2006年の日記
孤独と智慧へ

2006年12月27日  心と音
心は不思議な性質を持っている。瞑想に入ると様々な心の働きが乱れとなって暴れ回り、次に静寂と統一が入れ替わる。瞑想すれば容易に判る事だが、心の働きの中で最も多くの乱れを産み出すのはどうも聴覚的な働きのようだ。それは、全ての概念が聴覚と深く結びついているからである。言葉は音である。だから心に起きるざわめき、葛藤、乱れの多くはまず音となって襲い掛かってくる。音を停止できれば概念は停止し、言葉は消えるはずである。静寂という言葉は音に対する言葉であり、心の静寂とは心から聴覚的作用が消え去っているということなのである。我々は環境からの情報の七割を視覚に頼っているが、視覚的作用は心を乱す力という点で聴覚に及ばない。それは視覚という感覚が概念と直接結びついておらず、概念によって視覚的情報が引き出されることがないので簡単に制御できるからである。ところが聴覚は心の深い原始的領域に存在しているように見えるにもかかわらず、非常に密接に概念と結合しているために極めて獰猛に心を乱すのである。たとえ一瞬でも雑念が起きれば、その雑念は容易に概念と結びついて音を掘り起こしてしまう。私が常に音に対して神経質になっているのはこうした理由がある。言葉を完全に消滅させたとしても音は完全に消え去らないように思われる。なぜならば言葉ではない様々な音は健在で、しつこく心に留まってしまうかのように見えるからである。しかし、概念が死滅した後の音は音ではないのである。なぜならば、概念が死滅した後の音は当然「音」という言葉ではなく、純粋なる音そのものであって、それ故にその音は無音なのである。だから無の音とは概念が死滅しなければ見えない。この場合「無の音を聴く」というよりも、「無の音を見る」という表現のほうがしっくりとくる。音が音としての実体を持っていないのに音の存在は認識の範疇にある。人間の認識はこのように神秘的である。

2006年12月26日  真理への服従
思えばガロアにせよカントールにせよ真理に忠実であろうとした者には悲劇が待っていた。他者の無理解は天才を狂気へと追い込んでいく。ガロアの伝記を涙なしに読むことなど私には到底できぬ。何故あのような真の天才にあれほどの不運と不幸が立て続けに起きなければならないのか。運命とは何と残酷極まりないのか。彼らの生涯が何度私を震え上がらせ続けてきたことか。だから私は私の揺るぎなき「生存の哲学」を世に出す気はない。直感と論理を超越した難解極まる哲学は人の理解を超え過ぎている。幾百年の時を経て私の思想を理解できる者が現れない限り、私の言葉などヨハネの黙示録と同じようなものだ。だから私は私の智の真髄に関しては一生秘匿し続ける。そして頭脳の余った時間に少々そいつを働かせて児戯にも等しい研究をしているのだ。しかしそれでも私の言っていることは難解なのだろうか。どれだけ私は力を抜けばいいのだ。こんなに手抜きしているのにまだ手抜き加減が足りないとでも言うのか。そういえば私の卒研の指導教官は私の手抜きぶりを見抜いていたな。そう、私はいつも手を抜いていた。徹夜で仕事をしたことも実験したこともない。でもそれで丁度いいことも私は知っているのだ。悲しむべきことは私が全力になって取り組むべきことはないということだ。なぜならば、全力で取り組むことは私に不幸になれということなのだから。私が全力で築き上げた哲学を誰一人理解できないように(容易に理解できるだろうと私が期待するような哲学の断片部分でさえ理解を得られないのだから全体を理解できる人間はいないと結論できる)、私が全力になってしまえば人々の近付こうとしない領域の壁に大穴を空けてしまう。だから私は大人にならなければならない。今私が本気になっても若造の戯言に過ぎないのだろう。だから30年後にでも私は本気を出して学問そのものを叩き潰してしまえばいいのだ。今は手抜き研究で人並みにやっていればそれでいい。私はいつでも真理への忠実な奴隷であり、それさえ裏切らなければどんなに手を抜いても不忠にはなるまい。
 私はガウスに学ばなければならない。彼は多くの大発見を全く発表しなかった。発表する手段が乏しかったこともあるが、それ以上に彼は世の無理解から生じる種々の無用な論争を避けたかったと思われる。そうした無駄な論議は大変なストレスだからだ。そんな論争をしても彼にとって何の意味もないし、進歩もない。なぜならば真理は論争しようがしまいが正しいからである。コンセンサスなど得られる必要がない。コンセンサスが真理と一致しないことは人類が度々経験してきた真実である。天動説が覆されたように。だから私は私が信じる絶対的な正しさ、真理を徒に議論の対象にすべきではない。真理は決して揺るがず、私だけが知っている智の輝きだけに私が満足していれば実に私は幸福なのだから。議論は私にとって何の意味もない。何もそこからは産まれないのだから。
 己こそ己の寄る辺。己をおきて誰に寄るべぞ。よく整えし己にこそまこと得難き寄る辺をぞ得ん。

