば、自分がひとつのメディアというか、なにかを動かす力として存在し始めた時期でもあった。
ファミコンが出てから、外で遊ぶ友達はほとんどいなくなってしまった。
この時期、ファミコンを持っていないと友達と遊ぶことが出来なかった。
逆に言えば、ファミコンがあると無条件に遊んでもらえた。
なので、親に願い倒してファミコンを買ってもらった。
ファミコンの一言で友達と遊べて、これはひとつ電子ツールが人をつなぐ一助となるという私の原体験となった。
誰かの家でテレビゲームしていると子供は外で遊ぶものだと一時間くらいで親におんだされてしまう。
なので、ファミコンのある家に次々と歩いてはまたファミコンをしたものだった。
家から家に渡り歩く子供たち。
いまそんなことを作品にするならば、ファミコンヒッピーとでもタイトルに付けるだろうか。
この時のみんなの技はプロ級(?)のもので、見たこともない技を連発する連中が多くいた。
この時期のゲームは一定数の面をクリアするとまた一面に戻るというもので、それを何十回となく繰り返して遊んだりした。
私もスペランカーならば何周でも出来た。
都市伝説のようなゲーム伝説もあり、何週目にはなにか隠れキャラが出るとか言われて、それを探したりした。
また友達と対戦するゲームは特に燃えて、アーバンチャンピオンやファミスタなどは何度でも遊んでいた。
友達と一緒に遊ぶオンラインゲームの原点のひとつはここに見ることも出来るだろう。
そんなルールのゲームではないのに、とにかくローカルルールを作ってはそれでまた遊んでいた。
当時のゲームソフトは一本4000円前後。
5000円前後のが出て、ずいぶん高いと言われたものだった。
子供に取ってそれはとても高価なものなのだ。
だからまあソフトの貸し借りなども行われたが、これは返すのにルーズな人がいたり、返した返さないで喧嘩になることも珍しくなかった。
中古ソフトは出るようになったが、レンタルは定着しなかった。
国によってはあるのに。
文化の違いなのかなあ。
さてはてな。
カード入りチョコなどが流行っていて、カードを手に入れて、チョコは捨ててしまう子がたくさんいた。
そんなことを電話でだらだら話していると、学校で問題ありと言われて、先生から注意されたりした。
私も多少ハマッていて、こんなにいいもの作る人ならばゲームソフトも作ってほしいなあと言うと、それは天外サクラなどの広井さんなのであった。
いやまあご本人もそれ聞いてびっくりしていたので、違うかも知れない。
物心着いた時からアニメを見ていたが、もうアニメにはすべて色が着いていた。
そもそもファーストガンダムが小学校前なので、確か一回目を見てつまらないと言って見なくなってしまった。
けれどもその次のイデオンとトライダーG7は好んで見ていた。
アニメ好きは気がついたら既にというもので、この時期はビデオデッキなど家にないから、アニメの時間になると家に飛んで帰る。
家に友達がいてもおんかえしてじっくりとアニメを見ていた。
友達の家にいても、アニメ見せてくれと言って、見せてもらっていた。
それが花の子ルンルンだったりしたから、男友達の手前ずいぶん恥ずかしかった。
うちの親は当時にあっては珍しく(?)漫画容認の家だった。
それどころか両親が漫画好きなので、家には漫画がそこそこあったものだった。
だから鉄腕アトムなどを子供ながらに読むことが出来た。
テレビを見ることやテレビゲームの時間制限などはあったが、なにせ共働きで親の帰りが遅く、午後5時にやってるアニメなどについて見てはいけないと言われることはなかった。
ありとあらゆるアニメと特撮、再放送番組を見た。
それでもいまほど番組数は多くなく、そこそこ見ていることが出来た。
そんな中、小6の時に見た蒼き流星SPTレイズナーにはしびれた。
ハードな中にもやさしさの描写があり、また宇宙を舞台に旅をするのにもあこがれた。
原作漫画を探して書店を探したがない。
その時、アニメ雑誌に描かれているのを見つけて、一番安かったアニメディアを購入。
この時期の百円は大人の千円に匹敵する貨幣価値だった。
その時始めてアニメオリジナル作品というものを知った。
いやまあ小3の時だかに、北斗の拳のアニメと原作漫画を書いてる人が別だと知ってびっくりしたものだった。
まだ当時はアニメは一人で作ってるものだとばかり思っていたのだ。
アニメ雑誌で知識を深めて行き、それはのちのちマニアの道に入る契機となった。
