2009年の日記
生と死の舞踏

2010年1月7日 慈悲
ブッダはどうやって人を救ったのだろうか。人を救うのは至難の業である。
慈悲は無い。慈悲は目的ではないし、終着点でもないし、何かを生み出す力も無い。慈悲はある意味異常な一時的心理に過ぎない。よって慈悲は無である。慈悲は空である。
救われるべき者が勝手に救われているだけのことである。私は強くそう思う。救われる者は救われる。救われない者は決して救われない。曲がった心は矯正できない。矯正したように見えても、元に戻っただけの話である。真の悪人は何があっても終生悪人である。他人の愛は人を救ったりしない。自分の愛が自分を救うのである。

2009年10月7日 男性差別
最近では研究職の募集要項に募集枠が女性に限る旨が書かれているケースが目立つ。こんな酷い男性差別が世に横行していることは一研究者として我慢ならない。無能な女性研究者など必要ない。無能な人間は性別関係なく研究には必要ない。こんな馬鹿な性差別は不必要な憎悪を助長するだけだ。きっとこの恨みを晴らそうと、20年後くらいに女性への風当たりが水面下で激化しそうだ。私だけでなく、私の周りの若者も自分が指導的立場になったら研究から女性を排斥してやろうと考えている。差別は深い恨みとなって人間の心に沈積し、いずれは吐き出されることになる。不当に優遇されている人間を見て愉快な思いをする人間は少ない。女性枠で採用された研究者に対して、応募すらできなかった男性博士たちがどんな気持ちを抱くだろうか。そんなことも想像できないくらいなら人間を辞めたほうがいい。大人しい人間でさえ、心の中で拭い切れない嫉妬心を抱くに違いない。それがどんな形で表面化するのだろうか。一つの不当な優遇はそれに10倍する恨みを生む。まして採用された女性研究者が無能だった時、どれだけひどい陰口を叩かれる事になるか、想像に余りある。
 過った哲学はいつの時代もいらぬ憎悪を生み、社会に抗争の種を落とす。世界から差別はなくならない。人間は平等になどならない。私は差別主義者である。しかし、人間が平等だと言う人間に限って人を差別しているわけで、そんな奴等に比べれば最初から差別主義者を名乗る私のほうがずっと人を平等に扱っている。

2009年10月5日 裁き
不安定な関係が後から迫ってくる。手の震えを必死で抑え込むようにして、体内から突沸しそうな怒りを静める。燃え滾る殺意が血流となって肉体を支配しようとしている。私の中の激情は、正しからざる者の頭蓋骨を陥没させる幻想に誘う。不正者の死は甘美だ。劣情の解消と同じだけの快楽が待っているのだ。死すべき者の死によって世界が変わらないとしても、そして義はたとえそれが一方的な思い込みであっても、一つの信念の完遂としてその死が持つ耽美は無視できない。私が叫ぶ義の名の下の殺意にも、私自身を滅ぼしかねない自己破滅的な美が、確かにある。人は狂気に魅せられ、信念に魅せられ、英雄を愛する。裁かれた勝者はいない。この世界を滅ぼす力が私にあれば、私がその悪魔の力を行使しない自信は私にはない。憎しみでも絶望でもなく、絶滅的破壊力はそれ自体で英雄的なのだ。それに、たった一つの英雄的殺人によって裁かれないようにするためには、世界そのものを私が死の力で裁くしかない。誰も私を裁けないように、1つの善のために60億の悪を行うのだ。
 災いなるかな、幻想よ。詩人のように彼は世界の死を称える。私一人の幸福さえも世界は支えきれない。妄想が再び私を支配する。この妄想はあらゆる出鱈目な狂気と愛し合い、きごちない舞踏を脳内で繰り広げる。睨みつける腐った眼球が私を破滅と地獄の実相を教えている。空ろな眼差しが、どんな悪人も見たことのない本当の「鬼」を呼び覚ます。切望するのは竜の歯。人々の不安に住まう普遍的無意識が私の正気を薄れさせていく。全身が痺れる。虚実の境界が消え去り、良心は既に悪意となった。肝臓が「殺してしまえ」と叫ぶ。私は髑髏を掲げて救いを請うが、蛇はもう心臓に達している。嗚呼、神々よ、私を裁きたまえ。裁きたまえ。そして私の死を誰も汚さないようにしたまえ。

