2007年の日記
克己平安

2007年12月25日地球温暖化という欺瞞
年齢を重ねると鈍感になる。人間の無知蒙昧ぶりにも最早私は幻滅しなくなった。物事を科学的に正しく考えることのできる人間や、論理的・合理的思考能力のある人間は少ないようだ。だから多くの人間が信じていることのほぼ全ては嘘である。地球温暖化問題も然り。あまりにも多くの嘘と人間の愚かさが、この問題においても凝縮している。
 地球温暖化の一体何が問題なのだろうか。地球が温暖化してはいけないという主張自体が馬鹿げているし、あまりにも地球科学の知識が欠如している。地球の気候は、それこそマグマオーシャンから全球凍結に至るような、途方も無い温度変化、環境変化を経験してきた。生物はそうした極限的なまでに過酷な気候変化を生き延びてきたのだ。人類が誕生した数百万年前から現在まででさえ大変な環境変化があった。ホモ・サピエンス・サピエンスが誕生してからの10万年間という短い期間だけでさえ、どれだけ地球の気温が上下したことだろう。最近1万2千年間だけでも気温は10℃近く変化しているのだ。こんなに気まぐれに変化する地球の気候をどうやって一定に人類は保つというのだろうか。気候は一定であるという無茶苦茶な前提が間違っていることになぜ気付かないのだろう。
 我々人類は我々の活動が地球の気候を変化させてしまうほどの影響力を持っていることに対して率直に驚いているようだが、残念ながら人間はそれほど強大ではない。人為的地球温暖化が砂漠化を促進すると信じている者がいるが、たとえばサハラ砂漠は人間が文明化する遥か以前から急速な砂漠化が進んでいた。アフリカの乾燥化が人類を誕生させたという学説があるくらいなのだから、むしろ我々は砂漠化に感謝したいくらいだ。温暖化が進むと海水面が上昇するのは本当だが、それは水が膨張するからであって、北極の氷が全部融けても海水面は1mmも上がらない。確かに水没してしまう国があることは気の毒ではあるが、それは地球に住んでいる以上不可避の事態なのである。埼玉県の内陸部には多くの貝塚があるが、このことは直感的に、かつてどれほど海水面が高かったのかを我々に教えてくれる。現在の東京湾から30キロ以上離れた内陸部に貝塚が存在することには純粋に驚かされるはずだ。しかもそれは遠い昔ではなく、僅か4000年前なのである!
 化石燃料の燃焼に伴って発生する二酸化炭素が地球温暖化の原因であると言われているが、この主張に科学者のコンセンサスが得られているわけではなく、疑わしい仮説のひとつに過ぎない。しかも、もしもこの仮説が正しいのならば、対策を取る必要が無いという結論になる。なぜならば、人類が全ての化石燃料を燃やし尽くすまで使い続けることは明白であるからであり、化石燃料を使い尽くした時には二酸化炭素問題は自動的に解決するからである。化石燃料の埋蔵量は無限ではないので、それ以上の量の二酸化炭素を大気中に放出することは不可能である。たとえ全ての化石燃料を燃やし尽くしても地球の気温を50℃にすることなど到底できない。二酸化炭素濃度の上昇が問題なのではなく、上昇率が問題であるという主張があるが、意味不明である。最終的には地球は熱的に準平衡状態に達するのだから、二酸化炭素の最終的な到達濃度が同じならば結果的に地球は同じ熱的状態になる。上昇率を論じている人々は、自分の生きている間だけ大丈夫ならば良いという無責任な主張をしていると言える。問題なのは最終的な二酸化炭素の到達濃度であって、放出率は関係が無い。コーヒーの中にミルクを少しずつ入れようが一度に入れようが結果は同じことである。だから二酸化炭素の放出を制限しても何の意味も無い。最終的に人類は全ての化石燃料を燃やし尽くすまで二酸化炭素を出し続けるのであり、この結論を変えられないのならば何をやっても同じことである。
 よって、最も議論すべき問題は地球が温暖化するという不可避の事態ではなく、化石燃料を使い尽くして二酸化炭素を放出できなくなってしまったときにどうすべきかである。地球の営みとして水没する国があるのは防ぎようがない。たとえ人類が一切化石燃料を使わなかったとしても海水面は気まぐれに上下する以上、低地の国はいつか必ず水没するし、北方の国は次の氷河期には氷に閉ざされる。これは地球の自然な変化であり、それを完全に制御するほどの技術を我々は持っていない。たとえば、地球が急速に寒冷化するという状況になったとしたら、きっと二酸化炭素をどんどん放出することを推奨するに違いない。地球寒冷化を防ぐために二酸化炭素放出量の下限値を国際的に取り決めて、「お前の国は全然二酸化炭素を出していないじゃないか!」などと言い合うわけだ。
 そもそも化石燃料はもともと大気中にあった二酸化炭素を固定したものだ。もともと大気中にあったものを大気に放出しているだけの話である。こんな些細な問題を世界中で大騒ぎして非科学的議論を繰り返しているのだから、実に稚拙である。だいたい気温が1℃や2℃上昇したところでどうということはない。カドミウムを放出されたら多くの人が死ぬが、二酸化炭素の濃度が0.1%になることで死ぬ人間が一人でもいるのだろうか。気温が1℃変わっただけで我々は死滅するのだろうか。全く馬鹿げた話だ。水没したら移住すればいいだけである。もちろん多くの問題は生じるが、解決可能な話ではないか。

2007年12月13日悟りは維持できない
佛教は基本的に出家宗教であり、出家宗教である最も大きな理由は在家のままで悟りを維持することが極めて困難だからである。在家の者が悟ることは可能であるが、それを維持することはできない。散々退転しまくってきた私の冷静なる結論である。ブッタの言うことは正しいのであるが、正しいということと現実的であることとは違う。維摩詰のような人間はあくまで空想上にしか存在しない。なぜかと言えば、年がら年中座禅していても問題の無い出家者はいつまでも悟りの境地に居続けることも可能であろうが、在俗の世界にいるものはそうはいかない。座禅できる時間は限られており、それ以外の時間は様々な思考を働かさなければならない。特に私のような科学者は論理的思考をすることが生業である以上、仕事中に三昧に入ることはまず絶対に不可能である。複雑な論理的思考、周囲の雑音、種々の社会的営み、そういったものは極めて容易に悟りを退転させる。とは言っても退転しない環境を作り出すことは出家しない限り不可能である。温室にいる僧侶は何とでもいえるだろうし、言っていることは正しいのだが。それは在家の者にとっては何の慰めにもならない。そこで私はこう問わなければならない。維持できない悟りを真理とか法とか呼ぶことは本当に適当なのだろうか、と。

2007年12月11日感じようとせずに感じる
認識によって認識の壁は破れない。人間は有限オートマトンだと誰もが気付いている。だから最高の認識を求めることは全くの徒労であって、そんなことに関心なく生きている人たちは実は賢明な人たちなのだ。パチンコで借金を作って自己破産している人の方が多分私よりも賢い。
 怒りは何も生まない。同じように思惟も何も生まない。全て自分の中で完結しているだけのものだ。完全な無に徹することができないのならば、思惟に価値は無い。思考した瞬間に藝術が滅びるように、思惟によって哲学は死ぬ。しかし感じようとせずに感じるものは最も真実に近い。これは確かである。

2007年12月5日混雑率
首都圏の鉄道混雑率のトップは混雑率216%で山手線・上野―御徒町間だったようだ。さもあらん。高崎線・東北線・常磐線の終着駅である上野駅では東京方面へ向かう乗客が怒涛の如く山の手・京浜東北両線に押し寄せるのだ。もしも田端〜品川間で両線が平行敷設されていなかったら、一体どれだけ大変な混雑になっていたのだろうかと想像すると身震いする。多分ホームにすら入れなくなるだろう。首都圏最高の混雑率を誇るこの路線を長年利用してきた私ならば、少しは電車の混雑について語る資格があろう。
 200%超という混雑率においては、人間が電車内において自発的に最密充填構造を取る。まさに熱力学だ。座っている乗客と立っている乗客の間にできる空間は優先的に押し潰され、座っている乗客にもたれかかるほどの姿勢になる。これはとても辛い姿勢だ。私はあらゆる検証の結果、立っている場合に最も快適な場所は、全方向からの圧力が均衡する場所、つまり、ドアから真っ直ぐ進んで車両の中央あたりであると結論した。この場所で常に人に寄りかかっていれば、自発的に立つ必要すらない。満員電車の中では自分から力を入れれば入れるほど辛い姿勢になる。どれだけ力を抜き、人の流れを読みつつもその流れに身を任せるかが大切なのだ。だから周囲の人間の圧力をおおまかに計算した上で、その圧力が均衡するような場所に自然と体を滑り込ませ、あとは人に寄りかかっていれば快適なのだ。
 ある意味、この満員電車の法則は人間社会全体に対しても言えることのように思う。最も快適な人生は、周囲の人間の圧力が均衡し、その圧力に身を任せている場合である。突出した人生を歩もうとするから辛いわけで、なるべく普通に、平均的な人生を歩むようにすれば人生は快適である。上の者は下の者に必ず足を引っ張られるのだから、その圧力に抗して上に上がるのは容易ではない。出る杭は打たれる。もちろん出すぎた杭は打たれないが、出過ぎるまでには必ず打たれる。電車という閉鎖系から逃れることができれば一方的な圧力から解放されるだろうが、人間社会という閉鎖系から逃れることは結構難しいものだ。快適な人生が良い人生だと思うかどうかは人それぞれだが、快適に生きたいのならば人間社会の中心付近にいてそこから自発的に離れようとしないことだろう。私はどうもそういう生き方をさせてもらえないように仕組まれているらしいが、私は快適な人生に強く憧れるのだ。私は基本的に人に寄りかかっているのが好きなのだ。

2007年12月3日人が自殺に至る2つの理由
人間が自殺に至る理由はどのようなものがあるだろうか。死の理由こそが生の理由を示してくれるものだと私は思う。だから自殺の真の理由を私は知りたい。そこで自殺の理由を考えてみる。
 おそらく、自殺の本質的理由は未来への希望の消滅と深い絶望である。たとえば健康問題で自殺する場合、自分の病気が快復する見込みがあるにもかかわらず自殺することはあまりないだろう。快復不能なる病は当然ながら未来への希望を失うことであり、暗澹たる未来に対する絶望が死を選択させる。借金や失業を苦に自殺する場合も、返しきれないほどの借金を背負った場合には希望はないだろう。
 さて、如何なる種類の自殺があるにせよ、希望の消滅と絶望が自殺の主たる原因であろうと私は思う。では希望が消滅したわけでもなく、絶望をしているわけでもなく自殺する場合があるのか、と言えばある。切腹や特攻隊のような、現代における自殺の類型とは明らかに異なった原因を持つ自殺が存在する。しかし、こうした強制的自殺は一種の殺人であるので、自殺者の意思とはあまり関係が無い場合が多いかもしれない。しかし、稀ではあるが、自らの意思で、自らの誇りや信条のために命を絶つ者がいる。即身仏や天皇崩御の際の殉死はその良い例であろう。こうした死を選ぶことができる人間は、滅私の極みに至らねばならないだろう。
 英雄的自殺は人間が絶望を駆動力としなくても自殺できることを示している。ではかれらにとっての生とは、一体どのようなものだったのであろうか。私が思うに、彼らの死は生の対義語ではなく、生の意味を全存在に対して証する作業だったのではないかと思うのだ。自分への極限的愛が自分を殺してしまうのだが、この自己愛は自分の生を生として真に肯ずるための、不可避の行為なのである。その時死は滅亡ではなく、生の絶頂に他ならない。生の絶頂とは、愛か美である。自己愛は常に愛か美を人間に要求している。それはまさしく渇望なのであるが、この渇望が死をも呼ぶ。
 それでは、なぜ生の絶頂も完全な絶望もひとつの「死」へと繋がっているのだろうか。それは死が人間にとって最大の関心事だからに他ならない。結論として私が生きるために必要なことは、絶望を忘れることと、生への愛を捨てることなのである。もしも私が私を愛しすぎるならば、私は私の生を肯んずるために死ななければならない。なぜならば、最終的には自分が死ぬことが示されない限り、私が生きていることは永遠に謎だからだ。私はリストカットをしてその痛みで生を感じたりはしないだろう。痛みは生々しい感覚そのものではあっても、決して私の生を証してはくれない。だから私が私を愛しすぎれば、私は最終的な死を見ない限り自分の愛を完結させることはできないのである。しかし一方で私が私への愛を完全に滅ぼすほどの深い絶望を忘れられないのならば、私は同じように死ぬだろう。
 私の命は微妙な均衡の上で保たれている。絶望が極まっても愛が極まっても私は死ぬ。しかし本当に恐れるべきなのは、もちろん、絶望の方である。私には希望と呼びえるものは何一つこの世に見出せないでいるのだから。

2007年11月27日冷淡なる視点
何が非価値と非意味という概念を創出させているのか。それらは虚無主義をうまくすり抜けるための対処療法のような稚拙な論理の上の概念ではないのか。慎重に検討すべきことだ。私の激情を停止した上で。
 意思は常に種々の抑えがたい衝動に支配されている。それは、人間が完全に統一されたひとつの論理によって支配されていないからである。もしも人間の意志が完全に統一されているのならば、意思の中には何の矛盾も生じない。矛盾がなければ矛盾を解決しようという衝動も起きることはない。だからそうした理想的人間は意欲的ではない。全てが達成されているからである。哲学の完成とは矛盾の超越である。矛盾が超越された時に精神は統一され、意思は統一される。解決すべきことがなければならない理由は無い。しかし人間の意志は常に矛盾を孕んでいる。際限なく矛盾を製造し、際限なくそれを解決し続けることを我々は生と呼んでいる。極めて貪欲で終わりの無い意思の連続が生である。しかしこのように連続的に矛盾を発生させるためには、自己の意思の中に少なくとも2つ以上の反駁する論理がなければならない。つまり、人間はその意志の中に複数の人格を飼っている必要がある。その人格の一人は間違いなく、際限の無い本能的衝動を意思に強いている。
 もしも何の罪悪感も抱かず、犯罪を犯罪と認識できない人間がいたとしたならば、その人にとって犯罪は何の意味も無く、それは生に繋がらない。しかしその人が自分の行動が、罪悪感は抱かないまでも他人にとっては犯罪であると認識できるならば、犯罪を行うことに意味があるだろう。なぜならば、やってはいけないことをやることによって意思の中の矛盾を一時的に解決できるからである。殺人が犯罪ではない社会では殺人は生に繋がらない。だからそこでは誰一人として殺人者ではない。矛盾なき殺人は犯罪ではないのだ。私がここで言いたいことは、人間だけが「生きる」ということである。生は人間だけのものである。なぜならば、生という言葉も概念も働きも、全て人間の意志と結合しているからである。そしてその生とは、終わりなき矛盾との闘争であり、調停である。
 人間は本質的に醜悪なものである。残酷で、血を好み、悪を愛し、自己中心的である。善意や道徳や良心や格率などといったものは存在せず、それらは全て恐怖を源としたものである。つまり、人間の意志は自己の貪欲と恐怖との戦いなのである。意思の本体はこの2者であって、決して善と悪ではない。この戦いは基本的には全く創造的ではなく、文化的ではなく、実に愚劣なものである。私は絶対に人間を過大評価しない。神聖なものや神秘的なものは全くこの世界には存在していない。それらは全て妄想的なものであるとして私は切り捨てる。善と呼ばれるものの全てを私は棄却する。だから人間に善悪は存在しない。人間が愚劣であると私が言うのは私の印象であって、人間が悪であるわけではない。
 おそらく私以上に冷淡な視線で人間を見ている者は過去にも現在にもいない。しかし私の主張は完全に正しい。私は私の心の中に、善のイデアが投影されていると思えるような理想的善意識が何一つ存在しないことを明らかに知った。そして私は、善意識と呼んでいた働きが全て恐怖を源として発生しているものであることを知った。そして、恐怖が分解できないものであり、それが意識の中の最も元素的な要素であることを知った。恐怖は生存に極めて近い領域に存在している最も始原的意識のひとつである。そして、善意識と呼びうるものだけでなく、様々な意識作用が恐怖を母体としているということも知った。恐怖は意思の母である。そしてもう一方の、意思の父と呼びうるものは貪欲なる欲望であり、様々な衝動である。どこまでも自己中心的で際限なき貪りの心。それが意思の父だ。しかし、意思の父の際限の無い貪りはしばしば自分を危険に曝すものである。目の前に餌があるが、それを食べに行けば肉食獣に食べられてしまう危険性がある、という状況に我々の遠い祖先は幾度となく出くわしたはずだ。この時、餌を食べたいという衝動と、天敵に食べられたくないという恐怖が常に拮抗していた。恐怖は6億年より前には存在しなかったと思う。しかし生物の進化と生存競争の激化によって、生物は恐怖を獲得した。死なないために。我々が善と呼んでいる意識は、単純に我々が生き残るために獲得した恐怖という機能が変形したものに過ぎない。だから恐怖のない人間には善意識は絶対に存在しない。たとえばサイコパスは恐怖の欠落が原因だと思う。彼らの厚顔無恥で許しがたいほどに反社会的な言動は、私の主張を本当に良く代弁してくれている。彼らは意思の母の支配力が全く及ばない世界に生きている、真に幸福な人間たちである。彼ら以上に人生を楽しんでいる者はいない。そして私は思う。彼らはまさに人間の本質的愚劣さを表現してくれている、これ以上ない標本だと。意思の母たる恐怖の欠落が人間性の欠落に直結しているのだ。では逆に意思の父が欠落したらどうなるだろう。残念ながらそういう人間は存在しえない。そういう人間がいたとしてもすぐに死んでしまう。
 私は人間から神秘的なる善意識を完全に剥ぎ取ることで人間を裸にする。私は人間の中に暖かい心があるとは思っていない。そんな感傷的表現を私は好まない。人間の心は完全に機械的であって、論理的な機構の上に形成されていると考えている。人間の心の基本構造は単純である。このようにして生、人間、心から一切の感傷的な神秘性を剥ぎ取ってしまうと、どうしても虚無的な思想に陥る危険性が発生してしまう。自分自身を徹底して物体的に捉えているのであるから、自分の人生や生に対する冷淡極まりない思想は、私から「人間らしい」と巷で表現されているような感情表現にも支障をきたしかねない。だから私は私の中の善と呼ばれる意識を楽しむという態度を取るしかないだろう。そこに善はないが、その働きを楽しめば良い。
 人間、そして私から神秘性は消え去った。だから感傷的に人々が言うところの「人生の意味」なんてものも議論する必要が全く無い。だから私はそんなものは非意味だと言っているのだ。しかしこれが本当に虚無主義ではないのかと問い詰められると、今の私には自信が無い。自分でもよくわかっていないのだ。もっと人生に対して肯定的であるべきだと感傷的には思うのだが。

2007年11月26日非意味
全ては人間の脳が作り出す妄想に過ぎない。存在も意味も全て妄想だ。妄想が世界だ。私はどのような質問にも答えられない。全て妄想なのであるから。妄想が苦しみの源である。人間はあらゆることを都合よく考える。「きっと」「たぶん」「ぜったい」という言葉のなんと妄想的であることか。生きている、と感じるのも妄想である。人生に意味があると思うのも妄想である。意味が無いのではなく、意味に非ず。人生も生存も存在も非意味である。
 無意味と非意味は違う。無意味はニヒリズムに達する。非意味は放棄である。全てを放棄する姿勢である。私には前世も来世もないし、喜びも悲しみも全て妄想に過ぎない。妄想が尽きない世界が現世であって、妄想を働かせている状態を「生きる」と言う。生は全て妄想であって、死は妄想が停止する時である。だから死は好ましい。
 人が生きる理由は存在しない。妄想が尽き果てる死がいずれ必ず来るのだから、それまで妄想に付き合って我慢をする時間が人生である。だからそんなものには何の価値も意味も見出すことはできない。人生は妄想である。妄想が、ある時は価値や意味を勝手に作り出している。感情も妄想である。思索も妄想である。今私の脳の中は妄想しかない。生きている全ての時間は妄想に費やされる。妄想が離れることは決して無い。妄想が尽きない理由は存在しない。神はいない。存在しているものは何も無い。非意味に私は産まれ、非意味に死ぬ。その中間部を埋めるのはただの妄想。私が悲しもうと怒ろうと非価値。死は好ましいが非価値。
 人間は都合のいい生き物で、都合のいいものを妄想によって作り出す。神、霊、前世、その他のあらゆる迷信めいたもの、そして意味、価値・・・。人間は全く妄想的である。文化は妄想である。お金に価値があると思うのは妄想。物に価値があると思うのは妄想。喜びに価値があると思うのは妄想。美しいと思うのは妄想。全て妄想で振り返るべきものなどこの世には一つも無い。神に出会った、霊を見た、というのも妄想。見ることは妄想、聞くことは妄想。嗅ぐ事も味わうことも妄想。感覚の全ては妄想。感情の全ては妄想。妄想の人生は棄て去るべきものであって、唾棄すべき価値も無い非価値にして非意味なる徹底的に無機的なものである。命に価値など無い。命に意味など無い。そういうものに価値や意味を見出すことは妄想である。

2007年11月22日哲学の寿命、絶望の停止
何も考えていない状態において本当に哲学は死んでいるのだろうか。それが問題だ。もしも本当にそれが死んでいると見做せるならば、私は哲学は自分にだけ附帯していると主張しておきながら、実は私の哲学は見世物に過ぎないことになってしまう。誰のための「言葉」なのだろう。単に私の絶望戦記なのか。たとえ私の中の戦いが言語を絶していて、その戦いの一割も言葉として記録することができなかったとしても、ここにある言葉は悲しいほどに言葉でしかない。行間に残りの9割を封じることはできない。それに第一、自身でさえ過去の自分に共感するのが難しいのだ。正直言って自分の文章を読んで、こんなことを考える奴がいたのか、などと人事のように思うこともある。私の思考は火花のように一瞬だ。爆発的に思索が弾け、その一瞬を書き留めなければ過ぎ去ってしまう一過性の永遠。衝動的な思索はその場でのみ生きていて、あっという間に時間の中に埋もれてしまう。敢えて言うならば、哲学は藝術のように一瞬の天才に他ならない。その啓示の中には無限へと続く論理が封じられている。言葉が無限の彼方へ続いていくような、全くの永遠の世界だ。絶望の中でパッと光る一瞬の論理の光。そしていつの間にか言葉は失われ、かすかなその残光が残るのみ。その一瞬一瞬にしか、私が哲学と呼びうる智の輝きはない。
 絶望はなぜ在るのか。絶望こそが論理の本質だからだ。超えられない絶望が確かに在る。思考あるかぎり、思惟あるかぎり、絶望は消え去らない。人間の知性が本能的に貪欲だからである。全てを理解しようと試みる知性という名の本能は、知性自体の論理性により最初から矛盾と限界が内在している。その矛盾と限界の内在性を知性自身が理解してしまうために、自己という閉鎖系の中に認識が閉鎖されてしまっているという絶対的現実に対して出す唯一の帰着点が「絶望」である。この絶望の構造は脳の物理的機能性に依存しているのだろうから、脳の特有の論理処理構造が持っている構造的欠陥を自己認識してしまえば悲劇を回避することはできない。そもそもなぜ私はこの欠陥を自己認識するのだろうか。絶望が構造的欠陥によるものである以上それを構造的に回避することはできないにもかかわらず、それをあくまでも構造的に解決しようとするのも知性の働きである。だから、絶望を自己認識せしめる構造を明らかにすることができるのならば、その認識だけを構造的に回避できるかもしれない、と考えることはできる。
 どんなに論理的思考を停止させても、混沌のように見える無意識的心理の活動もまた構造的であり、完全に論理なき認識は存在しえない。精神分裂病患者の意味不明な行動にしても、そこには構造がある。妄想にしても幻覚にしても構造がある。だからどんなに言語を絶した言いようの無い思索であっても構造がある。なければならない。人間の心は思考していようともいなくても常に構造の上に乗っている。寝ていても夢を見るくらいなのだから、脳の機能を生きながら完全に停止させることは絶対にできない。ある主要な心の働きの一部、例えば言語的活動を意図的に停止させることは可能であり、私もできるが、それが停止していることを認識する働きは停止していない。意図的に延髄の働きを停止させたら即死するだろうし、そもそもそんなことは誰にもできない。ではどこまでなら止められるのだろう。絶望とは論理の構造性に対する絶望であるのだから、構造性を客観的に認識させる働きを停止させることができれば絶望は停止するはずだ。その場合、私は絶望を認識させる働きを停止させているだけだが、実在論的には絶望が存在しないことになる。

2007年11月20日我は自殺企図せしも一切自傷せず
不謹慎な話だが、私は職業柄、薬さじ一杯で即死できる薬物も簡単に手に入るし、母方の親類は医者が多いのでどんな薬も箱単位で貰える。睡眠薬欲しいと言えばハルシオン1箱とかがやってくる。別に悪用することはないし、ほとんど薬なんか飲まないが、薬に対する感覚は一般の人とは違うかもしれない。
 そうは言っても常に手元に毒物を保有しているわけもなく、いついかなる時でも「死ねる」という安心感があるわけではない。いっそ首吊り用の縄を部屋に常に掛けておこうかとも思うが、美的に美しくないのでやらない。高校生の時には机の引き出しにカフェインの粉末を入れておくことで精神安定剤としていた。見ているだけで何故かほっとするのだ。青酸カリとか見るとうっとりする。だが飲んだらきっと苦しいだろう。昔、塩素ガスを吸い込んだことがあったが、あの時の苦しさは忘れようがない。本当に死ぬかと思うほど、というか量が多ければ死ぬんだが、経験したことがないほどの激しい咳が出、あまりの肺の苦しさに悶絶した。私が初めて死線を見た瞬間だったのかもしれない。服毒自殺というのは余程前もって調査しないととんでもない苦痛を体験することになる。少なくとも塩素で自殺なんて私には無理だ。あんな苦しい思いをするくらいなら生きていたほうがマシである。青酸は強力な毒物だが、毒の機構を考えれば、間違いなく苦しいだろう。おそらく最も楽に死ねる毒物は一酸化炭素だと思われる。ボンベから直接吸い込めば即死に近いに違いない。苦痛は苦痛の度合いと持続時間の積として定性的に評価できるだろうから、一酸化炭素は直ぐに昏睡状態になってしまう上1分以内で確実にあの世行きだから、苦痛はほぼ0だろう。脳に直接ダメージを与えるので苦痛を感じる間もなく死ねるのが良い。二酸化炭素も空気中の濃度が25パーセントを超えるとかなりあっさり死ぬ。時々火山性の二酸化炭素が原因で大量の人間が死ぬように、二酸化炭素はかなり強力な毒ガスだ。ボンベから直接吸い込めば簡単確実に昇天できるだろう。
 私が気になる毒物ナンバー1は重水だ。見た目はただの水だし、味がするのかもわからない。今度舐めてみようかしら。おそらく重水で自殺した者はまだいないに違いない。重水を飲んだらどうなるのだろうか。毒性の機構がさっぱりわからないが、死ぬことだけは間違いない。魚は重水中では死に絶え、植物も育たない。苦しいのだろうか。何か代謝系で重大な支障が生じるのだろうが、それが即死に近いのかどうかは分からない。誰か動物実験してくれないだろうか。苦しくないのならば私が重水自殺者第一号になってやらないこともない。最近はポロニウムなんてエゲつないもので毒殺したりと、暗殺者も優雅さがない。私なら間違いなく「水を一杯どうぞ」とか言って重水を飲ませるだろう。なんてエレガントな毒殺だろうか。水で殺すなんて、ああ美しい。司法解剖しても毒物なんて一切検出されず、死因は不明。もしも重水死が苦しくないなら最高なんだがなあ。最も美しい自殺と言っていいだろう。水一杯飲んでベッドに横になり、眠るとそのままサヨウナラ。まさに理想の死。
 点滴するのが嫌でないのならば塩化カリウム投与が最高の自殺方法だろう。5グラムくらい投与すればあっさり心停止してそのままグッバイ。安楽死そのものなのでオススメの方法と言える。ただ私は注射が死ぬほど嫌いなので、無理。自分で自分を刺すなんて信じられない。三島由紀夫なんてありえない。僅かな苦痛でも感じたら負けだと思っているので、完璧な無痛死でなければ駄目だ。やっぱりこだわりを持たなくちゃね。
 あと、自殺するシチュエーションも拘りたい。できれば幸福の絶頂の中、多くの知人前で安楽死なんて最高だ。ま、そんな幸福の絶頂なんて私が味わうはずもないし、きっとそんな状況が万が一発生したら死にたくなくなってしまうのだろう。ありえない事態なので考える必要もないか。そんなわけで理想的には、ちゃんと死に装束を身につけ、棺桶の中に入った状態で死ぬのがいいだろう。死体に死に装束着せて、棺桶に入れるのってけっこう大変だし、遺体によっては変な体勢のまま死後硬直しちゃったりするので、最初から棺桶の中で腕を組んだ状態で死ねば完璧なわけである。顔も変な顔にならないようにしたいので、口が勝手に開かないようにテープなどで軽く固定したほうがいいだろう。死体が発見されたときには既に死に装束を纏い、棺桶に入った状態になっていたら、さぞかし周囲は驚くだろうと思うとワクワクする。自殺もファッショナブルにこなすのが現代人だ。あらかじめ葬儀屋で葬儀を手配しておいて、親類縁者に手紙で案内を送ってから自殺ってのもクールだ。何しろ故人本人から通夜と告別式の案内が来てしまうという無茶な展開にはみんな爆笑だろう。もちろん戒名は予め貰っておいて、位牌と遺影も自分で作っておけば死後に気に入らない戒名つけられたり、気に入らない写真を遺影にされる心配もない。ついでに料亭にお清めの予約もしておいたりして、そんでもって出す料理も決まっているという用意周到ぶりに皆唖然とするって寸法。

