2008年の日記
黄泉比良坂の昼寝

2008年12月24日 クビになった派遣社員は本当に同情に値するのか
不況の嵐が吹き荒れている。私もだいぶ投資で損害を出しているが、きっといつか上昇してくるのだろう。
 さて、そんな中自動車産業を中心に派遣切りが相次いでいる。連日マスコミ・・・の一部が盛んに報道しているが、ここは冷静に考えたほうがいい。本当に彼ら派遣社員は同情に値するのだろうか、と。
 私の少ない知見から言えば、少なからぬ人間が自ら望んで派遣社員となっているという現実がある。

2008年12月24日 全てを手に入れる
私はこの世界が真に合理的に運営されることはないと断言できる。社会理性の実現が私の悲願であったとしても、私は私の夢は夢でしかないことを知っている。その理由は、人間は決して理性的でも合理的でもないという単純な理由ゆえである。
 過去の愚行を笑えるものは誰もいない。人間の愚かさを人間は決して学ぶことはできない。人間の学習能力は決して向上しない。ほぼ全ての人間は自分の思考を制御できないのである。合理性とは思考を制御することで成り立つ。一切の感情を廃し、できうる限り理性的で的確な判断をする必要があるからである。全てを一つの明確な理念に集約させるように物事を判断する能力が合理的思考能力である。そしてその理念とは「幸福」に他ならない。愛は感情ではあるが、感情的愛は愛の本質ではない。愛は合理的でなければならない。矛盾しているようだが矛盾していない。なぜならば、愛は行為的で結果を伴わなければならないと私は考えるからである。人を幸福にできない愛は意味がない。愛の源泉は愛の本質的作用ではない。真に合理的で英雄的人間とは、愛を実現できる者である。合理的でない者にどうして愛を実現できるだろうか。できはしない。
 世界が私に委ねられる事はないだろう。しかし私は死ぬまで合理的であるはずだ。私は常に私の幸福に対して忠実であり、そのために我が知力を揮う。私に手に入れられないものはない。私は私の望む全てを手に入れる。

2008年12月9日 忘れるために駆ける生
何かに必死になっている時だけ、きっと人間は残虐な自己の正体を忘れられるのだ。自分自身との戦いに疲れ果てたからではなく、自分を忘れるために人々は何かに生を没頭させる。まるで忘却ことが生そのものであるかのように。麻薬に手を出す人間が後を絶えないのも、彼らが忘れることを「快感」と認識しているからである。
 忘却の快楽は生の否定なのだろうか。そうではない。私は、この忘却が知性から疎外されている人間の悲しき抗いなのだと知っている。知能の優劣に関係なく、人の心は、自分と切り離せない自分の生存と自分自身とが矛盾している事態に対して無力であることを知覚している。だから薬物なりパチンコなりに依存して自己を忘れようとする。パチンコ依存症の人間はパチンコが好きなのではなく、パチンコをして自分を忘れる時間を欲しているだけだ。彼らは現実を見ようとしていないのではなく、心が真に欲している「忘却」こそが「現実」なのである。その肯定すべき現実だけが生きる価値としての快感を与える。
 オルガズムの本質は忘却である。心が形体や概念からの支配から逃れることである。理趣経はこの人間の本質をあからさまに描き出す。睡眠が夢に支配されなければ、それは「現実」である。現実とは肯定すべき対象そのものであり、肯定すべき自己の存在状態である。全てが忘却されているのならば自己は疎外から逃れて「現実」となる。そしてその時だけ、悲しき人間の本性はそのまま肯定すべきものとなる。

2008年12月4日 破壊と、焔の海の果てで
彼方に続く広大な海原の先に、蒼き炎を見る。人の解することの出来ない光を放つ小さき生き物たちは、その光に何の意味を見出しているだろう。いや、彼らの中に秘められた神秘の意志を解することなど、人には永遠に許されていないのだろう。破壊的衝動を抑えられない人間に、静寂の中で瞬く蒼き焔の真実に触れることなどできない。命の意味を解する資格は人に与えられていない。私の中に潜む貪欲な野獣は、私から半永劫に静寂を奪い去っていた。私の中に燃える焔は神秘を剥ぎ取られた裸の劣情に過ぎない。遥か100パーセクの天空に輝く星の光も、全く冷静なる海の果ての蒼き焔と同じように、無意志的に、そして無言語的に世界を淡く照らしている。
 光は、その理解の届かざる実体によって、私たちを畏怖で射抜く。私の心臓を突き刺す金色の矢が愛だと言えるのならば、全ての光は真空の呼気であろうか。こんなにも宇宙は暗いのに、こんなにも世界は光で満たされている。
 海の果てで瞬く命のオーロラよ、君たちが見る夢は私の中の無と繋がっている。漲る愛によって満たされた虚無が、世界と命を強固に繋ぎ合わせ、私から永遠に奪われていた命の水を私に灌ぐ。

2008年11月26日 思索に費やす時間
最近哲学的思索に費やす時間がめっきり減少した。悪い意味で暇がないのかもしれない。
 一ヶ月とか一年とか、まとまった時間が欲しい。本を書きたい。後世に残るような学術書を書き上げたい
 継続は力なりとは言うが、私はそうは思っていない。毎日ちょっとずつできることも確かにあろうが、真に知力を酷使する業績は集中して思考する必要がある。それもかなりの長期間だ。3ヶ月間、他の一切の雑務雑用から離れて極限まで知力を集中させなければ、私が求めるような知は生まれない。継続ではなく集中である。一日1時間の思索を数年間毎日続けるよりも、極限まで頭脳を集中させて考え抜くことが大切である。
 私の座右の銘は「ピンチはチャンス」である。軽い言葉だが、人生の真理である。たとえば、私が大病を患って入院を余儀なくされたとしよう。私はおそらくその期間を利用して心置きなく思索を極められるだろう。父は入院中に本を一冊書き上げた。おそらく私もそうするであろう。今の私は自分が裁判員に真っ先に選ばれることを心待ちにしている。

2008年11月11日 他者を救う、無能な人間を救う
自分を救うことと他者を救うこととを比べれば、他者を救うことの方が百倍は難しい。自分の心でさえ制御することは難しいが、他者の心などどうにもならない。
 救いがたいほど愚かな人間は、反省がない。自分が正しいと思っている人間は大抵間違っている。愚者は智者を見抜けないが、智者は愚者を見抜く。笑顔の奥で私は人を測る。私は他人に厳しいが自分にはもっと厳しい。救われる者は最初から幸福が約束されているが、自分が正しいと思っている人間は地獄に堕ちる。私は地獄に堕ちる人間を救えない。
 無能な人間と付き合うことは何よりも苦痛である。無能な人間は生きる資格がない。無能な人間は即今死ぬべきである。無能な人間は正しさを否定するからである。本道から外れた外道を救う事は、極めて難しい。無能な人間は自己認識が薄弱であり、自分が恥ずべき存在であるという事実に無関心である。よって、無能な人間は即今死ぬべきである。死ぬる思いなくして救いはない。彼らから知性を剥奪したもうた神々には何の罪もない。ただ私は無能な人間どもを私の周囲から排除するよう努めるべきであるだけだ。なぜならば、私の智が愚劣な人間どもによって曇ってしまっては、愚者たちにも救いはないからだ。愚者には身の破滅こそ相応しい。破滅なくして救いはない。私の慈悲は愚者へ与える破滅である。

2008年10月9日 ノーベル賞ラッシュに関する読売と朝日の社説
読売の社説と朝日社説のクオリティの差に愕然とする。というよりも読売の社説の稚拙さには溜息しか出ない。相対的に朝日の社説は素晴らしい。

読売の社説の後半 今日本の若手研究者に異変が起きており、米国への留学生が5万人近くいた2000年前後のピークから一昨年は約1万人減り、さらに減り続けている。米国では、科学研究の最先端分野で、厳しい競争が日常的に繰り広げられるが、それに耐えて、勝ち抜くだけの能力を備えた研究者が減っている、という嘆きも日本国内でしばしば聞く。下村さんは、長崎の大学を卒業後、就職を目指したが、「君は会社に向かない」と言われ、名古屋大で研究者を目指した。そこでの成果が米国で注目され、飛躍へとつながった。ベテラン研究者の2日続けての栄誉だ。日本の若手も、大いに奮起してもらいたい。

 これを書いた奴は馬鹿じゃないだろうか。いや、間違いなく馬鹿だ。今の若手研究者がどれほど過酷な競争に曝されているのかも知らずにこんな暢気な社説を書ける神経が信じられない。何が若手も奮起してもらいたいだ。米国への留学を勧める理由も不明。アメリカに行かなければ業績が出せないほど日本の研究環境が恥曝しなまでに劣悪だったということにすら気付かない。お前の論理なら一度も外国へ行ったことのない益川先生がノーベル賞を取ったことを説明できないだろ。しかも何が厳しい競争を勝ち抜く能力だ。下山先生自身は「人と争う気もないし、競争は嫌い」と仰ってるぞ。こんな初歩的矛盾点にすら気付かないのか。お前は間違いなく馬鹿だ。今回の受賞者の言葉を何一つ理解できないわけだから。こういう無能記者は「馬鹿でどうもすみません」と土下座して謝罪しろ。
 それに引き換え朝日の社説は見事だ。ノーベル賞受賞の成果が40年以上前の成果であることにふれつつ、今優秀な若手を育てることの重要性を強調している。そしてすぐに実用化できそうな応用研究に予算が集中してしまって基礎研究に予算が配分されない現状に警鐘を鳴らし、最後は「4人の受賞を、日本の科学研究や教育の環境を改善する機会にしたい。」と結んでいる。素晴らしい文章であり、評価できる。記者の知的レベルの差は歴然である。

2008年10月6日 驚くべき性差別
文部科学省がまたしても驚くべき性差別政策を実施しようとしている。大学などの研究機関が女性研究者の採用を増やせば、その分の人件費を補助するというのだ。その額、一人当たり年600万円を3年間の1800万円。信じがたい愚行である。
 なぜ女性研究者を増やす必要があるのかが問題だ。増やしたい理由はたったひとつ。主要国よりも女性研究者の比率が低いからだ。女性を増やすことに私は反対するわけではないが、このような明らかな男女差別を許容することはできない。全く許しがたい。