2006年12月25日  天に希う
今の私の心境はガリレオ・ガリレイと同じだ。どんなに正しい理論でも、他人が理解できなければ正しさは剥奪されてしまう。人間の直感や先入観と真っ向から対立する理屈など誰も信じたくはないし、理解できない。たとえそれが厳然とした正論であったとしても、私自身の直感をも裏切るような理論を他人に納得させることは至難の業のようだ。私の理論は明らかに正しいのであるが、深遠な理論の骨子は確かに解り辛い。
 認識論を理解できなければ自分が何を考えているのかさえもわからない。何を測定し、何を定義し、何を推定しているのかは究極的には認識論である。知りたいものが何なのか、定義したいのは何なのか、測定したいものは何なのかを究極的に理解することなくして科学など成り立ちようはない。しかし我々は表面的にしか科学を理解せず、究極的な領域に足を踏み入れることを躊躇い、先入観に囚われて正しさを見落としてしまう。これは人間の性だろうか。何百年も人間は変わってはいないのか。他者の理解を超えた発想はいつの時代でも黙殺され続けてきたのだろう。私の事例など何千何万というそうした不幸の一例に過ぎない。私はまたしても、こんな幻滅を味わうことになった。私はたった一人なのだと。私だけが理解していることの不幸を私は呪う。またしても私は私自身に附帯している知によって裏切られた。知によって私は何度悲しみを背負うのか。知さえなければ私には幸福で穏当な未来が用意されているのか。私はずっと同胞を求め続けているのに、なぜ哲人は世に少いのか。なぜ私だけがこんなことを考えてしまうのか。つまらない穏当な論文だけを書いていればこんな悲しい気持ちを味わうこともなかっただろうに。こんなにも深く学問に対する失望感を味わったことはない。本当に失望した。それでも私は考えてしまうのだ。どこまでもどこまでも深遠な知の限界のことを。なぜなら、私は正しさの究極を知りたいからだ。他人の敷いたレールの上で満足することなんて、この世界は亀の上の象が支える盆だと信じるのと同じくらい私にとって無茶なことなのだ。
 だから私は天に希う。もしも可能ならば、どうか偉大な知者を私の前に登場させてください。漲るほどの知力を携えた者に私を引き合わせてください。鋼鉄をも射抜くほど鋭く、存在の深奥を解き明かすほどの知を持った真の天才を。私に必要な者は真の天才だけなのです。私が怯み、平伏すほどの知者を今も私は探し続けているのです。どうか私を一人にしないでください。私には智慧を求める同胞が必要なのです。そうでなければ、なぜ私が孤独なる道を歩むことをあなたが妨げたのか理解できないのです。天意は量りがたきものです。しかし私は私に与えられている賜物の真の意味を知りたいのです。私が感じ続けてきた孤独は錯覚ではなく真に孤独です。だから貴方が天意を隠そうとしても、隠しきれるものではありません。しかし孔子でさえ五十にして天命を知ったのですから、私などまだ到底知りえようはずもないかもしれません。それでも私は「聖意量り難し」では満足できないのです。だから天よ、どうか私のためにたった一つの智の道だけを用意してください。それは栄光の道でも覇者への道でも神への道でもありません。私が求めているのは何時も智慧だけです。本当に学問を志す者は実に少なく、名誉や地位や業績や目先の興味に心奪われて真実の智への飽くなき情熱を捨てています。そして真の智の在り処を探そうともせずに闇雲に地面を掘って息絶えていくのです。しかし私には瑣末な知識など不要です。地位も名誉も栄光も不要です。私が求めているものは金であって真鍮ではないからです。真鍮の作り方を知っても金は得られません。だから、ただ真っ直ぐに伸びる大道こそ私には相応しく、それ以外の一切に私は媚を売りません。私が欲しいものはたった一つであり、それは過去も現在も未来も同じです。私は決して退転しません。もしも私の智が私の中で完結すべきものなら、その運命も受け入れましょう。私の絶対的孤独は智によって癒されましょう。しかし智なき私など考えられないことです。それなくして、それを得る希望なくして私は一瞬間とて生きられません。もしも一生同胞に巡り合えなかったとしても、この希望だけは消え失せる事はないでしょう。私は天に希う。私の同胞が智のみならば、その同胞を私に巡り合わせてください。私に必要なのは同胞なのです。