2009年9月28日 薄れ行く意識
身体の自由が奪われた時になってはじめて人は自由を知る。薄れ行く意識はその意識の希薄さとは裏腹に、かつての自由をはっきりとかみ締める。燃えるような身体が床にめり込む感覚に襲われながら、自分を生かす小さな力がかろうじて自分を生存させていることに気付く。

2009年8月7日 優生学は真に哲学たりえるのか
私は優生学だけが真に社会理性なるものを実現しえる基本的な哲学として機能しえるのではないかと最近思い始めている。これは私の妄想であると信じたい気持ちもあるのだが、その感情に反比例して世界は壮絶な自虐に終始しているのである。私は間違いなく差別主義者であるし、そのことを否定はしない。
 この世界が優生学に頼らざるを得ない最大の理由は、民主主義が世界的に主流になっていることである。この世界では組織的公正性など一切保たれない。民主主義は、極めて劣悪な遺伝子を有した多数の人間による有能な人間への迫害によって成り立っている。私はこのような不合理な世界を修正するためには、知性の根幹的な遺伝因子を見出すことによって人間を物質的に選別し、下位の者を統制する必要性があると信じている。統制は虐待ではないし、支配でもない。人を愛せない者も人を迫害する者も愚者である。そのような無慈悲で合理的思考回路を有しない劣等人間は優れた遺伝因子を有した者によって導かれなければならない。断種法は何の役にも立たないし、人道的ではない。最も人道的で合理的な社会、即ち私の目指す社会理性を達成するためには、優れた人間を科学的に選別し、最も優れた者によって国家や国際社会が導かれるシステムを作らなければならない。そのために、如何にして民主主義という世界の敵から人間を解放するかを真剣に考えなければならないだろう。我々が永遠に獲得できないものなどないと私は信じる。そうでなければ私は人間に絶望するしかなく、私自身は全ての人間を殺して食らってでも私欲を満たす人生を歩むことを決意しなければならないのかもしれない。人はより合理的な社会システムを受け入れる程度の知性はあるはずだと信じたい。

2009年7月28日 民主党政権で日本滅亡へのカウントダウン
大増税時代である。民主党のマニフェストは、財政の逼迫したこのご時世に16.8兆円もの無駄遣いをすることを公約した。キチガイに刃物、民主党に政権である。国民の所得は減少の一途を辿っているが、それが加速することが確約された。国民はますます増税にあえぎ、一部の特権階級だけが贅沢三昧。大増税すると公言している政党に投票する馬鹿は餓死すればいいと思うが、餓死したくない人間が真っ先に餓死することになるのが民主主義の素晴らしさ。少数派は死ね、が民主主義である。
 民主党こそ無駄遣いを助長する政党である。私は未だかつてこれほど無責任なマニフェストを見たことがない。「Aさんの無駄遣いを減らしてBさんが無駄遣いできるようにしましょう」が政策か?金をばら撒くためにも金が必要なんだよ。
 政治なんか要らない。政治家なんていらない。一番無駄なのはお前ら自身だ。お前らの存在自体が不必要だ。無駄だ。無価値だ。

2009年7月23日 民主党
民主党が政権を取ったのならば、私は本気で研究を止めることを考えなければならないような気がしている。民主党の荒唐無稽で財源など一切お構いなしの呆れたマニフェストを読むにつけ、こんな無責任な政党に一時的な感情だけで票を入れようとしてる国民に絶望する。今に始まった事ではないが、日本国民とは何と愚かな生物なのだろうか。民主党のマニフェストを全て実現したのならば、この国は本当に終わりになる。