2008年9月25日 悲観的な智者
悲観的な智者はいない、しかし悲観的でなかった智者もいない。

2008年9月16日 大麻力士と弁護士
この茶番は一体何事であろうか。二人の力士が大麻を吸ったことは確実であるにもかかわらず、塩谷安男なる妙な弁護士を雇って徹底抗戦らしい。全くロシア人もロシア人ならどこからともなく湧いて出る売名の弁護士も弁護士だ。まあある意味弁護士としては有能だとは思うが、私は生理的に受け入れられない。チンケな詭弁も馬鹿げているし、何よりもGC-MSで測定したデータにケチをつける言い草だけはどうしても許せぬ。ああいう文系人間が超精密な分析を行っている分析化学者の出したデータに疑問を挟む厚顔無知は、まさに日本における腐った文民統制(私の言葉で文系の人間による不当で非論理的国家支配構造の意)を象徴しているようだ。屁理屈で科学的事実さえも曲げられると信じているのだろう。ボールに暗示をかければボールを投げて月にまで届かせることができると言わんばかりだ。そもそもたとえ副流煙だろうが、大麻を吸っている人間のいるような場所に出入りしているような人間は国技をするに相応しくない。だいたいにおいて、大麻を吸っていないと主張しているのだから、大麻を吸わずに大麻成分が検出された理由を説明するのはお前らの義務だろ。大麻を吸わずに大麻成分が検出された理由も説明できないくせに、吸ってないの一点張りとは子どもの駄々か。さらには検査2度目まで大麻陽性日本人力士いたと主張。隣の人間が強盗していたら自分が強盗しても罪にならないとでも言うのだろうか。
 こういう報道のたびに私が弁護士という職業を軽蔑してしまうようになってしまうのも必然であろう。実に唾棄すべき人間の屑ではないか。まったく穢らわしい人間どもである。私は嘘吐きと屁理屈を言う奴が大嫌いである。

2008年9月12日 偽善と支配
人間を煽動し、支配する力は常に偽善である。見せかけの善が人を支配し、真なる善が人を支配したことはない。我々はこの事実に対して失望するよりも、なぜ偽善だけが人間を支配する権力となりえるのかに注目すべきだ。そして、真なる善がなぜ人を支配する力となり得ないのかを考えるべきである。私の主張にそもそも同意しない人間はよく歴史を勉強し、現在の日本を支配している力の源を観察することだ。全てが偽善である。
 私は思う。人を従わせるということは騙すということであると。なぜ人は騙されるのか。いや、騙されることが予定されているのか。この理由は人間が愚かだからである。これは騙す側も騙される側も同様である。また、人間が現実から逃避したいからである。真実から目を逸らしたいからである。現実を見たくないからである。
 人間が愚かである理由は人間の脳が不完全だからである。不完全とは統合されていないということである。統合が不完全なために感情と理性はしばしば拮抗する。この拮抗は多くの場合無根拠な幻想によって解決されている。価値や正義は常に人間の心を惑わせる幻想であり妄想である。人間の脳は機能的な統合性が不完全であるために、ほとんど全ての時間を妄想によって支配されることになる。妄想は脳の機能を統合させるために必要であり、我々は妄想なしには生きられない。妄想とは自分自身が勝手に作り上げた、無根拠に絶対的な価値であり、正義である。我々は妄想を好んで現実を好まない。だから与えられた偽善の妄想にすぐに騙される。騙されることが人間の脳の仕事だからである。真なる善は真実であり真理であるため人はそれを好まない。自分自身を混乱させ、理解不能なものを人は本能的に避ける。
 人間が偽善を好むから偽善が人間を支配するのである。人間が偽善的であるからこそ我々は科学を「発明」せざるをえなかった。複雑玄妙なる宇宙の真理をちっぽけな一匹の人間が認識できるはずがないのにもかかわらず、我々はいともたやすく単純な宇宙や社会の構造という幻想に騙される。スーパーのレジ袋がなくなることで二酸化炭素の排出量が減ると本気で信じたり、血液型で性格がわかると本気で信じたり、憲法の条文が絶対的だと信じたりする。日本人がとりわけ物事を単純化することに快感を覚えるのかどうかはよくわからないが、このような現象は人間の脳が持っている特性が原因であることは間違いない。人間の脳はそもそも騙されるようにできており、騙されるからこそ偽善は人間を支配するのだ。人間は騙されやすいにもかかわらず、実は疑い深い。真実を疑って嘘を信じるのである。なぜならば、真実は難解だからである。人間は永遠に妄想と共存していく生き物である。

2008年9月3日 女の論理
 私は感情そのものでさえ理性で制御している。私の感情は計算されているのだ。私の涙も私の怒りも、それは全て計算の上で成り立っている。私は私自身の主人であるから、私は時と場所に応じて私がどのように振舞うべきかを考えている。私は計算の上で激怒して私の要求を呑ませることすらする。私にとって感情は理性の延長であり、態度は私の哲学の顕現である。私はどんな時でも感情が論理に先立たない。しかし女性は概して全く正反対である。どんな時であっても感情が論理に先立っている。女性の心は感情だけであって理性はない。論理が先立たないということは、他人が自分をどう思うか、他人が自分の態度をどう感じるかは全く意図しないということである。しかし一方で他人が自分をどう見るかには異常に固執する。こうした考えられないほどの稚拙な矛盾こそが女性の本質である。女性とは矛盾であり、矛盾に対する感度の低さが女性らしさである。矛盾を恐れないかわりに矛盾によって引き起こされた不利益には感情を露にする。このような女性特有の行動パターンは女性の知性とあまり相関しない。女性は他者に無頓着なのではなく、他人への共感能力はあるが他者と自己の間に存在している論理的関係性に対して完全に無頓着なのである。そしてその論理への無頓着が女性の行動をしばしば滑稽で救いがたいほどの失敗へと導く。小さい頃に女の子は底意地が悪いが、あれは底意地が悪いのではなく自分という絶対的存在が世界との論理的関連性を無視して存在できることによる、自明の愚行なのである。女性が長い間社会進出できなかった本当の理由は、女性に社会性が根源的に欠如しているからなのではないだろうか。女性が自己を相対化ができないことは紛れもない事実であろう。女性は大抵の場合問題解決能力が低い。語学に関してはあれほど堪能であるにもかかわらず、言語の論理性に対して呆れるほど無神経であることは驚くべきことである。しかしこの不思議な能力の偏在も女性の魅力ではある。
 女性の頭脳に論理が全くないわけではない。しかしその論理は完全に自己完結的である。自分の決めた何らの根拠も持たない善悪だけが彼女たちの論理の全てである。自分が嫌いなもの、気に入らないもの、自分の価値基準に照らし合わせて受け入れられないもの、それらは全て悪である。このような幼児的な好悪の弁別だけが女性の論理である。たとえ論理的思考能力を平均以上に有した女性で一見すると知的であっても、多くの場合それは好悪の基準が洗練されただけであって本質的構造はほとんど同じであり、自分の価値基準の絶対性は少しも揺るがない。なぜならば自己を相対化できないからである。だから絶対に女性とは議論にならない。女性同士でも男女の間でも、女性がいるかぎり議論にはならない。カルト宗教に引っ掛かるのも、男女共同参画だのとジェンダーフリーに気勢を上げるのも、占いに夢中になるのも、振り込め詐欺に引っ掛かるのも、ほとんどが女性である。論理よりも感情が先立って自分の考え方が無根拠に正しいと信じられるからである。女性の精神世界は驚倒するほど閉鎖的で、その閉鎖性は「疑念のなさ」の裏返しである。女性は自分自身に対して疑問を発することができない。自分に対して「なぜ」と問いかけられないために心は刑務所のように強固な閉鎖世界となる。そのため自分の滑稽さに驚くほど鈍感であり、稀にいる極めて優秀な女性は一般の女性の滑稽さに赤面する。
 谷の下に生っている葡萄を食べようとして谷に落ちて死ぬ人間は馬鹿である。しかし女性はこれと同じように、一時的な感情だけで自分の人生の幸福すら平気で投げ捨てる。そして、こうした突飛な行動を周囲の人間がうまく修復してくれているという事実には何の関心もない。そればかりか自分の能力や資質を全く顧みることなく自分の要求だけを周囲に垂れ流していく。自分が劣っていると思っている女性ならば、劣っているから同情されて当然であり、自分が優れていると勘違いしている女性ならば、自分が優遇されて当然だと思っている。言うまでもなく本人には全く罪悪感はない。なぜならば、罪悪感を発生せしめる社会との論理的関係性がアプリオリに認識から消去されているからである。つまり、女性自身は永遠に私の言っていることの意味がわからない。音のない世界に住んでいる人に「君のいびきは本当に五月蝿い」と伝えたところで意味を解することは永遠に不可能である。
 私は女性を批判しているのではなく評価しているだけである。そして、女性の不思議で理解しがたい心理を理解しようとしている。そして、私はかなりの部分を理解しているのではないかと思い始めている。過食や拒食になる人間のほとんどが女性であることも、自傷行為をする人間の多くが女性であることも、全ては単一の構造に根ざしていると解釈できるからである。この単純さという女性の本質こそが、もしかしたら最も魅惑的で愛すべき対象の本体なのかもしれない。 

2008年8月13日 砂漠化で地球を冷やせ
地球温暖化という欺瞞には心底我慢ならないが、それならばと非常に有効な地球の冷やし方を考えてみた。砂漠化である。森林を根こそぎ砂漠にしてアルベドを上げれば効率的に地球は冷却される。逆に砂漠の緑化は地球を温めてしまう。言うまでもないが森には二酸化炭素を吸収する能力はない。一度形成された森林は二酸化炭素を貯め込みもしなければ放出もしない。砂漠を緑化しても地球を冷やす効果はほとんどないどころか逆効果だ。
 改めて言えば、植林は地球を温暖化させる。私は温暖化賛成なので植林も賛成だが、温暖化を防ぐために植林することは間違いだ。止めろ。驚くべきことは、植林が温暖化対策として有効だと思っているお馬鹿さんが多いことだ。ちょっとでも論理的思考回路と中学生程度の科学の知識があれば植林が地球を温暖化させることはすぐに分かりそうなものだ。夏に草むらと砂浜に行ったとすれば、日焼けするのは砂浜に決まっている。草から光は照り返さないが砂はよく照り返すからだ。不正確な表現だが何となくは分かるだろう。森林の場合は吸収した太陽エネルギーの多くが水分の蒸散によって消費されるので地表を冷やすというロジックは地球温暖化とは無関係だ。エネルギー保存則わかってますか?植林でもし温暖化防止に効果があるとすれば、生長した木を伐採してその木を保管することだ。どう保管するかは知ったことではないがとにかくそうするしかない。
 温暖化が問題視されているにもかかわらず砂漠の緑化など言語道断である。砂漠のアルベドに対して森林のアルベドは半分しかない。地球上の全ての森林を伐採して砂漠化させれば地球温暖化は間違いなく解決されるだろう。地球温暖化「だけ」は。温暖化温暖化と騒ぐ馬鹿は砂漠化で地球を冷やすことを本気で考えて欲しいものだ。もちろん伐採した木は全てどこかに保存すること。どこかは俺の知ったことじゃない。