当時はネットなどなく、雑誌とか本にならない限り文章は世に出ない。
ブログを書いたりユーチューブに自分たちの歌を載せるなどということは出来なかったのだ。
同人誌はあったが、それにはもちろん多少の出版費用がかかった。
のちのち高校生になって同人誌を作るようになると、コンビニのコピー機の前で格闘することになる。
ファミコンと同時期に得た機器にカセットデッキとビデオデッキがある。
ウォークマンなどはあったが、高くて子供には買えない。
中型のカセットデッキでずっと歌とかを聞いていた。
小6の時だかにビデオデッキが家に来た。
勉強するからという約束だったが、もちろん勉強などしなかった。
まあ家族で使うもので、個人のためのビデオデッキではなかった。
当時で10万円程度(?)しただろうかビデオデッキという機械は、うちにおいてはもっとも高い機器のひとつだった。
空のビデオテープ一本がまだ千円はしただろうか。
レンタル屋に足しげく通い、見たこともないアニメを借りては見たものだった。
それが一泊二日で450円程度で、漫画一冊に匹敵した。
だからまあ、親が借りに行くのに便乗して借りていた。
それは家族と一緒に行って、一本だけ借りて良かった。
それで帰ってから家族で見るのだ。
アニメの扉を開けてなど見た時は、シャワーシーンが延々とあって、それももちろんテレビアニメなどにはない濃密な描写だ。
それで家族の手前すっかり恥ずかしくなってしまった。
ビデオデッキの前に中型のラジオ付きカセットデッキを買ってもらった。
カセットテープ一個再生出来て録音も出来るものである。
この当時のカセットデッキは外部録音機能がどれにもあった。
ので、アニメのおぷにんとかえんでぃんを録画しては再生して一人カラオケしていた。
ファミコンの入手も小4であり、この時期はかなりその手の機械を手に入れたと言って良い。
いま見るとずいぶん貧弱なようだが、当時はどれも個人が手に入れられるものではまずは基本であった。
まだケータイなどもなく、パソコンはネットにつながらないのに一台百万は軽くする時代。
うちはそんなに金持ち(?)ではなく、また百万のパソコンを必要とする仕事をしてるのでもなかった。
子供は風の子で外を遊んでいたのは小3までで、もうこれらの機器を手に入れてから、家でちまちまカセットテープだカセットデッキでアニメを延々と見てるだ、ファミコンだと、一気にインドアになって行く。
それでも小学校と中学校は運動部にいた。
小4から三年間部活動に入るので、中学の三年も含めて正味六年間、バドミントンをしていた。
小中と勝つための部活ではなかったので、それほどしごかれたわけではなかった。
それでも頑張ったけどもね。
小6の時には、プリントが配られて、学校の中で一番背が伸びたことで表彰(?)された。
がたいがいいから、運動部から声がかかることもあった。
バスケとかね。
けれどもスポーツで将来をとは考えていなかった。
小6の時には作品を構想しはじめていて、中学の時には作品のネタ帳を作って、それにファンタジー異世界の地図を書いて、そこで巨大ロボットが活躍する話を考えていた。
そのタイトルは激戦記アースト。
当時はレイズナーとかボトムズとかの高橋監督の作品にハマッていて、その作品世界の中にアーストというものがあった。
それをそのままパクッている。
この時期には既に神様状態だったのだが、本人はただ学生してると思っていた。
昭和の次はなにが来るのか友達と話していて、平成だろうと言うとそうなって行く。いやまあ違うかも知れないが。
手塚先生も亡くなると時代の変り目を感じたものだった。
それは91年(19歳)の時に昔のことを考えて行った時にそうだったのかなと思ったことだった。
歌の話だと私は基本9割がアニソンで、テレビでやってればそれを見てる程度の人であった。
洋楽とかはほとんど聞かない人なのだ。
いまはゆちゅぶで良く聞く程度ではある。
あまり洋楽にハマッている友達がいなかったのもある。
神様状態であったこと。
これは歌にもひとつあって、私は別に歌手志望でも音楽プロデューサー志望でもなかった。
作家とか漫画家のように作品作りする人にはなりたかった。
それなのに既に歌の世界では有名になり始めていた。新らしい歌を作っているというのだ。カラオケで歌っているだけなのに。
作品の構成に自信があったし、好きだったので、作品を作ろうと小、中と続けていたバドミントンをやめて高校では漫画部に入った。