2007年11月19日ハイヌウェレ型神話とイエス
ハイヌウェレ型神話とはイェンゼンが分類した神話の一形態で、日本神話ではオオゲツヒメやウケモチの神話がそれに相当する。オオゲツヒメは鼻、口、尻から数多くの食物を取り出すことができ、それをスサノオに振舞ったが、その様子を見たスサノオが怒ってオオゲツヒメを殺すと、オオゲツヒメの頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれた。インドネシア・セラム島のヴェマーレ族のハイヌウェレ神話では、血のついた椰子の花から誕生したハイヌウェレという少女は大便から種々の宝物を排出することができたが、それを気味悪がった村人が彼女を殺すと彼女の死体からは様々な種類の芋が発生した。マリンド・アニム族のマヨ祭りでは生贄の少女を村人全員で犯した後に殺し、その肉を食べ、骨を椰子の木の根元に埋め、血を幹に塗る。これは神話の内容を忠実になぞった儀礼と言える
 これらの神話の最も基本的構造を要約すれば、無限に食べ物を生み出す能力を有した女神が殺されることによって、穀類などの人間の食物が産み出される、という筋である。この神話の核心は、おそらく供犠としての娘の死が人間の命の維持と結合しているということであろう。ある特別な死が他者の命へと再生するのである。この神話がイエス・キリストの生涯と著しいまでに類似していることに私は気付かざるをえない。ただ一つ、イエスが男であることを除けば、彼の生涯はほとんどマヨの儀式と同じ構造を持っているのである。
 マヨの娘は生贄として選ばれ、陵辱され、殺され、食される。一方イエスは神の子として選ばれ、鞭打たれ、十字架に磔にされて殺される。さらにイエスの肉と血は、最後の晩餐において肉としてのパンと血としてのワインとして弟子たちに食される。オオゲツヒメは無限に食べ物を産み出す能力を持っていたが、イエスも同じように無限の食物を生み出すことができた。水をワインに変え、5千人にパンと魚を与えるなど、明らかにオオゲツヒメと類似した奇跡を起こしている。それだけではなく、「人はパンのみで生きるものではない」「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」などの発言を通して、より霊的な「食べ物」を与える存在であると自認している。イエスはハイヌウェレ型神話をそのまま自分の人生においてなぞっているようにしか見えない。彼は自分が選ばれた神の生贄であることを強く自覚していた。しかし、彼が死ななければならない理由を知る者は、(おそらくイスカリオテのユダを除いて)誰一人としていなかった。彼は最後の晩餐で自分の肉としてのパンと血としてのワインを弟子たちに与える。そして、その後自分に降りかかる苦難を避けようとした形跡がほとんどまったくない。彼は明らかに自らの意思として生贄になっている。そして、彼の死が人々に永遠の命を与えることになる。
 しかし極めて奇妙なことは、ハイヌウェレ型神話をイエスが知っていたとは思えない点である。少なくとも彼の周囲の誰一人としてイエスの行動の真意を理解していなかった点からも、当時のユダヤ社会においてこうした神話が存在していた可能性は極めて低い。しかし偶然の一致とはとても思えないほどに彼の生涯とハイヌウェレ型神話との構造的類似性は著しい。これはどう解釈すべきなのだろうか。
 イエスの教えと行為はユダヤ教から見れば完全に異教的である。間違いなく彼はユダヤ人であるし、ユダヤ教の内側からキリスト教が発生したことも間違いないが、イエスが全く異教的であることは否定しようがなく、だからこそキリスト教がユダヤ教から分裂することにもなった。しかしここで指摘しておかなければならないことは、彼の死後に、彼が何者であったかという点の解釈において著しい混乱が生じており、無数の宗派が生まれた点である。特にグノーシス主義は隆盛を極め、その教義はカソリックの正統的教義から見れば完全に別の宗教と言えるほどに異なっている。このような大規模な混乱が生じた理由は、イエスを理解することが、イエスに直接出あった当時の人々にとってさえ困難だったからに他ならない。彼の語った言葉はかなり正確な伝承として伝わっていたであろうが、彼が何者であったか、なぜあのような行動をしたのかに至ってはまるで理解できなかったからである。事実、イエスの生前には十二使徒でさえ理解していなかった。なぜならば、彼が全く異教的だったからである。それは、神が受肉し、神が死ぬ、というユダヤ教では絶対にありえない事態を解釈する方法がない上、神が死ななければならない本質的理由に至っては完璧に理解不能だからである。だから無数の解釈が生まれ、無数の宗派が生まれた。これはひとえに、イエスを真に理解するために必要な基本的神話構造がユダヤ人を含めた古代オリエント世界にはそもそも存在しなかったからではないだろうか。だから存在しえない神話体系上に「どういうわけか」乗っかっているイエスという完璧な異教人を自分たちの宗教的構文の中で理解することはそもそも無茶だったのではないだろうか。そしてイエスが本当にハイヌウェレ型神話をなぞっているとしたのならば、彼が肉体的に復活する必要は全くない。現にグノーシス主義では肉体の復活を認めておらず、正統的教義で最も強調されるべきイエスの復活はグノーシス文書ではほとんど無視されているに近い。このような教義の極端な食い違いが生じる理由も、イエスが異教的であるために解釈に窮した弟子たちがヘブライ的構文の中で無理やり教義を組み立てたために生じた混乱が原因と言えなくもない。
 最大の謎は、なぜイエスが、ユダヤ人にとって全く未知である、東南アジア、オセアニア、日本などに分布する神話体系に乗っかっているようにしか見えないのかである。これは全くの偶然や思い過ごしなのだろうか。それとも本当にハイヌウェレ型神話と関係があるのだろうか。イエスとオシリス神話との関係についてはよく論議されているが、ハイヌウェレ型神話と比較した場合、イエスの生涯は全くオシリスと似ていない。いまここで議論すべきなのはイエスの生前の言動であるから、復活という点だけを取り出してイエス自身がオシリス神話を意識していた可能性はほとんど無視でき、現に彼の生涯とオシリス神話との類似点はほぼ皆無である。
 イエスの行動は突飛であり、彼以前に彼に似た預言者は一人もいない。イエスの特異性が一体どこからやってきているのかは今のところ誰にも分からない。30歳のイエスは突如として登場し、あっという間に歴史上から消え去ってしまう。彼の人生のうち、分かっているのは僅か2年あまりの間で、バプテスマのヨハネから洗礼を受ける以前に彼がどこで何をしていたのかは皆目わからない。彼の異質性の秘密が不明なる30年間にあることは間違いないが、それは推測の域を出ない。しかし彼が極めて遠距離を旅行したと考えることには抵抗がある。なぜならば、公生涯における彼の行動範囲は驚くほど狭いからである。彼の生涯とハイヌウェレ型神話が酷似していることは間違いないが、その理由に至っては全くの謎である。

2007年11月16日演算とエネルギー〜超操作主義の誕生
宇宙の演算にエネルギーが消費されるならばエネルギー保存則が成り立たなくなるのだろうか。ある物質が持っている全エネルギーはその物質が何の相互作用もしなければ不変である。相互作用がないので外界に対する演算は発生せず、閉鎖系の中の内部エネルギーだけで完結している。演算が物理「過程」でなければ実在論的に演算は存在せず、宇宙から数学的法則は消えてしまうのだから、演算においてエネルギーが消費されなければならないことはほとんど自明である。だがこのエネルギーはどうやって供給されているのだろう。何しろこの演算エネルギーは原理的に観測されなければならないのだから、我々が観測可能なエネルギーと変換されなければならない。仕方がないので、真空のエネルギーを利用することにする。真空のエネルギーが演算エネルギーとして消費されていると仮定しよう。演算を演算子という粒子が担っているのか演算空間と呼びうる連続空間が担っているかとよく分からないが、時空間が演算を機能させるために必要な座標であることと考えれば演算はおそらく空間的であろう。よって真空のエネルギーは真空という時空間のエネルギーであることから、それは演算空間エネルギーとほとんど、もしくは全く同一ということになる。だから演算エネルギーは観測が可能であるということになってくれる。真空のエネルギーたる演算エネルギーは常に「消費」されるので、何らかの演算が発生すれば真空の場の密度に歪みが生じるのだろうか。
 こうした訳の分からないことを仮定せざるをえない理由を自分の中でもう一度整理しておく。もしもある物理現象が起きたときに、その現象と演算的過程を分離することができないと考えた場合、演算は何らかの現象中にしか発生しないことになる。今、ある光子が観測器や目に到達してそこで観測されたとする。この時にはその光子は光源と観測器の中間では何の相互作用もないので演算も発生していないことになるから、その光子を空間中を直進させることはできないことになってしまう。光が直進するのは光が直進するという純粋に数学的原理に基づいているのだから。もしも演算と現象が等価ならば観測されない光の行路はほとんどの場合直進しないことになるだろう。よってこの仮説から導かれるたった一つの推論は、「観測された光だけが直進する」というありそうにない話だ。もちろん観測した光の航路を観測する手段はないが、十分に制御された実験系から我々は光の直進性を結論しているわけであり、観測されない光の行路が無限大のばらつきの中にあると信じることはできないだろう。完全な結論ではないせよ、我々は十分に合理的理由から真空中での光の直進性を信じている。さらに、光の速度が一定であることも同様に演算が現象と別個に実在している証拠である。観測されている光子だけが同じ速度を持つとは考えにくいし、光の速度が増減を繰り返しながらも「たまたま」観測される光子の速度が一定になるとは考え難い。観測されていない中間航路においても速度は一定としか思えない。
 光子は光源から発して観測されるまで絶対に相互作用していない。これは疑いようがないことである。光は純粋に時空間とだけ戯れているが時空間と相互作用せず、エネルギーの交換はない。にもかかわらず光子は直進し、速度を一定に保つことができる。この純粋な数学的性質は時空間に演算が実在することを示していると私は考える。空間が幾何的性質を持っていることは空間が演算的であるからであり、演算的性質が実在的に空間に満たされているからである。幾何演算が可能である理由は空間が演算空間だからであり、演算的でない空間は存在しない。では光子は演算空間と相互作用しているのだろうか。それはそう解釈すべきではなく、演算の結果が光子なのである。だから光子は演算そのものよりもずっと実在的ではない。もしも空間が光子のエネルギーをそのまま飲み込んでしまうアルゴリズムを内包しているのならば、光子はスッパリと真空のエネルギーの中に飲み込まれてしまうだろう。もちろんそうならないのは演算空間の性質故である。よって、宇宙の法則とは物質の法則ではなくて時空間の性質に他ならない。私は時空間自体が実在的にある基本的な演算を有しているのだと思う。その演算は観測可能なこの時空間であるからこそ機能でき、ある0でない有限の時間の中で行われている。だから演算は時空間の内側で過程的に行われ、エネルギーが消費される。
 ある大きさの空間を考える。この空間が測定可能な容量を有しているのは空間が演算空間だからである。だから我々が測定を行う以前に空間は測定されている。こうした哲学的立場を今私は超操作主義を名付けよう。宇宙は我々が測定するから実在化するのではなく、既に測られているから我々が測定できるのである。測るとは演算を意味している。宇宙の本質は時空間であり、時空間はそれ自体として自らを既に測っており、測り続けている。しかも、我々が測定を行うまさに「直前に」測定が完了されているかのように宇宙は振舞っている。なぜならば、この演算は我々が生きているこの時空間で今直接行われているもので、決して過去に行われたものではないからである。だから宇宙の運命は宇宙それ自体も知らない。

2007年11月15日万物のアルケーは演算である
科学はもっと強大な勝利を収めなければならないのだ。あらゆる迷信と妄想を打ち砕くために。そうしなければどんなに崇高な精神にも罅が入る余地を残してしまうのだ。人間の幸福のために、私の幸福ために、科学が完全なる勝利を収め、迷妄を完膚なきまでに砕かなければ駄目だ。私は強くそう思うようになった。不完全な科学を完全なものとし、陥落させられぬ完璧な一つの「理念」に論理をアウフヘーベンしたい。論理が持っている根源的欠陥が一つの理念の中で汲み取られ、迷妄を砕く哲学へと揚棄させよう。
 私を混乱させてきたのは過去の人間の言葉だ。言葉が私を騙し、私を苦しめ続けてきたのだ。どうして私が他者の言葉に耳を傾ける必要があるだろうか。私は私であり、私の哲学は私だけのものであり、何よりも私よりも劣った者たちの言葉に真実などあるはずがない。だから観念的な言葉ではなく、科学に私は親密であるべきだったのだ。懐疑主義者の私にとって、科学は疑いようのない事実を提示してくれた。実験事実が私を裏切ったことはない。人間は実に屡私を裏切るが、実験は裏切らない。精妙な宇宙の法則だけが支配する世界には、決して意思など介在しないのだ。私がどんなに念じても地球の軌道が変わらないように。実験は粛々と事実だけを告げてくれる。そしてはっきり言えることは、物質に還元されぬものなど存在しないということだ。数学は物質が存在するから存在しえる。数だけが存在する世界はない。
 もしかしたら生存というものは、この無機的世界の法則性と宇宙演算問題の「鍵」と繋がっている蓋然性はないのだろうか。私が演算しているように、その演算という活動は宇宙に遍満し、演算されざるものは実在性がない。そして言うまでもなくこの演算は物質的だ。私の脳が物質的に演算を行っているように、宇宙の全てが私に実在性を抱かさせる原因としての演算を物質的に行っていなければならない。そして、この演算こそが、全ての存在の起点を与え、私の基部で働いている根源演算としての生存を私に実在化させているのではないだろうか。おそらくこの見解は正しい。万物のアルケーは数ではなく、演算である。そして、この演算の実在的現象が物体なのである。認識があるのではなく、演算があると考えるべきで、認識という複雑な機構を単元的演算ひとつひとつ還元すれば、認識はこの単元的演算の集積に過ぎない。認識を生じさせるひとつひとつの演算が真の実在である。こう考えれば認識と物体のどちらが先んじるかを議論する必要もない。

2007年11月12日枯れ果てぬ情熱
一瞬の慰めのために人は生きる。人間の不完全さ、自己の不完全さを忘れる唯一の方法を求め、そして一瞬の忘却に永遠の救済を夢見る。忘却の扉の向こうに完全な忘却があると信じて。しかし人間の不完全さに対して知ある者は立ち向かい、敗れ去ってきた。私がグノーシス主義的思想に傾倒したのも無理もない話だ。もちろん福島老師の「宗教は現実を肯定するものである」という力強い言葉が真理であることを私は知っているし、私自身そうあるように努力してきた。この私には必ず完全性が附帯していると信じて。人間世界の愚劣さは否定しようもないが、私の「一瞬の」悟りも否定しようがない。その一瞬の中に私はまだ永遠を見出すことはできないが。
 この世界は私のためだけに創造された仮構の存在であると私は思う。この宇宙は私のためだけに存在している。全ての人にとって同じように宇宙は特別に設えられている。逃れようがない。人生から逃げることは誰にもできなないし、他者が代替できない。これは覆しようがない絶対的法則である。
この世には以下の絶対的な法則がある。
@私はひとりである。
A私は他人になれない。
B他人は私になれない。
これが根源的な3つの法則である。あらゆる論理はこの3つの法則から発生する。論理が発生し、認識が発生することで世界が発生する。自己の対照としての世界は論理の枠組みの中で相対化される。広大な宇宙の中の一点に過ぎない一人の人間が宇宙全体を自己と相対化する傲慢な機構こそ、まさに認識の神秘であるとともに人生を苦にする悪の源である。しかし、よくよく考えてみればここで示した法則にしても私の論理の枠組みの中の洞察から導かれた「始原的に見えるところの」法則に過ぎず、私がすっぱりと論理を放棄してしまえばあらゆる法則は私を素通りしてしまうのだ。しかし私が論理を放棄できる時間は短く、私が大脳皮質を活動させた瞬間に自我の壁は再び出現して世界は相対化されてしまう。そこで、私は大脳を活発に活動させつつも、自分を私の始原的論理法則から切り離そうとすることになる。つまり、言葉に矛盾があるが、思考しつつも自我がない状態を探求しているということになる。私はそうしなければならない。いや、私が、という言葉にも矛盾がある。仮構的自我が思考しつつもその論理から私の魂を開放しようということだ。何と無茶な。私が求めているのは、我思わざるが故に我なし、どころではなく、我思いつつも我なし、という境地に他ならない。まるで思考を私の魂が客観的に使役するが如く、最高の知性を私の魂と共存させるということだ。それが自分自身で納得できる完全な認識である。心が活動していることを知りつつも論理の罠に絡げ取られることのない、永遠の寂静と完璧なる智。どんな欲望に塗れていたとしても、その欲望と貪りの真っ只中で少しも揺らぐことのない智慧が私は欲しい。私が求めてやまない究極にして完璧なる智慧への思慕が私を慰めている。人間が不完全であればあるほど、愚かであればあるほど、私は狂おしいほどに完全なる智慧を求める。何度も挫折し、幾度となく命を絶とうとしてきたが、私の中には完全無欠の智慧への熱い情熱が燻り続けている。どんな絶望も完全にそれを消すことはできなかった。きっとこれからもそうだろう。

2007年11月9日確率という最後の希望
確率とは何か、なんてことを考え始めたのがまずかったのだろう。確率への想いが私の精神を壊した。確率が実在するかどうか、自由意志が存在するかどうか、これらの問題が一塊となって私を襲う。自由意志が存在しないと私はずっと考えてきた。しかし私の意思は自由ではないにせよ、希望を抱くだけの余地を残していたはずだ。宇宙に確率が実在しさえすれば、私の未来は不確定性を持っているのだから私の未来は私の確率的行為によって揺らぐだろう。しかし考えれば考えるほど確率の実在性を私は疑わざるをえなくなる。宇宙は全て本当に確定的なのだろうか。しかしその場合であっても単純なカルヴィニズムなど、私は納得しない。お金を貯めれば「確信」できるだと? 金持ちは天国に入り難いとイエスが言っているのに? 金がますます私を疑心暗鬼にするだけだ。
 確率的ということと擬似確率的であることとを私は区別したい。擬似確率的というのは、たとえば黒い箱の中にAさんがコインを表向きにして入れたあと、Bさんがその箱の中のコインの裏表を当てられる確率である。真に確率的であることとは、何者も永遠に予知不能なる現象でなければ私は認めない。今のところ最も真に確率的であると思われる現象は、放射性核種の壊変や、光の吸収などである。ある放射性核種を一個取り出してきて、それがいつ壊変するのかを正確に予知することは誰にもできないが、半減期の時間が経過した時にそれが壊変している確率は1/2である。しかも、その核種が壊変する前ならばどの時点から時間を計測したとしても半減期の時間においての壊変確率は1/2なのである。その核種が壊変するかどうかを支配している何かを「確率」と呼ばずに何と呼ぼうか。全く純粋に確率が機能し、確率が実在であると信じたくなる。光が何かに当たって光が吸収されるかどうかも全く確率的であるとしか思えない。それは吸収断面積という確率にのみ支配されているようにしか見えない。ただ、私の目から見れば少々確率の実在性を疑いたくなる現象ではあるのだが。まあ、放射性核種の壊変は極めて堅牢なる確率の証明なのだろう。今のところは。
 だが困ったことに真の確率は実証しようがない。人間にとって未知である事象と、真に確率的である事象とは区別できないというのが私の結論であった。量子力学はそもそも論理的に確率を排除できない以上永遠に数式をいじり続けたとしても宇宙の本質から確率を排除できない。日本語で考え続けたとしてもその論理は永遠に別の言語にはならないし、数学的思考によって数学ではない論理体系に移行することはない。だから私の疑問、確率は真に実在しえるのか、に対して量子力学は永遠に答えてくれない。
 私が確率の実在性に固執せざるをえない理由は、人間の人生が確定的なのかどうかを知りたいからだ。たとえ私に自由意志と呼べるものがないとしても、確率が実在しさえすれば人生は私の行為によって変化する可能性を持つことになる。しかし真の確率が存在せず、全て擬似確率に過ぎないのならば人生は天によって予め定められていることになる。誰もそれを否定できない。複雑な感情も、経済活動も、歴史も、何もかもが一義的に決定されていることになる。人智を超えた完全な神の計画に従って宇宙は精妙に構築され、進化する。我々にとっては確率的にしかみえない現象も全て神の采配によって予め決まっているのだ。こうした完全な決定論は余程の強運に恵まれたおめでたい奴でもなければ虚無主義に繋がり、虚無は私の精神を破壊する。だから確率が存在すると信じることは虚無主義から脱する最後の砦なのだ。確率が存在しないのに自由意志が存在するなどという戯言を信じられるほど私は馬鹿ではないのが残念でならない。人間だけが宇宙の法則から逃れられると本気で信じられるわけがないのだ。
 人間は装置である。論理に縛られており、論理から一時的に脱することはできるが、それは持続的ではありえない。そして論理に縛られている時間に虚無から逃れるために確率は必要だ。確率は私を救ったりはしないが、地獄に行くことだけは阻止してくれる。

2007年11月5日白き虚無としての死〜佛教の限界
 白く平滑化された均質の世界。個性を剥ぎ取られた世界。そんな白い白い世界の中に私の意識が溶けていく。全てよ、白くあれ。穢れなき白の中に、美を離れた静寂の光景が浮ぶ。言葉が破壊され、最早感情も無い。全くの白だ。生死もなく、愛もなく、これが完全な死であっても構わない。私が憧れる白の世界。意識が遠のき、深海の底に埋もれていく感覚。しかしそこは闇ではなく、白き無の空間。
 私は自力では何もできないことを知った。自力などありえない。私は傀儡。私は完全に無力。私が苦しむのも自殺するのも私の自由からではないだろう。どんなに自分が自力で何かを獲得した、達成したと思っても、そんなものは勘違いだ。たとえ私が私の意志で自分の命を絶ってしまったように見えても、私には何の力も決定権もないのだ。私が私の命を絶つことでさえ天に反逆したことにはならない。もう全てが馬鹿馬鹿しい。全てが空しい。だからせめて私が白き虚無と戯れることを許してほしい。全てが白く染め上げられ、上も下もなく、外も内もなく、意識が遠のき、白き死と戯れる我が最後の自由よ。我が無力を忘れさせてくれ。白き無よ、私と共にあり、そして私を死に誘ってくれ。私の絶望を忘れさせてくれ。私の苦痛を止めるために私の意識を破壊してくれ。私の最後の希望として私の背後に存在していてくれ。私は恐れている。我が希望が微塵に砕かれてしまうことを。なぜならば、私の希望は常に砕かれ続けてきたのだから。それが大きな希望であればあるほど無残に砕かれてきた。私は恐ろしい。全ての希望が完全に絶たれてしまうことが。希望が何一つなくなってしまう恐怖に私はどうやっても、どうやっても勝てない。
 私が餓鬼だ。貪りの心を滅ぼせない。どうやっても私は自身の悪業を恒久的に滅ぼせない。私が人間だからだろう。私の中で激しく対立し続ける格率と本能。智慧と愚痴。この私の無駄な努力がますます私を絶望させる。全てを捨ててしまいたい。全てを投げ捨てて路傍で野垂れ死にたい。きっと死だけが、死だけが私を愛してくれると信じているのだろうか。私は死を見たい。白き虚無を見たい。私の死が、私の死体が醜ければ醜いほど死は超越した価値を私に見せるだろう。死を思うと心が安らぐ。君だけはきっと私を裏切らない。必ず死は私に訪れる。この確実さが私をどれほど安堵させていることか。白き死が私を解放してくれる。私は生死を越えたいとは思っていないのだ。私は死を恐れていない。死がなくなってしまえば私から希望は失せる。死神は慈悲深くも残酷な神から人間を救い出す。神が人間に命という最も残酷な刑罰を与えたのならば、死神はその罪を赦し給う。
 こんなくだらないことを私が延延と書いてしまうのも、私が本当は生きたいからだということも自分で理解している。私は生きたい。生きる理由を見つけたい。だが生きる理由としての希望は絶対に自力では得られない。全て運だから。この残酷な人生の法則を私は知ってしまった。法然の言う通り、自力ではどうにもならない。どうにもならないから、せめてどうにかなる余地の残された来世に希望を託すのは当然なのだ。現実を否定しているわけではない。現実のありのままの姿があまりにも残酷だから、その残酷さを肯定したとしてもそこに希望は微塵も無いのである。何をやっても無駄だから、神仏に縋って縋って縋りついてでも正気を保つしかない。ご利益なんかあるわけがない。助けてなんかくれはしない。ただ気まぐれに人間の人生を制御している神仏に対して、もうそのままで結構ですからと諸手を挙げて降参し、降参することで自力を放棄して苦痛を和らげる。来世なんてあってもなくても同じこと。むしろ来世がないという意味での西方浄土なのだ。浄土に生まれることで来世は断絶され、もう二度と輪廻しないのだから、西方浄土という時間的断絶が人間を救う。終わりの日という断絶も、天国という断絶もそう。人類は最終的には断絶を希求し、その断絶こそが人間にとっての唯一残された希望として命を維持する。永遠に続く輪廻、永劫回帰、永遠の時空間、永遠は常に人を絶望させる。そしてその永遠から逃れる断絶をこそ救いと呼ぶ。白き虚無としての死は私にとっての断絶であり、それが断絶であると信じることが希望である。人が死なないならば浄土も天国も無い。死ぬからこそ救いが在り、この構図は変えようがない。解脱という断絶も最終的には死というパリニッバーナがなければ完成のしようがない。現実を知らない者だけが現実を楽しみ、死を恐れる。
 肝腎なことは、どんなに崇高で完全な認識が存在したとしても、それが恒久的に維持されることなど普通ありえないということだ。出家もしていないのに悟りを維持することなど常人にはできない。悟ることすら難しいのに、それを在家のままで維持することなど誰ができるだろうか。そんな人間は完全に特殊な、圧倒的な強運に恵まれた者だけだ。私がどんなに努力精進しても、私の限界は超えられないだろう。それ以上に私以外の人間をどうにかすることに至っては絶対的に不可能だ。仏伝を読めば、仏が自力で悟ったとはとても言えないことに気付く。人々の助けだけでなく、神々の助力があったことを見落とすべきではない。そうした自分の力ではどうにもならないものの助力がなければ。人生を切り開くことなど絶対に無理なのだ。そもそも開経偈の「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇」は人生は運だと言っているに等しい。人間として生まれることも運、仏法に出会えるかどうかも運、悟れるかどうかも運。私は、どうして自分が人間として生まれ、どうして地面の下に居るモグラがモグラとして生まれたのかを説明することができない。運なのだから。変更不能なる運。寺社に参拝した10分後に事故死する奴だっているのだから、神仏に縋ろうが縋るまいが運命は同一。どんなに修行しても悟れない奴は悟れない。仕方がないから前世を仮定して現世の不運の原因を前世に押し付けるしかない。こう考えれば人生は運だけじゃないという主張に多少の妥当性は生じるだろう。しかし、一体どこに前世の記憶を持つ者がいるのか。私の周囲には一人もいない。前世の記憶がなく、前世を完全に忘れているのならば、それは前世がないということと同じことである。そもそも思い出すことすらできない過去の罪を裁かれるのは拷問である。前世の記憶のある人間がいたとしても、それは私に前世があることの証明には全くならない。ごくたまに前世がある人間がいるというだけの話であって、ほとんどの人には前世はない。記憶がないのだから。
 私は自分が佛教を抜け出さなければならない時期に来ていると感じる。私は佛教の限界を見ている。激しい苦しみが私を捉え、相対的な概念が重々しく私に圧し掛かってくる。言葉が消え去らないからだ。私が確信できる真理だけを求め、余計な言葉を捨て去らなければならない。余計なものを完璧に排除して、私自身の宗教体験だけを純化させなければならない。もう佛教もクソもない。私が欲しいものは悟りではなく、解脱ではなく、私だけの智慧だ。前世はない。来世もない。ただ一度の、運のみが支配しているこの人生と対話するしかない。
 哲学や宗教の類は全て対処療法でしかないのだ。良く生きることに意味はない。善行が報いられることもない。霊的世界はない。天国はない。こうした真に残酷な現実から人間を絶望から救うための方便でしかない。宇宙はそんな人間の勝手な憶測とは関係なく形成・変動・進化している。このような残酷な現実に対して、天国や極楽といった「ご褒美」なしに真に正しい道を歩むことができるほど人間は強くはない。真に残酷なる現実に対して正面から立ち向かえば、今の私のように討ち死に寸前になる。完全なる虚無に飲み込まれて悶死しかかるわけだ。輪廻が存在しないのにどうやって輪廻を解脱するのか。できるはずがない。
 私は絶望に対峙し続ける。自殺でさえ私を自由にしないのならば、全くの不自由そのものである理不尽な現実に対して私は何一つ働きかけてはならないのだろう。しかし希望が、希望がなくなってしまえば、私は死ぬしかない。自由のためではなく、耐え難い苦痛から逃れるために。だからあと少しだけは、白き虚無に寄りかかっていたい。死の愛という希望だけを拠り所にして苦痛に耐え忍ぶしか今の私にはできないのだ。私はもう一度立ち上がりたいのだが、今の私には無理だ。