2008年8月5日 今すぐ教育を自由化しろ
もう義務教育という概念自体が死んでいるのである。人間がひとりひとり異なっていることを理解していないのだ。人間の能力差は驚くほどに大きい。それは単純に校庭を走らせても分かる。小学生を100人集めて校庭を10周させてみたまえ。1位の者とペケの者との時間差はいかばかりか。人間はこんなに違う。
 義務教育など不要だ。全く無価値。もう何が教育の目的なのか、学校が何を目指すべきなのかさえ誰もわかっていない。しかし私は分かっている。教育は学校のためにあるのではなく、文科省の役人のためにあるのではなく、政治のためにあるのではなく、教員のためにあるのではない。子どもたちひとりひとりの幸福のためにあるのである。人間が幸福になるために存在しているのである。人間ひとりひとりが修養を積むことでひとりひとりが幸福となり、それが国家の幸福になるのである。賄賂で教員採用試験の点数をやりくりしているような奴らに教育の何が分かるだろう。奴らは処刑すべきだ。
 子どもたちを学校という監獄から救うべきだと私は確信している。学校は監獄だ。社会から切り離された、治外法権の無法地帯。そもそも人間を弁別しないのは間違っている。朱に交われば赤くなり、腐った野菜は全てを腐らせる。不登校は学校に対するストライキだが、それを悪と捉えるのも間違っている。教育を自由化して、ひとりひとりに適した教育をすべきだ。そのためには教育の自由化しかない。そこでまずは担任の先生を児童側が選べるようにすべきである。駄目な先生からはどんどん生徒がいなくなっていき、逆に良い先生の組にはどんどん生徒が集まる。良い先生の負担は増えるかもしれないが、そういう競争は必要だ。大学で指導教官を選ぶのは学生側だ。
 授業という学習形態は放棄すべきである。授業で私が教わったことはほぼ「皆無」である。学習の基本は自習だ。また、考える力は社会との接触の中でしか養われない。監獄の中で考える力もクソもあるか。思考する技術を全く習得する機会のなかった教諭にそれを要求するのも間違っているし、考える力のない文系役人に考える力を語る力は全くない。思考は技術であり、技術を支えるのは知識である。大切なことは与えられた知識を使って深く洞察すること。しかしそれは授業では絶対に習得できない。

2008年7月15日 玉簾寺〜俗人は寺から去るべし
先日玉簾の滝という滝を見ようと思い、行った。玉簾寺という寺の境内にあり、滝は道路からも見えるのだが実に見にくい。境内に観瀑台らしきものが見えたのでそこへ行こうと思ったが、境内に入れないようにわざわざ柵が設けられている。見学禁止と書いてあるが、これでは参拝すらできない。用のある人は寺務所へと書いてあったので道路を挟んだ向かい側にある寺務所へ行ってみると、まあ実に汚いこと。蜘蛛の巣が張っており、掃除をしている気配は全くない。インターホンのボタンの部分にはガムテープが貼り付けられていて、何を意図してこんなものが貼ってあるのかさっぱりだ。廃屋なのだろうと思ってチャイムのボタンを何回か押してから境内をしばらく観察していると、しばらくして小母さんが寺務所の玄関に立っているのを発見した。どうも廃屋ではないらしい。そこで境内に入れないのかと聞いたところ、このババアの言い草のあまりの酷さに閉口してしまった。かいつまんで言えば、
 @この道路も滝もうちの境内だ
 A寺の名前は滝から付けた
 Bうちは安産祈願として有名で近所の老人が来る
 C寺には入れない。滝は道路から見えるからそれで我慢しろ
 あまりにも馬鹿馬鹿しいので私は何一つ論駁しなかった。完全にキチガイである。滝という自然の景観を「私のものだ」と主張する我欲に凝り固まった意地汚い餓鬼が寺に居座っていること自体が間違いである。しかもこの寺は臨済宗らしい。境内の掃除すらまともに出来ない生臭坊主が寺を「所有」した気でいるわけだ。あんたはもう地獄に堕ちているぞ。もらった布施は利子つきで閻魔から請求されるだろうな。だいたい老人が安産祈願してどうする。どんな高齢出産だよこの戯けが。お前の寺が滝から名前を取ったのならば滝が先で寺は後だろ。勝手に玉簾寺なんて名前を名乗るな、滝に失礼だろ。観光客が多くて迷惑していたということなのだろうが、滝を美しいと思う人間の心はお前の寺よりもずっと美しいわ。衆生を導く役割を放棄して、しかも境内の掃除すらまともにしないアホ住職は即刻寺から去ね。
 敢えて私が玉簾寺という名前を出してボロクソに攻撃する理由は、仏の名を語って寺を占有する盗人だからである。私は掃除ができない人間は大抵の場合人間性がおかしいと思っているのだが、今回もこの説は裏付けられた。臨済宗でありながら掃除ができない人間は寺から追い出すべきだ。こんな最低の俗物に出会ったのは久しぶりであった。玉簾寺の名前を決して私は忘れないであろう。まちがいなく日立二十四景ならぬ日立二十四馬鹿に入るだろう。

2008年7月8日 無視している〜時間の等質性
きっと全てのことは既に起こっていて、因果律などは無視して、宇宙は存在すら無視して、私に混乱する暇も与えずに夢を見せる。感傷に耽る余裕はない。世界は永遠に既定の物語をなぞっている。永遠は時間も無視する。起きた事も起きる事も全て遠い遠い過去と「同じ」でしかない。無限の過去が無限の未来へと繋がっているわけではなく、どの時間点も等質で、混濁して出鱈目な時間が未来から今へと急降下している。全てはもう起きていることと「同じ」だ。現在という特異点は存在しない。未来は過去と同じであり、現在も同じなのである。既に起きた事とこれから起きる事は「同じだけの意味」しかない。私が時間の裂け目としての現在を作っている。人間が時間すら切り刻んでいる。しかし宇宙に裂け目はどこにもない。等質な永遠は無限の過去から未来へと繋がるものではなく、過去と未来が全く混濁していて、この「時間の真空」が宇宙だ。我々は因果律を信じるが、我々が信じられるものは全て自身の持っている認識のナイフが切り刻んだ肉塊の真実でしかない。だから因果律は根本的に存在していない。私以外の人間の知性は因果律を超えられないが、私の知性は因果の法を眩ますことがない。

2008年7月3日 意味の中で
意味の中で溺れることは馬鹿らしい。価値の中で溺れることは馬鹿らしい。
馬鹿らしいが、人間の脳は意味と価値を形成する過程において必ず意味と価値に溺れかかる。微笑ましい幼稚さである。しかし幼稚な大人も須らく意味に溺れる。

2008年6月16日 地球温暖化して何が悪い
どこもかしこもエコだリサイクルだと五月蝿くてかなわない。巨大なエコ利権ってやつが政財界を席巻し、世界中の人間に多大なる迷惑をかけている。NHKも温暖化キャンペーンで国民の不安を煽るのに必死だ。お前らがくだらない番組を作るために使っている膨大なエネルギーによって二酸化炭素が発生しまくってますよNHKさん。地球シミュレータなるスパコンで温暖化のシミュレーションをしているようだが、地球シミュレータを動かすのに一体どれだけの二酸化炭素を出しているんでしょうかねえJAMSTECさん。一世紀後の人間が爆笑していそうなこんな茶番をいつまで続けるつもりなのか。私だって地球温暖化を錦の御旗にして大儲けしたいですよ。良心が咎めるが。
 地球温暖化で何が困ると言うのだろうか。海水の膨張によって海水面は上がるだろうが、日本が水没することは絶対にありえない。北極の氷が解けることでロシアは不凍港を得られ、新たな航路も出来るのでメリットしかない。ロシアの南下が緩和した方が世界は平和になりそうだ。食料問題は発生するはずがない。今まで穀物を栽培出来なかった寒い地域で農業ができるようになれば農業生産力は上がるに決まっている。日本では幾度となく冷害の被害で飢饉が発生したが、それも緩和される。いいことばかりだ。心疾患や脳血管疾患死亡率は冬が高いわけで、温暖化は体にもいい。砂漠化が進むとは言うが砂漠化なんてもう5000年くらい続いているし、今さらってかんじだ。生態系は変わるだろうが、変わらない生態系なんてものはありえない。我々は気候の安定化した時期に文明化したために、気候が激しく変動する時代の記憶は失われている。そのために気候の変動に対して必要以上に過敏で、少しの変動で大騒ぎするのだ。確信犯として温暖化だ温暖化だと騒いで利益を貪る者もいるだろうが、本当に温暖化が環境破壊の最たるものだと信じて騒いでいる者が多いように思う。まるで温暖化教だ。危険なカルトとして取り締まったほうがいいと思う。我々は温暖化が半分嘘で、たとえ温暖化しても誰一人困らないことを知りつつ温暖化をうまく利用して自分たちの研究費を稼ごうとせこく立ち回っていたりするわけだが、科学者としての良心などクソ食らえな気持ちになってしまうのも現況から言ったら無理からぬことなのだ。
 以前にも書いたが、二酸化炭素の総排出量は二酸化炭素の排出量を減らしても何の意味もない。我々が埋蔵されている石油の大部分を消費しつくすことは間違いなく、それがあと30年なのか50年なのかの違いでしかない。化石燃料がなくなったら二酸化炭素を出したくても出せないわけだから、自動的に二酸化炭素の問題は解決される。地球温暖化問題はどこからどこまでも馬鹿馬鹿しい茶番だ。しかし困ったことにこの世紀のペテンに関しては結局誰一人として責任を取らないだろう。地球シミュレータのシミュレーション結果が間違っていたときに、研究者に首を括る覚悟なんてないだろう。あの手のシミュレーションを自分たちの分野の内輪だけで盛り上がるのならば結構だが、大々的にマスコミを通じて発表して国民の不安を煽るのは如何かと思う。地球温暖化に関しては、不安を煽って人々を騙すという点においてカルト宗教にそっくりで、我々に実害が及ぶ点は許しがたい。温暖化防止のためにスーパーのレジ袋を廃止するとか、温暖化と何の関係もないリサイクルを国民に強要するとか、無茶苦茶である。そもそも家庭からの二酸化炭素排出量は日本全体の排出量の13.5%に過ぎない。
 もっと言えば、日本が二酸化炭素の排出量を抑える必要性がない。アメリカ人は日本人の2倍以上の二酸化炭素を排出している。あいつらが排出量を削減しないかぎり、日本国民がいくら頑張っても焼け石に水だ。それでなくとも節約しまくっているエコ社会の日本で、しかも全体の排出量の13.5%でしかない家庭からの排出量を抑えろとは狂気の沙汰だ。環境省は何を考えているのか。一番弱い立場の人間をもっといじめる構造がこの国には定着しているのか。日本の外交の下手さ加減は、もう絶望的ですらある。外務省の連中はもう少しでいいからその脳を使って、少なくとも国民ひとりひとりに対して犠牲を強いるようなふざけた京都議定書を何とかしろ。途上国の面を被って世界最大の二酸化炭素排出国になった中国が際限なく二酸化炭素を排出しまくっている横で我々に無意味なリサイクルをしろとは何事か。
 二酸化炭素排出量を減らす方法は、「我慢」ではなくて「科学技術」である。科学技術だけが環境問題に対処する方法なのだという視点が、あまりにも欠落しすぎている。我慢なんかしたって何の解決になるか。アホらしい。