2009年7月21日 虚栄心
人は虚栄を求める。虚栄の本質は何なのだろうか。それは人間社会の中においてある個人が、倒錯した自身の本来的地位を回復するための行為である。それはパタフィジック的にバカげた冗談の次元の話ではない。虚栄はいたって本気なのである。虚栄は全く自己完結的で、閉鎖的である。周囲の人間の冷笑すら、本人が必死で纏った虚栄の衣を汚すことはできない。虚栄は、虚栄を見抜く者、つまり本当の意味でその虚栄で屈服させなければいけない相手には何の効果もない。しかしこの皮肉すら虚栄を熱望する道化の認識外である。虚栄は、その偽りの栄光や張りぼての価値によって他人を畏れいらせることが目的なのである。よって、確かな鑑定眼を持った人間の冷ややかな愛想笑いや小馬鹿にした賛辞でさえも、虚栄心に満ちた哀れな人間の虚栄心を心底満たすのだ。
 しかし、困るのは虚栄を虚栄と見抜いた側である。嬉々として偽物を見せびらかす人間に、どうやって相槌を打とうか。甚だ迷惑な話である。

2009年7月6日 朋よ、安らかに眠れ
親愛なる者よ。我が親友よ。なぜ君は自らの命を絶たねばならなかったのか。何一つ告げず、誰にもさよならを言わず、まるで旅行にでも出かけるようにこの世を去ってしまった君は、今は安らかなのか。あまりにも多すぎる思い出に私は押し潰されそうになっているというのに。思い返せば、私は君の笑顔しか思い出せない。
 もう二度と君と酒を酌み交わせない。人は風のように去っていく。この悲しいこの現実を、生者は背負って生きなければならない。思えば、全く正反対の性格だった君と私は、不思議と相性が良かった。最良の友と呼ぶべき者は君であった。
 君は生を望まず、死を望んだ。「野垂れ死にたい」と真顔で言う君に言いようのない不安を感じたことを思い出す。確かに君は死を切望していたのだろう。ひっそりと、誰にも知られないまま、完全な孤独のうちに世界との接点を消去しようとしたのだろう。誰一人足を踏み入れない山中で君が首を吊ったのは、君なりの「答え」だったのだろう。その答えの意味を私は完全に理解できてはいないけれども。君の出した答えが間違っていたと私は言い切れない。君の人生が何に彩られていたのか、もう知る由もない。君は絶望していたのか、孤独に耐えていたのか、それすら分からない。何も語らない君の遠慮深さと奥ゆかしさにいつもイライラさせられたが、それでもそんな君のことが私は好きだった。なのに、君は何も告げずに勝手に人生から逃げてしまった。しかし今は何も言うまい。安らかに眠れ。親愛なる朋よ。だが、私がそっちに行く時は覚悟しておけ。その横面を思い切り殴ってやる。馬鹿野郎と罵ってやる。私は君を許さない。何も告げずに逝ったことを許しておくものか。
 もしも君に何らかの未練があるのならば、それは全て私に託してくれ。私は死なない。君は確かに弱い人間だったかもしれないが、君の為に泪を流す男は弱さを超えた者だ。私は君の為しえなかったことを全て成し遂げよう。君が欲したものの全てを手に入れよう。だから見ていてくれ。私はこの世界で、君が逃げ去ったこの穢土で、私は誰一人なし得なかった知の金字塔をうちたててやろう。そしてそれを君への供養塔としてやろう。
 じゃあな。今まで仲良くしてくれてありがとう。たくさんの思い出をありがとう。

2009年5月19日 公務員のボーナスカットでますます景気後退
日本政府にはやはり大馬鹿しかいないようである。2兆円も給付金をバラまいておきながら、今度は逆に公務員のボーナスをカットすると言い出した。手に負えないほどの馬鹿揃いで笑える。ボーナスカットで日本の景気後退はますます加速。本当に何がやりたいんだよ日本のウンコ政府は。もう馬鹿すぎて笑うしかない。公務員のボーナスカットを喜んでいる馬鹿国民もいるようだから、ますます笑える。馬鹿国民にはこの馬鹿政府がお似合いだ。誰か人事院のクソバカ野郎どもを暗殺してはくれまいか。

2009年5月11日 時間
問題の原因を無限の遠方に仮定できるならば、どんな問題も既に解決されている。
性質を論じることと、実体を論じることは本質的に異なる。性質そのものは実体ではなく、性質を伴わない実体はない。しかし実体を伴わない性質は存在している、もしくは存在していると人間は見做すことができる。