2007年10月26日感情こそが
科学的方法論が私から大切なものを奪っている。科学的に実証も反証も不可能な命題こそが実は一番大切なものなのだから、科学の毒によって凝り固まってしまった知性が私の獲得した高き認識を覆い隠してしまっているのであろう。存在と非存在に想いを馳せた10代の頃から、まるで無限に広い壁面を塗りつぶすような作業をしてきたが、それに決して終わりが無いことを知って私は筆を折ったはずだ。ところが、折った筆は私の手の中にまだあるのである。捨てられないのだ。これが業なのだろう。
 言葉が私を狂わせる。正常に働いていた時計を逆回しにしてしまう。対象が、対象の全てが私を狂わせる。私自身が、世界が、全ての存在と呼びうる何もかもが、対象として私を襲う。振り切っても振り切ってもいつのまにか私は対象に捕獲されてしまう。私が世を捨てていないからである。世を捨てぬ者が浄土に入ることは太陽の火を海の水で消すことよりも難しいのかもしれない。
 どうやっても私は神々を殺せない。仏を殺せない。親を殺せない。しかし私は殺さなければならないことも知っている。殺せなければ私はもうこれ以上前に進めない。山の頂に達する道には私が最も敬愛する者たちが立ちはだかっているのだ。そこで躊躇しているうちに私は次第に毒が回って崖下に転落する。激しい退転。言葉が何もかもを粉々に砕いてしまい、認識は四方に分散して支離滅裂となり、収拾不能の大混乱に陥ってしまう。今の私はまさに混乱そのものだ。思考が行き詰まり四分五裂して私を窒息させている。
 意識など完全に消滅してしまえばいい。私の無意識は悲鳴を上げている。意識などないほうがいい。無意識が泣いている。私の中の戦いは収束の見込みが無いほどに破壊的になってきている。激しい戦いが私から正気を奪う。脳が沸騰する。感情が完全に麻痺している。悲しむべきか怒るべきか喜ぶべきかもわからない。
 娑婆世界では相対的な価値に対して心を砕かなければならない。ここでは幸福もまた相対的なものに過ぎない。だからそうした相対性は不完全な私の心を激しく困惑させる。私は容易に悪魔の術中に嵌って苦しみ悩む。私は何一つ殺せないほどに怯え、震え、萎縮しきってしまう。寺に逃げ込みたいがそうもいかない。
 こんなにも観念的で意味不明な苦痛を誰が理解できるだろう。私は滑稽なピエロに過ぎないが、どんなに自分を矮小化しても私の心は晴れず、混乱から脱出できない。私を救いえるものは人間にのみ固着した感情だけなのだとしたら、どれほど私が回り道をしてきたことか。私の無駄な思惟が私に何を与えたのだろう。超越の中に私が欲するものなど無い。ああきっと私は思惟を捨ててしまいたいのだ。永遠に繰り返される苦と罪の中にこそ私が求めるものがあるのならば、私は純粋にこの孤独を捨てたい。純粋に私が愛するものの中に私の魂を没頭させたい。たとえ私がどれほど傷つき涙を流そうとも、私がその悲しみの中に最も崇高な真実の幸福を見出すのならば、私はその中で生き、そして死にたいのだ。どんな言葉も打ち砕く感情の中で、どんなにそれが愚かしいことであったとても、私はこの始原的美意識の中でもがいていたい。もうそれで構わない。言葉を破るのは感情だ。きっと感情だけが言葉を破る。感情だけが世界を壊す。そして感情が哲学を破滅させる。感情だけが私の全て。私が欲しいのは智慧なんかじゃない。私が欲しいのは、本当に欲しいものは、壊れ去ってしまう悲しき運命を背負った、ちっぽけな慈愛なんだ。きっと。それによってどんなに私が苦しんだとしても、私は敢えて何度も何度も繰り返し繰り返し人を愛してきたはずだ。私が欲しているのは愛という苦しみ。正しさなんかあるものか。智なんかあるものか。そんなものが私に与えてきたものなんか、私の一瞬の感情にも及ばない。感情こそ、感情の愚劣さこそ、愛おしき我が本質なんだ。

2007年10月25日拷問装置
人生に努力とか才能とかといった要素が介入できる余地が残存していると見做すことは信仰であり、そのような信仰を抱くことには大変な労力が必要である。はっきりと自分の努力や才能が自分の人生にとって有益であったと確信するほどの成功体験がなければならないし、その成功が運だけではないと確信できなければならない。しかし才能もなく努力もしないが運だけはやたら良い人間がいるし、そういう人間の方が才能もあって努力もするが運の悪い人間よりもはるかに良い人生を送ることができるのである。最初から不幸な人間は不幸であり、幸運な人間は幸運なのである。そこには努力も才能も入り込む隙間は全く無い。運の良い悪人ならどんなに悪事を重ねても死ぬまで幸運な人生を送るだろうし、逆にどんなに心の清い人間であっても一生不幸に付き纏われる者もいる。
 良いことをしたから良い人生を送れるのではない。悪いことをしたから悪い人生を送るのではない。因果応報はない。理不尽に拷問に掛けられる者は最初から決められている。拷問の有無は蓋然ではなく必然である。私は生まれる前から決定されている理由なき懲罰を受けている。私には何の選択の余地もなく、未来に降りかかるもっと酷い不幸と苦痛に対して逃げ道は存在しない。何をやっても自分に決められた運命は変えられず、拷問の数々が粛々と実行されるだけである。人間にとっては理不尽であるが天にとっては必然である。論理的理由は全く存在しない。原因は私が私であるということであり、その運命を私が受け入れようと受け入れまいと私に対する仕打ちが変わることはない。私は永遠に慰められない。求めて得られるものは何もなく、天が気侭に私に与えるものを私が感謝するだけである。感謝の心は永遠に何も生み出さない。それは自分の心を慰める一時的な麻薬に過ぎず、私は私の心から無理に様々な感情を取り出しては拷問の痛みに耐えようとする。しかしどんな手段を講じても私を苛む爪が消え去ることはない。私が死ぬことが決まっているように、私が蒙る不運も決まっている。避けることはできない。出会わないことが決まっている幸運に出会うこともできない。運は何をやっても変わらない。人生の全てが決まっているのだから当然である。無限の過去から無限の未来までの全ての歴史は決定されている。前世も来世もない。価値を求める人間はこうした無意味な人生の真理を受け入れることができないから、努力とか才能とか人生に何の関係もないものに縋る。
 私はこの受け入れ難い人生の真実を受け入れられない。遊園地のライド型アトラクションのような人生の真実から目を逸らしたい。しかし私ははっきりと、因果応報を感じたことなど一度もない。幸運は私の努力とは関係なくそこに用意されていたし、それよれも遥かに多くの不幸が私の行為とは無関係に用意されていた。それに大抵の場合は努力して獲得したものよりも努力せずに獲得したものの方が良いものである。努力によって得たものは必ず苦を運んでくる。幸運に100倍する不幸が幸運の向こうから自動的に迫ってくるのだ。必ず。まるで運命に逆らうことを罰されているかのように。だから悪人は無理に善い事をしないほうがいいのだろう。そういうことをすると必ず酷い不幸に出会う。因果応報が世の真理であるためには、良い報いのある行為が良い行為と定義されなければならない。だから人を騙して金を奪う行為をしても何の悪い報いも受けないのならば、詐欺行為は良い行為である。お金が儲かることは良いことなのだから。
 因果応報などない。そもそも幸運が過去の良い行為の報いであるかどうかなんて誰にもわからない。良い行為をしなくとも幸運に出会ったかもしれない。だから人生など何をやっても無駄である。何をやっても裏目に出ると思っている人は、因果応報を信じているのである。だから裏切られる。何をやってもうまくいくような、最初から幸福な人生を送ることが決定されている人間が因果応報を説く。そういう人間は自分が出会った幸運が自分の努力の賜物であると思い込んでいる。しかし逆に不幸にばかり出会う人が因果応報を信じるだろうか。何の悪事も行った記憶がないのに。あまりにも多くの誠実な善人が耐え難い不運に出会っているではないか。信仰心の篤い人間の方が信仰心のない人間よりもずっと多くの苦しみを受けているではないか。誰も記憶していない前世まで持ち出して、前世の悪業を説くに至っては既に邪教だ。記憶にない罪などという設定が許されるなら、未来に行うであろう悪事の罰であっても良い。つまり何でもいいわけだ。因果応報などない。天国があるなら天国に行く奴は最初から決まっている。地獄に行く奴も決まっている。だからどんな善行も地獄行きの運命を変えられないのだ。倫理も道徳も無意味。努力も無意味。人生は無意味。輪廻もない。理不尽な生存の桎梏を嵌められて苦しむだけの不毛で変更不能なる拷問装置。それが人生だ。虚無ではなく、現実に働いている地獄の機械がこの地上。気絶することは許されず、死ぬまで拷問は続く。そして直ぐに死なないように適当に餌が用意されている。時々与えられる餌にほっとするのも束の間、更に過酷な拷問が用意される。だが次の餌が待ち遠しいので簡単には自殺しない。これが私の人生である。この人生を肯定する権利も否定する権利も私にはない。耐える事だけが私のすべきこと。何のための拷問なのか、その理由は存在しない。存在しないから人生の確固たる意味も存在しえない。最初から人生に意味など存在しない。

2007年10月23日我が心臓よ
泣かないでくれ、我が心の臓よ。どれほどの月日が経っても消え去らない傷があり、それが痛むのは解っている。天が私からほぼ全てを奪い去ったとしても、たった一欠片の希望だけは残しているから私は死なずにここに在る。しかし私は知ってしまった。どんな智慧さえも、天の助力なしには完全にはなりえない。どんな愛も、天の助力なしには完全にはなりえない。私が心を許した他人は私を許さない。私が人を裏切っていることを自分で認めず、それでいて他人の裏切りによって心の全てを失う。私は私の心をどんなに眺めても、そこには完全性の入り込む隙間はなく、不完全で、脆い。
 不安で押し潰されるのがわかりきっていたとしても、不安に立ち向かわなければならない状況を自ら生み出さざるを得ない。それが人の性、人の運命。嗚呼、私の極まった弱さを責めないでくれ。たとえ人生が苦であったとしても、苦の完全な消滅を求める運命が私に伴っていないのならば、我が血肉を焼き尽くしても完全な智慧には至らないだろう。しかし、どうにもならない完全な絶望が希望を産むのはどういうことか。絶望の底でしか人は希望を見出さない。絶望の中にしか神意は見出されない。
 裏切りとは自分に対するそれなのだ。自分が自分を裏切る者を信頼してしまったことに対するやり場の無い怒りと悲しみ。それこそが裏切りの正体だ。自分とはどこまでも業でしかない。我が心臓も業。涙も業。愛も業。知も業。血も業。業によって成り、成る事によって拷問の場所は完成されている。寿命とは刑期。もし人が輪廻するならばその刑期は永遠。たとえこの心臓を捧げても、残りの肉体の全てが罪を背負っている。考えても罪、考えなくても罪。魂は罪に塗れている。傷が痛むから泣くのではなく、我が罪悪に対して私は泣くのだろうか。大いなる他者の罪が私の肉体を滅ぼすことによってしか私の罪は消え去らないのではないだろうか。つまり、私が正義ためにではなく、私自身の悪を滅ぼすために、この世で最も邪悪なる者によって殺されなければならないということだ。だがそれは他人に罪を擦り付けること。しかしそれ以外の方法でどうやって私から罪を消し去れようか。キリスト教の殉教者は迫害者に罪を擦り付けることで天国へ行けるのだとしたのならば、私の言うことも満更ではないのだ。
 今一瞬の苦を超越する手段は存在する。しかしそれは永続しない。何故か。人が罪そのものだからである。過去の無量の罪科をそう簡単に消し去ることなどできないからである。肉体が末法である。心臓が末法である。我が心臓よ、お前の拍動が呪わしい。悪を支え続けるお前が呪わしい。苦の液体を全身に充満させるお前が呪わしい。そして、きっとお前たち細胞のひとつひとつは私の死に際しても激しい苦痛を私に与え、私が罪から逃れられないように画策するのであろう。どうしてこうも天は私を苦しめ続けるのか。私は天意に届かない。私がもっともっと限りない絶望に墜ちなければ神々は何も語ってくれない。たとえ私がどんなに激しい苦痛に苛まされたとしても私には何の益も無い。もしも苦の先に救いがあるのならば、私には慰めがある。しかし苦の先にはもっと深い地獄しかない。一つの希望は一つの絶望にしか繋がらない。だから一つの絶望は一つの希望に繋がっている。全くの幻想に過ぎない希望に。気が狂いそうな苦の永遠の連鎖。永遠なのだ。永遠。
 紊乱の中で何も考えずに不道徳の限りを尽くせるものは幸いだ。お前たちこそ神々に祝福されし者。刑を免れた者。いつの時代も愚者こそが祝福され、私のように逆転した道徳を持つものは永遠に虐待され続ける。誰が好んで困難な道を歩くだろうか。安易な道があるにもかかわらず。
 私の心は限界だ。もう限界だ。限界だ。何も見たくない。何も知りたくない。天よ、もしも貴方に一片の慈悲が私に対してあるのならば、今すぐに死の使いを私に遣してください。我が心臓を抉り出し、二度と私の魂が再生しないように地獄の釜に投げ込んでください。私の刑期はあと何年ですか。私の醜さを、私の不完全さをなぜこうも私に見せるのですか。他の誰が自分の正体に気付いているのですか。私以外の誰が。貴方が私を物質的にも精神的にも完全な孤独の牢獄に閉ざし、私が信ずるものを奪い、私に気も狂わんばかりの懊悩を感じさせている理由は何ですか。私を精神病にせず、逃げ場も断ってしまう理由は何ですか。私の喜びは刹那です。永続的な智慧に至りません。激しい苦痛に息も絶え絶えです。苦と恐怖と狂気だけが私の真実です。
 腐ってしまえ。滅びてしまえ。我が肉体よ。我が心臓よ。滅びてしまえ。消滅してしまえ。跡形も残さずに。

2007年10月22日懐かしさとは
 懐かしさとは何なのだろう。朝の空気にたまらない懐かしさと哀愁を覚えることがある。先週ある神社へ行ったのだが、車から降りると同時に香ってくる花と杉の香に昏倒しそうなほどの快感を覚えた。何なのだろうかこの感覚は。快いのに涙が溢れるようなこの感覚は。私の中に残存している明瞭な記憶が反応しているのではない。幾万年の血の連環が、私をぐるぐると回転させているようだ。家を追い出された飼い猫のように、私が遥かな過去において切り離された私の本体を思っているのだろうか。私は何一つ思い出せない。イデアから隔離された自分が、私の故郷を思い出して胸が締め付けられているのか。私が属する場所は何処なのだろうか。苦しい。
 心臓が痛い。何かに立ち向かう勇気は遥かなる過去において剥奪されてしまっている。まして愛に対して私は何ができるだろう。矛盾の電流が肉体を駆け抜ける。私は負けることを定められ、私は逃げるしかないのだ。懐かしい感覚が体を砕く。できうるならば全てを否定したい。もう私を苦しめないでくれ。恐怖なのだ。過去に犯した私の罪が永遠に消え去らないように、私の愛執も消え去らない。全身を砕きたいマゾヒスティックな欲求は、私の正常な精神を壊していく。傷つくことを恐れるから、私の恐れは死の鞭となって心を絶叫させる。私は、私の半身に私の背中を抱いていて欲しいのだ。どこへ消えてしまったのだろう、私は。どうしてこんなにも人は不完全なのだろう。懐かしき感覚は私の不完全性を告発させる。私の中の空白こそが私を懐かしがらせる。埋めようも無い空虚に、空白に、永遠の孤独によって、私の心は渇望を覚える。智慧でさえ埋められない空白を私は見た。この空白に対して、私は枯れ果てた泪を雑巾のように絞って埋めようとする。狂人が手を血だらけにしながら穴を掘るかの如く、私は必死に地面を掘るが、私の心は既に折れそうなのだ。天よ、私が天に属するものならば今すぐに私を地の底へ投げ落としたまえ。私はのこの地上の苦しみと、この地上の罪に沈みたい。私の心は折れている。過去に永遠の苦難に耐えた者など居ない。私を不意に攫ってしまいそうな死の大気に対して、私はどう立ち向かえばいいのか。このままでは私は自分の欠陥を埋められない苦悩のあまりに自殺してしまいそうだ。

2007年10月9日久々にまともな首相か
一言言いたい事がある。福田総理は久々に現れたまともな首相かもしれない。まとも、というのは「普通」ということだ。
 現在の国会は極めて良い状態である。理想的状態と言っていい。民主党が参議院の第一党になったことで、法案が通りにくくなっている。これは国民にとってはこの上もなく幸福なことだ。法律が通らないということは我々の生活が無闇に干渉されないということだ。干渉されなければ国民は政治に対する関心を失うことになる。政治などという余計なことに対して気を揉まなくて良いというのは実に素晴らしいことだ。十八史略の鼓腹撃壌の故事はこのことを如実に教えてくれる。尭が天下が治まっているかを確かめに通りへこっそり繰出すと、老人が腹鼓をうち地面を踏み鳴らしつつ「日出でて作し日入りて息ふ、井を鑿ちて飲み田を耕して食らふ、帝力何ぞ我に有らんや」と言ったという話だ。三千年以上も前から政治の本質は何も変わっていない。
 政治に対して国民が完全に無関心な状態こそが最も健全に政治が行われているということである。政治に関心を持たなければならないのは政治が間違っているからである。その意味ではマスコミというのは国民に毒を与えるものに過ぎない。いらない情報まで押し付けられる。今朝テレビを観ていたら神田うのという俗物の披露宴の報道をしていたが、あんなものを報道する価値がどこにあるのか私には全く分からない。どうでもよいことだが。
 福田総理の話は具体性が無いと批判する連中がいるようだが、全くお門違いの批判である。総理大臣に独自の政策などは無いほうが良い。小泉の時は本当に酷かった。あのような愚劣な暴君は見た事が無い。ただ、天があのような者に政権を任せたのも何らかの意思あってのことであろうから、我々はそこから多くのことを学べばよい。政治家に政策は必要が無いということに国民は気付いたであろうか。総理に求められる資質はただひとつ、調停能力である。人の話を聞くことである。過去数千年の歴史を紐解けばわかることだ。人の話をよく聞いた者が最後は勝利する。またそういう者でなければ上に立つべきではない。今のような平和で安定的な社会の日本に雄略天皇のような暴君が出現されては困る。どこまでも普通な首相こそ我々の望む首相だ。

2007年10月2日東大博士課程授業料ゼロで大量頭脳流出確定
遂に発表された東大の博士課程授業料ゼロ計画。嗚呼、これでまた多くの若者が将来の選択を誤っていくのだなと感慨も一入だ。こうなったら他大学も雪崩をうったように博士課程の授業料をタダにせざるをえないだろう。こんな政策で頭脳流出に歯止めを掛けようとは。まあ東大の立場からすれば悪い政策ではないが、大局的な視点から見たのならば授業料を5倍くらいにしてやった方が学生のためになろう。タダより安いものはないが、安いものには裏がある。いくら安くても私は中国車なんて買いたくない。授業料を実質的にゼロにしてやれば、学生が将来困ろうが路頭に迷おうが、そもそもタダなんだから文句言うな、の一言で黙らせることができるだろう。これはうまいことを考えたものだわ。今回授業料分を負担することになったのは奨学金や研究奨励金をもらっていない1700人が対象だという。博士課程で奨学金すらもらえない奴なんかいたのかと感動した。こんな落ちこぼれ学生にはまず学問的将来はないから、今のうちに口封じをする作戦だろうか。それとも対象者が全員外国人だから日本の印象を少しでも良くしておこうという常任理事国入りの布石か。まあ冗談にしてもそんな勘繰りをしたくなる。
 彼らの言う「頭脳流出」という言葉自体が事態の深刻さを全く理解していないことを証明している。頭脳が博士課程に「流出」していることが問題なのだ。せっかく能力のある人間が博士課程に進むという愚行を冒す事によって、まともに企業なり公務員なりに就職していれば少しは日本の役に立ったであろうのに、博士課程に進んだばっかりに能力を完全に無駄遣いすることになる。科学的業績をあげるためには大学になんか残る必要は全く無いことを見事に田中耕一さんが示してくれたというのに。別に博士課程に有能な人間を進ませる必要なんて無い。博士課程に進むという「頭脳流出」に歯止めを掛けねばならぬものを、ますます頭脳流出を促進するとは何事か。相変わらず大学や政府の政策は事態を悪い方向へしか導かないのだという私の確信をこれ以上ないというほどに確信させてくれた。感謝してもしきれない。「ポスドク問題は半永久的に解決しない」という私の予測はおそらく的中するだろう。
 はっきり言って、大学における学問レベルを上昇させることが国力を高めることに繋がるという考え方自体が古い。中途半端に有能な人間は何の役にも立たないくだらない独りよがりの学問などやらぬほうが良い。他国が人材を博士課程に頭脳流出させているのを傍観しつつ、独自の国策を打ち出せるような人間がいないのが実に悲しい。それともそういう人間が全て海外に頭脳流出したとでも言うのだろうか。

2007年9月26日ミャンマー情勢
ミャンマー情勢はかなり緊迫した事態に陥ったようだ。そもそもの発端は、私がミャンマーに入国した、まさにその日にガソリン代が倍になったからだ。空港に到着し、迎えに来てくれたナンムイさんが発した「今日からガソリンの価格が倍になりました」という発言には驚愕した。そのせいか今日は車が少ないと言う。全くとんでもない国だと思った。
 遂に国民の怒りの爆発したのだろうか、これからさらに爆発するのだろうか。いずれにせよ国民の我慢も限界に近いのだろう。大変な規模のデモが現在行われているという。極めて深刻なのは僧侶がデモを先導していることだ。僧侶に対してあからさまな暴力を振るったり、殺害したりしている軍政は民衆の支持を失って瓦解寸前であろう。これは過去になく危機的状況であると思われる。
 一方で、この段になってようやく合点がいったことがひとつある。首都の移転の件である。首都移転を促したのが占い師であろうという噂はおそらく真実であろう。占った人物はミャンマーの高名な占い師であり、その占星術の的中率は本当に洒落にならない。ヤンゴンで大規模なデモが起きることを予言することなど朝飯前だ。そうでなければあんなに突然首都をネーピードーに移転させるはずがないし、こんなタイミングでヤンゴンでデモが起きるはずがない。首都を移転させたことは正解だったのかもしれない。
 さて、今回の件ではミャンマーの軍政の行方も重要だが、間違いなく占い師の助言で遷都したのだという私の勝手な確信も、私にとっては重要だ。この世には、確かに、未来を予測する驚くべき能力を有した者がいるのである。この高名な占い師の弟という人物に私の父一行が占ってもらったそうだが、その凄まじいまでの的中率には背筋が寒くなる。父は、あなたはお父さんの写真を粗末にしています、と言われたそうだ。これはとんでもない話だ。丁度その時、私の祖父の肖像画(かなりよくできた肖像画で私は最初写真だと思っていた)をたまたま家の階段と壁の隙間に父が落としてしまい、それを取り出す際に傷つけてしまっていたからだ。それだけではない、今年に私の弟が結婚することも的中させている。他の人に関する占いも百発百中。ある者は半年以内に親族が二人結婚すると言われ、全く誰のことなのか本人にさえわからなかったが本当に二人結婚した。ある者は4月から職場が移ると言われてその通りになり、別の者は近いうちに職場が移ると言われ、どこかと尋ねると、南の方向で海が見えると言われ、完璧に的中させている。ちなみに異動は鳥取から神戸である。極めつけは、三日以内に蛇を見て、そこで宝くじを買うだろうという予言だ。こんな当たりそうにない予言までも完全に的中している。とても蛇など出そうにない寺院で蛇を目撃し、帰ろうとすると出口で宝くじを売っていたそうだ。さらに、こうした出来事を日本で父が話したところ、その占い師を某テレビ局にぜひとも呼んでみたいという話が持ち上がり、その話をしようと再び訪緬してその占い師を尋ねたところ、何と絶対に会おうとしなかったそうだ。もちろんそんなマスコミの話など全く漏らしてはいない。その占い師は既に事前にそういう話を父が持ち込んでくることを予知し、それを拒絶するために会わなかったのだ。これらが単なる偶然だと主張できるだろうか。それは無理だ。どう考えても彼に未来を見通す何らかの能力があるとしか思えない。いや、むしろ我々のような凡人が未来を忘却しているだけなのかもしれない。過去と同じように未来も既に起きた事象の一部なのではないかと思えてくる。私は未来という概念を修正しなくてはならない。
 もしも、事象が起きた時刻と事象を経験する時刻が著しくずれているのならば、原理的には経験するであろう既に起きた事象を事前に知ることができる。それを知ることとそれを経験することが別であるのだから、知ってはいても未だ経験していないという事態も想定できる。そもそも客観的に事象を経験した時刻と、事象を本人が認識する時刻もずれているかもしれない。私が考えている現在は真に現在とは呼べないのかもしれない。私の未来は量子力学的には揺らいでいるが、ある時刻になって私が私自身を観測することで私の波動函数は収縮する。私は私自身を観測し続けることで、連続的に波動函数は収縮しつづけているということだ。一方で、もしも予言者が私の未来を私よりも先に観測したのならば、その時点で波動函数は収縮していることになり、波動函数が収縮するのでその通りの未来になる。とすると、これは予言ではなく決定という事になってしまい、予言者は未来を創造できることになってしまう。これが正しいとするならば、予言は必ず成就するだろう。しかし、どうやって未来を観測しているのかはわからない。とにかく謎なのだ。