2008年6月12日 怒り
私は激しく怒りを燃やす。魂の奥底から湧き上がる熱いマグマのような怒りを解放する。私は怒りに身を任せる。私は怒ることで怒りを超える。怒りをぶちまけなければ怒りは消え去らない。人は怒るべきである。公然と怒るべきである。私の怒りは正しい。怒らない者が聖者なのではない。柔和なことは良いことだが、柔和な人間が正しいわけではない。間違ったことに怒らない者は間違っている。間違った人間に対して怒らない者は間違っている。間違いに慣れてはいけない。不正に慣れてはいけない。怠慢になれてはいけない。不信心に慣れてはいけない。間違った者は喝するべきである。怠慢な者は喝するべきである。全身で怒り、全身で喝し、全身で感情を爆発させるべきである。なぜならば、私は善を愛し、悪を憎むからである。私は智を愛し、無知を憎むからである。私は賢明な人間を愛し、愚劣な人間を憎むからである。よって私は私の中の憎しみを愛として激烈に爆発させる。愚劣な人間を正すために喝するのだ。容赦なく、妥協なく、全身のエネルギーを怒りに込めて爆発させる。
偽善者は怒らない。偽善者は悪人を素通りし、悪を見逃し、愚劣さを見逃す。しかし私は容赦しない。私の哲学がそうさせるのではなく、私の中の消すことのできない良心と他者への愛が私を怒りに駆り立てる。
 日本人は怒らなければならない。正しき怒りは世を清める。全ての人が私のようになることはできないが、私の怒りを理解する人がいることは幸いである。偽善が溢れるこの世界で私だけは臆することなく喝し続けよう。私の怒りが世界を照らすこともあろうから。

2008年5月7日 完全への思いこそが業
パチンと弾く指の音の中には何の意味も存在しない。意味が存在しないことを認めたときにだけ我々は真実と呼ぶべきものを手にする。空拳の中ではあるが。空拳の中に存在するものは空気ではない。真実を掴む時は掴むことを放棄した時である。人が存在を超えた超絶的静寂を体得するまでには降りかかる無慈悲な現実を体験しなければならない。人間の無力さを痛感すればするほど認識は深化し、精神は完全への思いから離脱して驚嘆すべき自由にいたる。
 もしも「私は完全であろうか」という思いを発し続けながらも最終的にこの問いを発しなくなったのならば、全き完全に至る。思いが業を産まないのならば、如何なる思念をも私を地獄へと導かない。最も困難な砦である「愛」を制圧できる者は世を制圧する知者である。心が縛られた時に縛りから逃れることもなく縄そのものを消滅させられなければ人間は永遠に苦に縛られていることになる。縄から逃れる方法を求める者に自由はない。縄そのものを消滅させる方法を求める者にだけ自由は用意されている。よって、完全を消滅させえない者は完全な解脱には至らない。

2008年4月25日 硫化水素
最近硫化水素で自殺するのが流行しているそうだ。こんな報道をしたら更に同様の手段で自殺を行う者が続出することは間違いない。迷惑な話である。自殺の方法には時代や階層ごとの流行がある。一昔前のミュージシャンならばヘロインでくたばる奴がたくさんいたし、最近では沖縄の集団自決が軍の命令によるものだと息巻いている珍妙な連中もいるが、まあそれは置いといて、沖縄戦では手榴弾で自殺したわけだ。自殺の文化的側面を考えるとき、その方法はその個人、もしくは集団が持っている文化性を反映している。だから硫化水素を発生させるという迷惑極まりない方法を「わざわざ」選択する集団が何らかの共通する文化を共有していることは確かだ。
 硫化水素の毒ガスとしての歴史を手元にある昭和16年発行の「竹村文祥著 毒ガス醫學 南江堂」で調べてみた。硫化水素は毒ガスとして1916年フランス軍によって2回用いられ、1917年7月14日と17日には英軍によって用いられたようだ。神経毒として作用し、最初の麻痺性迷朦状態の後に呼吸停止をきたして死にいたるという経路をとるのが普通であるらしい。実戦で用いられたことのある毒ガスを住宅地で発生させられたのではたまったものではない。
 自殺の心理は常識的な心理ではないが、基本的な原理は存在する。死への切望は死に至る経路の切望ではない。よって経路を「飛躍」する方法を人は長い間模索してきた。つまり簡単に死ねる方法だ。しかしながら長い人類の歴史において数多くの自殺方法が考案されてきているのにもかかわらず、現代においても硫化水素自殺なる実に無粋な自殺方法が流行するのは全く妙な話だ。

2008年4月16日 教育放棄
東京都が低所得世帯に塾費用を無利子融資することを発表した。行政が公立学校では教育を正しく行うことかできないことを自ら告白した。寺脇研らが推進した総合的学力低下プログラム(通称ゆとり教育)の真の目的である「日本の公教育の破壊」は見事に成功したわけである。日本の教育、文教政策は修復不能なほどに致命的な損傷を受けてしまったわけであり、遂に東京都がそれを告白したという格好だ。
 私は自分に子供ができても学校に通わせる気がない。週に2回も行けば十分だろう。学校へ行くよりは私が自分で指導したほうが比較にならないほど濃密な教育が行えることは言うまでもない。たとえ私の指導時間が一日一時間であったとしても、だ。学校という機関は残念ながら既に「終わっている」と言っても過言ではない。そこは学習する場ではなく、むしろ学習を妨げる場である。嘘だらけの教科書を読んで何を学ぶと言うのか。学習することが悪だと教える文部科学省が学校を支配している限り、一人一人の教師がどんなに熱心であろうとも如何ともしがたい。
 学校が学習することを悪だと教える場ならば、私は学校という場が悪であると説く。学習指導要領を超えることを学ぶことが禁じられた、教育検閲が支配する、知識と真理を迫害する場が学校だ。天才を虐げ、愚者を讃える学習阻害機関が悪でなくて何であろう。学校が悪であるからこそ知識と学習を「善」と捉える塾に人は殺到するのだ。人は善を求めているのだから。
 学校が悪だから学校でのいじめが原因で自殺する奴が後を絶えない。学校になんか行くな。そこには何の知識も真理もない、ただの児童収容所だ。外界との接触を禁じ、世界の真実を正しく知らせることを抑制し、児童は社会に触れることもなく時間を無駄に過ごしているのだ。有益な人間に出会う機会はほとんどないどころか有害な人間に出会う確率の方が圧倒的に高い。不登校大いに結構。志を持って学校になんか行くな。そんな暇があったら生きた歴史、生きた社会、生きた技術、生きた知識に触れるべきだ。学校に行かないほうがずっと高い学力を身につけられるだろう。塾費用を無利子融資してもらえるなら学校へ行かずに塾へ行けばいい。

2008年4月8日 境地
自分が現在住しているこの境涯に、何となく思いを馳せる時、私は自分が卓越した境地に到達したことを純粋に思い知る。何にも耽溺することなく心は静かに定まっており、揺るがない。いや、揺らぐ時も心は愛に満ちて、かつ私は一切の憂鬱を断ち切ってしまっている。この偉大な境地がずっと続いており、私の中に再び鬱屈した死への渇望が蘇る気配すらない。あらゆる感情が統一されていて、想いが私に牙を向くことがない。哲学も宗教も完全に滅びていて何一つ私の中に形を作らない。私がかつて予言したように、哲学は哲学自体の滅亡を望んでいたが、本当に跡形もなく滅びてしまった。まったき完全なる境地にあっては境地という意識もなく、神々の声さえも聞こえない。静かではあっても完全なる静寂ではなく、活き活きとした世界と溌剌とした私の間には何の境界もなく、あらゆる概念的思念が消え去っており、それが消え去っていることにさえほとんど気付かない。今こういう文章を書いている時になってはじめてそのことに気付くほどに今の私はかつての私とは別の次元に存在している。驚くべきことなのだろうが、その驚きが生じない。

