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『平和物語』

たかさきはやと











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はじめに。
世界平和とはいかに成したのだろう。それをひとつの物語として描いてみたい。少年は五才でアトムショックを受けて世界平和を目指した。少年の前にはいかなる世界があったか。


1。二千五百年前に仏陀が世界平和という目標を立てた。そして世界は平和を目指した。まだ本の技術は普及していなかったため人々は暴力をもってして世界平和を目指した。いまやテロリストの代名詞だが暴力で世界平和はその昔あたりまえのことだった。各国が統一されていくなか武力での世界平和はついにナチスや日本軍による第二次世界大戦までいきつく。それはしかし敗れた。戦後印刷革命が起きて狂ったように印刷された本が出た。文化による世界平和が本格的に目指された。またラジオだけでなくテレビも開発されまさにメディアによる文化革命としての世界は文化大戦とでもいうような様相を見せる。その文化は世界平和にはいま一歩であった表現であるがその表現に突然強力な人材を輩出し始める。本質的感動である。鉄腕アトムにショックを受けた人たちがいた。手塚治虫を師匠として活動する人たちである。それぞれがまた傑作を作り本質的感動のある傑作が生まれた。世界平和にはいま一歩であるがその感動を受けてまた強力な人材が生まれた。そのなかに私はいた。若干五才にしてアトムショックを受けた。その他の傑作のショックもすべて受けた。私は五才で世界平和を目指すがここでなにが世界平和にするか考えた。歌と物語だろうという結論だった。実際は愛が世界平和にするのだから作詞家あたりがもっとも近かったといえる。歌は言葉だけという単純さが世界平和にするのではないかと思った。その通りだった。物語は複雑な構造や広大な世界観はすばらしく、世界平和になった後もその広大な世界で遊べるだろうと思っていた。平和になったら物語作って暮らそうと老後のことまで考えていた。幼き日に見た世界はまだ幼く戦争があふれて人々はいじめなどをしていた。世界平和には一歩及ばなくても日本のアニメやハリウッド映画は世界で大反響を呼んでいた。とくに私はラピュタにはどう分析してもこれを超える物語はないという結論だった。それで世界平和にならないのだからラピュタを毎週やれば成るのではないかと考えた。アニメにおいては毎週ラピュタをやること。歌においては言葉の追求であった。これで私は世界平和を挑んだ。

2。漫画ではいきなり大ヒットを飛ばすがそのわりにアニメは低調であった。最初のアニメのヒットはセーラームーン。その頃91年にはいろんな連載をしていたのでセーラームーンなんて企画やったかなあと不思議に思ったものだった。それほどいそがしかった。とにかく若くて数をこなすのが私の物語のスタイルであったためにとにかく数を作った。演説が冷戦統一する。その内容は社会主義とはそういうものではないということ。正しき社会主義に戻ろうというものだった。しかし結果はソ連はなくなってしまった。冷戦統一は成されたが世界平和はまだ道なかば。まずは勇者というか英雄を描きみんな英雄になろうというものを描いていく。いわゆるヒーローを描いた。最初に参加したドラクエ4では魔王の苦しみを描いた。しかし世界平和にはならない。ダイの大冒険も反響はあるが世界平和にはならなかった。この頃は勇者シリーズというヒーローアニメなどにも取り組んでいた。とにかく勇者。英雄というものを描いて世界平和というものを目指していた。いかにすばらしい人を描いて感化させるかで勝負していた。だがそれは失敗していく。歌のほうでも斬新な言葉は大ヒットするが平和にはならなかった。そうこうするうちに93年になるあたりでテロにあいすべてを一回捨てて戦略を立て直すことにする。テロ前にネットはすでに設計図は渡しておりネットはできる。英雄というかすばらしい人を描いて平和というのは捨てた。そこからは世界を凌駕する人や世界を描いて平和にしょうとした。それが90年代中から後半であった。それはすべて失敗することになる。7、20。

3。常に意見は参考にされ続けておりファーストガンダムのときにも前作の感想で異星人同士ではなく人同士が戦うのがいいといったら採用された。ガンダムにおいて最年少のスタッフであったろう。よくよく意見が採用されてはいたがプログラミングもペン入れも作曲もできない。自分が生き残る道は原作者とかアイディアマンとしてだと思っていた。89年意識的に現場に入って言われたのはこれはぱくりだ。ぱくるのがうまいなということでした。韓国はぱくり文化でオリジナルが弱いですが日本の場合はオリジナル文化が強すぎてとにかくなにを作ってもぱくりだなということを言われました。もちろんもっとオリジナルとはなにか研究したのですがそれでもまだまだだなということでした。ファンにもっといいものをと言われ続けた。それは実に2013年のアイマスを言葉工房に載せるまで言われ続けました。貪欲な日本のファンこそがいまの涙の物語を作ったと言えると思います。あるいは仕事にはもっといいもの作ってくれという人がひとりいるだけでいいのかも知れません。7、29。







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