2007年9月14日無思考
私はあまりものを考えなくなった。最近の私は頭脳を何に使っているのだろうか。

2007年9月5日運命と智
列車は同一の線路の上を定められた時間に往く。どんなに乗客が文句を言っても線路のない場所を走ることはできない。人生というものも同じだと思う。私は自分の人生に対してほとんど何の決定権も持っていない。私の遺伝子を私が変えられないように、私の出生地を変更できないように、私は人生の列車に乗っているだけだ。
 では同じ列車に乗っている乗客が全て同じであろうか。そうではない。ある者は列車の中で寝ているだけだろうが、ある者は本を読むだろうし、ある者は車内で論文を書くだろう。終着駅に到着した時点で人は列車から降りなければならない。ある者は幸運で、素晴らしく豪華で美しい列車を与えられるが、終点に着くと何一つ自分が持っていないことに気付くだろう。しかしボロ列車の中で必死に勉強した者はその知識をそのまま降車後も受け継ぐだろう。
 エコノミークラスだろうがファーストクラスだろうが結局同じ場所に到達するように、人生は人を同じ場所―死―へと導く。だから我々に与えられた真の課題は、乗っている間に何をするかである。しかしどんなに努力したとしても幸運に出会うかどうかは最初から決まっている。ある者は乗車してすぐに幸運駅に停まるだろうが、そうでない者もいる。私が東海道新幹線に乗ったとした場合、どんなに私が車内で努力したとしても博多駅を静岡駅の手前に持ってくることなどできない。それが不可能であることを嘆くことほど馬鹿げたことはない。
 人生の路線が既に決定されている事を嘆く必要はない。人生の本質は、その人生の列車の中で何を識るかである。私は自分の人生を自分の強力な意思の力で切り開くことなどできないことを思い知っている。この世で名声を得ることが全く無意味であることも知っている。私が現世で欲してしまうものは人の心であり、愛であろうが、それを努力で獲得することなどできない。ブッダでさえ全ての人間に敬われたわけではない。どんなに私の容姿が優れていようとも全ての女性が私に好意を寄せることなど絶対にありはしない。どんなに私が人格者であろうとも全ての人間が私に親しみを感じることなどありはしない。どんなに私が優れた業績を上げようとも全ての人間が私を敬うことなどありはしない。この世の名声などは智慧の輝きの前には無価値である。
 我々に与えられた人生は、我々がその人生の中で人生の真理に到達できるかどうかの試練である。賢者は人生の経験から真理に至り、人生の中で何を獲得すべきかをはっきりと認識している。賢明なる者は消え去るものを求めずに消え去らないものを求める。賢明なる者は運命を嘆かず、如何なる苦難にも耐え忍ぶ。賢明なる者は心の本質を求めて瞑想する。賢明なる者はこの世の富と名声を求めることが空しいことであると知り、永遠に揺るがない境地を求める。世の凡夫は賢明なる者を賞賛しないかもしれないが、神々は彼を賞賛する。賢明なる者は運命の全てを神仏に委ねて振り返ることがない。賢明なる者は生存の本質を洞察し、生存を滅ぼすためだけに全ての功徳を振り向ける。三世の諸仏、天神地祇、あらゆる善なる霊たちはこの世のカラクリを見抜いた者である菩薩のために多くの苦難を用意し、様々な関門と障壁で彼を無欠の智慧へと導くだろう。
 聖者でさえ処刑される。どのような善行も不幸を避けるのには何の役にも立たない。善行は「本質的な幸福」にしか繋がらない。現世の空しい幸福と幸運に私は何の関与もできないのだ。同じ事をやってもある者は幸運に出会い、ある者は不運に出会う。だから空しいことから逃れるべきだ。生存の流れを止める者だけが正しい者である。
 幸運で悟りを得ることはありえない。幸運で智慧を得ることはありえない。幸運で人格が完成することはありえない。ただ本人の菩提心だけが悟りの因である。苦が菩提心の因である。生存が苦の因である。生きている者の本質は必ず苦であり、全ての人が菩提心の因を持っている。しかし菩提心を持たない者が多いのは本人の邪心故であり、向上心の欠如故であり、愚かさ故であり、鈍感さ故であり、悪行故であり、貪欲さ故であり、愛欲故であり、妄想故であり、無知故であり、不信仰故であり、悪心故である。だからそれは本人の責任であり、必ず裁かれる。一切衆生必堕無間というのはある意味本当である。仏法に触れることのない外道ならまだしも、それに触れつつダンマに帰依せざる凡夫の罪は極めて重い。素晴らしい勉強机と多くの参考書が用意されているのに勉強しなければ、勉強道具のない者が勉強しないことよりも罪は重い。そのツケを返済するために再び生存の中で苦しみ続けることになる。私はそうならないために己と戦い続けている。

2007年9月1日ミャンマー佛教
念願であったミャンマー旅行から帰国し、なかなか良い体験であったなと回想している。上座部佛教に触れられたことは大変良かった。黄金に光り輝く100米の大仏塔聳える聖地シュエダゴン、2217基の仏塔が林立する古都バガン、印象深い佛教史跡を見ることができた。
 マンダレーでたまたま知り合った方の紹介で、その方の友人の叔父(伯父?)が住職(とでも言うのだろうか)を務める僧院へと行くこともできた。食べきれないほどの果物を振舞われ、さらにその方がお書きになった佛教の本と小さな仏像を頂いて、大変恐縮であった。本がミャンマー語が書かれているため全く読めないのが残念だった。僧の生活についても教えていただき、私は日本の僧の生活とはだいぶ違うと言っておいた。たまたま食事の時間の前に伺ったこともあり、ミャンマー僧の食事風景も見せていただいた。この僧院には100名もの僧がおり、小さな子供の僧から最年長の住職までが整然と一列に並び、食堂へと入っていく。食堂の中には幾つもの円卓が並べられており、食事の内容は米と、5種ほどのおかずのある典型的なビルマ料理に見えた。一汁一菜が基本の日本の僧堂よりはずっと豪華だ。位の高い僧の方が器も大きく、量も多いようだ。100名の僧が粛々と食事をする様は、確かに臨済宗の雲水のそれとはだいぶ様子が違うが、基本的精神は同じなのだろう。実に静かだ。その後僧院の宝物庫へ案内され、厳重に保管された仏舎利を見せていただいた。インドから贈られたものだそうだが、本物だとしたら大変なものだ。
 ミャンマーの寺へ行くと、そこかしこで人が昼寝していると同時に、必ず瞑想している者もいる。参拝者が慌しく参拝している、そのすぐ横で座禅を組んで瞑想している者をみかけることの何と多いことだろうか。人々の信仰の厚さ、特に女性の熱心さには驚かされる。昼間には数多くの善女が寺に参拝していた。この国の人の信仰の深さはタイの比ではない。まさしくミャンマーは瞑想の国だ。
 シュエダゴン・パヤーに対する彼らの想いは我々日本人にはおそらく想像できないだろう。比較しうるものがない。天皇は日本の権威と精神的支柱であるが、信仰の対象というわけではない。シュエダゴンは彼らの信仰の中心であり、全ての権威の頂点とでも言えるのかもしれない。100米の大仏塔が全て黄金に光り輝き、塔頂は6000個以上のダイヤモンド、ルビー、サファイア、ヒスイなどの無数の宝石で飾られている。日が暮れればライトアップされ、美しいオレンジ色の円錐体は闇を切り裂くようにヤンゴンの街で神々しき輝きを放つのだ。荘厳華麗な塔はまさにミャンマーの象徴であり、信仰の支柱なのだろう。シュエダゴンの歴史は伝説的であり、古い。ニダーナカターを読むと、仏陀が悟りを開いて間もなく二人の兄弟の商人が仏陀に帰依し、聖髪を譲り受け、それを彼らの都で祀ったと書かれている。伝説に依れば彼らはモン人であり、譲り受けた聖髪を納めたのがシュエダゴンだと言われている。伝説が正しければシュエダゴンは最も古い歴史を持つ佛教施設であるということになる。伝説の真偽は不明だが、皆信じているのだからそれでよい。
 ミャンマーの歴史は多くがモン人の歴史であり、ミャンマー人の歴史は浅い。ミャンマー語はパーリ語とモン語を組み合わせて作られたものだ。そのためパーリ語によく似ている。ミャンマーに仏教が伝わったのは1000年ほど前に過ぎない。実は佛教伝来以前はナッ信仰などの妙な宗教があり、その宗教者らは初夜権を持っていたらしく、結婚前に花嫁を一週間預けたと言う。どう調べてもそんな資料が見つからないが、ミャンマー人が言うのだからそうだったのだろう。いずれにせよミャンマー人に佛教が伝来した時の生々しいまでの衝撃が、バガン王朝の驚嘆すべき仏塔群として具現化しているように私には思える。

2007年8月8日学歴詐称
猛烈な倦怠感に悩まされている。もう10日は続いているだろうか。酷い。これほど長期間に渡って具合が悪くなるとは予想外だ。このまま永久に気だるいまま死んでしまいそうだ。
 さて、歴史は我々の無能を知らしめる。いや、我々は知によって自らの無能を知るだけなのだ。我々人類が過去数億年の進化の残した不要な滓を払拭できない限り、我々が自らの歴史を顧みて、人類とはかくも賢明なるものかと自画自賛することなど到底ありえない話だ。例えば、政治に進歩がありえないことを歴史は証明している。どんな政治の仕組みを考えたとしても必ず政治は腐敗し、制度は機能しなくなる。何をやっても無駄である。その理由は、人間が基本的に愚劣だからだ。三毒に冒された人間に知などはじめからありはしない。賢明な人間は数えるほどしか存在せず、賢明な人間は為政者にならない。
 まともな人間は立候補できない。ちゃんとした勤め人が仕事をやめて立候補するなどという危険な博打を打つだろうか。そんなことのできる奴はただのアホだ。しかも立候補するためには大金が必要。選挙活動なんて個人じゃ普通できない。見たまえ。立候補している面々ときたら政治家の二世三世に芸能人、同性愛者、ブロレスラー、頭のおかしい奴・・・といった、まあ世間一般の視点からみたら堅気の奴なんかほとんどいない。こんな大馬鹿どもしかいないから誰も政治家になりたいなんて思わない。選挙に行くのも馬鹿馬鹿しくなる。当然私も選挙なんか行かない。時間の無駄だから。政治家の学歴詐称も公然のこととして行われている。何しろ小泉も安倍も学歴詐称しているくらいのすごさ。
 今回の参院選ではマック赤坂という衝撃的馬鹿が出馬して本当に笑えた。面白いからこの馬鹿のことを調べたら、「2003年5月ニューヨーク国際学士院大学より社会心理学博士号取得」って・・・でました!ニューヨーク国際学士院大学!所謂ディプロマミル。イオンド大学と同じようにニセ学位を売る業者だ。で、社会心理学博士って政見放送でも堂々と言っちゃってるよこのバカは。完全な学歴詐称で言うまでもなく公職選挙法違反。まあまともな罰則もないようなクソ法だから言ったもん勝ちなんだけど。ちなみにデューク更家という同じように頭のおかしい人も2002年ニューヨーク国際学士院大学より体育学博士号「Doctor of physical education」を取得だとさ。自分でデュークとか言っちゃうくらい頭の緩い人だからね。この手のバカは自分を権威付けするのにものすごく熱心だ。よほどひどい身分の出なんだろうと推察される。劣等感がすごいんだろう。
 まあこういうどうしようもない人間が立候補するくらい政治家ってのはしょーもない奴らだということだ。そういえば又吉イエスなんて完全な気狂いも毎回毎回立候補している。気狂いでもないかぎり立候補なんてしないんだよ普通。裁判員制度を議員にも拡張してもらいたいね。ランダムに議員を選んだほうが100倍マシだ。
 全く別の話だが、クイーンのブライアン・メイが天体物理学の博士論文を提出したという。実に立派だと思う。Radial Velocities in the Zodiacal Dust Cloudというタイトルということで、私の専門にもちょっとだけ関係がある点からも、審査が通るとよいなと個人的に思う。インチキ学位を買う奴らも少しはこういう立派な人を見習って欲しい。

2007年7月18日道徳心
人間には道徳心、良心、善意識、格率といった類のものはないのだと私は思うようになった。実に悲観的で、極端な性悪説のような考え方のようだがだが、そうではない。冷静に己の心と人間を観察した上で私はそう結論するのだ。
 人間の行動の全てを最も強力に支配しているものは、恐怖である。このたったひとつの感情が人間の思考と行為のほぼ全てを支配しているというのは事実である。人は悪なのではなく、恐怖の生き物なのである。たとえば、普通のサラリーマンの日常を考えてみよう。毎日朝早く起きて出勤するのは、遅刻が怖いからである。ちゃんと働くのは首になるのが怖いからである。毎日飲んで帰らないのは女房が怖いからである。些細で見逃しがちではあるが、確実に恐怖は人間を駆り立てている。恐怖の力は強大無比だ。そして結局のところ道徳というものでさえも恐怖に支配されているに過ぎない。
 子供の躾けには、叱ったり体罰を加えたりする。その理由は、恐怖が人間の行動を道徳的にするからである。その証拠に叱られない子供は野卑な動物のようである。恐れを知らない者は人間ではなく野獣である。生まれた瞬間に我々に備わっているのは獣性であって人間性ではない。そして、恐怖が人の道徳心を育むとは言え、それは純粋な道徳心が人には備わっていないことの証拠でもある。我々は恐怖によって価値観を矯正されなければ、道徳心、良心、善意識、格率といった類のものは一切備わらないからである。なぜならば、恐怖によって矯正されたものをこそ道徳心と呼んでいるからである。我々は独自の価値観を持っているわけではなく、恐怖によって支配され、矯正された価値観の中でしか生きられない。崇高なる善意識は存在せず、それは恐怖によって支配されたひとつの感情、すなわち自分が悪に堕す恐怖に過ぎないのである。人が罪を犯さないのは多層的な恐怖が人を罪から一時的に遠ざけるに過ぎない。人を支配しているものが恐怖であるから、キリスト教的には人は罪人であって、正しい人はいないのである。

2007年7月12日年金
個人的意見はさておきちょっと統計を調べてみた。
 年金積立金管理運用独立行政法人はそれなりに頑張って、17年度に14.37%、18年度に3.63%の収益があり、2年間で11兆円も収益をあげている。ちゃんと増えているんですよ年金は。無用な施設をドカドカ建設したと言ってマスコミが非難しているけど、そんなのは金額的に微々たる物で目くじらを立てるほどのことはない。しかも年金を受給する前に死ぬ人の分は丸儲けなわけだから、これでどうして年金が足りなくなるのか常識的に考えたら全く意味がわからん。あんだけの巨大な資金を運用して増えないわけがないわけで。とんでもなく見難い社会保険庁の予算決算の概要統計を見ると、平成19年度の基礎年金支給総額が14兆7千億円、厚生年金給付費が23兆6千億円って規模。ここで誰でも思う。足りなくなりそうな理由が思いつかない・・・。年金支給額の20パーセント程度を運用収益で補填できるはずである。数字の上では。それはそうと、どうしてこう見難い統計ばっかなんだろう。しかも、どこをどう探しても年金積立金管理運用独立行政法人の運用収益が社会保険庁と厚生労働省の統計で見当たらない。そりゃそうだ。収益は国庫に納められているんだから。で、俺はこう思うわけ。ちょっ待てよ、なんだそりゃ。基礎年金の国庫負担を1/2に引き上げようとか言ってるくせに、わずか2兆7千億円の国庫負担の財源がない???どういうことなの???じゃあ年金を運用して得た収益はどこへ消えとるんじゃ!!!?よく厚生労働省の財政収支を見ていくと、平成16年度の公的年金制度全体の国庫負担が6兆4千億円で、運用収入が時価ベースで5兆6千億円。国庫負担が運用収益だとむりやり解釈すれば、年間10兆円規模というものすごい額が増えているわけだ。そんでもって積立金がいくらあるのかと言えば、198兆円。198兆円ですよ!!!しかも10年間で37兆円も増えているじゃないか!!!( ゚Д゚)ハァ?
 国庫負担に反対とか何とか言う以前の問題。政治家とかマスコミとかがどんだけ嘘八百しか言っていないのかがよくわかる。いやー調べてみるもんだ。わずか1時間調べただけなのに。結論から言えば、@年金が破綻するなんてありえない。大黒字。A基礎年金の国庫負担率を引き上げるために消費税を上げる必要性は全くない。B保険料を引き上げる必要性も当然ない。C国庫負担を上げる必要性もない。
 なんか詐欺みたいな話で、何の問題もないのに騒いでいるだけ。200兆円の積立金があるのに、なぜそこに新たに税金を投入する必要があるのか。まっっっっっっっっっっっっっっっっっったく理解できん。これは年金をだしにして増税しようという壮大な詐欺である。これを詐欺と呼ばすに何と呼ぼう。ついに自民党支持だった俺も愛想が尽きた。マスコミも死ねばいいと思う。年金記録どころの騒ぎじゃない。年金をだしに消費税を上げたりしたら、後ろからハンマーで叩き殺されても総理に同情する気になれない。

2007年7月9日意味の創造
おそらく、思考というものはどのような場合であっても意味を創出している。意味という、何とも不気味なものに人間の思考は縛られているものだ。人は意味の喪失を恐れている。人生に意味はない、と聞くと嫌悪感を抱くのが人の性だ。人が守ろうとしているものは愛でも人でもなく、意味である。
 どれほど抽象的な概念であろうと、無茶苦茶な妄想であっても、その意味を守るためになら人は平気で血を流す。イデオロギーのために死ぬ人間は意味のために死んでいるわけだ。意味こそが人間を駆り立てる。意味のあるものの全て、つまり言葉が人を駆り立てる。意味は言葉なのだから。
 どんなに漠然とした感覚や感動であったとしても、そこから意味を剥ぎ取ることなどできない。麻薬常習者が麻薬を欲しがるのは快楽の渇望であるが、それさえも言語的であって、意味の希求である。知性が高度あれば、それだけ意味への想いは強く断ち難い。意味から離れた場所に智を築くということは、全くの矛盾なのではあるが、そういう地面のない場所での逆立ちに私は魅せられる。言うまでもなくこの「希求」が言語的であり、かつ言語的な矛盾を孕んでいることは百も承知なのであるが。

2007年7月2日見ざる、言わざる、聞かざる
子供の頃だけの話ではない。大人であっても見ないほうがよいものの方がずっと多く、言わないほうがよいものかずっと多く、聞かないほうがいいものの方がずっと多い。もっと言えば、しないほうがよいことの方が多く、思わないほうがよいもののほうが多く、感じないほうがよいもののほうが多い。もしも全てが悪が遮断されていれば、世界は全くの極楽であり、善悪の全てを受け入れようとする者にとってこの世界は地獄だ。世界は悪に満ちており、その悪は情報を受け入れることによって生じる自分の心のざわめきだ。だから世界は善も悪もないのだが、人の心は何に対しても善悪を分かち、善悪によって心を乱す。
 心に何も産み出さない対象とだけ付き合うことはできない。ならば心に不快なる対象を最初から見ないことだ。好奇心を殺せば世界は何一つ私の心を揺るがさない。好奇心があるから悪しき対象と触れることになる。見ざる、言わざる、聞かざる。いやはや実に真理なり。

2007年6月20日盲目性と確率
深く考えた結論として、確率がひとつの実数を持つという考え方は、立証できない。ものすごく簡単な例を考える。サイコロで1の出る確率が1/6であると考える理由は、@起こりうる事象が6つある。Aそれぞれの事象が起きる確率が完全に等しい、という2つの前提があるからである。しかしこの2つの前提が正しいことをどうやって証明するのだろうか。もしできるとすれば、@サイコロが完全な6面体であることを計測して示す、Aサイコロの重心が6面体の中心にあることを計測して示す、という2つの精密な計測によって示すことになるだろう。しかし、たとえこうした精密な測定によってサイコロが完璧な6面体であったと示したとしても、それによって先に示した前提が完全に正しいことをまだ立証できていない。なぜならば、起こりえる事象が6つであることが証明されていないからだ。たとえば、月のような重力の小さい場所ではサイコロの角を支点にサイコロが立ってしまうかもしれない。そこで仕方がないので事象が6つであることはとりあえず認めることにしよう。しかし、である。ここからが重要だが、たとえ先の2つの前提が正しかったとしても、確率が1/6という定数であると考える必要が全くないのだ。なぜならば、サイコロの目は必ず1つの目だけが出るからである。だから1が出たときには1の出る確率が1だったとしても問題はないし、2が出た時には1の出る確率は0である。ただ、多くの試行を行っていくと、1の出た数を試行回数で割ると1/6に近付くということだ。これを、1が出る確率が1になる確率が1/6である、と表現しても良いことになる。
 ある箱の中に赤玉と白玉が入っていて、赤玉を取り出す確率を1にすることは極めて簡単だ。箱が透明ならば良いのだから。この場合に赤玉を取り出す確率が531/994だ、と表現することに異議を唱えない者はいないだろう。赤玉を取り出す確率が1でない時、箱は透明ではないということだ。要するに、この場合には確率という概念は事象の盲目性を意味しているのである。コインを投げて裏か表かを当てることと、誰かが黒い箱の中に置いたコインの裏表を当てることは完全に同じことである。
 二重スリットを一個ずつ通過した電子は干渉縞を作る。これは、観測されていない状態は例外なく確率が支配するという私の考えを補強する。一個の電子の移動の軌跡を追跡できないのだから、その移動中は確率が支配しているはずだ。観測されないということは、その事象に対して観察者は盲目であるということだ。盲目であればどのような事象も、ある合理性の下に束縛された確率密度分布函数になる。だが、確率密度分布函数は、確率に先立って存在している。確率は確率密度分布函数から導かれる一種の尤度函数に過ぎない。つまり確率がアプリオリに存在すると考える理由がない。さて、厳密化していこう。
 @観測されていない事象、もくはまだ起きていない事象で、後に観測することが予定されている事象は確率密度分布函数が支配している。しかし過去に一度も観察されたことのない事象の確率密度分布函数を推定する手段は全くないはずである。すると、初めて観測する現象が起きる以前には、事象はどのような分布函数を持っていてもよく、函数は無限大の不確かさを持っている。しかし、たった一度でも事象が観察されれば、そこにはある有限の不確かさを持った確率密度分布函数が出現する。よって、ある現象が将来的に観察可能であるならば、その分布函数を推定する手段が必ず存在することになり、自然界は我々が合理的に認識できるような確率現象だけが起きると結論できる。
 A観測とは確率密度分布函数を推定する作業である。
 B確率密度分布函数そのものを観測することはできない。
 C無限回の観測がなければ確率密度分布函数を完全に決定することはできない。よってそれは不確かさを持っている。
 D確率とは確率密度分布函数から導かれる尤度函数の中でゆらいでいる分布である。その最尤推定値が確率なのではない。
 E定まった値を持つ確率は理想的確率である。これは真の確率であるが、真の確率を知る手段はない。真の確率を知る手段がない理由は、@無限回の試行を行うことができない。Aある真なる事例から演繹的に確率を導出することが論理的に可能であるとしても、出発点となる事例が真であるがどうかは実験結果に基づいているため、不確かさが残存する。

2007年6月19日古代の夢
暇を見ては日本の神話、古代史、神社の勉強をしている。だが、なかなか一筋縄ではいかない。日本の古代史は本当に面白く、また複雑怪奇だ。まずは地元の式内社を虱潰しに参詣して調査するとしよう。
 式内社の祭神を統計的に分析することは面白いかもしれない。祭神が誰なのかは極めて大きな歴史的意味を持っていると考えられる。そのためにはなるべく古い神社を選別することが大切だろう。祭神は替えられることが多く、誰が最初に祀られていたかが最も重要だ。しかしそうは言ってもよくはわからないことが多すぎる。神代の昔のことはほとんど推測の域を出ない。なにしろ記紀が編纂された当時でさえも各地の伝承に相当な混乱があったわけで、崇神天皇以前の歴史を正確に知る手段は、それこそ古墳を片っ端から発掘しなければわからないだろう。ただ、いくつかの断片的な古代の情報はそこかしこに残されているようだ。それが地名であり、神社である。

2007年6月12日確率の彼方
統計こそが宇宙の最も根源的理論なのだと思う。確率とは何か、という問いに私は答えたい。今のところ、真の確率というものが絶対的に存在しえると私は理想的に考えている。その真の確率は単一の、不動の数値であるはずだ。もちろんその完全なる確率を知ることは多くの場合できないと思うのだが。ただ、極めて単純な場合、例えば表面に凹凸のない完全な立方体で、かつ重心が立方体の中心にあるサイコロを振って1の出る確率とか、全く同一の大きさと質量を持つ有限個の赤玉と青玉がほぼ均質に混合されて入った箱からランダムに玉を取り出す時の赤玉の出る確率、などはアプリオリに一つの、完全に定義されえる確率が存在すると考えてよいように思ってしまう。この場合には、何か極めて自明な合理的根拠に基づいて1/6とかいう確率が出てくる。つまり起こり得る現象が有限通りしかなく、それらの全てが既知であり、それぞれの事象の起こる確率が同じであるという前提があれば良いわけだ。しかし問題は、もしも確率というものが厳然として存在するとしても、ほとんどの確率的現象に関してはサイコロが見えないということだ。つまり、出た目の数だけは分かるが、それがどんな形のサイコロか分からないということ。この場合には、たとえ1の出る確率がアプリオリに存在していたとしても、人間はそれを認識する手段がないということになる。これでは人間にとっての確率は何回もの試行の繰り返しから確率を推定するしかできないということになる。これでは確率はアポステリオリにしか定義されえない。しかも、この場合には確率はゆらいでしまう。しかし確率の確率分布を考えることには意味がないばかりか数学的な矛盾を引き起こす。確率の区間にルベーグ測度を導入することはできない。これをどう認識すべきなのだろうか。要するに尤度というものが仮構的な函数であると認識すべきかどうかである。確率という概念の中には知の奥義のようなものが潜んでいるのかもしれない。

2007年6月4日切迫
悲観的であることは良くないことであると知りつつも、私は現実に対して基本的に否定的なのである。この世界を肯定し続ける人間への憧れは強い。私は私自身に対していつも語りかける。否定的である私に対して常に私は語りかけ続けなければ、私は私の悲観的性格にすぐに屈服してしまうだろう。
 私に与えられている運命は、私の性格と無関係ではない。私が嫌悪するものが私を運命へと急き立てている。生きるということは常に追い立てられているということに他ならない。生の切迫にはまったく猶予はなく、どのような一瞬においても私は運命によって尻を鞭で叩かれながら、やれ急げ、それ急げと競走馬のように全力で死へと向かうのだ。人生に執行猶予などなく、私はある時は価値に溢れ、ある時は悲しいほどに無価値で、ある時は価値が存在しないというこの人生に、全ての私の生命力と時間とを捧げていく。ありえないような不幸と拷問の妄想に時には苛まされながら、私は一生を賭けて私の人生と和解しなければならない。運命は「人生と和解しろ」といつも私に迫っている。私の感覚は、私が人生と剥離している事実を私に告げ知らせる。私は切り離された自分の頭と胴体を繋ぎ合わせるための方法を考えているようなもので、もしも私が頭を支えるのを止めてしまったら次の瞬間に私の頭はずるりと首から落ちるだろう。
 私は生の力をどこに振り向ければよいのかを知らない。人生において私は何を獲得しえようか。何かを獲得した瞬間にそれは錆付いてしまうものだ。何を求めても、何を獲得しても私の底無しの欲望と野心を満たすことなどできない。私が完全に無気力に堕した時こそ、もしかしたら私は私の望む平安なる世界に到達できるのかもしれない。しかし、運命は私の暢気な望みなど簡単に打ち砕いてしまう。私は人生と和解などできない。運命は私に戦いを強いている。ひとつの和解はひとつの亀裂を生むのだから。私の意志など、運命の前には粉微塵。平安はいつか破られ、再び苦が襲ってくるだろう。何千回も何万回も人は己と和解しては対立する。

2007年5月31日死の論理
死には論理がある。死に至る際も人は論理的だ。言霊と神と死は繋がっている。
 最初の自殺者は一体いつごろの人物であろうか。私はせいぜい数万年前の人間なのではないかと思う。ホモ・サピエンスが誕生して初めて人類は自殺したのではないだろうか。自殺の起源はおそらくかなり新しい。全く科学的根拠はないが私はそう思う。その理由は、自殺とは実に知的で文化的行為であるからだ。自殺はどんな形にせよ社会的な自己の抹殺であり、決して自己の単独なる生物学的死ではない。病死や事故死と自殺とは全く違う。その証拠に自殺する猿はいない。自殺する白痴はいない。自殺の裏には高度な論理性がある。どんなに愚かな自殺であっても、感情的で発作的自殺であっても、それは人間にしか為せない神への反逆なのだ。自殺を禁ずるキリスト教の底流には、人間の生が神たる自然原理に即しているという文化的概念が流れている。それは単なる教理的問題ではなく、人間が知性を獲得したことの意味を「悪」として理解しているということである。この理解は論理的自己認識を獲得した人間の特異性を客観的に認識しているということだ。そしてこの認識は全く新しい認識なのである。我々は自分たちが持つ知性という自然への反逆性に気付いている。そして、困ったことに、自分たちの反逆性に気付きつつも、我々の祖先は言葉と自然を一体的に扱ってきたということだ。つまり、我々は獲得した知性をある時は神とし、ある時は悪の根源としているということなのだ。もしも言葉が神ならば、神は自然と相容れない。なぜならば我々はこの「言葉」によって自己を抹殺する手段と口実を手に入れて自然を裏切るからだ。全く人間とはどこまで皮肉で愛すべき存在なのであろうか。
 言葉が全てを殺し、また人を人として活かす。言葉の強大な力に人類は挑み続け、そして論理の混沌の中で今も進化の方向を模索しているように私には思える。言葉は恐ろしい魔物だが、どうして言葉なしに人々は生きられようか。人は言葉によって自然を制圧し、支配してきたのだから。しかし人は人を言葉で破滅させていくのだ。ある時は自分自身でさえも言葉によって殺す。自殺の原因は自殺者がホモ・サピエンスであるからだ。自殺したホモ・ハビリスなどきっと一人も居なかったに違いない。自殺する必要もなく自然は容赦なく人類を殺し続けてきたのだから。迫り来る外圧的死を前にして自殺するなんて、何と意味のないことか。そんな事態はありはしない。純粋に知的であればあるほど恐ろしい死の誘惑は強大さを増していく。だから言葉が行き着く知の究極において自殺は必ず存在せざるをえない。人生の不可解さを前にしてはどんな言葉も通じないのだから、論理の崩壊を前にして知性は死による解決以外の選択肢を失ってしまう。こうして知は人をこれからも殺し続けるのだ。だから社会が成熟すれば必ず自殺者は増加する。これは知性の性質が齎す必然である。