2008年3月28日 孤独と狂気
孤独が狂気を産む。人間は孤独の中で憎悪を充填する生き物だからだ。世界からの隔絶が憎悪となり、それは恐るべき狂気へと変貌する。人の心は極めて単純で機械的であるからだ。頭蓋骨の内部に封じられた狂気は正気の延長でしかない。人を愛するのと同じように、人は簡単に心に憎悪を燃やす。愚劣な人間であれば尚更その狂気は抑えがたい歪んだ衝動となって世界へと放出される。何がキチガイを生むのか。何が人を狂わせるのか。それは先天的資質による、構造的な欠陥によってである。人を狂わせる社会的「場」が提供されれば、脳の欠陥はその「場」に応答して人は狂気的な衝動を抱くようになる。麻薬に依存しきった者のように、人は逃れがたい邪境に耽溺し、捻じ曲がった世界を作り上げてその世界の中に住む。己の作り上げた迷妄が全てを支配し、世界は闇の桎梏に強く縛られる。燃え上がる憎悪だけが友となって全ての人間は敵となる。
 憎悪と戦う者だけが憎悪を滅ぼすことができる。憎悪を憎まない者は憎悪に飲み込まれて黒く燃え盛る。

2008年3月18日 何もない
私が何も表現しないことは良いことである。私は私を毎日待っていてくれる酒たちを想ってさえ楽しい気分になる。単純で他愛のない喜びが、こんなにも素晴らしい人生の喜びに転換されていることに、私は自分を客観視して驚く。私はついにこんなにも単純な人間になることができた。
 私は自由である。どうでもいい理屈は全くなくなっている。悟りの「さ」の字もなければ自由の「じ」の字もない。何もかもが私の捉えがたい心の働きの中にも外にもない。数を数えることのできない概念化されざる真実が私と共に息づく。それは自由という言葉の中にも完全という言葉の中にも存在しない、真に空なる境地である。どんな言葉も私を捕まえることはできない。肩の力は抜けきっていて齷齪することもなければ必死になることもない。私が生きていくことのできるだけの糧は私の自由が用意してくれる。桎梏と呼べるものは何も存在しない。存在しないのでもない。言葉の無力を私は楽しむ。言葉は実に無力だ。何一つこの素晴らしい自由を表現できないのだから。しかしたとえ私が言葉を発しても、決してそれは壊れたりはしない。

2008年3月17日 災いだ
遂にチベットでの動乱が世界にバレてしまう事態となった。過去の悪逆非道を必死に隠蔽し続けてきた中国も年貢の納め時ということだろうか。漢民族はアジアの災厄だ。そして私の周りに中国人がいないことは幸いだ。中国人はがさつで自己中心的で飯の食い方が汚くて自己主張が強くて他者と絶対に協調しようとしない。厚顔無恥な彼らと共に過ごすことは災いだ。文化から断絶された強欲の獣と共に過ごすことなど考えられない。人間から理性だけを綺麗さっぱり除去した残渣が中国人だ。彼らに理性がないことは北京の空を見ればよくわかるだろう。チベットの不幸は地続きの隣に漢民族がいることだ。かつて漢民族は万里の長城を築いたが、逆に今はすっぽりと中国を覆うように壁を築いて漢民族が外に出ないように監視すべきだ。これ以上人類が漢害を蒙らないために。災いなるかな漢害。

2008年3月3日 スポーツ選手
sportsという言葉はdisportに由来し、disportは気晴らしや楽しみを意味する。スポーツ観戦は気晴らしであって、余暇を楽しく過ごすためには欠かせないものだ。in sportと言えば面白半分にという意味し、make sport ofはからかうという意味だ。
 今年は五輪の年だ。選手たちは過酷なトレーニングを積んでメダルを目指す。しかし、私はこのような「スポーツ」のあり方に大きな違和感を感じる。これは気晴らしでもないし、楽しみでもない。むしろ苦しそうだ。余暇の時間に体を動かして楽しむことが元来のスポーツなんじゃないだろうか。気晴らしや楽しみの範囲でオリンピックに出場できるような選手こそ、本当のスポーツマンだと私は思う。無理に訓練して行くようなものじゃない。無理に勉強して博士課程へ行くようなものだ。

2008年2月18日 栄養学は本当に科学なのか
無知を承知で書くことにするが、私はかねがね栄養学に対しては懐疑的である。種々の栄養素の必要摂取量というものが定められているが、あの数値は甚だ疑問である。たとえば、食物繊維の目標摂取量は20〜25gとされているが、こんな量は菜食主義者でもないかぎり達成できない。ではこんな無茶な量がどうやって定められたのかを調べてみた。すると、総食物繊維摂取量の変化と糞便量の変化との相関を調べることで推定しているらしい。20gほどの食物繊維を摂取することで効果的に食物の体内通過時間を短縮させることができるようだ。しかし、なぜ短縮しなければならないのかはよくわからない。食物繊維が大腸癌を予防するという説は、疫学調査によって現在は否定されている。ただし、一日6g未満というあまりにも食物繊維を取らないグループでは大腸癌のリスクは高くなる。しかし一日の摂取量が15gだろうと25gだろうと大腸癌のリスクにおいては変わらないということだ。しかし20g以上摂取しろと厚労省は言うわけである。よって、目標摂取量の科学的根拠は薄いと言わざるを得ない。
 そもそも、定められている全ての栄養素の必要摂取量を完璧に満足する献立を仮に作ることができたとして、その食事をすることが本当に人間の健康と長命に繋がるのかは甚だ怪しいものだ。禅僧は長命な者が多いが、禅僧の食生活が栄養学的にバランスが良いとはとても言えない。かつて厚労省は1日30品目食べろと言っていたが、寺の食事はどんなに多く見積もっても一日10品目もない。お粥、梅干、麦飯、味噌汁、漬物くらいしか口にしないのだから。そもそも人間という生き物は偏食なのだ。はたして縄文人が一日に何品目の食材を手に入れられただろうか。モンゴル人はほとんど肉と乳製品しか食べず、野菜は全く食べない。しかし彼らは不健康だろうか。現在の両横綱の強健な肉体を見れば見当がつくが、モンゴル人はひどい偏食にもかかわらず健康的ではないか。栄養状態の悪かった戦中戦後を経験してきた現在の日本のお年寄りは世界一長命だ。一方で栄養状態の良い環境で育った若い世代は成人病だ、メタボリック症候群だと、とかく健康上の問題を抱えていてとても長生きできそうにない。どう考えてもビタミンなんか不足しまくっていた時代を生き抜いた人間の方が健康そうに見えるのは私だけではあるまい。私は科学的な見地から、現在の栄養学は間違っていると確信している。
 栄養に関しては疫学調査以外に有効な手法はないと私は考える。人間は複雑系の極みであって、全ての条件をコントロールした上で実験を行うことは不可能に近く、しかも人間を研究対象とする以上倫理的問題がいつも付き纏ってしまう。マウスのように解剖することもできず、医者でなければ採血すらできない。しかも人間は個体差が非常に大きく、数人の被験者を用いた実験では何の意味もない。ちなみに先に述べた食物繊維の実験の被験者はわずか5人だと言う。
 もちろん栄養学の知識が完全に間違っているわけではない。ビタミンCを摂らなければ壊血病になることは厳然とした事実である。このような、欠乏すると明らかな病態が現れる栄養素の場合には、その効果は科学的に否定しようがない。しかし食物繊維のように、あまり摂らないからと言って明確な病態が現れないものの方が多い。野菜を全く食べなかったとしても人間はちゃんと生きていけるのである。健康的な生活を送るためには適度に栄養のある食事をすることは大事であろうし、極端な粗食は体を弱めるだろう。しかし栄養が豊富であることによって人間は健康にはならないのである。それを今のご老人たちはよく証明している。粗食で明らかに栄養が不足している人たちが健康で長命であることを説明できない限り、栄養学が科学と呼べる日は来ないと私は考える。私の祖母は超が付くほどの粗食で栄養素の必要摂取量など一つも満足していないような人であったが、健康だった。
 生野菜を食べる習慣は人間にはもともとないのであって、そのようなカロリーの極端に低い食材を大量に摂取することは体に良いはずがない。なぜならば食事とはエネルギーの摂取が一番の目的であって、他の栄養素を摂取することは二の次だからだ。生野菜のようにカロリー摂取源として成り立たないものを主食として食べることは不健康極まりない。人間にセルラーゼがないのは、元来人間が生野菜を食べない生き物だからである。完全菜食主義者は疫学的に最も寿命が短いことが知られている。ちなみに最も長命なのは魚を食べる人たちである。

2008年2月16日 謎を剥がされた宇宙〜神秘なき世界と人間は
私は最近、宇宙には実は謎と言えるような事象は存在しないのではないかと思い始めている。人間の病的な精神が、異常な脳の酷使が、宇宙を神秘的存在として私の前に立たせているだけではないかと思うのだ。思考というものがこの世界を変形させ、そして論理が世界と私との協調を破断しているのではないか。もちろんそうであっても私は頭脳を使って宇宙を理解しようと試みてしまうのではあるが、この無駄な努力がどこから生じるのか、なぜ人は思考の中から有益なる精神的調和(自己の実存と宇宙を調和せしめる論理)を抽出しようと試みるのであろうか、と考えることも実際には何の益もないのだろう。人間の脳の愚かしい「本質」がたとえ自分自身を世界と断絶させる刃でしかないのとしても、その刃ですら宇宙の剥がされた神秘の中に存在している。

2008年2月15日 中国産毒入り餃子4
遂に天洋食品社長が「我々は最大の被害者」だとのたまった。よく言った!感動した!こんなにも私の予想通りの展開をありがとう。これぞ、絶対に自分の非を認めない中国人のお家芸。恥を知らず、礼を知らず、道徳を知らず、人の命を何とも思わない人間の屑、利己主義の塊。それでこそ中国人だ。孔子さん、あんたの子孫は2500年経っても相変わらず破廉恥極まりない劣等民族ですよ。
 朝日新聞が真っ先に中国産毒ギョーザの報道をしているのは世の流れなのか、いつもの変節ぶりなのか。とにかく面白い展開だ。朝日新聞を通して多くの日本人が中国人のキチガイぶりに気付いてくれることも良いことだ。オリンピックが楽しみである。

2008年2月14日 中国産毒入り餃子3
中国国家品質監督検査検疫総局の魏伝忠副総局長が、ギョーザの生産から輸出までの過程で人為的な破壊行為があった可能性はほぼないと述べたという。予想通りの展開に思わず拍手したい気持ちだ。それでこそ中国。挙句の果てには未開封の袋の内側から農薬成分が検出された件について、一般人でも開封したものを再び密封できるので少数の事例で断定すべきではないと述べたらしい。これほど呆れた台詞を吐ける中国人に乾杯したい。一般人がどうしてギョーザの容器を際密封する必要があるのだろう。きっと中国では毒を入れて再密封することが常識なんだろうな。実にファンタスティック!こんな頭の悪い中国人と共同調査チームなんて作ってどうなるのか。絶対にやめた方がいい。だって馬鹿なんだから。
 私は日本人に要求したい。腹を立てるな。むしろ中国の馬鹿っぷりを堪能しろ。そしてあいつらには常識も科学も通用しないことを知れ。私は今後の展開が楽しみで仕方がない。中国がまたどんな馬鹿っぷりを見せてくれるのかを考えるだけでワクワクする。頑張れ中国!