2006年12月21日  著者数
某有名科学雑誌を見ると、著者の数が何十名、下手をすると百名を超える場合が多く見受けられる。私が知る最も著者数の多い論文は、著者数約400名である。最早笑うしかない。著者が数十名を超えるなんて本当に馬鹿げた話だ。この知性への冒涜、科学を貶めるような恥ずべき行為に私は憤る。文章量を人数で割ったら一人数行しか書いていないことになるわけだ。こうまでして論文に名前を入れてもらおうとする乞食にも等しい行為を自分で恥と思わないのだろうか。悲しむべきことだ。例えば自分の名前が論文の35番目に載っていて何が楽しいのだろう。別になくてもいいではないか。いや、むしろ無い方がいい。
 論文の著者は実際に論文を書いた人間だけで十分だ。あとは機関名だけでいい。機関名を著者名にできれば著者数が異常増殖することもなくなる。ほんの少しデータを出しただけの人間をいちいち著者にする必要なんてどこにあるのだろう。とにかく著者名に関する国際的統一基準を作らなければならない。著者20名以上の論文なんてそもそも受理すべきでない。著者名が多い論文というのは何とも胡散臭い。本当にこいつら全員にcontributionがあるのかよ、とツッコミたくなる。

2006年12月20日  論理の源泉
論理がどこから来るのかを知る者は多くはないかもしれない。実のところ論理は自己の不可分性と非代替性によって発生している。もしこの2つの明らかに自明な原則が破綻したときには論理は死ぬ。だから論理は確実な自我と完全に同居していることになる。
 論理的思考に優れた人間が非論理的思考に秀でているとは限らない。論理的に抽象的思考を行うことと非論理的思考は異なる。私がここで言う非論理的思考とは全く感覚的で、肉感的ですらある。それは、論理の深層の中にのみ見出しうる、論理の原点の「周辺」である。だから論理的思考の極限に私の言う非論理的思考はあるが、それは論理的思考を行っている主体を自ら掻き回すような反逆的知性である。哲学者とはこういう能力を持っている者たちであるべきた。だが論理の究極的源泉を掘り当てられる者は稀だろう。キリストが常に譬で教えた理由は、神の国は人智を超えているからだ。人間の知性的論理を超えたものにはどんな文字を当てることも適わない。自己が破られている時にはどんな言葉も無価値なのだ。