2007年5月24日
風は良い。心が和む。穏やかな風は良い。心が和む。温かい風は良い。
心の憂いを私が感じた時、思いがけず風が吹き、私の憂いを洗った。不思議な心地であった。私は幸福と言うものを少しだけ勘違いしていたのかもしれない。幸福は心に不安がないことだ、と私は述べてきた。しかし、今の私は、幸福とは心が空っぽの状態のことだと深く感じるのだ。心に何もない時に人は大いなる幸福に包まれる。大自然の美に魅せられる時を考えてみよう。美しい山を見た時、神々しい日の出を見た時、人はその自然の偉大さの前に自分の無力を知り、ただただその圧倒的な美しさに言葉を失うのだ。この世界が言葉から引き離され、我々の心の働きを吹き飛ばしてしまう時、そこにあるものは純粋な心地よさだけだ。
 世界の偉大さと無為なる美の前にはどんな言葉も霞み、心は煩わしい感情と思考から解放されて自由を謳歌する。どうということのない風によって、全く始原的な太古の快い記憶だけを残して全ての思考力が失われてしまうという神秘に、ただただ私は身を任せていたいと思ってしまう。私はしばしば、何か言い知れない懐かしさに心が吸い込まれる感覚を覚える。ある時は春の風の香りに、ある時は何の変哲もない林の木々に、ある時は小川の脇の土の道にそれを感じ、私が確かに彼らと親密な関係を持っていたことを確信して感動するのだ。なぜなのかはわからないが、私の心の中の、古い古い、記憶とさえ呼ぶことのできない何かが確かに実在して、私をある瞬間に完全に無防備なる生の心へと解放してくれる。原型的美は何百万年という間私たちが聞いてきた音や光であって、その美の前に何と人は無力であることか。そしてその無力さの何と心地よいことか。無力なる者は幸福なる者なのだ。私が無力であればあるほど心は解放され機能を失って、完全とか不完全とかいう言葉を寄せ付けない原始の生に私を帰着させてくれる。その時私の心は丸裸で何も為していない。無為なる風が世界を流れるように私の心はどこへでも好きに流れていく。私の魂はこんなにも美しく無垢なのに、如何に私が愚かな思念によって真の智から遠ざかっていたのかと悲しくもなるが、確かに今ここにある無垢なる魂は、私の言葉を破滅させて真の幸福と世の真理を告げ知らせる。

2007年5月21日疑り深い私
信じるということは実に難儀なことだ。私にとっては。どんな対象であろうと私は信じる気にはならない。一時的に信じることはできても確信することなどどうしてできようか。私は真に疑り深い。本当に疑り深い。生来疑り深い。まったくもって疑いの男だ。
 私は自分が誰よりも疑い深いと知るから、私の疑いを晴らすことは絶対にできないと知っている。疑うことは私にとって呼吸するのと同じくらい当然のことなのだ。私は疑いの中に安らぎがないことも知っている。おそらく疑いの極みに至って脳が沸騰しそうになれば、それが楽しいことだとは誰も思わないだろう。
 私はそうした懐疑の上の懐疑のさらに上の懐疑を重ねることで、重要な事実に気付いた。私は私が人間であるが故に制限されている「知」に迫ろうとしたが、そうした知は疑いを晴らすことではなく、疑いを消すことによってしか至らないということだ。疑いを晴らすというのは、その疑いに答えを出すことだ。しかし疑いを消すというのは、疑いに対して答えを出さない。どんなに抽象的な疑いであろうとも、人間が発する疑いは全て論理的であることを私は知っている。そして論理はどうやっても完璧な正しさを保障できない。全く荒唐無稽な何かを信じ込むことの方が疑うことよりも気楽で幸福なことだ。荒唐無稽なものと、そうでないものを究極的に区別などできない。論理は決して保障されないのだから。それならば荒唐無稽な迷信でも信じるほうが余程人の心は鎮まる。
 とは言っても私が馬鹿げた御伽噺や作り話を信じられるはずもない。私の疑いを完全に滅ぼす方法があるのだろうか。私は自分が得た体験でさえもいつもいつも疑っている。聖トマスはキリストの槍にさされた脇腹に指を入れるまで復活を信じなかったが、私が彼と同じ体験をしても信じられるかどうかは疑わしい。自分の体験に対してさえも懐疑的であるならば、この世に信ずるに足る対象は何もないということなのだ。私が「生存」なるものに辿りついたのは、私自身の厳格すぎる疑いに終止符を打つためだった。何か一つでも、真に超越的な実在を私は欲したのだ。私はいつも直接神と対話しようとし、ある時は私に強い霊感を与えた。しかし私は疑う。その超越的存在は実在的なのか、強い霊感と気の迷いとどれほどの差があるのか、と。確かな宗教体験とこの世の真理とは本当に繋がっているのか、と。悟りは本当に究極なるものなのか、と。
 私は求めるものがいつも計り知れなく大きい。私が求める智慧も限りなく大きい。私は完璧にして究極なるもの以外には何の興味もない。智慧は完璧でなければ意味がない。私はこの世と私の全てを完全に理解したいのだ。この沸き起こるような知への欲求と渇望が私を疑いの塊にする。もっと上があるはずだ。もっと深い境地があるはずだ、そう思ってしまう。もしも私が疑うということを止めることが出来たのならば、そのときこそ私が完全に定立した知を獲得した瞬間と言うことだろう。しかし、私が「これだ」と思うものを得たとしても1週間くらいでまた満足できなくなる可能性は高い。

2007年5月2日遊びとは
なぜ人は遊ぶのか。なぜ遊びを楽しいと感じることができるのか。楽しいという感情はそもそも何なのか。非生産的な活動である遊びが楽しさとして肯定されるのならば、我々は基本的に生産的な生き物とはいえないのではないか。非生産的活動が我々に対してどのような益をもたらすのだろうか。仔猫がじゃれあっているのは将来的にはその遊びのような行為が狩りの際に活かされるのだろうと思われる。しかし、人間の子供が遊ぶのはともかく、大人が遊ぶことに何の意味があろうか。情操教育としての機能はまるっきりゼロである。大人であるのだから。では何のために遊ぶという行為があるのか。この無駄な行為が人間を措定するひとつの要素であることは疑いようがない。ホモ・ルーデンスとはよく言ったものだ。
 遊びとは狭義の論理性である。ロゴスが全て遊びの中に包含されるとは思えないが(これは遊びという概念の曖昧さに依存してしまうが)、少なくとも遊びは論理的活動であって、論理的でない活動は遊びではない。既定の取り決めがあれば、その取り決めの中に遊び、もしくは遊び的要素がある。だから非常に生産的活動と純粋な遊びという全く生産的でない活動の根源は共通の論理性が機能していることになる。私はそこで、人間を措定しうるような他生物に見られない行動特性や特徴は、全て同一の論理的思考活動によって発生しているという仮説を立てよう。人は言葉を話し、歌を歌い、楽器を奏で、服を着、化粧をし、踊り、酒を飲み、遊ぶ。全て我々の脳の論理的機能故である。
 「神は我々に知性を与え、我々はその知性によって世界を論理の鎖で作り直した。どうして遊ばずにいられようか。全てが論理によって繋がれているのに、全てにルールを見出す私たちなのに、そこに遊びが発生しないはずがないのだ。世界という遊園地に私たちはいる。我々はエデンという監獄から抜け出して、全くの自由なる遊びの中に解放された。」こんな風に言うことも面白かろう。

2007年5月1日金持ちになるためには吝嗇であるべきか
富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる。持っていない者は持っていないものまで取り上げられ、持てる者はもっと与えられる。富が富を産み出し、貧困が貧困を産み出すのは世の習いであるからだ。富を蓄積できないものは貧困から抜け出す手段がない。富を産み出す原動力が富である以上、生産手段としての富がなければ富は生まれない。富を持つものはその富を生産手段として富を際限なく生み出せる。
 一年間に資産を1割増やすことができるならば、10年間で資産は2.59倍になり、20年間では6.73倍になる。無駄遣いをせずに堅実に資産を運用すれば資産は加速度的に増大していくということだ。一方で借金というものも同じように加速度的に増大していく。
 幸福とは不安のない状態である。貧乏ならば毎日が不安だろう。明日どうやって生きていこうかと考えている者の心に余裕が生まれるはずがない。毎年のように貯金が目減りしていくのならば同じような不安に駆られるかもしれない。はっきり言って、極貧の中で不安なく生きていけるほどの聖人は極めて少ない。お寺に相談に来る者の多くはお金に関する相談をするという。全く愚かしいとは思うが、それが現実というものだ。全く労働をしなくとも一生困らないだけの資産があればどんな凡夫でも不安には駆られないだろうから、そういう状態にできるように堅実に生きることだ。まともに生きていれば一生食うに困らないだけの資産を普通は作れるのだから、くだらないことに金を使うことを止めればよい。逆に言えば人々は無駄遣いをしすぎているのだ。
 主婦の倹約術のようなものをよくテレビで放送しているが、何と馬鹿げたことかと私は正直思う。10円20円ケチることに意味などない。私はかなりケチになっているが、食費をケチることの効果の少なさには愕然とするばかりだ。なぜならば、外食をしなければ食費など家計の中では微々たる物なのだ。私は100円以下の豆腐なんて買わないし、卵も一番高いものを買う。大した額じゃないのだから。吝嗇になるならば、最も出費の大きいものから取り掛からなければ意味がない。まずは家賃もしくは家のローン。要するに住む場所をちゃんと考えることから始めることだ。最も無意味な資産の浪費は不動産を買うことである。なぜならば、バブル期じゃないので全く資産は増えず、むしろ減る一方。しかも税金まで払う必要がある。地震や火事でなくなってしまう可能性もあるし、集合住宅ならうるさい隣人がいた場合どうにもならない。だから私は絶対マンションなんか買わないし、一生借家でもいい。気に入らなければ移れる上、税金も払わなくていいし、メンテナンスをする必要もない。どうせ誰かが新築物件をどんどん作ってくれるのだから、古い家に住む必要がない。20年も経てば資産価値なんて全くないマンションを買う意味が私にはわからない。単に所有欲を満たしているだけなのだから、もっと割り切った考え方をしないと不動産と心中しかねない。そう簡単に不動産なんて売れませんよ、と。経済性を考えずにおしゃれな街に住もうとするような奴は、もう勝手に銀行のためにローンを払っていればいい。その分を銀行と投資家が頂くだけである。つまらない見栄のために不動産を買って借金を払う人がいるおかげで経済感覚のある投資家は潤うわけ。私は搾取する側にはなっても搾取される側にわざわざなったりはしない。
 次に大きい出費は車だ。車の維持は本当に大変だ。昨日の定期点検で63000円払ったが、本当に車はお金が掛かる。割り切って軽に乗るのが最も経済的だが事故の際にはまず死ぬと思ったほうがいい。自分の命とお金を天秤にかけて、自分は経済性重視だと思えるならば軽かバイクに乗るのが最適解。どうしても事故死したくないならばちゃんとした車を買うだろうがそのかわり非常に不経済だ。正直自分も今後どんな車を買うのが最も効果的かつ経済的なのかわからない。ただ、ケチることの経済効果が絶大であることは確かだろう。  結論。ケチるなら食費や光熱費じゃなくて家賃か車だ。そこをケチってから食費をケチれよ、と思うわけだ。食費をケチるくせに煙草を吸い続ける奴は間違いなく一生駄目人間だろうし、食費をケチってパチンコしてる奴くらいになると、もう死んでしまえとさえ思う。食費をケチる奴で大成した人間を私は見たことがない。
 家の中が物で溢れかえっている家があるが、あの手の者も間違いなく大成しないか没落する。ゴミ屋敷の主人のように。無駄なものを買う人間は金持ちになれない。買うことは容易いが、捨てることは容易ではないのだ。私は物を買うときには常に捨てることを前提にして買う。捨てる方法がなさそうなものはなるべく買わない。私は買うことよりも捨てることに快感を見出すくらい捨てることが好きである。整理整頓は捨てることが基本であり、整然と物が並んでいることは経済的なのだ。使いたいものがすぐに出てくるので同じものを2つ買ったりすることがない。散らかっていれば何が何処にあるのか分からず、必要なものが出てこないので持っているものを再び買うことになったりする。同じ物を二度買うことは極めて不経済である。だから捨てないことよりも捨てることの方がずっと経済的である。それに「勿体無い」という感覚は物に対する執着であるから、こういう感情ははっきりと悪である。ケチって捨てないのではなく、ケチるために捨てまくれ、と私は言いたい。使わないものが占有している空間が実に不経済だ。それに3年間使わないものはまず間違いなく一生使わない。容赦なく捨てることだ。

2007年4月27日知の限界の意味
我々の脳が持つ認識能力は我々の脳の容積依存なのか。脳の肥大化が我々の知性の発生の主たる原因であると考えるならば、我々の知性の限界もまた我々の脳の容積によって制約を受けるはずだ。コンピュータの並列処理のように我々は言語を介して脳の間をリンクして脳の容積を原理的に全人類的に拡張できるとしても、微々たる容積しか持ち得ない。たとえ地球と同じだけの大きさを持った巨大な脳であっても宇宙の全てを認識するにはとても足りそうにない。
 私が知性の限界は人類が有する脳の容積の和であると考えることにした時、これを否定できそうな根拠はどこにもない。もしも私の脳の知力の源が物質的でないのならば、私は私自身の知性の限界を感じることなどないだろう。だが知性は確かに物質的であって、物質的であるからこそ有限な処理能力しか持たない。記憶はどんどん揮発していくし、計算能力は日々落ちていく。磨耗していく知性には歯止めがかけられず、最後には痴呆となって夜道を徘徊するかもしれない。
 無目的な思考が私の脳の活動時間の大半を占めている。また本気で脳を酷使しようとすれば必ず安全装置のような機構が働いて、脳は破壊を免れようとする。知性の限界とは人間の論理的思考のソフトウェア的限界という側面もあろうが、ハードウェア的限界もあるのだ。それは脳の容積依存と言える。人類の脳が巨大化した理由は、脳の計算能力をこれ以上集積させる方法がなかったからだ。詳しくは知らないが、様々な哺乳動物と人間の脳との間に質的な差があるとは思えない。基本的に同じ原理で計算していることだろう。
 もう一つだけ加えておけば、一人の人間が理解できないことは誰も理解できないということだ。一人だと理解できないが二人ならば理解できるという事態は存在しない。我々は我々の脳を共有できないからである。

2007年4月9日ストレスマネージメント
週末に実家でストレスマネージメントの本を読み、これはなかなかちゃんとした学問だわいと感心した。ぜひとも一度は勉強してほしい学問だ。最も実効性のある実学かもしれない。自分の人格特性を理解し、ストレスを軽減する技術を身につけることは大切なことである。
 私はself-esteem(自尊心)とself-efficacy(自己抗力感)が極めて高いらしい。self-esteemとは自己を尊重する感情(プライドとは違う)であり、self-efficacyとは問題を自己解決できる可能性や自信を表したものである。これらが高いということはストレスを感じにくい逞しい人格ということのようだ。こうした感情を高めることはストレスに対する耐性を高めることや自己実現をする上で重要なのだろう。  病気の罹患率と行動パターンとの因果関係はよく研究されており、特にType A Behavior Pattern(タイプA行動)という概念が重要らしい。このタイプは自分で立てた目標の実現に向けて邁進する強い要求や強い競争心、過敏性や攻撃性に特徴のあるパターンで、虚血性心疾患の危険因子として知られている。心理学を勉強することは自己を客観視させる良い契機を与えるようで、ストレス社会を生き抜く上で好ましいことだ。私の場合、タイプA行動パターンの程度は適度で、行動パターンは成長と共に変化している。私の自己格闘とは自分の性格との闘いであったわけだから、当然行動パターンも修正される。今の私は常に余裕を持ち、マイペースで決して焦らない。

2007年4月5日二度あることは三度ある
 はっきり言える事は、見るということは外側から光の情報がやってくることではなく、視覚に対して心の側が寄るということである。心を向ければ見え、聞こえ、感じるのだ。心の主体的働きが五感である。知覚が知覚そのものとして存在しているわけではない。だから五感は空である。真っ暗闇の中でも人間はいくらでも妄想によって映像を作ることができる。昼間はたまたま光の情報が目から入ってきているのでその情報を脳が優先的に処理しているに過ぎない。光がなければ心は勝手気ままに視覚を作り出す。別の言い方をすれば、限りない視覚的妄想の氾濫が、光のある間は光による外力を受けて制限されているだけだ。視覚の正体は妄想であって、実体なき混沌のような妄念をうまいこと光の情報に添うように調節しているというわけだ。人間の心はこのように、元来は形なく実体なき妄想の奔流を、感覚器官から齎される情報に合わせて変形させることで実体化させているのである。しかしその実体化された情報だけを意識的自我は受け取るので、それが実体であると信じて疑わない。まさか自分の心が自分を騙しているとは気付かない。しかし本当はこの世界に実体はなく、完全な空なのである。空とは無でもなく有でもないことであり、言葉では表現のしようがないので、とりあえず空なのだ。空であるということは、妄想を産み出す心も空であり、自我も空ということに他ならない。心が在り、その実在的な心が機能しているという考え方は間違いである。実在を措定する方法は一切存在しないのである。論理性は完全に崩壊し、存在論自体が存在しえず、ただ心だけがあるわけでもなく、全くの空。これが正しい哲学だったのである。あーあ、なんてこった。  正しい見解を得たとしても、それを維持し、身につけ、深めることは難しい。悟りの働きが活き活きとした日常生活の隅々にまで発揮されるようになるためには長い期間の修養が必要だろう。二度目の悟りは三度目の悟りの前触れに過ぎず、私は死ぬまで悟り続けなければならない。それこそ何十回と。果てしない求道と修養。それが我が人生だ。

2007年4月4日コンポジット端子
前々から気になっていたことがある。それはコンポジット接続端子、所謂ビデオ端子のことだ。あの黄色い奴。なぜあれがなくならないのか疑問でならない。誰があの端子を使っているのだろう。すごく古いテレビを使っているご老人だろうか、というとそうでもなく、きっと多くの人が使っている。し・か・た・な・く!
 コンピュータの世界ではインターフェースはどんどん変わって古いインターフェースは消えていく。最新のコンピュータにISAバスがついていたら皆爆笑するだろう。なのにコンポジット端子が製品についていても疑問を感じない家電の世界って何なんだ。Blu-rayディスクレコーダーにコンポジット映像出力端子がついていることに誰かツッコンでくれよ。あれはネタか?もうね、アホかと。バカかと。この端子を使ってBlu-rayディスク観る頭のおかしい人なんて誰一人いません。断言します。そんな想像を絶するほど機械に疎い人間が高いお金出してBlu-rayディスクレコーダーなんて高いもの買うわけないでしょほんとに。買う人間はAVマニアだよどう考えても。それなのになぜコンポジット?何を狙っているのかがサッパリ意味不明だ。ハイビジョンテレビを持っていないし買う予定もない人間がBlu-rayディスクレコーダーを買うなんてアクロバティックな奇行に及ぶとメーカーは思っているのだろうか。
 今だにAVアンプからコンポジットが消えてくれないのは本当に迷惑だ。コンポジットで繋げたくなってしまうような間抜けな人はAVアンプなんて買いません。録画するにしてもS端子しか使わないだろ普通。あくまで緊急用だコンポジットは。コンポジットしかない古い機器のための。フロッピードライブみたいなもの。コンポジットなんていう全く使わないインターフェースがあるおかげでD端子とかHDMI端子の数が空間的に圧迫されているなんて許しがたいことだ。一刻も早くコンポジットを家電から消滅させなければデジタル家電に未来なんてないと断言する。高いお金出して買ったXBOX360やPS3といった次世代ゲーム機をコンポジットでテレビに繋げて何が楽しいんですか。D端子のついていないテレビを使っている人が人口の何パーセントいるんですか。コンポジットがなくなればコンポジットで繋げることが原理的にできなくなるので無理にでも高画質を体感させることができる。高画質を体感させなければ次世代ゲーム機も次世代DVDもクソもないだろ。あれだけ高画質を謳っておいてHDMIケーブルじゃなくコンポジットをデフォルトでPS3につけるソニーの神経が信じられない。
 コンポジットを使っている人のほとんどは、機器にコンポジットがデフォルトでくっついてるから何の疑いもなく使っているわけだ。コンポジットを使い続けるからデジタル家電の魅力を十分に消費者に体験させられず、大したことがないような印象を与えて購買意欲を奪う。これってどう見ても悪循環だが、家電メーカーはあいも変わらずコンポジットコンポジット。かつてワイドテレビなる超無意味商品を消費者に押し付けるほどの強引さがありながらなぜお前らはD端子やHDMI端子を押し付ける強引さがないんだ。同じ性能でコンポジット端子がある製品とない製品があったら私は間違いなく、ない製品を選ぶ。だってコンポジットなんてクソを付けるんだから他の部分もクソに違いない。コンポジットはクソだという自覚を国民に持ってほしい。コンポジットは時代遅れの何の役にも立たない場所ふさぎだ。もう、私は、本当に、コンポジットがウザくて堪らんのだ。あいつは公害だ。消費者を騙している。実例を挙げよう。

Aさんは自慢のハイビジョンテレビでゲームを楽しんだりBlu-rayディスクを鑑賞するするためにPS3を買いました。あまり機械に詳しくないAさんは高画質を期待してPS3を買い、何の迷いもなく添付されているコンポジットケーブルでテレビに接続しました。それ以外にケーブルはないからです。ところが画面がボケボケで、とても高画質とは言いがたいその酷い画質にAさんは戸惑いました。なんと別売のケーブルを買わなければハイビジョンで出力できなかったのです。Aさんは大変驚きました。

メーカー側は完全に間違った判断をしている。本来ならば、HDMIかD端子ケーブルを添付して、コンポジットケーブルを別売にしなければならないのだ。普通の神経の人なら、まさか標準添付のケーブルが最低クオリティの野グソみたいなインターフェースだなんて思わない。例えば、すごく高性能の高級車を買ったとする。すごいエンジンだ。しかし、別売のアクセルペダルを買わないとちゃんとアクセルを踏めません、という仕様だったらどう思うか。誰だって、「ええ!!!そこが別売になっちゃうんだ!!!アリエネー!!!!!」と唾を飛ばしながら絶叫するだろう。性能はあるのにその性能が別売のアクセルペダル1個のせいで発揮できないなんて仕様はどう考えても理解不能。でも家電・ゲーム業界ではそれがまかり通ってしまっている。知らない人は、まさかケーブル一本でそんなに画質が変わるものかと思うだろうが、コンポジットとD端子の画質の差が判別できない人は目が見えない人か目がない人だけだ。D端子接続のPS2はコンポジット接続のPS3より断然綺麗だ。HDMIやD端子の映像とコンポジットの映像の差は人間とダニ、太陽と線香花火、美女とウンコ、呂布と劉禅、Core2DuoとMC68000、富士山と砂浜のカニのお墓、ゴジラとプラナリア、とまあそれくらい違うのだ。
 そりゃあ世の中には古いテレビを使っている人はたくさんいるだろう。だが、そういう古いテレビのユーザーは高画質なんて最初から求めていないわけだ。だからそもそも高画質を謳った機器なんて興味がないから買わない。廉価な機器のコンポジット接続で必要十分である。しかし、わざわざ高画質を謳った商品にコンポジットを標準添付するってことは、高性能機器を高い価格で買わせておいて、お前らはこの機器の性能を発揮できるようなテレビを持っていない貧乏人なんだろうからコンポジット接続の最低画質でせいぜい楽しんどけってことなわけだ。なんつー傲慢。なんつー詐欺。AV機器に詳しくない大多数の方々で、しかもお金持ちですごいテレビ持ってる老人なんてたくさんいるんだボケが。その老人がわざわざ高画質を堪能できないようにトラップとばかりにコンポジットのケーブルを箱に潜ませておくなんて、なんと狡猾な策略であることか。最初からケーブルがなければ、誰もコンポット接続なんてしないものを。悪魔とてこれほど非道で冷酷な策謀は思いつくまい。だから私はこう言いたい。消費者を馬鹿にするのもいいかげんにいろ!!!
 とにかく諸悪の根源はコンポジットだ。あいつさえこの世から消滅してくれるのならば、私は3日間パン食で我慢してやろうというくらいの覚悟がある。

2007年4月3日無の体験
一昨日、漸くにして心の意識的作用を完全に停止させることに成功した。悟りというものなのだろうが、「悟った」という表現はどことなく大仰で気に入らない。悟りはそんなに大層なものじゃない。まして大悟なんて言葉は最悪だ。
 酷い下痢をしている中、我慢して布団の上で座禅をしていた。悟りに健康体は必要ないようだ。アパートの一室であるから場所も関係ない。要するにどこでも誰でも悟れます。
 ある意味拍子抜けだ。まず、感動が無い。私は悟りがすごく感動的な体験だと思っていたから。しかし、どういうわけかちっとも感動しない。感動もないし喜びもない。神秘的でもない。「なんてこった、こんなに単純で馬鹿馬鹿しいことだったのか」というのが今の感想である。悟りとはものすごく単純なことだ。ある意味誰でも一度は悟りの体験を持っているのではないだろうか。ただ、その一瞬を見過ごしているだけなのではないだろうか。そんな気がする。
 ただ、これは言える。私の今までの考えは間違いであった。間違いというよりも勘違いに近い。そして、無の体験が無ければ絶対に勘違いは正されない。ほとんどの人間は死ぬまで勘違いした世界に生きている。この事実は揺るがない。
 悟りを言葉で表現するから、悟りは難しいもの、困難で得がたい精神の極みのように感じられてしまう。しかしそれは間違いである。本当に単純で、簡単なことなのだ。
 私の悟りの内容は、漢字五文字で「一切唯心造」である。一切は心の造りだしたものである、ということであり、これこそ悟りそのものである。これ以外の如何なる言葉も要らないし、誤解を生むことになるだろう。一切唯心造こそ、最も端的に悟りの要諦を表す言葉である。
 譬えると、ワインのテイスティングノートをいくら読んでもワインの味はわからない。しかし一度そのワインを飲めば、なぜそのテイスティングノートでそのワインの味と香りをそのように表現したのかが理解できる。経典も同じである。何万回経典を読んでも、それだけでは絶対に内容を理解できない。しかも読めば読むほど複雑に考えてしまい、混乱をきたす。ズバリ読まないほうがいい。
 悟りを得れば、なぜ釈尊が四諦を説いたのか理解できる。無明が何かも理解できる。はっきり言って、無明はものすごく簡単なことだった。ようするに「勘違いの源」である。悟りとは勘違いに気付くということなのだ。勘違いという言葉はすごく良い。しっくりくる。迷いや苦しみは勘違いである。自分で勝手に作り出して自分で勝手に苦しんでいる。これは勘違いである。自分で家に火をつけておいて、家事だー!と大慌てする人を見たら、馬鹿じゃないかと思うだろう。そこで「お前が自分で火をつけたんだろ」と言われれば、「そ、そうだった。アホか俺は」と普通は思う。つまり、「アホか俺は」という体験が悟りなのだ。こんな単純でアホらしいこと、誰もが体験できるに決まっている。悟りを得られない人間がいる方が不思議なくらいだ。
 悟りを得る条件をまとめると、人間であること、以上終わり、となる。健康体である必要もないし、知能も必要ないし、特別な施設も場所も必要ない。霊感なんて全く不要だし、激しい苦行も必要ないし、出家する必要も無い。唯一必要かと思うものは、多くの苦である。しかし普通に生きていれば人生には色々な困難があるわけで、苦に事欠かないのが人間である。なぜ苦が必要なのかと言えば、火事が酷くならないと自分で火をつけたことに気付かないからである。火事が酷くなればさすがに慌てるだろう。だから全く苦しみの無い人生を送っている人が悟る可能性は限りなく0になってしまう。まあそんな人はほとんどいないので問題にはならないだろうが。