2009年5月7日 挨拶
「挨拶がまともにできない人間にまともな人間はいない」私は経験的にこの法則を導き出した。そして、例外に出会ったことがない。挨拶には人間性が凝縮している。人間性とは社会性である。挨拶は全ての社会活動に通じる最も基本的な意志表現であり、その欠如は社会性の決定的欠如を意味している。社会性が欠如していても良い人間は一部の天才だけであり、それ以外の者が社会性を失うことは人間としての価値の喪失を意味する。挨拶は礼の基本であり、礼は文化である。文化から断絶された者は人間と呼ばれるべきではない。
 挨拶のできない奴とは付き合うべきではない。根本から心が腐っているからである。心は必ず行為によって表現されるからであり、表現されざる心は心ではない。また、挨拶のできない人間は知性も劣っている。なぜならば、挨拶をしないことによって周囲の人間から悪印象を持たれることを予想できないか、それを予想しておきながら敢えて悪印象を抱かれようとするからである。他人から悪印象を抱かれて自分に益があることは極めて少ない。自分に対して害がある行為を敢えて行うのは、厳密にはその害を認識できないのであって、知性が劣っていることを証明しているわけである。挨拶をしなくても良いと考える幼稚な思考回路はあらゆる場面において発揮される。一事が万事である。だから、挨拶のまともにできない人間は、まず間違いなくどんな場面においても使えない。しかし、挨拶ができるからといってその者が使えるわけではない。挨拶程度は人間として最低限の教養に過ぎない。それすらない者に求めるものは何もない。

2009年4月27日 論理の正当性
論理的でないことは正しくないという信念が私にはある。しかし一方で多くの人間は全く論理的ではなく、思考は破綻している。破綻した思考に慣れ親しんでいる人間は必ず自分が正しいと信じている。自分が正しいと信じる根拠が論理的でない以上、彼の信じている正当性も破綻している。
 人間は正しさが何かを知らず、正しさに至る方法を知らず、その方法を教育されない。人間は欲望のみに従って生きる野卑な畜生に過ぎない。しかも畜生であることを知りつつ畜生であってもよいと思っている。論理的な思考を侮蔑する人間はこうした類の生き物である。目的地に辿り着くためには地図を見ればよいのに、地図を見ることを馬鹿にしてお互いにあっちでもないこっちでもないと右往左往し、時に殴り合っている。なんという有様であることか。逆に自分が正しいと思っていない人間は論理的である。彼は感情よりも論理的正しさを優先する。彼は決して破綻しない。自らの過ちは素直に認め豹変する。
 正しさが論理性に依拠するのは至極自明なことである。それに依拠しなければ普遍的正しさは主張しえないからである。