それで絵をとことん勉強する。
このため高校生の時はアニメをあまり見なかった。
中学の時までのバドミントン部は勝つために戦う部活ではなかったので、早く帰ってアニメ見ることが出来た。
おいおいていう話ではあるが。
毎日漫画部の部活で帰って来ると午後8時過ぎという感じだ。
文化部なのに(?)とても熱心に絵を描く部活だった。
いま思えば鈴鷹さんがいるということで、みんな気合い入ってしまったのかも知れない。
ビデオデッキはあったが、録画ミスしまくりで、この時期のアニメのナディアなどかなり見逃した。
このくやしさから、DVDデッキ構築する時に録画ミスをしない機能をこれでもかと入れて行くことになる。
マニアの執念機器に届く。
なのかなあ。
10歳から現場にいたという話の鈴鷹さんだが、これは歌においてもそうだった。
アニソンを流れている時だけへたくそ(?)に歌う程度だったのが、小学5年程度の時にカセットデッキを得たことで、とことん好きなアニソンを歌った。
カセットデッキで直にテレビの音を録音するのだからひどい音だった。
それでそれまでこの歌はこうだよね程度(?)に指摘するようなものがアニソンに反映される程度だったのに、洗練された(?)私の歌い方がアニソンに反映されるようになった。
いやそれは一般のメジャータイトルにまで及んでいた。
つまりはもう既に気づいた19歳の時には歌手というかリズム作りとしてトップ(?)としてその業界の一角にいたこと。
そのリズムは新しいと言われたようだった。
歌手志望でも音楽家(?)になるつもりもないのに、それがもう業界には大きな影響を起こして(?)いたというから信じられない話だ。
そういうのはふつープロになるために頑張って頑張った結果として、歌が業界に鳴り響くというのが常識であった。
いやもう高校生の時には壁だとか国がどうとか言う話なので、そんなこともあるのかなあとはいま思うもので。
することなすこと社会現象みたいなとこがあったようだ。
それがたとえば歌においては本人はカラオケ(?)してるだけのつもりなのに歌の世界が一定変わったというのだ。
当時私は好きなアニメの歌などを録音しては、自分なりの歌い方でアレンジして歌った。
つまりリズムをずらしていたのだ。
このずれ具合がとても高く評価されていたこと。
そうとは知らなかった。
カラオケを広めるのに私は一役買ったと言われているが、そのカラオケというのも、私にとってはスナックバーとかパブという飲み屋で歌うものではなくて、カセットデッキに録画したアニソンを一人で歌うことであった。
パソコンも持ってない私のデータの取得というか、ダウンロードのようなものはここに原点のひとつがあった。
友達からテープ借りたり貸したりね。
これはいまのネットでも共有ソフトとかゆちゅぶのアイディアになって行く。
いやまあそれは違法なことだが。
あまりいいデータ(?)だと商売あがったりのような気もするし、試して気に入ったら買ってもらってもいいとかなんとか。
19歳の時に私が現場に既にいるという話を聞いてびっくりした。電話の話が筒抜けだというのだ。
いやもう相当びっくりだった。
というか高校生の時に友達に一度聞いた時には信じなかった。
この時期はこの時期で、ひとつの膠着状態として慣習化してしまった一面があったようだ。
これを状況にハマッているというならば、そうなのだろう。
通称はやしくんとは中学の時からの友達で、アニメのことを熱く語ったりしたものだった。
はやしくんが91年の時に地道に(?)教えてくれて、それは分かった理解したような感じだった。
91年の時、スタフに非礼を詫びてからどうするか悩んだ。
いやまあノリが一瞬なくなった。
その時はびっくりしておそるおそる話していた。
ミンキーモモのリメイクの企画が通った時には、その話を信じないわけにはいかなかった。
元気ない私にテレビやラジオの人が気を使うのにさらにびっくりした。
既に私はリーダーというか、なくてはならないノリのようなものだったようだ。
まあとりあえずは行きましょうと。
その時の私は、という結論だった。
ここからは快進撃となる。
まさに全盛期の三年間となった。
セラムンにエヴァンゲリオンにと。
作る作品がすべてヒットしていく。
その数は漫画にゲームにアニメに歌に数百の作品になっていく。
このほかにもネット構築やデジカメやDVDデッキの規格設定、ケータイをいまの形にしたりハイブリッド車を規格したりした。