2007年3月30日科学と自由意志
完全な機械論的自然観は人間の自由意志の存在を否定する。この点に19世紀以前の科学者がちゃんと気付いていたかは不明だが、ほとんど「まともに」議論されていないように私には見える。現代の科学者にしてもこの問題に対して真剣に栗組んでいる人間がはたして何人いるだろうか。ここで言う真剣さとは哲学的真剣さであるが。
 たとえ不確定性原理があろうとも、確率というものが実在的であろうとも、我々の自由意志は著しい制限を受けていることは間違いない。そこでこう問わねばならない。自由意志は制限つきなのか、それとも自由意志はないのか、と。
 自由意志がほぼ存在しないことを証明する事例をまず挙げよう。一卵性双生児の言動が非常によく似ていることはよく知られている。ほぼ同じ環境で育った双子だけではなく、全く異なる環境で育てられた双子であっても極めて似たような言動をするのである。これは、人間の性格や行動などは全て遺伝子によって、そしてその発現としての脳の機構によってほぼ既定であることを示している。もしも自由意志というものが存在し、その自由意志がある確率的制限を受けるにしろその確率の範囲内で自由な選択性があるとするのならば、双子の類似性は説明できない。似たような選択をするということは、選択が極めて自由度を欠いているということなのだ。ちなみに、自由に選択した結果が似てしまった、というのは全く間違った結論であり、それは自由と呼ばない。客観的に観察できない「自由」を議論しても意味がない上に、似たような選択をするということは客観的には不自由な選択をしていることに他ならない。つまり、自由意志がたとえ存在するとしても、極めて狭い確率の範囲でしかそれは発揮されないということである。また自由意志の積み重ねによって人格や人生が決定されているとすれば、双子は年を取るにつれてどんどんと似なくなっていくはずだが、事実は逆である。年を取るほど似てくるのだ。
 科学的に自由意志の存在を決して証明できないということは極めて重要だ。生物以外のどんな存在に対しても我々は自由意志を見出さない。確率的事象を自由意志とは呼ばない。例えば、サイコロ自身が出る目を自由に選択しているとは誰も思っていない。しかし自分がじゃんけんでグーを出すことは自分の自由意志の結果だと信じているのである。もしも自由意志というものが存在するとすれば、生物だけが宇宙の物理化学的法則の支配を受けていないと極論できてしまう。これは全く馬鹿げた結論であることは言うまでもない。サイコロの目とじゃんけんとでは客観的にはほぼ同じ現象である。ロボットがしているじゃんけんと人間がしているじゃんけんを科学的には区別できないのだ!
 よって、自由意志は完全に主観的な思い込みである以上絶対に証明できない。私はこれを自由に選びました、という自己申告だけで自由意志の存在を認めることはできない。証明できないから自由意志があるとは言えない。むしろ自由意志がないと考えるほうがずっと合理的である。我々は自由意志がないという結論を生理的に拒否しているだけだ。だから私はこのように結論する。証明可能な自由意志はなく、あるのは、自己の選択が自由であったと思い込む脳の機構である。この機構は間違いなくある。
 選択とは計算である。計算するから選択できる。どちらが有効か、どちらが得か、どちらが良いか、どちらが正しいか、全ては計算である。自分の脳が計算を行って結論を出すわけだから、結論を導き出したのは自分である。これは間違いない。しかし脳は物質であり、脳の機構と計算能力は既定である。だから導き出される結論の自由度は著しく低いと言わざるをえない。さらに、自分が計算した=自分が自由に決定した、という結論は奇妙である。模型店で買ってきた模型を組み立てて、これを作ったのは自分だと言うのは正しいが、私が自由にその模型を作ったというのはおかしい。既定の決まりの上でそれをなぞっただけで「自由」を主張できるのならば、自然界の全ての事象に自由意志を認めなければ矛盾する。我々は自分の脳で計算したことを自分の自由意思であると勘違いしているのだ。この勘違いをうまく利用してやればマインドコントロールできる。
 度々私は人間には自由意志がないと主張しているが、今日の議論によって私はますますその考えの正しさを確信することになった。自由意志が存在することを科学的に証明する方法は存在しない。もっと言えば、我々には実体的な意識というものはない。意識は虚構であり、意識が自分でもない。いずれ我々は生身の人間と人工知能を区別できなくなるだろう。完全な人工知能は原理的に完成しうる。なぜならば、意識とか自由意志は最初から存在しないからである。機械に魂を吹き込む必要はないわけで、そんなものは人間にもないのだ。だから機械に自己認識のプログラム、すなわち自分には意識や自由意志があると思い込むようにさせればそれでよいことになる。こういう時代になれば人間は戸惑うことになる。我々は何者かと自問自答しはじめる。そこで人々が意識が「ない」ことに気付ければよいのだが、おそらくそうはいくまい。最後まで「自由」を守るために闘うだろう。それが人間の脳に備わった機構なのだから仕方がない。

2007年3月28日発作〜自殺〜遺書
感覚遮断実験というものがある。感覚を遮断すると感覚の正体が出現する。そして、人間は刺戟を食べて生きていることに気付く。私は普段から感覚を遮断しがちなので、刺戟を求める本能が発作を起こすのだろうか。原因は色々あろうが、私は極端に酷い鬱状態に突如として入ることが多い。昔は梅雨時におかしくなっていたが、最近では季節などお構いなしに鬱は襲ってくる。自分なりに色々と対処方法を正気のときに考えてはみるものの、いざ発作が起きると如何ともしがたいのだ。結局は本能の激しい貪りと怒りが憎悪を爆発させて理性を撃滅してしまう。これは私と言う生物に附帯した機構的欠陥だと思う。車ならリコールものだが、残念ながら脳味噌を直すことはできない。おそらく多くの人が脳に欠陥を抱えているのだろう。それが私ほどの欠陥かは知り得ようもないが。自分が酷い鬱状態に入っていると、「自分は今一時的に鬱になっているのだ」などと客観的に自分を見ることは絶対にできなくなってしまう。その憂鬱なる一瞬が時間の全てであり、自分の全てになってしまう。どうやっても自分を相対化できない。つまり自己を相対化できない状態こそが鬱なのだ。なぜ相対化できないのか。理性が機能していないからである。だから理性のない動物は常に発狂した状態にある。結局は「理性と生存が和解する」という状態を作り出せない限り、私はいつまでも発作の時限爆弾を抱え続けることになるのだ。和解しなければ私は発作の中で相対化されざる自己を、いとも容易く抹殺してしまう可能性がある。つまり自殺するということだ。今の私には死を思い止まらせるしがらみが何もない。
 遺書を残して死ぬほうが異常なのだと私は思う。遺書を書くほど現世に対する配慮がありながら死ぬというのは不自然なのだ。現に私は遺書を書いたが死ななかった。多分今私が自殺するとしたら遺書は書かない。書いたとしても辞世の句程度の短いものだろう。実際に自殺者の多くは遺書を書かない。自殺者は遺書を書くと思っている人は自殺の意味を知らないということだ。自殺の理由は断絶なのである。しかも、ほぼ完全に世界から断絶していなければ死なない。執念があれば死なない。未練があれば死なない。いじめっこに仕返しをしようと思うほどの子なら死なない。人は完全に遮断された世界に置かれた時に死ぬ。感覚遮断を続ければ人は必ず自殺するはずだ。だから私は人間は刺戟を食って生きていると言うのだ。食い物が多すぎても少なすぎても人は死ぬだろう。だから激しいストレスで人は自殺するし、完全な孤独でも人は死ぬ。そして私が憂慮していることは、私を生に繋ぎとめるほどの執着が今の私には全くないということだ。だから発作が起きれば平然と全てを遮断して勝手に世界から自分を断絶させてしまう。世界から全くの絶縁状態になれば、遺書を残さずに自殺する可能性が非常高くなる。どういう風に遺書を書こうかとか、どうやって死のうかと考えているうちは安全だ。遺書や自殺方法という積極性が生へと繋がる。しかしそういう気持ちもなくなったら本当に危ない。自殺の前は死すら見えていないのだから。今の私は、自殺する時は遺書は書かないだろうとはっきり言えるから、本当にこれは危険なことなのだ。しかもどうやって自殺しようかともまともに考えないだろう。この世に対する一切の配慮がなくなった時には人は死ぬ。
 最後にもう一度。私が遺書を書いたとしたら私は死なない。安心だ。しかし遺書を書けなくなった時、私は間違いなく自殺する。そうならないように努力するが。

2007年3月27日針の上
まるで針の上に片足で乗っているようだ。いつものことだが、いつ首を吊ってもおかしくないほどに不安定極まる状態。私にとって全ての活動は気を紛らわすためにあるのだ。気を紛らわしていないと、すぐに心は絶望に埋没する。何もしなければ、手持ち無沙汰ならば、暇ならば、私は極めて重大な生命の危機に陥ってしまう。つくづく嫌気がさすが、性格を治癒することはできない。これは病気だ。私は病人なのだ。だから私はそれを治そうとする。治りはしないが、治そうとしてしまう。人間の性だ。
 人は希望なくして生きられない。しかし私には希望がない。希望を持てたことが無い。一度も。私は死を恐怖するが、それは死が完全な自分の滅亡を意味していないかもしれないという恐怖だ。自分が若返ってもう一度自分の人生を追体験しなければならないくらいならば私は灯油を被って焼身自殺する。その方がましだ。エジプトのファラオは自分の肉体をミイラにするほど生きることが好きだったらしいが、私は自分の遺体を高エネルギーの量子ビームで素粒子レベルにまで粉々にしてしまいたい。絶対にこの世に戻ってくることがないように。それほどに生きることを私は憎んでいる。私ははっきりと私が嫌いだ。いや、嫌いなどという生易しいものではない。私にとって自分は最も憎むべき対象、滅ぼすべき対象、忌むべき呪縛、穢れそのもの、あってはならぬもの、存在を認めてはならないもの。私の心は憎悪で満ちている。どうやっても消し去れない生理的欲求が私自身を憎悪している。間違った認識は正しい認識を簡単に踏み潰す。私には憎悪と戦う力が残っていない。私自身とどうやって私は闘えばいいのだ。私の全てが私自身を砕く。私という呪いを振り払う気力がない。私は私を死なないように、生きていられるように抗う。ではなぜ私を生に留めようとする力が憎悪でしかないのだ。その憎悪は憎悪そのものによって憎悪自体を消し去ってしまうかもしれない危険を冒してまで、どうして憎悪によって私を生に繋げるのだ。どうして素直に私は私に希望を与えない。一切は苦であるのに、なぜ死の希望を神は地上に残さない。何度私を死に対してさえ絶望させるのだ。この地上には何一つ良いものはなく、美しいものもなく、それであってもなぜ我々に善を強いるのだ。善の無価値を私に教えておきながら、愛の無価値を私に教えておきながら、それでも「生きろ」という理不尽に私はこれまで屈服してきた。もしかしたら理不尽ではないかもしれないと信じてきたからだ。この世にたったひとつでも希望があるのならば、私はこんなにも憎悪に頼らないだろう。しかし残されているのはただ一つの、消しがたき憎悪ではないか。その憎悪を私は紛らわすことで命を繋いでいるのだ。こんなにも馬鹿馬鹿しいことがあるか。もしもこの憎悪に何の意味もないとしたら、私と言う奴隷は未来永劫、奴隷のままだ。この命を差し出してでも私には求めるものがあるのに、私の命にはどうしてこんなにも価値がないのだ。ああ、できることならば今すぐにでも発狂して精神病院で暮らしたい。私の心を破壊できる者のためならば喜んで命を差し出そう。

2007年3月26日演算速度問題
宇宙の物理法則がどうやって計算されているのかをもう一度考えてみた。便宜上、この問題を演算速度問題と名づけよう。なぜ宇宙の物理法則が数式で記述できるのか、という疑問に対して我々は究極的には答えを持ちえないかもしれない。しかし数式で記述できるようであることは疑いようの無い事実である。そして数式である以上計算するという過程が存在しなければならないことも事実である。演算なしに数式だけが現象することは決してない。我々がもしもこの演算速度問題に対して最も的確な答えを導くことができるとしたら、演算の発生する由来に関しては不明であるにせよ、基本的演算がどのような性質を持っているか、ということを知るということである。少なくとも人間が解くことすら難しい波動方程式を自然は超高速で解いているようにしか私には思えない。
 根本的問題のひとつは何が「第一義的」であるかである。第一義的演算が存在し、この演算が明らかに演算の最小単位と認めざるをえないならば、この第一義的演算が宇宙の基本的性質を記述していると結論できる。しかしこれだけでは不十分であるどころか、私の疑問に何も答えてはいない。私が知りたいのは宇宙の究極的法則である第一義的演算の数式ではなく、演算が行われる機構なのであるから。これは非常に難解で矛盾した哲学的問題である。如何なる物理法則が宇宙を支配していようとも、私にとってはある意味どうでもよく、標準模型の大枠が正しかろうが間違っていようが構わない。問題はなぜ法則が数学的に記述されなければならないのかということである。しかも演算が行われる機構に関して、物理法則が宇宙の「内側から」答えなければならない。私とっては第一義的演算というものはなく、第一義的演算処理方法があるということなのだが、これは自家撞着だろうか。とにもかくにも非常に難解な事態に陥ることは確かだ。
 そこで、まずはこのように仮定する。宇宙はある有限な処理速度で計算されている、と。ここでは演算処理の方法はわからないまでも、演算が行われなければならないという結論の検証をするということである。演算が有限な速度で行われるということは、少なくともこの演算は我々の時空間の内側で行われなければならないという理屈である。なぜならば、それ以外の時空間を設定することには意味がないからである。さて、観察者にとっての時間的連続性(つまり観察者の認識の演算速度)が観察する対象に比して速くなければ対象の演算速度は正確には測定できない。1分単位でしか測定できない時計で陸上の100メートル走のタイムを計測することはできない。しかし観察者の演算速度が観察する対象に対して圧倒的に速くなる見込みはほとんどない。観察者が持っている時計と観察対象がはほぼ同じ素粒子で構成されており、同一の物理法則が支配しているのだから。
 演算速度が有限な速度で行われている証拠を原理的には(極めて困難であったとしても)観測できなければならない。この制約だけは極めて大きい。なぜならば、この可能性が全くないとすると宇宙の全ての数学的法則は「ない」ことになってしまうからである。これでは宇宙が存在できないことになってしまう。原理的に必ずそれは観測できなければならない。なんだか大変な事態になったが、この馬鹿げた議論が持つ意味は何としても明らかにしなくてはならない。

2007年3月20日嫌い
私は大勢で集まって騒ぐのが嫌いだ。私は煙草が嫌いだ。私は酒を飲んだ後に電車に乗るのが嫌いだ。私は人混みが嫌いだ。私は満員電車が嫌いだ。私は下品なことが嫌いだ。
 私はほとんど外食をしない。外食をしないと良いことがたくさんある。経済的であるし、煙草の煙を吸わなくて済む。いくら酒を飲んでもすぐ寝られる。五月蝿く下品な客に腹を立てる心配も無い。だから私は外食をしない。
 私が外食をする場合、ファーストフードなら必ず持ち帰る。ラーメン屋、吉野家といった所はパッパと食事を済ませる場所であるせいか不思議と変な客がいないので良い。酒を飲む場合はホテルのバーが多い。静かだし、帰るのが面倒になれば泊まればいいので、酔っ払って電車に乗る不快感を味わわなくて済む。酔っ払って電車に乗ること以上に不愉快なことはないと思うほど不愉快だ。せっかくのいい気分も全てぶち壊される。電車通学から解放された現在、自分はよく17年間もあの不愉快な電車通学をしてきたものだと本当に思う。朝の京浜東北線や総武線になんかもう二度と乗りたくない。あれは拷問だ。しかし何十年も満員電車に乗って通っている人が沢山いるわけだ。何とかならんものなのだろうか。

2007年3月16日裏切りの恐怖
私の心には極めて根強い潜伏性の病巣がある。それを一言で言えば、人間に対する深刻な不信感だ。常に人に裏切られるのではないかという不安感と言える。これは自分への愛情が人一倍強いという私の性格上の問題と、基本的に人を信じている私の楽観的な人間観と、それに反駁する現実への対応能力の欠如による。酷い裏切りは心に深刻な傷を残してしまう。それはどうも自分でも気付かないほどの致命傷のようである。私は心の底では人を信じており、自分と同じ存在として接しているのだが、そうした過度の他者への期待は当然ながらしばしば裏切られ、その度に、他人を信じないことが大切であると自分を説得しつつも、どうやっても私は他人を決定的に信じないことができないジレンマに悩まされることになる。私はきっと今でも他者に期待し、信じ、愛してしまう。もちろんそれは自分の傷を自ら拡げる愚行なのであるが。
 人は平気で嘘をつく。深刻な嘘を。だから信じることは実に危険なことだ。私は自分を庇う為に自分の心に嘘をついて人を信じないようにする。そしてここで自分の裏切りに遭うわけだ。馬鹿みたいな話である。結局は自分を裏切りきれずに挫折してふり出しに戻る。そしてまた人に騙されるわけだ。
 そもそも裏切りとは、何かを期待し、希望することによって生じる。何も期待せず、希望せずにいることができるなら裏切られることは決してない。人間に対する諦観である。人間なんて所詮こんなものだという徹底した諦めがあれば良いわけだが、そんなことが出来るだろうか。結論から言えば、そんなことをする必要は無い。なぜならば、私の病巣は他者が原因ではないのだから。他者が悪いのではない。私の苦しみは構造的であって、裏切りによって傷つくことで私は自分の構造を知るようになるのだ。なぜ裏切りを傷と思うのか。なぜ苦しむのか。原因を追究することは自分自身の精神にメスを入れ、解剖する作業だ。魂の奥底で、痛いよ痛いよと叫ぶ苦の嬰児は、まだ私にとっては難敵ではあるが、いつかそいつを引きずり出してやろうと思う。私は中絶と同じように、彼を殺すことに倫理的躊躇がある。だから私はまだ苦しんでいる。しかし裏切りが苦しいのは、彼の作り出すエゴが裏切られるから苦しいのである。倫理的障壁を乗り越えて自分を抹殺することができれば、私は二度と裏切られない。自我という裏切りの源を断たなければ私は永遠に裏切られ続けるだろう。他人が私に嘘をつかなくなることなど決してないのだから。

2007年3月15日睡魔
眠い。睡魔は永久の夢への憧れなのか。眠らないと人は死ぬと言う。本当だろうか。断眠実験では100時間あまりの断眠記録がある。人はこの程度しか起きていられない。睡眠欲は最も本質的な欲求であり、どんな他の欲求も睡眠欲には勝てない。生存の第一義的欲求である。睡眠のために人は生きている。寝ることが生きることの意味である。寝るために人は起きる。なぜならば、起きなければ睡眠時の代謝エネルギーを摂取できないから。人生の1/3が何もしていないというのは間違いで、その1/3の睡眠が生きる目的そのものなのだ。第一義的欲求が睡眠欲なのだから当然の結論といえる。眠るためなら私はどんなことでもする。しかし逆に起きるために私は何でもするだろうか。間違いなく私は何もしない。明日起きられなくなるよと警告されても別に私は何の恐怖も感じない。
 快適な睡眠を得るために生物は進化したのだと私は本気で思う。快適な睡眠には何が必要であろうか。まずは外敵がいないことである。睡眠中に襲われたら寝ている場合じゃない。だから外敵を制圧するために進化するだろう。次に十分な糧を得ることである。腹が減っていてはなかなか眠れないし、死んだら眠れない。だから十分な食料を確保できるように進化するだろう。
 生きることは眠ることである。しかし、仏典にはしばしば惰眠を貪るなと書かれている。僧堂では3時起床だ。3時起床は本当に辛かったが、あれはわざと眠くしているのである。眠いという最も本質的欲求を嫌と言うほど味わうことになる。睡魔と向き合うことは心の本質と向き合うことである。人間は本質的に「眠い」のだ。眠さは究極的な本質である。眠いという感覚が最も始原的で、全ての心の作用の根源と直結しているからだ。生存の緒を辿る道は眠りへの道なのである。

2007年3月9日蝋燭の燈
心を鎮めれば、いかにこの世界の在り様が間違っているのかが解るものだ。世界というものは私が作ったもの。本当にそれが「在る」のかを真剣に探求すれば、ないのだと気付く。結局は絶対無に到達しない限り世界は本当の姿を現さない。そして世界は無いのだ。私も無い。
 心の、精神の、認識の深奥には一つの火がある。それは蝋燭の燈のような弱き火だが、根源的火だ。それは私の中心にあって、全ての認知の源である。縁起の起こる起源であり、全ての苦しみの母である。それをもし吹き消すことが出来るなら、間違いなく全ては滅びる。
 私はわかりはじめた。過去の無限の罪業とは何か、カルマとは何を意味しているのか、縁起とは何か、そしていかに世の人々がそうした概念を誤解し、間違った解釈をし、かえって罪を増やしているのかを。全ては蝋燭の燈のようなものなのだ。しかしその火は多くの鏡によって眩まされている。だからその火は巨大な炎となって全身を燃やしている。欲望の炎、煩悩の炎、怒りの炎、無知の炎、貪りの炎、虚栄の炎、愛の炎、死の炎。無数の業火が人を焼いている。まさに業火である。どんなに水をかけても消すことは出来ない。永久に燃え盛るその地獄の業火を消し止める、たったひとつの方法を除いては。それは火の根源を見つけ出すことだ。その根源に到達できなければ、絶対に業火はなくならない。ではその根源の火とは何なのか。それは生存の火。認識の最も深部に息づく機能。生命原理の火。自我の母。
 認識には法則がある。その法則を知らなければ火の根源を知りえない。縁起やカルマといったものはその法則を示している。火があり、その火を核として次々に膨張する自我が間違った認識を形成している。間違った認識とは閉鎖的で自己防衛的な利己的認識である。だが人間は極めて自動的にこうした間違った認識をするようになる。成長に伴って自動的にだ。これがなぜかは本質的には説明のしようがない。なぜ我々がこのような運命の内にあるのかはわからないのだ。だから罪なのである。過去の無限の罪業とは、このような逃れがたい我々の自我の生物学的特性、つまり遺伝子の桎梏である。生命の進化とは、罪の堆積という非常に悲観的な意味を持っている。そして「なぜ」そうなのかは探求できない。科学的に説明はできても意味が無いのだ。それが求めるべき答えではないのだから。ただはっきり言える事は、途方も無く長い長い時間をかけて私は間違った認識を蓄積してきたということだ。私の中の認識法則は、何十億年という長い生命の歴史の中で形成されてきたのは確かなのだから。そしてこの法則によって産み出された傲慢で巨大な自我が、極めて耐え難い苦悩と懊悩と絶望を私に強いている。私は思う、苦しみを逃れたいと思うのもまた法則であると。
 膨張した自我はその大きさに比例する苦しみを与え、耐えがたき程の苦しみに至ったとき、初めて人は苦の根源を探り、苦の全てを滅ぼしさる方法と認識の法則の全てを理解する道を探すようになる。だから無限の罪業こそが果報となって人を目覚めさせるのだ。私は苦しみが多いだけ、その苦しみから逃れたいと必死に願う。苦の根絶を願わずにいられようか。

2007年3月7日生存と十二因縁
3年ほど前に私は「生存」が如何にして我を作り、世界を構築するのかを詳細に解き明かした。残念ながらファイルが破壊されてしまって当時の文章は読めなくなってしまっていることに先ほど気付いたが、その要諦は記憶している。生存とは精神の最深部に潜在する始原的形成力である。それが形成力として機能する理由は、生存が最も基本的な生きる「意思」であるからで、その意思とは「我」を産み出すことである。生存は原始的な我の先にあって、捉えがたい。生存は自己保存的であるので、その保存的性質が次々に我を膨張させていく。だから我々の知性や理性もこうした我の膨張過程の果てに作られた我の「保存殻」である。我は玉葱のような多層構造を持っているが、どの層も自分が外界の軋轢を解消したがっている。これは我が無限に膨張することを自ら望んでいることになり、生存という基本的生命のアルゴリズムによって必然的に我はどんどんと複雑な塁重構造を成していく。
 言うまでもないが、こうした我の成長と膨張の基本的プロットは十二因縁とよく似ている。私が自分自身の力で行き着いた魂の根源、我の形成力であり、生存と私が名づけたそれは、どうも十二因縁の「無明」と同じようなのだ。ようやくそこに確信が持てるようになってきた。しかし私は、生存とは壊すことも見ることも出来ない最も普遍的な生命意思の根源と考えていた。私はそれを破壊しえず、その桎梏を払い除ける事が出来ないことに絶望し、仕方なく生存との共存を肯定する哲学を作らざるを得なかった。それは全ての人間の苦悩を滅ぼす道を放棄する行為に等しかったが、私は生存というあまりにも巨大で朦朧とした闇に立ち向かうことができなかったのだ。だから私は生存を無明と同化させる事はできなかった。ほとんど同じことを意味しているにもかかわらず、私は生存に対して白旗を揚げていた。これはある意味私が最後まで論理的思考をしてしまったために陥った誤りだった。しかし生存とは単純な盲目的自己愛にすぎない。だから生存そのものに対して私が本気で立ち向かえば、それは間違いなく無明である。要するに生存と無明は同じことだったのだが、主観的な捉え方が違っているということに過ぎないのだ。無明とは滅ぼすべき対象である。だから無明と言うのだ。しかし私の生存は絶対不可侵なるものであった。だから滅ぼしようがない。
 何と明解な。私は確実にゴールに近い場所に自力で到達していたのだと確信した。暗中模索していたものが一本の筋になって見える。私が向き合うべき対象は生存である。しかしもうそれは生存ではなく無明だ。そこに到達することができれば、私の全ての目的は達成されるだろう。そしてそれは既に手の届く範囲にある。

2007年3月6日意欲の哲学的解釈
佛教の教理は基本的に完全に正しく、哲学的に付加すべき点も修正すべき点もない。まさに完璧な哲学であって、正しい哲学は常に佛教的であるとすら言える。ただし、私が全く純粋なる人間ならば。純粋なる人間とは、人間社会の様々な桎梏から完全に自由である、単独の人間ということである。しかし本当に私は純粋なる人間と言えるのだろうか。それが問題なのである。
 佛教の基本生活は出家生活である。ブッダの語ったほとんどの言葉は出家修行者に対して語った言葉であり、在家の者に対して語った言葉は少ない。だからある意味で出家していない者は佛教においては蚊帳の外なのだ。そしてよくよく自分の体験を反芻してみると、私は「出家」並びに「寺」という概念に対する異常な固執を脱却するという形で悟りの体験を得ただけであって、実は出家をしないことによる本質的な困難を回避できる方法を獲得したわけではないということが分かる。そして、今も出家の優位性を非常に強く感じているのだ。人間社会は私から平穏を奪う非常に強い力を有している。人間社会は欲望と妄念の濁流であって、その濁流の中で様々な煩悩と戦わねばならない。これは大変に困難な道であり、原理的には在家のままで人格を完成させることができるだろうが、その難易度は出家者の100倍くらいになる。そして言うまでもなく、私が菩薩行として利他行に励むとしても、その半端ではない難易度のことを他者に要求せざるをえないということにもなる。それ以前に私自身がかなり弱気になっていて、宝くじに当たるのと同じくらいの確率でしか成功しないことを達成しようとしているように感じるのだ。そして、誰一人として私を手助けしてくれる者はいない。絶対的に自己解決しなければならない問題なのだ。社会の力は私が想像していた以上に強力であって、だからこそ容易に悟りから退転してしまう。私が退転しっぱなしなように。そんな中で確固たる「人」となることなど、本当にできるのだろうか。在家のまま阿耨多羅三藐三菩提を達成できた者はものすごく少ないということも事実だし、この超少数のスーパーエリートの一人に私がなりえる可能性があるのかどうかは完全に不透明である。
 ここで問題になってくるのが意欲である。ここで言う意欲とは、菩提心である。私はこの菩提心という活力ある、切実なる意欲そのものが、実は一種の煩悩となって自身を退転させえる障害であると見る。菩提心とは言うまでもなく悟りを求める心である。しかしその意欲そのものによって目的の達成は阻まれるのである。極めて矛盾しているが、どうもそうなのである。この理由は、菩提心が無心ではないからである。いつまでも菩提心が離れないのならば、それは悟りではない。実は自分自身を高めようとする心そのものさえも、自分を悟りから引き摺り下ろそうとする魔の引力となって襲い来るのである。しかし、意欲がなければ前へ進むことは出来ない。だから、どこまでこの意欲を道連れにするかが大切なようなのだ。
 自分が横道に逸れそうになった時には教理に頼ることだ。非常に大きな迷いの世界に退転したときには、決まって経典の文言が頭から抜け落ちているのである。佛教は極めて詳細に、解析的に人間の精神を捉える。徹底的に精神を分析しつくしており、どのような迷いも苦悩も全て説き明かされている。我々はそうした自己の精神構造を分析的観点から俯瞰することで、自己の苦悩の原因を客観的に究明しなければならない。私の中に起きる様々な、抑えがたき煩悩と迷いと怒りと絶望も、全て構造があって、その構造的病は構造的にしか治癒し得ないのである。過去の宗教的天才たちが作り上げた完璧なる哲学は、確かに私の心の仕組みを説き明かしている。しかし何千回経典を読誦したとしても、人の心は容易に愚痴の侵入を許す。すぐに佛教哲学を忘れ去り、自分がどのような状態にあるのかが分からなくなって七転八倒する。三毒は常に虎視眈々と心を乱す機会を伺っている。一瞬も油断は出来ない。それは菩提心という崇高な志の間隙にさえ潜んでいる。求める心はそのまま貧欲だからだ。なんと複雑でなんと度し難き人間の精神!だが本当の、完全なる最後の悟りとは、とりもなおさず自己の精神構造を完全に理解することである。つまり自己の御者である。社会という猛烈苛烈なる魔の世界においてこそ真実の自己を認識しうる道が用意されていると私は信じるしかない。