2009年4月13日 不完全なる悟り
人間の賢明さとは、どれだけ自分を相対化し、自己の認識を閉鎖させないかに係っている。自己の認識を押し広げ、切り開くことのできる人間は強い人間であり、正しい人間であり、賢明である。正しい人間は自分を変えることに戸惑いがなく、自己の変革に積極的である。よって、このような正しく賢明な者は歳を取るに従ってより賢明な者となる。
 しかし一方で愚かな者は自分自身を変革しようとしない。自分を責めているように見えても決して本質的に自分を責めたりはしていない。永遠に反省がなく、永遠に無知であり、何の進歩もない。人間は原初的な無知から脱することができるが、脱しようと思わない者は必ず地獄へ堕ちる。愚かな者は様々な外的な刺戟や情報や物体や薬物に依存することで愚劣な自分を護ろうとする。薬物依存者は全くの愚か者であり、愚か者であるから別の愚か者をカリスマなどど称して崇拝し、自分の人生をめちゃくちゃにすることに必死になる。愚か者は自分自身に対する敬意もない。自分を信じられず、自分の「無自覚的」愚かさに依存して愚行を重ねる。しかし自分が愚かであることを決して認めない。
 自分の愚かさを認められなければ道は拓かれない。自分の愚かさを認めるということは、敬意を払うべき賢者を恭礼し、正しき教えに従い、自己を研鑽するということである。自分が愚かであると宣言しても何一つそれが実行されないのならば、それは愚かさを自覚しているとは言えない。
 愚か者は自分の人生に対して何の責任感も感じていない。だからどんなに愚劣な行為を行っても全く構わないと思っている。愚か者はすぐに傷つき、その痛みに耽溺する。しかしその痛みに千倍する罰が用意されていることには何一つ気付かない。愚者はいずれ自分が劫火によって永遠に焼かれることになることを知らない。愚者は永遠に罪に沈む。愚者は永遠に苦の本質を見ない。
 愚者の最も顕著な特徴は、本質的でない苦の表層、すなわち苦しいという感覚や感情そのものに執着していることである。よって、愚者は永遠に苦から逃れられない、逃れようとしないのだから。
 私はとても苦しい。なぜならば、世の人間があまりにも愚か過ぎるからである。彼らは決して本質を見ず、決して苦しみから逃れようとしない。それでいて、私は苦しいんだ、悩んでいるんだ、大変なんだ、と全く馬鹿げた戯言を吐く。何と哀れなことか。なんと悲しいことか。この愚か過ぎる人間どもは決して私の言葉を解さない。仏を敬う気持ちを忘れ、完全無欠の境地に至ろうとしない。しかしは私はここで悟る。私の悟りの不完全さを悟る。私は人間の愚かさに心を惑わされているからだ。全き絶対窮極なる智慧と私が完全に一つとなった時、私はきっと衆生への慈悲すらも超越して無縁を極め、ただこの世界の理のままにあるだろう。私は衆生の全てを断じて孤高なる巨峰として聳える者となろう。私は今再び真剣に瞑想しようと思うのだ。この境地に安住することがないように。

2009年4月9日 小人
愚か者が一人いると、別の愚か者が寄ってくるのは自然な成り行きである。愚は堆積する。しかしその愚かさは様々であり、百愚繚乱である。
 愚かさとは平和と幸福の否定である。愚者は須らくこの両者を否定する。無意識的に愚者は平和と幸福を踏み躙る。愚者は悪意を持っているわけではない。愚者は決して現実を本質的には肯定しない。愚者にとっては自分だけが全てである。自己中心的な人間は必ず愚かである。愚者は他人を認めない。自分の無能に反目し、無能の根源と決して対峙しない。神が私に無能を癒す力を与えなかったことは、そんな力が存在しないからに他ならない。他人は私と隔絶されている。どうして私が他人を幸福にできるだろうか。
 私を失望させるために人間は存在している。私が他人の愚劣さを肯定できる日が来るのだろうかと自身に問いたくなる。返す返すも何と愚かな者たちであることか。頼むから私の前から消え去ってくれ。それにしても忌々しいかな。なぜ神仏はかくも多くの者から智を取り除き給うのか。私の前から愚者は消え去ってくれ。小人は私を煩わせるな。君子は義に喩り小人は利に喩る。いつの世も愚か者がおり、愚か者が幅を利かせる。自己中心的な小人は決して絶滅しない。智者は彼らから逃げるしかない。仏ですら愚者には話しかけたりはしないものだ。