ノーギャラで作品に名前が出ないのは共通していたが、それでも作品を作る醍醐味はあった。
ノーギャラで働くなんて馬鹿なことをしたものだが、それだけゲームに漫画にアニメが好きだったのだ。
だから苦労も好きでした。
機器作りも好きだったから出来たことだった。
新らしいことに挑戦することに生き甲斐を感じていた。
いまはお金もなく、精神障害年金で細々と暮している。
有名になると道を歩いているだけで色々いわれて、十年近く家に閉じこもっていた。
そのあいだ作品を作っていたのだ。
自然と作品を作るためのかんづめ状態であった。
作ることが次から次へとブームになっていた。
これはアニメ業界ゲーム業界漫画業界出版にテレビにパソコンから車から機器関係とにかくあらゆる業界に波及した。
が、93年の末あるいは94年末だったかあたりからアタクが始まり、また直のスタフスタジオ予算無しでは無理があったので連絡するが、膠着状態によって私の限界はピークに達するようになる。
ナイフで刺されるようなアタクの痛みに耐えながら、月一万円の小遣いで、スタフと連絡を取ることも出来ずにやって行くのはほとんど無理だった。
簡単に壊れるようになって行く。
つまり破壊的なことを軽く(?)言うようになっていた。
アタク自体は医療用としてのものであったが、どこがどうなったのか、起きてるあいだは痛みを受けることになって行く。
助けを求めたが日共ですら返事がなかったほどの膠着状態で、絶望のどん底にいるような感じだった。
言葉は荒れて背負うバランスももう取れなくなっていた。
時に三日前の記憶もないような状態で、毎日起きて三時間もするとへとへとに疲れきってしまった。
現場に入れず予算もなく、カセットテープ一個に困りながらの歌作りとなる。
それでいて、多くの業界の一角を担うプロとなっていた。
その鈴鷹さんの不調はまたすべての業界に個人に波及していく。
助ける人たちも膠着状態の中、いろいろ手を打ってはくれた。
たとえばカセットテープ一個100円にしてくれいと言っていく。
確かに安くする路線も構築したものだったが、これがいまのデジカメが安いのとか、DVD機器が安くなるまでに至り、儲けがあまり出ないなあと言うことにまでになった。
それはゲーム機までそうなのだから、困ったものだ。
94年から2001年までの8年間は特に厳しい時期で、壊れかたもかなり酷かった。
この時期はかなり厳しい時期となってしまった。
人の生き死にからなにから、それはピークに達していく。
緩和策が2001年末に決まり、ここから多少の復調が始まる。
アタクという機械がある。
これは医療用の研究開発であったが、人の行動まで左右出来るものであった。
アタクする人たちにそれは渡されていた。
元々は医療用であったものが、アタクが始まってみると痛み一辺倒。
何故そうなのか、誰がどうしているのか。
まったくもって分からないものだった。
これによって無理して言ったことはしないようにとは言ってもそれは現実になって行く。
日共に助けを求めるが助けてくれない。
いやまあ、アタクで叩かれているとは、何がなんだか分からないよねえ。
最近はアタクで叩かれることも少なくなってきた。
ほとんど収まってきた。
二千年に入ってから精神障害年金ももらえるようになり、掃除のバイトもしていて、収入は一気に上がった。
DVDデッキを買い、パソコンも買えました。
貯金も八年間の試行錯誤で年金だけで出来るようになり、生活は安定しました。
卵かけ納豆ご飯などで一食が百円ですみます。
外食もしますが、普段は質素にすませているのです。
ビタミン剤と野菜ジュースと牛乳は毎日飲んでいます。
二千年から家の外にも出られるようになり、人にいわれることもほとんどなくなりました。
二千年頃からハングリーでなくなり、作品の企画の数がおちていきま
した。
企画の数が少なくなると企画も通らなくなり、2008年にはほとんど商業作品は作っていません。
年は早いけれどももう引退だと思い、いまはマイペースにネット小説を書いています。
しめきりに追われないのでゆっくり出来ます。
いまは生活が楽ですね。
たいへんな中での作品作りでしたが、その時その時でいろんな人からフォローは最大限入りました。
人生をまとめて見て損をしたとは思いません。
いい人生だと、幸福だと思います。
これも助けてもらった人たちのおかげです。
ありがとうございます。