2006年12月19日  知覚
知覚は麻薬のようなものだ。知覚の全ては実に忌むべき誘惑だ。私が私の意志で自分を瞬殺できるのならばこんなにも知覚は私に付き纏わない。例えば、激しい拷問を受けたとする。その苦痛の苛烈さに耐えかねて私が私の意志で自分を容易く殺せるのならば、苦痛の感覚は私にとって大した意味は持たないだろう。しかし私は常に私に強く固定されている。我々は知覚という引力によって魂を縛られているのだ。知覚の力は大きい。痒い、痛いという感覚を払拭できない。寒い、暑いという感覚を払拭できない。あらゆる不快感と快感を私は払拭できないだろう。結局のところ知覚というあまりに強大な引力に逆らうこと自体が無意味な努力なのだ。しかしながら、我々は知覚を単なる知覚として決して魂を曳かれてはならない。なぜならば、魂は簡単に堕落するからだ。知覚は防げないが、知覚の誘惑に魂を汚されなければ良い。そのように魂を守らなければならない。本質は常に清らかであれ。

2006年12月18日  出世
出世しようとするな。無理なことはするな。上を目指すな。野望を抱くな。大志は捨て去れ。

ある所に自分が天使だと信じる男がいた。皆は信じなかったが、その男は自分にはかつて翼があったと信じていた。男は再び天に帰ろうとし、なるべく天に近い場所を探し、雲をつくような塔に登った。しかし、「ああここまで来てもまだ天に届かない、もっと高くまで行かなければ」と言って塔から飛び上がり、その結果墜ちて死んでしまった。

翼のない者は飛べない。だから与えられたものだけで満足しておけば死ぬことはないのだ。翼のない者は飛ぼうとするな。どんなに頑張っても人は飛べない。それを飛ぼうとしている者のなんと多いことだろう。結局無理に無理を重ねて死ぬことになる。何一つ豊かな心を育むこともなく死ぬ。上を目指す者は例外なく足下を見ない。天にあると信じていたものは、実は足元に転がっているのに。だから上を目指すな。その前に自分の足元をよくよく観察するのがよい。照顧脚下。

2006年12月12日  美さえも
美さえも滅びる。滅びてしまう。否定的な観点ではない。私にとって、もう美なんてどうでもいい。滅びてしまった。あんなに恋焦がれ。追い続けた美でさえも、そのイデアも、私は滅ぼしてしまった。美は愛執だった。愛だった。だから滅びてしまった。切なさもなく、空しさもなく、満ち足りている。私は満ち満ちている。しかしそれは美によって満たされているのではない。私を浸す液体は美ではない。私を入れる器は美ではない。私を立ち止まらせる美は存在しなくなってしまった。私を駆動させるのは美ではない。複雑怪奇な美の哲学は過去の遺物となった。機械式時計のように精緻に築き上げた私の美の哲学は、太古の時代に置き去りにされた遠い記憶に過ぎない。あの熱情、あの切望、あの渇望、私はもういらない。
 藝術を超えた藝術的境地に至って私は美を滅亡させる。美が私に屈服したのか。否!美は存在しなかった。美は生存に吸収されたのか。否!生存は存在にあらざる故に。美の感覚は幼稚な感動にしか過ぎない。そこに真実はなく、美が「ない」という「美しさ」の前には美は存在し得ないのだ。この世に美しいものはない。私だけが美しかったとしても、私の中に美は存在しない。私の心を揺るがす美は存在しない。美は私の中の虚妄。私の中の妄執。私の中の神の断片。だからそんなものは最初からない。概念は美に収束しない。美に全てが止揚されたりはしない。美の滅亡は善の滅亡だ。善は美と共に滅び去る運命にあった。奴らの心中に私は眉一つ動かさない。ようやく私は美の束縛から解き放たれたのだ。素晴らしい。