2007年3月2日古代史の年代について考える
稲荷山の金錯銘鉄剣の記述には「辛亥の年中記す。ヲワケの臣、上つ祖(おや)名はオホヒコ(中略)其の児、名はヲワケの臣。世々杖刀人の首として、事え奉り来り今に至る。獲加多支鹵(ワカタケル)大王の寺、シキの宮に在る時、吾天下を左(たす)け治む。」とある。獲加多支鹵は確かにワカタケルと読めるから、これはどう考えても雄略天皇だろう。そしてオホヒコは崇神天皇に仕えた四道将軍の一人の大彦命。それ以外は解釈のしようがない。だから辛亥の年は宋書の倭の五王の記述をふまえれば西暦471年。これを全ての古代史の基準年代として考えてみることにする。とすると、オホヒコはヲワケの臣の7代前なので、西暦300年ごろの人物ということになる。崇神天皇は彼の甥に当たるので、4世紀前半に活躍した人物と考えられる。すると世代を考えて、神武天皇は1世紀後半から2世紀前半の人物ということになる。
 さて、卑弥呼の記述がある程度正しいとするならば、年代的には当然神武から崇神天皇の間に収まらなければならない。後漢書東夷伝によると倭国大乱が2世紀の後半であることは間違いないのでこれは準基準年代となる。神武天皇を1世紀後半から2世紀前半とする私の推測は、魏志倭人伝の記述「その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年」の記述とよく一致することになる。後漢書東夷伝の倭国王帥升を神武天皇と考えて矛盾がないことにもなる。すると倭国大乱の時期に相当する天皇としては、安寧、懿徳、孝昭天皇あたりになるが、それらしい記述はない。第二代綏靖天皇には皇位継承に関する戦乱の記録があるが、これでは年代が合わない。孝霊天皇の吉備平定しかそれらしい箇所がないことになる。仕方がないので崇神天皇の年代を少しばかり前倒しして、倭国大乱を孝霊天皇の時代ということにすると、まずまずうまく収まる。神武天皇は1世紀前半の人物ということになる。卑弥呼は孝霊天皇の娘で強力な力を持った巫女である「やまとととびももそひめのみこと」というぴったりの人物もいることで解決できる。何しろ箸墓古墳の埋葬者が彼女であると思われている上に年代も3世紀中ごろから後半という点で卑弥呼の没年である248年とよく一致している。すると、崇神天皇は248年より前に成人していなければならないので、どう考えても228年より前に生まれてくれないと困る。崇神天皇が318年没と考えると最低でも90歳以上の寿命が必要だ。これはちょっと無理だろう。258年没とすると、辛亥の年471年の雄略天皇から213年で8代ということになり、実はそんなに悪くもないことに気付く。しかし崇神天皇の曽祖父の娘であるももそひめのみことの10年後に死ぬというのはちょっとおかしい。288年没という説が最も整合性が高くなりそうだ。これなら1世代23年ということになる。さて、このように年代を組みなおしてみるとこうなる。2世紀後半、孝霊天皇の時代に乱があった。そしてその娘であるやまとととびももそひめのみことがシャーマンとして活躍することになり、その活躍は崇神天皇の代まで続く。崇神天皇は220年ごろに生まれ、成人して即位するも、ももそひめの発言力は極めて強かった。このように考えることで年代的には整合的に説明できるだろう。絶対基準年代とした471年から7代前の大彦命が崇神天皇の親の世代と考えて矛盾はない。やまとととびももそひめのみことを卑弥呼に比定しなければ年代的な整合性はおそらく取れない。
 ももそひめは大物主神の妻となるも、彼を幻滅させたショックで死んだという話は、彼女の高齢を考えるとそんなババアが結婚かと不思議に思うが、これは非常にシャーマン的な宗教的結婚で、実際の結婚ではないだろう。神との結婚という発想は神話的というよりも、純粋な神との交信体験とみるべきだ。何しろ彼女は極めて霊感の強い巫女。常人ではない。基本的に国家の意思決定のほとんどを彼女が行っていることは明白もあり、「王」と見ても間違いはないだろう。女王の治める国という表現は確かに間違ってはいなさそうだし、箸墓古墳が彼女の墓ならば、その権力はまさしく天皇級であるということになる。

2007年2月28日神話の世界
世界中の宗教をくまなく勉強することはできないが、博物学的な知的興味を満たすという意味では日本の神道ほど面白いものはないのではないだろうか。日本の神話と神道の信仰形態の複雑さは、おそらく世界の宗教を俯瞰しても比類がないのではないように見える。神の数だけでも物凄い上、佛教の尊格と習合してしまっているために原型を留めないまでに変容している。こうした複雑さは大和民族の民族性と深く関わっている。佛教自体が他宗教に寛容であり、様々な神を取り込んでしまっているわけだが、その貪欲な吸収性は大和民族の柔軟性との相乗効果で世界的にも稀な複雑怪奇な信仰形態へと発展した。七福神のごった煮ぶりを見れば我々の柔軟な民族性がよくわかる。佛教伝来以前の日本の神話においても確固たる唯一の神話体系が存在したと見るのは全く間違いで、大和民族はいつの時代でも貪欲にあらゆるものを吸収し続けてきたと見るべきだ。日本の神話の複雑さと奇妙さはそうした果てしない神話の吸収合併の末に形成されたと見ていいのではないだろうか。聖書の創世記に異伝はないが、日本書紀の記述は異伝だらけである。神話の伝承過程が複雑であり、神話の起源が古いせいだろう。こうした整えられていない、首尾一貫していない神話体系は無数の諸民族の神話を貪欲に吸収していく過程をそのまま反映しているように思える。ヤマト王権が日本を武力統一していく過程で諸民族の神々を貪欲に取り込みながら複雑な神話体系へと成長していったのだろう。ある場合には全く関係のない神が別の神と同一化されたり、親子になってしまったり、といった日本人のお決まりの改変が何の抵抗もなく為されたに違いない。

2007年2月27日パワーストーン詐欺とか
驚いた。鉱物に何か神秘的な力があるというのだ。それが「パワーストーン」だ。当然私は呆れて開いた口がふさがらない。笑うべきか、そんな馬鹿なと叫ぶべきか。いずれにしても信じる者がいるらしい。一体誰がこんな馬鹿げたことを言い始めたのだろう。いや、それにもまして21世紀の現代に大っぴらにこんな馬鹿げた宣伝文句をつけて宝石を売る人間の神経を疑う。詐欺といって差し支えないだろう。嘘なのだから。もしも鉱物に運気を上げる効果があるならば鉱物学者はみんなすごいことになっているはずだ。だがそんなすごい幸運に恵まれた鉱物学者を私は知らない。鉱物学者になれただけで幸運ですか?はい、そうですか。なら隕石を色々持っている私はさぞかし幸運になっているのだろう。俺って幸運だなあ。
 こういう明らかな嘘がまかり通るなら、私もそれらしい嘘を考えてみようか。ゲルマニウムで健康になるくらいなのだから、鉄隕石は美容に効果があるとか言って高値で売れば売れそうだ。おお、こりゃボロ儲け。鉄隕石を煎じて呑めば貧血に効果がある、とか言うなら嘘じゃないが面白くもないな。やっぱり無理にでも健康とか美容とか運気に結びつかないと。
 冗談はさておき、パワーストーンなんて冗談じゃない。巷間に溢れる擬似科学、似非科学はどうにかならんものなのか。というわけでこの手のインチキを唱導しているのがどういう人間なのかを調べてみた。とりあえず眼のつくところで、水に「綺麗だね」と語りかけると綺麗な結晶ができると主張している江本勝「博士」(笑)。「平成3年に「オープン・インターナショナル・ユニバーシティー」より代替医療学博士の認定を受ける。」と書かれていたのでこのインチキ臭い大学のサイトでPh.D.の資格を調べてみると、「Duration: One Year. Total Fees: The total fees is U.S $850. Full fees should be sent with the Form.」
でました!インチキ大学!!!そしてそのインチキ学位を恥ずかしげもなくホームページに公開です。驚きの厚顔無恥。見習いたいよ、アンタのその無神経さを。
 さて、この人をもって似非科学を唱導する人間の代表と見るかには問題があるが、とりあえずというかんじで調べたにしてはこのヒットぶりは凄い。そこで私も似非科学者ばりにこう結論する。こいつが似非科学唱道者の代表です。間違いありません。問答無用です。なので、似非科学的にはこういう結論になります。
 結論:似非科学者はインチキ大学でインチキ博士号をお金で買います。「波動」が大好きです。波動拳くらい朝飯前で出せます。当然地球温暖化は二酸化炭素の影響だと信じて疑いません。似非科学者はゲーム脳に侵されて脳がBSE状態です。現在納豆ダイエット中で3キロ痩せました。前世の記憶があるどころか自分の守護霊が見えます。オーラが見えない人を実は軽蔑しています。マイナスイオンとトルマリンとゲルマニウムで風邪ひとつひきません。UFOに乗ったことがあります。昔ヘッドギア着けてました。性格は血液型だけで決まります。占星術大好き。そして何より、本当は科学が大嫌い。だって科学者の言ってること難しくてわかんないんだもん。

2007年2月26日現実と現実感と運命と自由と中道
何をもって現実とするか、という問題は解けない。それはもう現実感として片付けるしかない。だから私は現実の何たるかを決して知りえないという間抜けな生物だ。もうひとつ付け加えたい馬鹿らしい発想は、人間様は人生というものに何らかの運命なり目的なりがあると見做すが、カブトムシやネズミにもその思想を延長するだろうか、ということだ。人間が自分たちの人生に価値を置くのはそれが切迫した現実として映っているからであり、それ以外の生物の運命を語らないということは人間外のものに切迫した現実はないのだろう。火事が起きても馬の心配をしなかった孔子のように。現実というものは現実感そのものだが、その現実感という極めて主観的なものが全ての価値と通じているのだ。だから現実でないもの、切迫した現実感のないものに価値はない。現実感を抱くその主体たる自分には価値があり、価値があるから人生とか運命とかを想定する。だが本当にそんなものは存在するのだろうか。
 科学というものにせよ何にせよ、「ある」と仮定したほうが都合の良いものが「ある」だけであって、それが現実に存在するかは議論しても意味がない。意味がないから「ある」ということにしておればよい。しかし、しかしである。「ある」と考えることによって間違った認識へと通じるのだとすれば、「ある」と考えるべきではないわけだ。
 敷衍する。前世とか人生とか運命とかいう一連の概念があり、これらはそれらが「ある」と見ることによってそれなりの効用がある。有意義で活力ある人生を送るためには必要かもしれない。しかしこのようなものに振り回されるだけならばかえって毒である。完全な決定論は完全なニヒリズムに至るだろうし、前世という変えようのないものによって現在の生が決定されているならば、これも決定論である。前世も運命も人生も全て現在の自分を合理的に説明は出来てもそこから産み出されるものは最終的にはニヒリズムしかない。だから毒だと私は言おう。人間に自由意志があるのではない。しかし人間には運命もない。この結論こそ私の考える中道である。人間は奴隷でも自由人でもない。人が奴隷であるとき、枷を嵌めるのは自分自身である。自分が完全な自由である時、不摂生を行うのは自分自身である。だから運命というものも完全な自由への妄想も両方捨てなければ駄目だ。完全な自由を求めれば求めるほど人は奴隷へと堕していく。私のように。

2007年2月21日睡眠と死
眠っている間に私は何の修養もしていないと思う。眠ることで疲れは取れるが、何の進歩もない。眠ることで得られるものはほとんどない。眠いので仕方がないから眠っているだけで、眠るという快感を貪っているに過ぎない。睡眠は無駄に思える。
 眠る前に明日目が覚めないことを想像する者はほとんどいない。眠る前にこのまま眠り続けるだろうと思う人間がいるだろうか。私は目が覚めないことを毎日のように祈り続けて眠りにつくことが多かったが、そういう奇人は少なかろう。少なくとも眠ることに恐怖がないのだから、永遠に目が覚めないという保障すらない「死」に恐怖するのは馬鹿げている。眠ることと死ぬこととにどれだけの差があるだろうか。母が死んで今日で丁度7年になる。母は眠ったまま死んでいた。おそらく死んだことも気づかぬままに他界したと思われる。私はそれを見てますます死と眠りの境界の曖昧さに確信を抱く。私が死ぬことと私が眠ることはほとんど同じだ。眠ることに恐怖するならば死を恐怖しても自然だ。しかし眠ることに恐怖しないならば死も恐怖ではない。
 私は毎日毎日死んでいるようなものだ。しかしその死は私に何も益を齎さない。眠りは私にとって単なる空白の時間である。この空白は次の日に目覚めてしまうから空白なのであって、目覚めなければ空白ではないだろう。空白だから価値はなく、眠っている時間よりも目覚めている時間の方がはるかに有意義であるということになる。もしも永遠に目が覚めなければ眠りは空白ではなく、空白ではないからそれが無駄なのか無価値なのかを考えることは基本的に馬鹿げていることになる。目覚めてしまったからそれは眠りなのであり、目覚めなかったらそれは死であるわけだ。しかしその死が「長期間目覚めない」ということではなく「永遠目覚めない」という意味なのだとすれば、その空白を私は確認しようがないので考えるだけ無駄である。一方、死が「長期間目覚めない」ということであったとしても、その長期間の死は私にとって全く無意味である。単に長期間の空白なのだから。いずれにしても死が眠りの相似なのだと仮定すると、死は全くの無価値ということになる。たとえ死が永遠であろうと有限であろうとも、だ。
 で、何が言いたいのかというと、死にたくなったら寝てしまえということだ。人間は簡単に意識を抹殺できるのだ。

2007年2月20日嵐去って信仰現る
毎度毎度苛烈に遅い来る鬱は私が私自身と直接対話する場を提供してきた。そしていずれ嵐は去り、私は多少なりとも糧を得る。今回はかなりよい収穫を得た。信仰とは何かを理解した。
 恥ずかしながら私は私自身に枷を嵌めていた。それは日本人特有の謙譲の美徳とでも言うのだろうか。私は必要以上に自分を過小評価していた。それに加えて私には甘えがあった。徹底して私は甘えていたのだ。親に甘え、女に甘え、神仏に甘え、誰かが何とかしてくれるという甘え。こうした自分への信頼のなさが私をこんなにも苦しめていたとは。私は自信と誇りに満ちているように見えるだろうか。私はこんなにも自分に対して不信感を抱いていたのに。
 信仰とは自分に対するものである。そうでなければならない。もしも自分を信じ切れなければ、私には未来はない。あんなに何十回も臨済録を読んでいるのに、あんなに繰り返し繰り返し臨済義玄禅師が仰っているのに、私は自分への信仰がなかった。傲慢、増上慢への恐れが自分に対する信仰をこんなにも削ぎ落としていたのだ。私は萎縮しきっていたのだ。しかしもう迷う必要は私にはない。絶対的に私は私であり、他の何者にもなれない以上私の自立性に疑いの余地はなく、よって私だけが彼岸に至ればよい。他の誰が私を救えようか。神仏に私を救う力がないから私は現世で苦しみもがいているのだ。神仏に対する信仰より自分への信仰が尊い。信仰とは自分への信頼である。頼りなく目に見えず声も聞こえない私以外の神仏に頼ってどうなるものか。私は偉大な方には手を合わせて供養する。尊敬し、少しでもその方に近付きたいと願うから。しかしそれは信仰ではない。私が望む精神を人は私に与えない。無力な神仏に手を合わせる前に自己を信頼すべし。佛は無限の慈悲で衆生を慈しむが、肝腎の私自身が私を信じなくてどうやってその報恩に報いられるか。私「だけ」が佛であり、私「だけ」が完全智に至る。なぜ私だけなのか。私以外の誰かがそれを獲得しようとも私には無意味だからだ。会社の同僚が3億円の宝くじに当たったからと言って私に何の恩恵があるか。だから私「だけ」が佛でなければならない。「衆生本来佛なり」であるが、私以外の衆生が佛であろうとなかろうと私には関係ない。私自身を完全に救うことが出来なければ、どうして私が他者のために尽くすことが出来るだろうか。私が自己中心的だとか言われようと別に構わない。正しい道はここにしかないのだから。この国が滅びようとも、人類が死滅しようとも私には関係ない。私の中で燻っていていまだに完全に目覚めざる実存の真実の輝きの前には全てが無意味。私は私以外の全てのものを切り捨て、私自身への確固たる信仰を築かなければならない。
 おそらく私は自分への愛が人一倍強い。自分自身への同情で涙を流すほどに私は私を愛している。この愛すべき私を地獄の底から救い出したい。そう思う自由が私にはあるのだから、私は私という究極的実在に対して完璧に自由ではないか。自由なのだから、私自身に対する信仰は素直に私を導くだろう。私以外に私を導く者はいないが、私に対して私は自由なのであって、もしも私が本気で信仰の力を燃やして「我よ」と呼びかければ彼は起き上がって全ての迷いと苦しみを完全に滅ぼすだろう。運命というものは私への信仰が啓く。私自身を信じ切れれば私の運命は信仰と共にあり。だから自分を決して疑うことなかれ。
 私が過去の賢哲と同じように生きる必要など全くない。奴らは奴らなり人生を歩んだ。私もそうだ。私なりの人生を歩むだけ。私に制限などない。際限もない。私が私自身に嵌めていた枷と鎖を断ち切ろう。そして完全な自由の中に自分を解き放とう。私が私を信じられれば、何をやっても自由なのだから。たとえどのような道を通ろうとも、私が至る場所は一つしかない。別に先人が辿った道である必要はない。道は無数に用意されている。他人の言葉に騙されなければ、私は終着点に辿り付けるのだ。人の瞞を受くること莫れ。どんな聖者であろうと私は救えない。だから私自身を本当に救ってくれる対象、すなわち「自分」を信仰しなくてはならない。私こそ私の神である。

2007年2月19日何もかも無価値に帰す激しき憂鬱
人生というものは99.98パーセントくらいが辛い事や苦しいことや悲しいことだ。私が生まれてこのかた心から喜ばしいと思ったことは2回くらいしかない。すると、幸福な気持ちを感じられる日が来る確率は0.02パーセントしかないということになる。そして私がどんなに長生きしたとしても幸福な気持ちを感じられる機会は統計的にあと3回ということだ。この3回の幸福を味わうためにあと何十年も生きながらえる価値が、冷静に考えて一体どこにあるというのだろう。楽観的な人間ならば毎日楽しくて仕方ないのだろうし、麻薬でもやれば幸福感を手軽に味わえるだろう。毎日毎日憂鬱な気分を味わいながら人生に5回くらいしかない幸福を味わう人生と、ヘロインでもバンバンやってラリっていい気分になって30歳くらいでパッパと死ぬのとどっちが「お得」だろうか。圧倒的に後者だ。倫理とか道徳とかは人間が勝手に作ったもので、しかも来世もないとしたら、何のために私は真面目に生きているのだろうか。私はたとえ進んでも退いても留まっても非難される。私自身も私を告発し、非難してしまうのだ。私はいつも糾弾され、行動の自由のほとんどを奪い去られている。だから私はテロリストになる勇気さえもなく、筆舌に尽くしがたいほどの憂鬱に耐えながら一生懸命全てを否定し続ける。
 私は自分の中に恐ろしいほどの暴虐と混沌が存在することを知っている。あまりにも根深い人間への不信と憎しみが私の奥底で囁く。結局この世界は悪と嘘と欺瞞と不誠実と裏切りと汚辱で成り立っているのだ。どれだけ私が真理と語らおうとしても、私の中の残された人間性は「お前は人間の本質から逃れられないのだ」と何度も何度も私を折伏しようとする。私はまんまと私の中の人間性に騙されて、私の中に潜むどんな凶悪犯罪者よりも恐ろしい暴虐と殺戮の意識によって私自身の意識を血塗れにして穢す。こんなも激しい怒りと自虐があろうか。私は人間社会という牢獄に閉じ込められてしまった。私が重んじるものを人は重んじない。私が求めるものを人は求めない。そして面白くもないことに「ああそうですね」と私は笑ってみせるのだ。この詐欺師めが。私はこの全く無価値極まりない自分の人生に対する愛着が、そして私の生に対する愛が、生存が、決して私自身を救わないのだと確信した。人生は徹底的に無意味だ。もうそれを肯定することも否定することもありえない。受け入れることも捨て去ることもない。完全無欠で誰一人近寄ることの出来ない無の極地。それが人生の真の在り様だ。あの世などあるものか。前世などあるものか。この世すらないに等しい。虚無などあるものか。実存などあるものか。全くの無意味。考えることも想像することも無意味。善も正義も無意味。真理も真実もない。人間は無価値。宇宙も無価値。科学も哲学も無価値。人間は幸福を追求するためにこの世に生まれてきたのだと思ったが、そんなのも嘘。幸福も無価値。私は人間の中の善意識とか、理性とか、知性とか、そういうものが価値あるものだと、かけがえのないものだと思っていた。なぜなら私は人間を愛していたから。私の愛が人間を肯定するための方法を私に捜し求めさせたのだ。しかし私はもう全てが徒労だったことを思い知った。価値はないのだ。人間そのものに特別性などどこにもない。命というものにすら。命は尊いものでもなんでもない。人間と石ころに差などない。宗教も「こう考えたほうが気が楽」っていうだけ戯言。人間に価値がないことを科学がどれだけ証明しても納得できない人間たちを見よ。生命に神秘などない。神秘ならばその神秘を私は永遠に呪ってやろう。どんなに真理にも保証などはなく、保証がないのだから真理など最初からない。幸福もない。幸福感というものは私にはほとんど存在しない。だから私の人生には幸福はほぼなく、よって私の人生は幸福の観点からも無意味。死も無意味。そして、こういう考え方を持つことも無意味。何を考えても無意味なのだから。ああ何と全ては無価値なのだ。無意味と言う事も無意味で無価値。ただこの酷い鬱だけは実在だと思ってしまう。だが鬱も無価値だ。

2007年2月16日永劫回帰
ニーチェの哲学の骨格は私の哲学の発展段階の一過程とよく似ていると言えなくもない。私と基本的な感性が近いのだろうが、残念ながら彼は虚無に拉致されて精神は崩壊した。私自身「なぜ自分の精神が崩壊しないのか不思議だ」と何度も書いているように、実存を究明する旅程は極めて危険なのだ。
 永劫回帰という彼の思想はとても面白い発想だ。全く同じ事象が永遠に繰り返されるという世界が永劫回帰の世界である。(ビッグバン理論が正しければ時間の無限性が失われてこの思想は半死半生によってしまうのだが、そんなことは思想的にはどうでもいい!)彼が言いたいことは、このような永劫回帰の(虚しい)世界でさえも生を肯んぜよということだ。これは私が陥った(そして今も完全に否定できずにいる)極めて厳格な決定論思想と同じである。自分の人生は既に完璧に決定されていて、それであっても生を肯定せよというのが私の思想だ(った)。私には永劫回帰という発想はないが、基本的にニーチェにおける生の肯定と私の「厳密に決定された生」の肯定は同じことを意味している。私の時間観は無限の過去から無限の未来までが完全に決定されているようにしか人間には認識されないので、たとえカオスがあろうとなかろうと確率という概念は究極的には死んでおり、時間は全くの無味乾燥とした事象連関性でしかない。たとえ不確定性原理があろうともそれは単に人間の知の限界であって、物質「そのもの」に不確定性が附帯していると誰も断言は出来ないことになる。なぜならば、ある時間にひとつの物体が二つの状態を同時に取ることはできないからである。もし二つの状態を取ることができるとしたら、それは二つのものでしかない。1なる物はある時間に1なる状態である。これが私の言う厳密なる「決定」である。私の時間概念は回帰性という構造すら全く存在しない完全なまでに無秩序でしかも変更不能なるものである。こんな酷すぎる虚無思想の中で生を肯ずるのは並大抵ではない。秩序性があれば人はそれを心理的に認める事ができる。回帰性があれば私はその回帰性によって時間と生を摺り寄せることができるだろう。永劫回帰という思想においても、実は事象が永遠に繰り返され「ても」生を肯んずるのではなく、永遠に繰り返される「から」生を肯んずることが可能なのである。だから私の考えていた、よりいっそう強い虚無思想の時間概念では回帰という構造すらないので、それをして肯んずる者は超超人と言っても良いほど敷居が高くなる。ニーチェの永劫回帰という発想はユニークだが、もしも彼が回帰という構造性すらなくなってしまったら生を肯定する手段が全く残されていないこと知りつつ時間を「回帰」させたほどの男ならば、きっと彼の精神は崩壊しなかっただろう。
 最も深淵なる虚無の闇の中に入らなければ生を肯んずる真理を獲得することはできない。しかし余程の者でなければたとえ虚無の中に入ったとしても溺れ死ぬだけだ。ニーチェもその一人だろう。彼の苦悩は私のかつての苦悩と全く同質であり、とても人事ではない。哲学的才能とは最も他者に理解しがたいものであり、その葛藤は孤独極まる。そのことで更に精神は追い詰められるのだ。
 それはそうとして、彼の戯言でさえも今や価値あるものとして認められているのだから、もしかしたら私が私の哲学を後世に残すことにも多少は意味があるのかもしれない。何か少しでも人々のために尽くすことが出来るのならば私は本望である。

2007年2月15日異常なる状態
ある個人の異常なる状態、例えば極度の鬱や食欲の減退、肉体の不調、狂気といった状態と人類の精神文化とは密接に関わりあっている。人類の文化はその多くが特殊で異常な病的精神が生産したものである。文化的活動というものはそうした病的な状態における活動性に支えられてきた。基本的に宗教とは人間精神の集団疾病である。異常なものは価値があり、正常なものには価値はない。村人全員がシャーマンならばシャーマンは必要ないし、民族全員が預言者ならば預言者は必要ない。
 ある個人、すなわち私自身にとって異常な状態の私は、それが真実の価値と呼ぶことはできないにしても、価値があるものだ。病的な状態は大抵の場合生産的で、創造的で、かつ破壊的である。しかし、もしも自分の異常性を本当の価値として認めてしまったならば容易く精神は破滅してしまうだろう。だから異常性に浸かり、その病的精神を完全に理解した上でそれから脱却しなければならない。人類の文化の中に真実的価値はほとんどないのだと理解できるとしたら、人類の残してきた文化の中からほんのひとかけらしかない真実を拾い出せるはずだ。しかしまたそのひとかけらでさえも、全くの滓であることを知るだろう。滓であるから私にとって文化とはかけがえのない先人たちの遺産なのだ。とても説明しづらいのであるが。

2007年2月7日  鏡
人間の発明品の中でも最大級の発明の一つは鏡ではないだろうか。鏡は非常に大きな文化的・哲学的革新を人類に齎している。鏡がなければ自分の姿をまじまじと見つめることはない。人間は鏡がなければ自分の姿を直接見ることは出来ない(もちろん鏡であっても直接ではないのだが)。鏡のない世界に住んでいれば、あの人は美しいとか醜いとかいうことは誰も言えない。自分がどのような容姿なのか知らずにぞんな迂闊な事を誰が言うだろうか。自分自身の容姿こそが美醜の最も基本的尺度を与える。だから鏡によって我々は美醜の尺度を初めて得ると言っていい。天照大神の岩戸隠れの際に真経津鏡(まふつのかがみ、所謂八咫鏡)を使って天照大神自身を映す場面があるが、日本人にとって鏡は特別な存在であり続けてきた。神体として鏡を祀っていることからも、鏡の重要性がわかる。鏡に一種の魔力が宿っていると考える者もいたことだろう。
 