2008年2月6日 中国産毒入り餃子2
私の予想した3つのシナリオのうち、シナリオ1を中国は選んだようだ。きちんと真相を解明したほうが最終的にはメリットが大きいということを中国は知らない。永遠に知りえないだろう。
 私が日本側に要求したいことは、なるべく情報を小出しにすることである。重要な情報を中国側に与えないことが非常に大切である。必ず中国側は荒唐無稽な嘘を吐くだろうから、その嘘に対していちいち全て反論するような真似をしてはならない。向こうの嘘が出きったところでこちらの情報を一気に出す。タイミングとしてはオリンピック開幕一週間前あたりがいいだろう。中国と協力して真相を解明するなどという夢物語が実現することは絶対にありえない。日本の消費者を守るためには真相を解明しなければならない。しかし真相解明に対する最も大きな障害は言うまでもなく中国そのものである。よって、中国側の無茶な嘘を一時的にでも封殺しないかぎり真相は永遠に謎のままだろう。だがどんなに揺るぎない証拠があろうとも、あの国はすぐに他人に責任転嫁する減らず口を考えるので、一番中国が国際的に恥をかきたくないオリンピック直前と言うタイミングで嘘を封じることが最も良い戦略だ。あの国にとってオリンピックは諸刃の剣である。うまく利用して事件の真相解明につなげるべきだ。

2008年2月5日 中国産毒入り餃子
いつかは起きるとは思っていたが、遂に中国産冷凍餃子を食べた人たちが急性中毒を起こす事態になった。メタミドホスという有機リン系の農薬が原因であると確定した。カネミ油症以来最大の食品公害であろう。我々が日常的に買うスーパーの食品に忍び寄る劇毒の影に、我々はどう対処したら良いのだろうか。生きるということはリスクとの戦いである。リスクはどのような場所、どのような時間においても付き纏っている。こんな時代であるからこそ、私は自分に備わった能力〜鋭敏な味覚と嗅覚〜を使って危険を回避するしかない。毒を見分ける本能は誰にでも備わっているはずだ。少しでもおかしいと思われるものは食べてはいけない。
 さて、餃子を製造した天洋食品は最後まで自分たちの非を認めることはないだろう。これは最初から予想されている事態であり、今更彼らの無責任に腹を立てるほうが馬鹿馬鹿しい。極めて民度が低い中国人にモラルだの責任感だの常識だのを期待するほうが間違っているわけで、日本側が徹底的に調査しない限り絶対に真相は解明されないだろう。しかし今回の問題を自浄する能力が中国側にないことがおそらくはっきりするであろうから、その際には中国の食品が間違いなく命にかかわるほどに危険であるということを全世界に証明することになる。しかし、そのことを当の本人である中国は永久に気付かないのではないだろうか。今までどんな重大な問題も矮小化するか責任を他人に転化するかしてきた彼らが俄かに改心するなんてことがあろうはずがない。よって、今後はこういう流れになるだろう。
 シナリオ1: メタミドホスは工場で検出されないと最後まで言い張る。そして日本の流通過程で混入したに違いないと決め付ける。しかし日本の流通過程で混入した証拠は絶対に出ないので事件の真相は有耶無耶にされる。最後は社長がドンズラ。
 シナリオ2: 真相がよくわからないので中国政府が適当な奴を犯人に仕立て上げ、そいつを銃殺刑にして幕引き。最も手っ取り早い。この時に発表される殺虫剤の混入方法などは全部捏造。
 シナリオ3: 中国政府が事態を収拾するために、工場内でメタミドホスが検出されその混入課程が明らかになったと発表する。天洋食品の社長は逮捕。事件は解決したかのように見せかけるが実は全くの捏造。中国全体の食品問題ではなくあくまでの一企業の問題として片付けるために綿密に描かれた捏造シナリオを発表。その際には天洋食品の主要人物は逮捕されているので無問題。彼らは騒ぎ出す暇もなく銃殺される。

2008年1月30日 災害時の対応
大地震、洪水といった自然災害に見舞われた時に私ならどうするだろうか。もちろん、生き残った時にどうするかという話である。道路が完全に塞がっていない場合には、とっとと私は逃げてしまうだろう。実家か、別宅か、ホテルか、親戚の家か、ウィークリーマンションか、とにかくどこかに逃げてライフラインが復旧するまで待つだろう。私の親類もきっと皆そうするに違いない。無責任かもしれないが、少なくとも避難所で生活することは私には不可能だ。日本中が焼け野原にならない限り、私には逃げ場はたくさんある。避難所での集団生活は厳しいものであろうし、あまり体の強くない私は確実に体調を崩してしまう。安いホテルに泊まっただけで体が拒否反応を起こすのだから、学校の体育館で寝泊りなんてとても無理だ。私は雑魚寝すらしたことがない。寺では修行と割り切っているので劣悪な環境だろうと耐えるのであるが。
 災害時に多くの人が避難所で生活している様が報道されているのを見るにつけ、大変だなあと同情を禁じえない。ただ、彼らが敢えて逃げないのか、逃げられないのかは私には判断できない。もしも私が災害時に何か皆のために役に立てるのならば頑張って手伝うだろうが、私が単に援助を待つだけの「お荷物」になってしまうのならば逃げた方がどれだけましだろうか。これをいい機会と海外旅行に行ってしまうのもいいし、国内の温泉を巡るのも楽しそうだ。楽しく旅行しているうちにライフラインは快復するだろう。どうせ借家なのだから家がぶっ壊れようと気にしなくてもいいわけで、壊れてしまった家財は運がなかったと諦めることにして、別のマンションでも借りるだろう。そんなに深刻に考える必要は全くないと思うのだ。生きていさえすれば。
 さて、敢えて被災地から逃げない人はいいとして、逃げたくても逃げられない人が多くいるのだろうとは思う。なぜ逃げられないのかは人それぞれだろう。体が動かない人、経済的に無理な人、親類縁者がいない人だろうか。貧しい者、弱い者は災害時にも最も大きな被害を受けてしまうという事なのだろうか。避難所生活をしている人たちの報道は多いが、なぜ避難所生活をしているのかがあまり報道されていないように感じるのは私だけだろうか。少なくとも私のように、災害時に避難所で生活するという選択肢が絶対にありえない人間にとっては、「なぜこんな体育館で生活しているのか?」と素朴な疑問を抱くのである。避難所で生活しなければならない理由を私は乏しい想像力を働かせて想像するしかない。しかし所詮は想像だ。避難所に避難はするが、遠隔地に避難をしないのは何故か。困った時に助けてくれる遠隔地の親類や友人は誰もいないのだろうか。被災して困った友人がいたのならしばらく家に逗留してもらっても私はいっこうに構わない。困った時はお互い様ではないか。隣の県に安いホテルだってたくさんあるだろう。個室で風呂もついているだろうから少なくとも体育館よりはましだろう。なぜそういう選択をしないのだろうか。色々な理由はあるのだろうが、私にとっては謎なのである。

2008年1月29日 プルトニウムとの付き合い方
原子炉の中で勝手に作られるプルトニウムを有効に利用することができたなら・・・、これは人類の夢である。敷衍すれば、原子炉の中でウラン235を燃焼(核分裂)させると、中性子が放出される。この中性子をうまく減速して再びウラン235に吸わせれば核分裂が起き、ある一定以上の量のウラン235が一箇所にあれば臨界になって核分裂の連鎖反応が起きる。これをうまくコントロールすれば莫大なエネルギーを取り出すことができる。ウラン235の濃度を90パーセント以上に濃縮して一気に臨界にすれば原子爆弾になる。天然ウラン中には0.72%のウラン235が含まれており、これを数%に濃縮したものが燃料とされるわけだが、ほとんどはウラン238で、これは核分裂しにくいので燃料にならない。しかしウラン238は中性子を吸ってウラン239になると半減期23.47分でネプツニウム239にβ壊変し、さらに半減期2.355日でβ壊変しプルトニウム239になる。これは原子炉内で勝手にできてしまう物である上、燃料として使うことかできる。つまり、ウランを燃やすと燃料が勝手に生成するのである。ガソリンを燃焼させると燃料は跡形もなく消え去ってしまうが、ウランの場合はまるで魔法のようにプルトニウムという新たなエネルギー源が生まれる。これを利用しない手はない。
 少々話が逸れるが、ウランやプルトニウムに含まれているエネルギーは超新星のエネルギーである。化石燃料の場合は太陽エネルギーが炭素間の結合エネルギーに変換されて蓄積されているものだが、核分裂のエネルギーは原子核を構成する陽子と中性子との間に働いている強い力として蓄積されている。恒星の中では水素が燃焼(核融合のこと)し、さらに重い元素が燃焼していくことによって最終的には鉄までの元素が合成される。鉄より重い元素は星の終末期の中性子捕獲によって作られるが、軽い星の場合はs-プロセスと呼ばれる穏やかな反応しか起こさないのでビスマス(原子番号83)までしか作れない。よってビスマスよりも重い元素、つまりウラン等は全てr-プロセスと呼ばれる極めて大量の中性子が一度に捕獲される過程でなければ作られない。r-プロセスは超新星爆発と呼ばれる、重い恒星の最期の大爆発によって起きる。この大爆発のエネルギーが、ウランに蓄積されているわけである。ウランが核分裂すると質量が減少し、その分が種々のエネルギーに変換されて放出される。そのエネルギーは質量換算すれば化石燃料の数百万倍にもなる。
 話を戻そう。ウランから作られるプルトニウムからエネルギーを取り出すことは原理的には実に素晴らしいのだが、それを実現するとなると簡単なことではない。技術的に難しいのである。だがもっと厄介な問題は、ブルトニウム239が原子爆弾の材料であるということであり、政治的にも法的にも実に厄介な代物だという点である。さらに再処理過程の安全性の問題や、費用対効果の問題など問題は山積である。もしも同じだけの手間隙をかけてより大きなエネルギーを生み出す方法があるのならば、プルトニウムを燃料として利用する意味はほとんどなくなってしまうだろう。しかしながら我々は地球上のエネルギーが有限であることを知っている。ウラン資源も当然有限であって、いつかはなくなってしまう。とは言うものの、今すぐ核融合炉を実用化するなど絶対に不可能であるし、太陽エネルギーや水力発電で全電力をまかなうことはできない。ウラン資源が減少すればいずれ必ずウランの価格は高騰し、核燃料の再利用は恒久的ではないにせよ必須の技術となるだろう。
 さて、日本というのは被爆国ということからなのか、もともと日本人が非科学的なのかはわからないが反核団体というものが存在し、六ヶ所村の再処理工場の運転を停止させろなどと気勢を上げている。全く意味不明な主張なのであるが、たとえ非科学的主張であっても一応論駁しておかなければなるまい。美浜・大飯・高浜原発に反対する大阪の会とか色々検索で引っかかったので、そのうち面白い主張をとりあえず引用して、それを論駁しよう。面白いからwww