2006年12月11日  魚の切り身
切り身しか見たことのない子供にとっては、魚とは切り身である。それがどういう過程を経て切り身になっているのかは知らない。切り身が元は生きている魚であったことさえも知らない。肉も同様。元が牛で、それがどのように屠殺されたのか知らない。しかしこの子供を笑える人間はこの地上には誰もいない。私も含めて、我々ほど無知で滑稽な生き物はいない。
 人間は自分たちが人間であることを知っている。しかし、私たちは人間の当事者であるにもかかわらず、我々がどこからどういう過程を経てここに存在しているのかを知らない。全く知らない。まるで魚の切り身のように。いつのまにか人間になってしまい、その最終的形体のみ知っていて、その過程を全く何も知らないのだ。かつて人間たちは自分たちを作ったのは神だと言った。しかしいつの間にか我々の先祖は神ではなくて猿になっていた。こんないい加減な話が信じられるだろうか。そんなにコロコロと我々の起源は変更可能なのだろうか。要するに我々は無知なのだ。もしも進化論の大枠か真実だとしたら、我々は何十億年という進化の過程を完全に忘却してしまっていて、その忘却の上に人間という意識だけが鎮座していることになる。万物の霊長が聞いて呆れる。霊長様は自分がどうやって自分になったのかもご存じない。子宮内で進化の過程そのままに発生しているように見えるくせに、自分たちは蜥蜴とは違うと思っている。魚の切り身はもともと大きな魚だったんだよ、と子供に言って魚を見せれば驚く。それと同じように人間は自分の起源を知らされて愕然とする。猿が我々の先祖だなんて信じられないと気勢を上げる。なんと人間とは無知な存在なのか。