2009年3月24日 狂気に窪む眸
狂気に窪む眸が私を畏怖させる。それは無限に深き地獄を映す。人格の掃去された無残な人体がそこに立っている。愛すべき者の暖かな残骸は、私の正気を猖わせる。圧倒的な虚無が人格と並列している。私の脳は悲鳴を上げる。人間と信じていたものは死体よりも遥かに生命より遠き暗黒と化し、山羊の眸で私の心を残虐に刺し貫く。
 人は妄想に住まう情報の囚人。しかし監獄から逃れようとはしない。己の無残さに耽溺するだけ。人の愚かさが私を絶望させる。狂人と私は共に生き、狂人を愛し、狂人に全てを砕かれる。怜悧な頭脳も狂気の前には歯が立たない。人が人を猖わせる。伝染する狂気。大量の毒を飲んで人は気狂いとなる。瘋という精神の奇形が世界を跋扈する。この世界を埋め尽くす途方もない数の魂の病人に私は気付く。世界は山羊の眸で充満し、知の継承者たちは脅えている。この世界が狂気だけで成立し、狂気だけが正当化され、殺し合い、自らをも殺し、幸福を打ち壊すことを人は正義と信じている。私はそれを傍観するだけでなく、屡狂気に押し潰され、殺されかかる。人は狂気の治療に狂気で臨む。多層的な狂気の応酬に私は目も眩むばかりだ。
 栄えあるかなキチガイ。世界はキチガイの邑。想像を絶するほどの愚劣さで満たされた汚物の世界に生きる私。哀れみも悲しみもない。猖獗を極めるこの現実の中で、私は決して変わらない絶対的孤独に耐えている。皮相的な快楽が私を慰めはするが、劣等遺伝子の支配する奇形社会は永遠に何も変わらない。ニャルラトテップは微笑み、朽ち果てた人体が腐敗集を漂わせながら自傷行為に耽っている。理性の活躍する機会などない。虚ろな眼差しが互いの正気を殺し合っている。何も映さない病的瞳から全存在を否定する獣が覗いている。何者も彼の狂獣に勝つことはできない。人間はたやすく人間を放棄し、猖う。猖った者に対しては、どんな哀れみも努力も無駄であると私は知るだろう。
 私がもっと真に残虐であったのならば、きっと私は傷つかないだろう。私が簡単に人を殴り、殺し、死体を切断し、焼き捨てることができたのならば、私は決して傷つかない。狂気に窪む眸に対してさえ、私はまったく怯むことなく斧で一撃を加えることだろう。

2009年2月27日
敵は常に思わぬところに潜んでいる。あらゆる敵意をかわすことなど誰にもできない。正義とは虚構であり、虚構に寄りかかる善意はそのまま悪意となりえる。誰であっても自分を護ろうとし、自分だけが可愛いのである。だから自分以外の全ての人間は敵となりうる可能性がある。自分自身でさえ時には敵となるのであるから。
 人間が欲しいのは「人との関係」であり、その関係の上で自分の領分を欲し、それを守ろうとする。縄張りを侵害する者に牙を剥き出しにして自分を正当化することもある。不当に手に入れたものであってもその不当さには目もくれず、己が所有していると信じているもののためならどんなに他人を罵倒しても許されると信じている。それが人間だ。
 正しくない者ほど正義を振りかざし、己の正しさを強調する。正しい者は正しさなど主張しない。それを知った上で私はいつも自分が正しいと思っている。なぜならば、私は自分の正しさの修正可能性にいつも目を向けられる自信があるからである。だから私は恣意的正しさではなく、私自身の絶対的正しさを信じられる。正しさが「ない」ことを知る者は窮極の正しさに至る。しかし私もしばしば正しさを見失う。感情はしばしば人を捕縛する。

2009年1月29日 妄想
人間の本質は妄想との同棲である。妄想から逃げるのか、溺れるのか、それとも破壊するのかは全て個人の自由裁量である。世界の全ては妄想であり、妄想と離れて生きることは決してできない。
 真面目に全ての妄想と付き合っていく行為は頭脳を破滅させる行為だ。しかし全ての妄想に対して価値を剥奪してしまえば、人間はその場で絶命するしかない。

 原理的に秘匿された宇宙の奥義を「知る」ことはできない。知らなければならない理由もなく、知るべき理由もない。知が窮まることなど永遠にない。私に侍っている妄想という名の傾城の甘い囁きが、私に官能的な知を見せているだけである。その妄想の何と魅惑的なことであろうか。知は私の妄想の中で活き活きと躍動している。耽美なるかな知の妄想。その妄想を私が両断してしまうことを、私自身が恐れるほどに。