 彼らの主張1 原燃は0.022 mSvを規制値としているので安全と言うが本当に安全なのか?
 答え 安全です。自然放射線による全世界の平均被爆量は年間2.4 mSv、日本における値は1.4 mSv。もしも0.022 mSvが危険ならば、私が大阪府に引っ越しただけで危険です。岐阜県や香川県に引っ越したら白血病で死ぬでしょう。ちなみにレントゲン一回で0.3mSv浴びるので、反核団体の方はどんな重病であってもレントゲンは拒否してますよね?

 彼らの主張2 風に乗って海から陸へ移動する放射能による被ばくは評価されていない。ヤマセによって放射能が陸へと飛んでくることはないのか?
 答え 放射性物質が飛ぶことはありますが、放射能が飛ぶことはできません。日本語の意味がわかりません。

 彼らの主張3 地表に落ちてきた放射能の蓄積や、海岸や海底に蓄積する放射能による被ばくは評価しなくてよいのか?
 答え 放射性物質が落ちることはありますが、放射能が落ちることはできません。日本語の意味がわかりません。

 彼らの主張4 放射線に対する感受性の高い胎児、乳幼児に対する危険性は考慮されているのか?
 答え 0.022mSvの被爆を気にするなら、神奈川県に引っ越した方がましです。

 彼らの主張5 年0.022mSvで計算しても、再処理工場が40年間操業をつづけるとするとほぼ1mSvになる(0.88mSv)
 答え だから0.022mSvの被爆を気にする敏感肌は神奈川県に引っ越せこの馬鹿!!!

 彼らの主張6 トリチウムはこれまで考えられていたよりも倍危険だ
 答え 最もトリチウムの被爆を受ける人間で年間0.007mSvと評価されていますから、その倍の0.014mSvになりますね。よかったですね、増えて。

 彼らの主張7 そもそも原子炉とは、いまでこそ発電のためのように思われていますが原爆をつくるためのものだ
 答え 幻聴がきこえるようですね。統合失調症の疑いがあります。精神科で一度診てもらうことをお勧めします。原爆を作らないためにプルトニウムを再利用するんですよ。発電に使えば原爆は作れなくなっちゃいますから。

 彼らの主張8 プルトニウムが核爆発を起こしてしまうかもしれない
 答え プルトニウム型の原爆は爆縮レンズを用いてプルトニウムを一点に瞬間的に圧縮させる必要があります。よって、原子炉が核爆発することなど絶対にありません。そもそも原爆を作るためには不要なプルトニウム240を除去しなければなりません。

なんかアホ臭くなってきたのでしまいにしよう。真面目に答えてしまった自分が悲しくなるほどの馬鹿馬鹿しい主張である。微量の放射線が人体に影響を及ぼすことを証明するためには、全国各地の疫学調査を行い、自然放射線量との間に有意の相関を見出すしかないが、そんな統計データは存在しない。なぜならば、微量の放射線が人生に悪影響を及ぼすとしても極めて僅かであるからである。少なくとも原子力反対を唱える資格がある人間は以下のような人間である。
 非喫煙者。煙草を吸いながら原子力反対などという馬鹿は死んだほうがいい。
 木造家屋に住んでいる者。 鉄筋コンクリートみたいな(彼らの感覚では)放射線バリバリの家に住んでいながら原子力反対などと抜かす馬鹿はコンクリート詰めにされて東京湾に沈んだほうがいい。
 東北在住。少なくとも関西みたいな(彼らの感覚では)自然放射線バリバリの所に住んでいながら原子力反対もクソもない。
 レントゲン拒否者。絶っっっっ対にレントゲン撮影しないよな。お前らなら。
 温泉に入らない。 ラドン温泉なんかに入るような奴はもう肺癌でしょ?
 車に乗らない者。自動車の排気ガスが有毒ではないなどと言わないですよね?
 電気を使わない者。原子力発電で作った電気なんか使っちゃ駄目でしょ。
とまあこのくらいの人間なら原子力反対しても私は文句言いません。勝手にやっててください。

2008年1月28日 キリスト教の反社会性
新約聖書の外典をよく読んでいるのだが、ペテロ行伝にしろパウロ行伝にしろ、あらためてキリスト教がいかに反社会的宗教であったのかを思い知らされる。キリスト教側の見方では、西暦1世紀2世紀の迫害は無知な異教徒による一方的かつ理不尽な迫害と捉えるのだろう。しかしそのような見方は全く間違っている。なぜならば、使徒たちの教えは明らかに反社会的であって、人々から果てしない恨みを必然的に買うようになっていたからである。迫害されて当然の宗教なのである。
 キリスト教の反社会性は近年のカルト宗教とかなり類似している。カルト宗教でよく問題にされることの一つは、家庭に決定的な不和を齎すことや、家族が突然帰ってこなくなってしまうといった状況である。初期キリスト教は、まさにこの種の家庭破壊宗教だった。たとえばペテロが殉教せざるを得ない状況に陥った理由は、女性たちに純潔を守るように、そして妻に夫を捨てるよう仕向けたことである。自分の妻や恋人や許婚を突然奪われた男たちの怒り、恨みは想像に難くない。どこの馬の骨ともわからない異国人がおかしな宗教を広めて自分の妻を洗脳し、自分を拒絶するようになったら普通の人間ならば許せないだろう。自分の娘がおかしな異国人の所に入り浸っていたら親は心配するだろう。平和だった家族のささやかな幸福は破壊されてしまうだろう。こうして、まさしくイエスの言う通り、「自分の家族の者が敵となる」のである。
 キリスト教は真の正しさを有しているのだから、それに従わなければならないと信者を思うのだろうし、彼らは地上の価値を価値として認めないのだろう。しかし私はこのような考え方が嫌いである。私は真理を求め続けたが、このような考え方が間違っていることを知ったのである。地上のちっぽけで平凡な幸せは、天上の偉大で非凡なる栄光に勝るからである。地上のちっぽけな幸せを無残に奪い去るキリスト教は間違っている。今のキリスト教は社会に馴染むように修正に修正を重ねたから今のような状態になっているだけである。今この地上には使徒の教えを守り抜いている人間など、ほとんどいない。だがそれでいいのだ。

2008年1月24日 環境問題と罪
今日も北極の氷が少なくなったという記事が国民を不安を煽っている。こうして巨大なマスコミの押し付け情報を真に受けた人々は地球の未来に不安を抱くのだろう。どうにかならんものなのだろうか。
 物事は論理的に考えなければならない。現象は科学的に捉えなければならない。論理的でないことや非科学的なことは罪である。間違った考え方をすることは罪である。誤謬を信じることは罪である。それが罪であるから、無知や妄想や先入観は自分自身を苦しめるだけでなく、他者をも苦しめるのである。誤謬を信じるからマスコミは国民をミスリードし、政治家は国民を苦しめる法律を作り、役人は国民を苦しめる制度を考え、警察は国民を虐待する。論理的に破綻した共産主義思想でどれほど我々人類は被害を受けただろうか。間違った宗教を信じることによってどれだけの人々が死んでいったことだろうか。論理的でないことと科学的でないことは最大の罪なのだ。律法が人に罪を導いたと言うのならば、そして人間の決めた法律でさえ人を罪に定めるならば、況や自然界の法則ならば、それを知らず、逆らい、無視することの大罪たるや如何ほどか。

2008年1月15日 牢獄の生
暗く冷たい牢獄の中に閉じ込められ、出獄の可能性がゼロであっても人は生きる。終身刑であっても生きる。彼らは何を糧にして生きているのだろう。何が絶望を忘れさせるのだろう。最低な環境から抜け出すことが出来なかったとしても、私は実は死なないのではないだろうか。終身刑の囚人が死なないように、私は死なないのかもしれない。それが恐ろしい。絶対に発見不可能なものを探すことで希望という幻想を紡ぎ、人は生きるのだ。生きてしまうのだ。私を縛る鎖がどんなに硬かろうとも、私はきっとその鎖の硬さを認めないことで生きる望みを繋ぎとめる。
 私が私を救えない。私の力では私を解放できない。どんなに人に裏切られても人から逃れることはできないどころか、他人こそが私を救う。叫んでも神々は答えないが、人は答えてくれる。私を心配してくれる人間がこんなにも多くいたことに私は素直に感謝する。私が背負い込んだ物は私に巨大な負荷をかけているが、それと同じだけの幸運を私に齎してくれるのかもしれない。本当に私が無能な人間ならば誰も私を必要としてくれないだろう。私は私の人格よりも私の知性を愛してもらいたい。才を愛されたい。理解されたい。その理解によって不運の連鎖をいい加減断ち切りたい。断ち切ってほしい。本当に必要なことは神頼みではなく、人に頼むことだ。人は神なり。