2007年2月7日  油断
油断大敵。油を定期的に交換しなければ車の調子は悪くなる。同じように、人間の心も定期的に整備しなければ調子が悪くなる。心が集中している状態は良い状態である。集中していない状態とは統一性を欠く状態である。定期的に正しい禅定に入って心を集中し、統一することが大切である。心を調えることは全てに勝る善行である。自分は優れた人間であると思い上がり、天狗になって心の統一を欠けば、あっという間に愚者となる。油断しないことは何よりも大切である。生きているということは気を抜く暇がないということである。生きているから退転する。だから退転しないために常に念入りに自分に対して気を配っていなければならない。どんなに短い時間であろうとも毎日瞑想し、自分自身の心を統一する時間を割かなければならない。私は私自身の弱さを知っている。エントロピーが増大するように、放っておけば心は乱され、汚され、乱雑になって統一を欠くようになっていく。愛車は定期的に磨くのに自分を定期的に磨かないのでは本末転倒だ。毎日風呂で体を洗うように、心もしっかりと毎日洗おうではないか。わずか10分の座禅でよいのだから。

2007年2月5日  言葉と単語
言葉とは微妙だ。どんな単語であってもたった一つの意味しか有さないということはない。もしも日本語の単語が現状の10倍くらいあれば曖昧さが緩和されてずっと表現は正確になるだろう。それはそうとして、極端に単語の少ない言語や極端に単語の多い言語というものははたして存在するのだろうか。私は言語学者ではないのでよくはわからないが、種々の言語の単語数を何らかの基準に基づいて数えてみたらきっと面白いだろう。

2007年2月2日  素養の顕さ
人の宗教的/哲学的素養、知能、教養はたった十秒会話しただけで顕になる。人の知能と教養の程度は驚くほどに明らかなのだ。僅かな時間の会話の中でも、知能と教養はそのまま滲み出る。宗教体験のあるなしも同じように一瞬で判断できる。私たちは自分の精神の奥底まで、実は曝け出して生きているということだ。まるで全裸で街を歩いているようなものなのだ。だからこそ自己を修養しなければならない。恥を知るならば。
 知能は教養と結びついて初めて輝く。教養のない知能は惨いものだ。それはまるで泥だらけのフェラーリ、金剛石を取り出されずに放置されたキンバライト、埃だらけの大伽藍。教養とは自己を整えるものである。整えられていない自己はどんなに知能が高くても無残なものだ。彼は文化を受け継いでいないのだから、歴史から断絶された野獣に等しい。教養は自己の知能を磨き、可能性を拾い出し、美しく輝かせる。教養はつまらない本、つまり書籍店に並べられているほとんどの本、を読んでも得られない。まずは長い歴史の中で厳選された最も優れた書物、つまり古典を読むべきである。しかし十分な古典の知識を身につけたとしても、その知識が実践的でなければ全く無意味であり、それは教養ではない。知識が教養として真に発揮され、自らの知能を輝かせるためには正しい見地を獲得しなければならない。正しい見地を掴むためには正しい宗教体験を得なければならない。宗教体験は厳しい修行をすることで得られるとは限らない。しかし苦悩することなしにそれが得られることは絶対にない。苦という肥やしの上に初めて正しい見地を獲得することができる。そしてそれが獲得できれば古典に記された一文一文の意味が初めて明らかとなる。古典を読み、それを記憶したとしてもその意味がわからなければ教養が身についているとは言えない。数学の教科書を丸暗記しても意味がないのと同様である。
 真の知、つまり真の教養の前に人は平等であり、知能指数が高くても意味はない。勉強の不得手な賢者もいるし、IQ200の愚者もいる。平等であるのだから言い訳などしようがない。教養のあるなしは本人の向上心そのものを反映している。隠すことあたわず。賢者はその人間の腸までもすぐに見抜いてしまうから、賢者の前で自分の無知を隠す手段は全くない。昨今はとかく個人情報がうんたらかんたらと騒がしいが、それ以前に精神は丸裸なのだ。ある者は「私は無教養です」という看板を首から提げて歩いている。「私は知識だけは豊富です」と書いてある者もいる。しかし問題は自分の未熟を恥と思うかどうかである。恥と思う者は研鑽し、正しい見地を得るだろう。私はいつも自分の無知を恥じ続けているおかげで、少しずつは前に進んでいると思っている。

2007年2月1日  中庸
賢者は程々であることを尊ぶ。儒家は中庸を説き、釈迦は中道を説き、アリストテレスはメソテスを説く。何事も行過ぎたことは良くないということではあるが、それでは何が「極端」なことなのであろう。何が極端なことなのかがわからなければそれを避けることはできない。私の言葉で言えば、極端であることとは知覚・感情・知に耽溺することである。極端さは行動によって措定されない。マラソン選手にとって20キロ走ることはどうということはないが、私にとっては大変なことである。さて、知覚に耽溺するとは、五感によって生じる感覚に心をよせているということである。苦行主義は不快なる刺戟に、快楽主義は心地よい刺戟に心をよせているから中道ではない。音楽に心奪われることも、美酒に酔うことも、名画に魅せられる事も、実は危ういことである。藝術だけに心を向ければ中庸から却って遠ざかってしまう。感情に耽溺するとは喜怒哀楽によって心の平静を失っているということである。天に昇るほどの喜びは激しい怒りと同じように危い。知に耽溺するとは、全てを理屈のみで解釈しようとすることや、唯物論的な思想を持つことや、ニヒリズムに陥ることなどである。このように極端に偏った思想を持つことは実に危いことだ。特に優れた知性を生まれながらに有している者は知の誘惑に屈して中庸から遠ざかってしまう危険性がある。十分に注意することだ。
 私の場合、知に耽溺するあまり中庸を欠く場合がある。特に厭世主義とニヒリズムは再三に渡って私に取り憑き、私から中庸の徳を剥ぎ取り続けてきた。奴らの襲来は恣意的で、ほんの些細な契機を見逃さずに私の心に侵入し、掻き乱した。極端な厭世主義とニヒリズムにはいつも気を配り、それらの誘惑から私は逃れなければならないだろう。自分を守るものは自分しかいないのだから、どんな些細な耽溺も見逃さず、常に私自身が中庸から外れないように気を配っていなければならない。

2007年1月31日  批判者
人は誰しも誤る。間違うことは人である限り避けられない。私とてどれほどの謬説を書き殴ってきたかしれない。しかし誤謬はいつか糾される。誤ることを恐れるのではなく、それと向き合うことによって人は前へと進むものだ。人から誤りを非難されなかった賢者はおらず、非難なしに人は賢明にはならない。自分自身の誤りが常に良き朋であれば、自然と知は深まり、徳も備わるものだ。自分自身が自分に対する最大の批判者であれば、尚のこと人徳は研かれるだろう。

2007年1月25日  教育再生
会議と名のつくもので有意義なものは少ない。教育再生会議の議事録を読んでも、あまり有意義な進展はないようだ。日本人に限ったことではないだろうが、会議が無味乾燥な時間の浪費になる理由は、@その会議の意義が明確に定義されていない、A何を決定するのかが曖昧、B人選ミス、C人数が多すぎる、D挨拶がむやみやたらと長い、E議論するにもデータがない、F無意味な発言を制止できない議長の能力不足、などがある。特にAとEは「かいぎ」を「昼寝の時間」に誤変換してくれる。正変換か?
 さて、日本の義務教育を再生だそうである。学力を上げたいそうである。もう馬鹿も休み休み言ってくれたまえ。持って生まれた知能が教育によって劇的に向上することがない限り、一つの統一的公教育の場、すなわち公立の小中学校で全く等質の教育を全く資質の異なる全児童に行うことに意味はありません。例えばこの世界が音感至上主義によって支配されていたとしよう。絶対音感のない者(私)は知的障害者扱いだ。小学校では先生がピアノで曲を弾き、さあ採譜してみなさいと言う。音感のいい児童はさらさらと採譜する。でも音感のない児童はほとんど全く採譜できない。完璧に採譜できる児童と全く採譜できない児童が現れる。能力差は極めて歴然だ。絶対音感のある人は皿をフォークで叩いた音でも壁を叩いた音でも音程が解るそうだ。そんな優秀な児童に対して、レの音を先生がピアノで弾いて、これは何の音かな、なんて授業をしても何の意味があるのか。全く完全に完璧に無意味である。この世界で「国際競争力をつける」ということは一流の音楽家を作ることだから、音感のいい児童に別カリキュラムで英才教育をしたほうがはるかに「国際競争力がつく」んじゃありませんかね。
 教育再生とか言うものの、要するにビジョンが曖昧なのである。「日本の高校生の数学の学力を世界一にしましょう計画」の方がずっと具体的で良い。教育という概念が多方面に拡散しているために議論がデフォーカスして結局は躓く。学力について議論したいのならば、いじめ問題や生きる力(意味不明)とか道徳とかそういった議論を一切排除すべきだ。毎日1時間目には国語(漢文)と兼ねて論語の授業ができるなら一番いいのだが、それができない以上学校で道徳とか教えるな。そんな時間的余裕は週休二日制様のおかげをもちましてありませんでございますよ。
 教育再生で何を議論するんですか。学力向上ですか。それともいじめですか。いじめが重要なら極端な話学校なんてなくしてしまえばいいし、学力向上なら、やっぱり学校がなくなった方がいい。時間の無駄だから。どう無駄かと言うと、こんな具合だ。学期が始まって教科書が配られます。その教科書を読みます。全教科の教科書を3日間でのんびりと読みます。終わり。これで全部理解できることを延延と延延延と延延延延と酸を無限倍希釈するかのように引き伸ばし、限りなく内容を薄め、京懐石ばりの薄味で授業するわけだ。関東人(私)には拷問だ。ガンプラを買ってきて早く完成させたいのに、今日は足首しか塗っちゃ駄目、今日は手しか組み立てちゃ駄目と言われて完成まで半年かかるようなイラつきだ。なぜ早く作ってはいけないのかの理由はない。こうして我慢の心を覚えさせているのだろうか。私は我慢しっぱなしだったおかげでこんなにも我慢のない人間になりましたが。
 教育は多様化しなければならない。教育は個々人の資質を左右できないからである。資質を変えることが教育ではなく、資質の育成が教育である。猫に芸を仕込むだろうか。驢馬を競走馬にするだろうか。鷹に言葉を教えるだろうか。犬に芸を仕込み、サラブレッドを競走馬にし、九官鳥に言葉を教えるのである。人間も同じである。血を見るのが大嫌いな人間(私)を外科医にしようとしても無理なのだ。
 学力を向上させるためには個々人に適した進度で学習させなければならない。この点で最も効率的な学習方法は公文式である。個人に合わせて進度を柔軟に変えられ、反復学習を徹底させることで学習効果は非常に高くなる。あれほど完成された学習システムが存在するのだから、全面的に公教育に取り込んでしまえばよい。個々人の学習効率を上げることで時間的にも「ゆとり」が生まれ、そのゆとりの範囲で総合学習でも何でも好きにやればよい。教師の質を云々する前に教師の質に依存しない学習システムの構築をすべきなのである。なぜならば、教師の質を一度に向上させることは不可能だからである。どうしても授業をやりたいと言うのならば、一流教師による非常に質の高い授業をビデオに撮って教室のスクリーンに映せばいい。教師は商売あがったりだが、その方が授業効果ははるかに高いのである。ただ言っておくが私はそもそも「授業」という学習形態に反対である。学習はほとんどの場合自習なのである。教師は生徒が問題が理解できなかった時や問題が解けなかった時にだけ出番がある。なぜ既に理解していることをわざわざ授業で聞く必要があるのか。全くない。能力別にクラスを編成したり学校を能力別に再編することが出来ないのならば、授業という学習形態をすっぱりと放棄して、全部公文式にしてしまうのが何といっても最適解なのだ。たとえ一人の児童に対する教師の指導時間が僅か3分だったとしても、教師と一対一で指導してもらうほうが自分の能力と全く釣り合わない授業を受けるよりも効果的だ。意味不明な通信簿も「学習進捗度」として絶対的に評価でき、曖昧さがなくなる。この方法なら教師を首にする必要も評価する必要もなくなるだろう。まさに起死回生の教育改革となる。どうして私と同じように考えられる人間がほとんどいないのだろうか。

2007年1月24日  星々の記憶
最近星の元素合成過程に興味が向くようになった。科学者は浮世離れしたことを考えることで現実世界の馬鹿馬鹿しさを長時間忘却できる特技を持っている(笑)。さて我々の太陽系を構成している元素は複数の星で作られた元素が混合していることが判っている。宇宙のほとんどの元素は水素であり、水素よりも重い元素は星の中で作られる。よって我々の周囲の元素はほとんどが前世代の恒星で作られたものだ。恒星内では鉄までの元素作られるが、鉄よりも重い元素は星の進化の末期で作られる。AGB星や超新星起源の核種を隕石から分離した"とある"粒子から見つけ出そうという、何とも古典的なことを始めたわけだが、解り易い研究のほうが世間の受けもいいと思うし、浮世に関連した研究は肌に合わないので、やはり宇宙化学が自分には合っているのかもしれない。最悪なタイミングで生を受けて最悪なタイミングで学問を志してしまった以上、世間の猛烈なる逆風(それは学問そのものを破滅させようとする流れ)には逆らうことなく、「私ども学者は生きていられるだけでも幸せでございます」という謙虚な気持ちでいるしかない。
 星々が何のために元素を作り出してきたのかを知ることが出来ないように、私たちは学問の中から人間の意味を問いただすことは出来ない。私がどんなにこの太陽系の元となった星たち―それは私たちの遥かなる源―の記憶を見つけ出すことが出来たとしても、私はその科学が与える純粋なる光悦と対を成すかのように、心の内には「深き未知」が在り続ける。星たちの記憶がここに直接在ったとしても、私たちがその意を完全に忘失している理由を量りかねるのだ。科学は私に晏寧を与えない。科学は泯乱を糺さない。寧ろ知の無力と不治の病を宣告するための使者こそ科学である。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」イエスが世俗的・因習的価値を破壊するために来たように、科学という人間臭い知の体系は人間自身の無知を暴くためにあるのだ。人間とは滑稽なまでに自虐的生物なのだ。

2007年1月23日  忌避と自由
人生を道に譬えることが多いようだが、道などはない。私が譬えるならこんなところだ。
 人生とは大洋上の泥舟だ。どこへ行こうとも自由。東西南北どちらへ進んでも結構。ただし、北には燃える島しかなく、南では台風が荒れ狂い、東には海賊がいますけれど。別に北に進んで焼け死んでもいいし、南に進んで沈没してもいいし、東に進んで海賊に殺されても別に自由です。その場に留まっても良い。ただし泥舟なのでいつかは沈みますが。仕方がないので西へ行く。しかしそれしか選択肢がなかったわけではない。北と南と東も選択できたはずだ。つまり西しか行く場所がなかったのではなくて、自分の意思で西を選択しているわけだ。さて、我々はこの状況を自由と呼ぶだろうか。おそらく呼ばない。西「しか」行く場所がないように見えるからだ。だから自由度はなく、自由意志はなく、確かにそこには一本筋の「道」がある。否応なく進まざるを得ない「道」だ。しかしこの道はどのようにして作られているのかと言えば、死の忌避によって作られた道である。死なない選択をするとこのように道ができる。人生とはこのように、忌避という消極的理由によって形成されている道なのである。
 具体的に言おう。幼児は家出をしない。どんなに親に酷い目に遭わされていても普通家出しない。だから虐待死もあるわけだが、なぜ家出をしないのかと言えば、生きていけないからである。別に家出をして橋の下で野たれ死んでもいいのだが、そうはしない。親が自分を殺さないかもしれないからである。仕事の内容が気に入らないからと言ってすぐに辞める人は少ない。無職になったら飯を食えないからである。難病を告知されたまま何の治療もしない人はいない。治療すれば治るかもしれないからである。自殺を思い立って自殺を躊躇わない人はいない。死ななくて済むかもしれないらである。
 死の忌避は人間の最も基本的な忌避行動である。だが忌避するのは死だけではない。人間の意志と行動の全ては忌避なのである。一流大学へ行きたいと思うのは一流でない大学へ進学することの忌避である。美人と結婚したいと思うのは不美人との結婚の忌避である。金持ちになりたいと思うのは貧乏からの忌避である。腹一杯食べたいと思うのは空腹の忌避、髪の毛を増やしたいのは禿の忌避、所有したいのは無所有の忌避・・・ だからもしも何も避けることのないサイコパスならばこの世はまったくの自由だ。逆に神経質な人間はあらゆる不快な事象から避けようとするので人生は極めて細い路地となる。

2007年1月18日  闊
広い空間を人は好きではない。普通の人は40畳の厠で用を足したいとは思わない。だからどんな豪邸でも便所の広さはたかが知れている。便所では一箇所に座って動かず、ある程度の時間をその位置で、一人で居なければならない。だから人が一人である程度の時間定位置に留まる際に最も心地良い容積が設定されている。あまりに巨大すぎる居間はどこか落ち着かない。100畳の食卓で食事をしたいと私は思わない。だから私はヨーロッパの城になんて絶対に住みたくない。狭い茶室は心地よい空間を追い求めた日本人の究極の発明かもしれない。
 バチカンのサン・ピエトロ大聖堂には3度行っているが、あの威容には誰もが驚嘆するだろう。東大寺大仏殿をすっぽり内部に納めるほどの巨大な空間は神の偉大さを演出するためには効果的に機能している。空間そのものが人を畏怖させる大きな力を持っていることを感じる。この空間の力を前に、私は「実感的な」巨大さだけが恐ろしさを伴っているのだと知る。なぜならば、私は海岸で水平線を見ても全く恐ろしくないから。大聖堂のような区切られた空間が人を畏怖させる。なぜならば、すでにその空間が空間ではなく「実体」のように感じられるからだ。しかしそうは言っても空間を区切る巨大な壁に畏怖しているわけではない。やはり畏怖の対象はあくまでも空間である。区切られた巨大な空間が私の常識的空間感覚を狂わせる。視覚による遠近感もあまりに高い天井には役に立たず、音の反響も普通の部屋とは全く異質。そうした諸々の感覚の違和感が恐怖なのだ。巨大な鍾乳洞も全く同じ理由でどことなく恐ろしい。日本人はあまりに狭い家に住んでいるために広い家に住もうとするが、実は人は広い空間が好きではないのだ。曹操と楊脩の有名なエピソードとして、曹操が出来上がった庭を見て何も言わずに門に活の一字を書き、その意味を楊脩が解き明かす話が三国志にある。門構えに活で闊、つまり庭が闊すぎるということである。あの巨大好きな中国人でも程ほどの闊さを愛したという点で私は好きな話だ。
 庭の話ついでだが、Journal of Japanese Gardeningの日本庭園ランキングで足立美術館が4年連続で1位になっているらしい。実に悲しむべきことだ。私は本気であの庭の門柱に活の一字を書いてやろうと思ったほどである。あれが日本の最高の庭園だなどと海外の人に思われるかと思うと本当にやるせない。私をあれほど不快にさせた庭もないのに。私なら天竜寺の池泉回遊式庭園あたりを一位にするだろうか。あの庭こそ美の極致である。完璧とはああいうものを言うのだろう。

2007年1月12日  無駄
社会の中で最も不要なものは政治だ。政治は人の足を引っ張ることしかしない。人の努力を無にし、平穏無事な社会に不和と混乱を齎す。しなくてもいいことだけをするのが政治。国民から何の要望もないのに意味もなく変える。変えて全てを悪くする。こうして政治と行政は放っておけばうまくいっている秩序ある社会に無秩序を産み出す。要望のあることだけやっていては自分の手柄にならないのでわざわざ平穏な社会に波風を立てて社会を破壊する。政治はなるべくない方がよい。選挙ももう止めるべきだ。意味がない。すでに人と政策はワンセットではない。当選すればすぐに言っていることが変わる。
 政治行政の機能は極端に限定されるべきだ。「官から民へ」なのだろう?ならは省庁も民間にしてしまえ。国民ために政治があるわけではない。あったためしはない。常に支配する側の理屈で政治は存在してきた。徹底的に政治に対して全国民が無関心であり続けられるのならばこんなに素晴らしい社会はない。そのためには「何もしない政府」が必要。日本の社会は世界的に稀なほど秩序ある社会なのだ。それをいつもいつもぶち壊してきたのは政府。もうたくさんだ。何もしなくて結構。うまくいっていないことだけ対処しろ。うまくいっていることに口を出すな。

2007年1月9日  虚無主義の果てに
病だ。虚無主義という病はいつも潜伏している。それと無縁だと思っている人でさえ、残酷な現実の前には虚無に屈服するのだ。愛する人を亡くしてみたまえ。親友に裏切られてみたまえ。本物だと信じていたものが偽物だったと宣告されてみたまえ。激しい飢えと渇きと寒さに曝されてみたまえ。理不尽な理由で迫害されてみたまえ。突然職場を解雇されてみたまえ。長年の努力が無駄になってみたまえ。不治の病を宣告されてみたまえ。容易く虚無は人間を支配する。虚無は心を容易に破壊する。ある時はじわじわと、ある時は急速に。虚無主義とは無への誘惑であり、そして現実の全てを否定しつくす激しい怒りなのである。虚無は静かなるものではない。虚無は激昂だ。現実の残酷さを憎む怒りと悲しみが虚無を成長させる。怒りなき人間はいない。苦痛なき人間はいない。だから虚無は誰の心にも潜んでいる。怒りは深い虚無へと通じている。虚無主義は現実に対する怒りと諦めと許容の過程で生まれる。現実を許容するために、怒りと憎悪が虚無となっているだけに過ぎない。そうまでして人は自分を守ろうとしている。自分の心を本当の破滅から救うために、別の破滅を虚無として作り上げる。虚無が真の破滅から人を救う。永遠に怒り続けることはできないのだ。
 そうであっても、どのような理由で虚無主義を否定するべきなのか。私は完全には否定できない。それを経なければ、虚無主義の果てに至らなければ、どうして現実を受け入れることができよう。ある者は試みに遭わずに平穏無事な人生を送る一方で、試練と迫害と困窮の中で死ぬ者もいるだろう。自殺者も後を絶えない。残酷さこそ人生である。苦痛こそ人生である。絶望こそ人生である。無数の傷に比してそれを癒せる薬は無に等しい。対流圏には私の命を奪おうとする兆億の細菌とウイルスが満ち、私の免疫力が弱まれば私はすぐさま死に至る。死の力と私は今も戦い続けている。この世界は生の力と死の力の均衡の世界である。どこにも安らかな生はない。生とは絶え間ない激闘。この修羅の世界を虚無主義を通過せずにそのまま肯んずることなど出来ようか。この残酷さ、この過酷さを神が楽しめと言うのならば、神をも切り捨てる過酷さをも楽しめということだ。神々は人間に殺されるために我々を修羅にしたということか。それならば死を必死に払いのけ続ける無駄な戦いを、血塗れになりながら楽しもうということだ。この暴虐を、この残虐を、人を殺し、神を殺す非情を、我々は心から楽しもうということだ。戦争が人間の全てだ。殺して殺して殺し尽くすことことが正義と呼ばれるべきだ。もしもこの世に、心に、虚無主義がないのならば。虚無によって心を完全な滅びと暴虐とから救わなければどうやって人はこの地獄を見つめる勇気を得られよう。虚無を通過せずにこの無価値極まりない阿修羅の世界に、どうして僅かばかりの愛と希望を残せよう。愛と希望を完全に滅ぼしてしまうことなどできないのだ。どんなにこの世界が無価値で残酷であると知っていても、どんな不条理と理不尽があろうと、消してしまうことのできない微かな正気を私は守ってきた。人間の正気とは儚いものだ。一日中真っ暗な無響室に閉じ込められただけで人は正気を失いかけるだろう。この脆すぎる正気を、人々は心に常駐しているものと勘違いしている。一日時間があればどんな人間からも正気を奪えるのに。その人間の家族を全員惨殺し、職を奪い、家を灰にし、本人が冤罪で投獄されてもどうして正気でいられるものか。正気なんて脆いものを守ろうとしても無駄だ。絶望の中で拾うものだけが本当の正気なのだから。全くの虚無からは何も生まれないが、。私はその虚無をいつも覗き、虚無に何度も心を砕かれながら馬鹿馬鹿しいこの人生を肯んずるために全ての滅びを切望している。だから虚無主義もいつの日にか完全に滅びなければならない。どんな絶望的で残酷な現実を前にしても虚無主義なしに私が正気でいられるように。
 楽しい気持ちや平穏な気持ちは、次の瞬間に襲い掛かる狂気への予告のようだ。どんなに正しい見解を得たとしても、私の心は魔の侵入を防げない。別の狂気で狂気を排撃するしかないような状態だ。私がどんなに無抵抗であろうとも平和主義者であろうとも、お構いなしに魔は私を迷いの世界に引き戻そうとする。そして私の耳元でこう囁く。「この世界には何の価値も意味もない。お前は世界から断絶している。」と。虚無主義は何度追い払っても追い払っても生存の奥底から無限に湧き出る。私は孤独の中で何も得ないのだろうかと、私の境地は完成されないのではないかと、世俗的幸福と真の幸福を折衷することなどできないのではないかという疑念を呼び覚ます。愛が私を裏切り続けたように、この世界そのものも私を裏切っているのではないかという疑念に私の胸は破裂しそうになる。まさか佛は私に嘘をつくまいと思っても、私の苦しみが去らない理由がわからなくなる。こうも簡単に私の心は虚無によって砕かれてしまうのに、私に永遠の平安などありえるのだろうか。本当は悟りを完全に持続させる方法はないのではないだろうか。私は無茶なことをしているのではないだろうか。心の作用をなくすことは生きている以上できないのだから、心の作用がある限り迷妄は決して消え去らず、虚無もなくならないのではないだろうか。たとえどんなに確かで偉大な悟りを得たとしても、この境地は圧倒的な現実の残酷さには太刀打ちできないのではないだろうか。出家でもしない限り。そもそもこんな疑念が起きることが、私の努力が嘲笑われている証拠だ。結局私は虚無主義を破滅させるために常に自分にこう言い聞かせ続けるしかない。「馬鹿になれ」

2007年1月4日  欲望とは何なのか
人々が求める幸福とは欲望の達成である。私が思うに、欲望は欠乏より生じる。煙草を吸う行為はニコチンの中毒症状による不快感の払拭である。欠乏感こそが欲望である。だから欲望の達成は欠乏の補填である。もしも欠乏がなければ欲望はない。欠乏していないのに刺戟を得ても何の意味もない。満腹なのに食事はできない。空腹だから食事は快感なのである。このように、全ての欲望は積極的意欲ではない。我慢すればするほど欲望の充填は強い快感となる。真夏の暑い時期に喉の渇きを我慢すればするほど冷えたビールは旨いだろう。数日何も食べなければ一杯の牛丼でさえ計り知れない美味となる。性欲もまた然り。苦痛の我慢は長ければ長いほどそれからの解放は大きな快感となる。
 結論。欲望は快感への思慕であり、快感とは欠乏感の充足である。だから欲望は欠乏であり、欠乏を満たそうという本能の情動である。この情動と欠乏はひとつであり、欠乏があっても情動がないということはない。情動が欠乏を欠乏として認識させているからだ。だから人間とは不断に欠乏を作り続ける存在であるということだ。欠乏がなければ欠乏がないことに欠乏を感じてしまう程に欠乏と人間は密着している。欠乏は心の巨大な空洞であり、この空洞は無限に巨大である。どんなに修練を積もうとも欠乏を完全になくすことなど誰にもできない。
 お分かりだろう。人間が生きるということは常に激しい拷問を受けていることに他ならない。放っておけば腹が減り、睡魔に襲われ、性欲に肉体を支配され、精神の源泉から湧き上がるような本能の情動は忽ちにして欠乏を巨大に膨れ上がらせる。この欠乏の増大を止める手段は一つもない。我々はこの欠乏を小まめに埋めていくしかないのだ。激しい苦痛は直ぐそこまで迫っているのだから。実に簡単に人は苦痛と対面できる。飯を食わないだけで、寝ないだけで、水を飲まないだけで、いや、息を吸わなければ一分もせずに苦痛はやってくる。苦痛を感ぜずに生きることなど不可能であり、どうして我々はこんなにも過酷な刑罰を受けているのかと思う。だから神は欠乏からの脱却に快感という飴を与えることで我々を宥めすかしている。そしていつの間にか否定的な意味しか持っていない我々の欠乏感は様々な形で美化される。人々は欠乏をもっと穿ち、深い穴にするために情熱を傾けている。私は皮肉を込めてこう言おう。「これらの魅力的な商品を見なさい。すぐにあなたの心に欠乏が生まれますよ。」





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