2009年1月26日 鷲宮神社が関東最古の大社だというのは"古代"妄想か
近年鷲宮神社への参詣者が激増していると聞く。神社に参拝するのはまことに殊勝なことであるが、ちょっと困ったこともある。鷲宮神社は、行けばわかるが、「関東最古の大社」と大々的に謳っており、これは如何かと思われる。関東を「武蔵」のみに限定するのならば、もしかしたら武蔵では最古かもしれない。氷川神社や金鑚神社よりも古い可能性もなくはないだろう。しかしこれが「下総」に限定するだけでも香取神宮があるので困ったことになる。さらに、関東を文字通り現在の関東と考えるのならば、日本最古の神社の一つである鹿島神宮よりも古いこととなり、少々苦しいように感じられる。延喜式神名帳にすら記載されていない式外社が、関東最古というのは聊か妙であるし、鹿島神宮よりも古いのならば、関東最古ではなく日本最古であるかもしれない。常識的に日本で最古級の神社と言えば、鹿島神宮、香取神宮、諏訪大社、大神神社、石上神宮、宗像大社などが思い浮かぶが、いずれも名神大社である。延喜式神名帳は非常に多くの神社を記載しており、ここから有力な神社がもれるケースは存在してはいるもののかなり少ない。
 鷲宮神社が関東最古であるのならば、やはり有力な神社であったと考えるのが自然であるが、なぜ式内社ではないのかを論理的に説明できない限り、関東最古の謳い文句はどうも「疑わしい」と考えるのが自然であろう。崇神天皇の御世に太田々根子命が司祭したとあるが、大神神社で大物主神を祀った彼がわざわざ関東にまで来たのだろうか。不思議である。

2009年1月14日 NHKは可及的速やかに放送停止せよ
NHKは今すぐ全放送を停止すべきである。そうすれば、かなりの量の二酸化炭素の放出を削減できてNHK自身も大満足だろう。わずか12時間50分放送時間を短縮しただけで9.4トンもの二酸化炭素を削減できるそうだ。ならこの際くだらない番組を放送するNHKなんぞなくなってしまったほうがいい。偽善者は決して身銭を切らないか、切っているように見えても全て損得勘定した上で切っているものだ。やたらとエコ番組を垂れ流して国民をミスリードすることに必死な手前、自分のところも少しは何かやっておかなければならないという偽善的行為が「放送時間の短縮」であったと言える。批判が集まるのも無理はない。優等生ぶりたいだけのNHKの身勝手な利己主義が見え隠れしている。
 地球温暖化の二酸化炭素起源説は人間の否定である。二酸化炭素の最大の放出源は人間そのものであるのだから。秋葉原で無差別殺人した加藤容疑者を最も二酸化炭素放出を削減した人間としてNHKは賞賛すべきである。地球温暖化問題は人口を抑制する戦争の肯定である。二酸化炭素を削減するためなら何でも許される。人間を肯定しつつ二酸化炭素の放出を削減することなどできない。エコの唱導はまさしく悪魔の教えであり、人間を蝕む癌である。悪魔の教えの宣教師たるNHKはまず真っ先に彼らの「教え」にしたがって可及的速やかに放送停止せよ。私は人間を否定する如何なる哲学をも否定する!

2009年1月9日 ペテンの楽園
多分私が思っているよりもずっと日本人が馬鹿であるから、テレビに毎週のようにペテン師が出演するのだろう。私は人間をこれでも過大評価しているようだ。テレビ局に馬鹿が多いのではなく、そもそもみんな馬鹿なのである。
 まあそれはいいとして、どうして日本の占い師とか霊能者はこうもレベルが低いのであろうか。最近銀座の母とかいうペテン師が時々テレビに出演しているが、驚くほど当たらない。日本人ではないが、ジョセリーノとかいうペテン師がテレビで予言をしていたが全て外れた。なんとまあレベルの低いこと。それを喜んで取り上げるマスコミの知能レベルなんてものは議論する気にもならない。多分社員全員知能指数が100以下なのだろう。テレビでインテリ芸能人とかいう枠で二流私立大学卒の人間が出演していたりするが、テレビ的にはあれでもインテリの範疇なんだろうから底が知れる。今時4大卒でインテリもなかろう。関係ないがイケメンという言葉もだいぶ敷居が低いようで、顔面偏差値60程度でもイケメンなんて呼ばれていたりするのだから見ているこっちが恥ずかしくなる。
 かなり脱線したが、私が今日言いたいことは、日本でメディア露出している占い師とか霊能者のレベルがなぜ著しいまでに低いのか、である。そこでいくつかの仮説を立ててみることにする。