2008年1月7日 馬鹿への対処方法〜稀望から希望を拾う
信じることは希望なのだ。どんなに絶望的な状況においてもたったひとつのことを信じることで私は希望を繋ぎとめる。すなわち、きっとどこかにまともな人間がいると信じることである。自分の目の前にいる人間が救い様がないほどのどうしようもない馬鹿なのだと確信した時、人間は悲しむのでもなく憤るのでもなく「笑う」生き物なのだと私は今日知った。馬鹿は不治の病であり、馬鹿は死んでも治らない。眼前の馬鹿を利口にすることは私には不可能である。もしもそれが出来るのならば、中風の者を癒したイエスより偉大な奇跡である。馬鹿は脳の機能不全であって、私がどんなに想像力を逞しくしたとしても彼らの思考を完全には理解できない。なぜならば、自分が馬鹿にならなければ馬鹿の気持ちは分からないだろうが、馬鹿になると自分が馬鹿であることにも気付かないのである。馬鹿とは永遠の謎であるが、それは客観的な現象論的見地から理解すべきである。つまり、馬鹿は迷惑だということである。馬鹿が馬鹿として発現するためには、馬鹿が周囲の人間に対して目に見える形での「迷惑」を及ぼしたときである。だから馬鹿は人の上に立つ人間に多い。馬鹿が多大なる迷惑として遺憾なく発揮されるからである。
 馬鹿は精神病院に入院しないのでキチガイより対処が難しい。どんなに私が声を張り上げて正論を吐いても馬鹿に対しては馬耳東風である。馬鹿は想像力に乏しく恐ろしく無計画であり、他者への配慮が決定的に欠けていて、論理的に物事を考えることが出来ず、刹那的で自己中心であり、主体的にものを考えることが出来ず、具体的なことと抽象的なことを区別することができず、合理的思考と論理的思考能力が劣っており、他者に迷惑をかけることに対して驚くほど鈍感で、俊敏性がなく、発言の矛盾に気付かない。馬鹿は他人の迷惑を顧みずにしばしば予定を変更し、日付や曜日を大変な頻度で間違える。なぜそうなのかは永遠に私は理解しえないだろうし、理解したくもない。知的障害者の人たちの方がよほどまともに見える。少なくとも彼らは純朴だ。
 私は、こうした馬鹿の対極としての「まともさ」が、驚くほど知能に相関していることに気付いている。そう、まともな人間は知能が高いのである。私が普通だと思っていた人たちは、実はこの世界では稀有なる人たちなのだと知った。私は産まれた瞬間から知的な温室に育ちすぎた。しかし私は人間に対する絶望を抱きつつも、人間への愛を抱き続けてきた。だがそれは、人間がより知的になれると信じていたからなのだろう。だから私の眼前に救いようもない馬鹿が出現し、その迷惑を一身に浴びるような事態に及んでは、私はいささかも馬鹿に対する容赦を抱かない。そして私が下しえる唯一の方策は、馬鹿から逃げることである。
 私が考えるように人は考えないと私は知っているし、他人に自分と同じだけの能力を要求することは間違っていると思う。しかし、馬鹿は自分と同じだけの馬鹿さを他人に強要するのである。自分と同じくらい他人も馬鹿だと信じて決して疑わない。これは馬鹿の傑出した特徴である。自己を相対化できないことと他者への配慮がないこととは同じことである。地上で道に迷っている人たちがこっちの道が正しいとか間違っているとか激論を戦わせている時に、ヘリコプターで地上100メートルを飛行しながら見下ろしている人ならどう感じるだろう。正しい道は明らかであっても、地上にしか人はいないと信じている人たちに正しい道を教えても彼らは信じない。彼らはヘリコプターに人が乗って見下ろしていることを信じないのだから、何を言っても無駄である。そして、当然の如く道に迷って「困った困った」と言って騒ぐのである。それに対して私も同調して「困りましたね」と言うのだろうか。こんな馬鹿馬鹿しいことに私はあと何十年付きあわされるのだろう。こんな救いようもない馬鹿に付き合うくらいなら、私一人で正しい道を行ったほうがいい。つまり、馬鹿から逃げるということである。
 上のヘリコプターの喩えは知に対する喩えとして適当である。有能な人間はよく状況を見通す。決して観念的な計画は立てず、緻密で実現可能な計画を立てて計画を滞りなく遂行する。馬鹿は常に観念的で具体性のないことを言う。何が議論されるべきなのかを理解せずに議論し、どうしようもなく無駄な時間の浪費を他人にも強いる。馬鹿と迷惑は同義語とさえ思える。他人に迷惑をかけない者はどんなに頭が悪くとも馬鹿ではない。だが一度そうした者が人の上に立ってしまうと、果てしのない悲劇が繰り返される。馬鹿の押し売りが開始されるからである。
 ある意味今日は記念すべき日だ。私は多少なりとも人間に対して信仰を抱いてきた。どんな人間でもある程度のまともさを備えているという信仰である。しかし、今日という今日はその信仰が完璧に破壊された。馬鹿というものは全く救い様がなく、永遠に馬鹿であって、一片のまともさも有していないのだと私は確信してしまった。そしてそのまともさは人格というものとは関係がなく、純粋に知性なのだ。たとえいい人であっても馬鹿は馬鹿であって救い様がない。反論はあるだろうがはっきり言っておく。反論できる貴方は、たまたま馬鹿と出会っていないだけなのだと。私がこんなにも酷い目に遭っているのは、どう客観的に見ても、どう私に対して批判的に見ても、私に落ち度など全く存在しない。たとえば、愚鈍な司令官が私に無駄死にを要求するのならば、私はもう逃げるしかないだろう。心底付き合いきれないのだ。彼らと心中するならまだしも、彼らはとっとと逃げおおせて私だけが無駄死にする作戦に参加することなどできない。馬鹿がこの世界から消え去らないならば、私はまともな人たち、知性溢れる尊敬すべき人たちの下へ走るだけだ。人間が私を絶望させるのと同じように、一部の素晴らしい人たちは私に希望を与える。共に語るべき人は確かに存在している。

2008年1月4日  千年紀の綾〜千年後の人々へ
私は千年後、一万年後の子孫たちに手紙を書きたい。
我々は自分たちが科学的法則によって支配されていることを無視し続けてきたし、おそらく今後もそうであろう。ごく一部の人間は正しい見解に達するが、多くの人間は迷妄の中に囚われ、迷信を信じている。この世には無限の資源があると信じ、無限のエネルギーがあると思っている。人類は持続的に発展し続けられると信じている。しかし、もしも人間が地球以外の天体に移住することができない限り、我々にこれ以上の発展はありえない。人は発展し続けることを本能に刷り込まれた悲しい生き物だ。もしも人間が他の天体の環境に適応できない限り、我々は本能と現実の狭間で苦しむことになるだろう。
 持続的発展が不可能である理由は単純である。地球上の資源が限られているからである。核融合炉が実用化されるまでは、我々はエネルギー問題に対してほとんど抜本的解決策を持たない。なぜならば、地球が受ける太陽エネルギーに対して我々はあまりにも多くのエネルギーを使いすぎているし、人口も多すぎるからである。核融合によって莫大なエネルギーを得られるのならば、そのエネルギーの一部を使って重水素なりリチウムなりを取り出しても膨大なおつりがあるので、エネルギー問題はさし当たって解決されるだろう。もちろんそのエネルギー自体で地球を温暖化させるほどに人類が貪欲でないことを望むが。ただ現在においてはは核融合炉の実用化は技術的に極めて難しく、私が生きている間に実用化されることはないだろう。
 人間が増えるためには地球が狭すぎるということに、既に21世紀初頭の人間は気付いている。今後数百年間では我々は自らの発展の指標として考えてきた人口は減少に転ずる。生物が生息可能な個体密度は決まっているからであり、環境抵抗を打ち破ることはできない。我々は無限に地球人口を増やすことはできないのである。人口を扶養できるだけの食料生産力を超えて人口は増えない。よって、カタストロフィックな事態が起きない限り、長い時間をかけて地球人口は平衡状態に達する。こうした時代においては、我々の理性は本能と、今までにないほどに本格的な戦いをしなければならない。つまり、我々は我々自身の猛烈な欲望を制御する必要性に迫られるということだ。そのための様々な技術が進歩するだろうが、そのためには現実の世界を開墾しつくすことを禁じられた我々の闘争心をどこかで発散するしかない。その時に、我々は社会をうまく機能させるための戦争を繰り返すことになるだろう。閉塞した世界は平和な世界とは決してならない。我々が過去の良き時代に引き返すことはできないからであり、世界は数百年から数千年に渡って極めて単調な周期的歴史が繰り返されることになる。こうした世界を打破できるかどうかは、人間が自分自身を改造する勇気を持つかどうかに掛かっている。我々が自らの遺伝子を自ら組み替えていくことによって、我々が閉塞した世界にうまく適応するしかない。我々は長い期間外敵と戦ってきたが、遂に我々は我々自身と対決することになる。そのために我々自身の制約や限界を打破するために、遺伝情報から根本的に人間を刷新する努力をする人間が必ず出現する。もちろんそれは大きな論争となるのだが、最終的には我々は禁断の領域に踏み込む。
 しかし、人間が閉塞した世界の中でどのように進化すべきなのかは、激しい意見の対立が起こる。ある者は知能に重きを置くかもしれないが、それが間違いであることにすぐに人類は気付く。我々は自らが感じる幸福の意味を解しかねて、技術が何の解決にもならないことに大きな絶望感を覚えるだろう。我々は結局本能の呪縛から脱しないどころか、いっそう知性は退化していく。我々は不要な知性と闘わなければならなくなる。おそらくこの時点で1000年程が経過していることだろう。科学技術は幾つかの重大な問題については解決するが、それ以上に多くの複雑怪奇な原理的問題が生じる。政治形態は全くと言っていいほど進歩がなく、人類全体の知能は衰える。知能の低い人間がより多くの子孫を残すことによって人類は非常に緩やかではあるが愚鈍になっていく。爆発的に増加してしまった情報を誰も支えられないので政治的政策はますます迷走するようになって社会はその都度混乱する。しかしこうした社会的混乱は適度な刺戟となって、全く本質的でない問題の解決のために人間は無駄なエネルギーを果てしなく浪費する。エネルギーはほぼ全て無意味な活動に浪費され、人類は自分たちを鉄板の上で焼くような過剰な浪費にうんざりするようになる。しかしこのような状況になっても誰一人として科学的な思考をせず、人類は環境抵抗スレスレの人口を維持するために資源を奪い合って世界の貧富の差はますます大きくなる。
 これからの千年間、人類はあいも変わらず争い続けるのだ。





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