@そもそも占いとか霊能力自体がペテンなので誰であろうと低レベル。
Aベテン師しかメディアは取り上げてはいけないという取り決めになっている。
Bペテン師なので馬鹿メディアを騙すのがうまい。
C本物の霊能者は占い師オーディションに出ても自分は受からないと最初からわかっているので受けない。

@の仮説は尤もらしいが、私はこれを否定しなければならない。私は私に備わっている限りの懐疑を振り絞って「どう考えても未来を見通しているとしか思えない」人間が実在することを知っているからだ。
Aの仮説は面白いと思う。もしも「本物」を出演させてしまったのならば、あまりにも凄まじい的中率に視聴者がパニックになってしまいかねないからだ。人生は全て決まっている、という決定論を一般の人々は受け入れられないだろう。真実は虚構よりも残酷である。しかし、そんな賢明な配慮を猿並みの知能しか有さないマスコミに求めるのは馬鹿げているようにも思う。
Bの仮説は説得力がある。多分これが真実に最も近いように思う。猿並の知能しか有さないマスコミ人間を騙すことなど、プロのペテン師なら朝飯前だ。江原の稚拙な前世占いに涙を流して喜ぶような人間が多い芸能人ならもっと簡単に騙せる。
Cこれは仮説というよりも、面白いからやったほうがいい。物事は統計的に判断するのが良い。
占い師オーディションを行います。一番良く当たる占い師をテレビ主演させる予定です
と言って占い師を集めたら良い。たとえば10人集まったのならば、占いの全体的的中率は10%である。9人は自分が受かるかどうかさえ占えないわけだから。この調子で占いオーディションを色々な形で行ってみるといい。そこから導かれる結論はおそらく「ほぼ全ての占い師はペテン師である」ということになるだろう。もしもこの手のオーディションを行って毎回一人しか参加しないようならば、日本の占い師のレベルは非常に高いということになる。まあそんなことは有りえないだろうが。

2009年1月5日 弱くなる
人の弱さに私は挫けそうになる。他人は脆い。弱さは伝染する。そして弱き者は周囲全ての人間を弱くする。弱者は強者よりも「強く」世界を蝕む。私の足が切られるまで、人から人間性が失われるまで、人は弱くなり続ける。
 私が一刻も留まりたくない場所で、人間は弱さと馴れ合っている。心地よい弱さを人は愛している。弱いことは美徳である。弱さによって人は妄想と戯れ、残酷さから逃れる。幻想の世界で自分の弱さを噛み締めて、甘酸っぱい愚鈍に酔い痴れる。そして停止した理性が人に命ずる。
 目を見開くな。耳を欹てるな。弱さに耽溺して賢者を罵れ、と。
世界は弱者の楽園である。妄想というアダムとイヴによって、私たちは監獄のエデンから逃れ、兇器を手に入れた。全ての強さを砕く、「弱さ」という鉄槌で人はヒトとなった。進化をなぞる無気力な神の手の上で、私たちは忘我の舞踏に我を失っている。妄想を素通りする者に、人はいつも石を投げつけ、刃で斬りつけ、彼らを磔刑に処した。弱者は妄想という母から決して離れない。乳離れできない人間が二本の足で立ち上がったとしても、我々の手は一つの自由も手に入れることはなかった。人の手に握られた、実体なき権力、実体なき自由、実体なき幸福に、人はいつも魅惑される。
 私は叫ばない。人が弱者であるのだから、私は決して叫ばない。私の叫びは妄想を壊せないのだから。私は決して叫ばない。永遠の闇に人は閉ざされているのだから。私は叫ばない。弱さは私を養う世界を作っているのだから。
 閉鎖された空間で、毒を吸って人は弱さと愛し合う。人が愛しているのは人ではない。私は何も、対象として、「愛」せない。弱さを押し付けあうこんな世界には、それに相応しい、弱く、脆く、そして薄汚い未来が用意されている。私は「それ」を愛す。人は決して三本目の手を手に入れたりはしない。三つ目の目を手に入れたりはしない。だから人は弱さを手放したりはしない。人は生きるために千億の命を屠殺しても自分の弱さを疑わない。どんな犠牲も人の弱さを払拭しない。





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