2006年12月8日  賢明な女性
死者は美化されるものだが、それを差し引いても私は自分の母親以上に賢明な女性に出会ったことがはたしてあっただろうかと思うのだ。私にとって最も身近な女性は当然母親であったわけだが、もちろん自分の母親が普通の女性であると思っていたし、長所よりも欠点ばかりに目が行ってしまっていた。誰にとっても母親とはそういうものだろう。普通自分の母親を褒めたり誇りに思ったりはしない。反抗こそすれ親の能力を客観的に把握することなど子供にはできない。しかし、私はとりあえず30年以上生き、それなりに多くの人々と関わりを持ってきた中で、私は自分の母親がまさしく特別で特殊な人間であったのだということを痛感するのである。そして、おそらく母を知る誰もが、私の母親が特別な存在であったことを認識していると思われる。否応なく認識せざるを得ないほど私の母は非凡であった。
 簡潔に言えば、私の母は女性として例外的なまでに優れた能力を持っていた人であるということである。そして、誰一人として真似できないほどの人生に対する旺盛な積極性があった。医者としての仕事をこなす中で博士号を取り、子供を二人育てて家事をするだけでも大変な労働量である。しかし驚くべきことは、これだけでも常人の活動量を超えるのに、さらに茶道で茶道教授の資格を取り、佛教大学の通行教育で勉強をし、英会話学校に行き、東南アジアへのボランティア活動を行い、東洋医学の勉強をし、看護学校で教え、本を書きと、その好奇心と活動力は留まることを知らないのだ。あの凄まじいバイタリティが一体何処から湧き上がっていたのか実に謎であるが、とにもかくにも母の活動量は明らかに超人的で常識外れだ。そして、残念ながらこれほどのエネルギーを持った女性を私はこれまで一人として目撃したことがない。確かに仕事のできる女性は多くいる。しかし、その場合は独身であったり、子供がいなかったりする場合が多いのである。
 母には気負った所が微塵もなかった。男に勝とうなどと思ったことは一度もなかっただろうし、それどころか寧ろ男には勝てないと思っていた。本当に才能のある人は男性なのだと自分で認めていたのだ。この点こそ私が母の賢明さを認める最大の要因である。幼少の頃から真面目で成績もずば抜けていた母は典型的優等生だったようだし、開業医の娘で自身も国立大学の医学部に進学して医者となった母は小さな町の中では完全に特別視されていたように見える。私でさえ幼少の頃には父方よりも母方の家系から周囲に特別な目で見られていた程だ。育ちの良さからか、県下一の進学校に上位一桁の成績で入るほど頭も良かったためか、そもそも勝つとか負けるとかいう殺伐とした精神は母の中には皆無であった。しかし、自分の有能さは自覚していたはずである。県の模擬試験で1位になることもよくあったようであるから、自覚していなければおかしい。それに私の見る限り、母は女性としては異例なほど新しい発想が出てくる人であったし、私と哲学的議論のできる人であった。こういう能力のある人は稀であるし、どう考えても並の男性では到底勝てないだろう。だから「男には勝てない」という母の価値観は間違いなく父の影響を強く受けている。母は父の才能を非常に良く理解していた。そして、自分ではどうやっても及ばない才能が父にあることを感じ、その才能の成功を確信していた。他者の能力を正しく理解することは最も高い次元での知力が要求される。だから、母が父の才能を理解できたことが母の持っていた稀有な才能を証明しているのである。
 長々と死人のことを書いたが、私が言いたいことは単純である。私が出会った女性の中で最も知性ある者でさえ、男性に勝てるとは思っていなかったということだ。そして、他者の才能を素直に認めることはとても大切なことだということだ。賢明な者は少なく、真の天才を目撃する機会も少ないだろう。しかし真に賢明な者は天才を見抜くものだ。だから天才を前にしてもその才に対して鈍感な者は賢明な者ではない。そして、ある意味、天才を見抜く能力こそ女性に備わった最も優れた知性なのだとさえ思う。だから男に勝とうとして結婚せずに40になるまで仕事一筋で生きるような女性は哀れである。本当に有能な女性は仕事も家庭も両立できる。私の母は仕事と家庭以外の活動だけでも常人と同じかそれ以上のことをやってのけていた。私はああいう化け物じみて能力の高い女性を身近に見ているため、仕事が大切だから結婚しないという女性の発想が全く理解できない。結婚することで仕事ができない程度の能力しかないのであるから、さっさと結婚して仕事などやめてしまった方が良い。そういう謙虚な態度を持つことが本当の「賢明さ」である。だから賢明な者は謙虚である。

2006年12月7日  過労は愚
過労死する者がいる。仕事が人生の中で一番大切だという人がいる。こういう方々は人生の本質を履き違えている。
 昨日まで、放射光施設の実験で一日16時間ほど実験をした。人員が私を含めて二人しかいないため、仕方がない。とは言え、もともと体力のない私は非常な疲労感を覚えて少々具合が悪くなった。思考力も著しく低下した。世の中にはこれと同等の労働を恒常的にしている者が少なからずいる。私には無理だし、そういう職に就こうとは決して思わない。
 働くことは悪ではないが、働きすぎることは完全に悪である。本人の健康の問題だけではない。周囲の人間にも多大なる迷惑を掛けるのである。結婚して家庭を持っていれば、家庭生活の全てを犠牲にしているということである。過労は愚である。否応なく過労の状態になっている者は、そういう職を選ぶことが愚かである。好んで過労になっているものはもっと愚かである。そんなに大事な仕事なんてない。私の言い分は冷めて聞こえるだろう。しかし、人間はそんなに齷齪働く必要などない。はっきり言えば、凡人が100人集まって100年考え続けても、一人の天才が1時間思考することに及ばないのだ。だから本当に仕事に命を賭けるだけの価値のある才知を持った人間など数えるほどしかいない。それなのに、私は必要とされている人間で能力のある人間だと誤認して、毎日朝から真夜中まで働き続ける人間がいるのは全く愚かしいとしか言いようがない。特にキャリアウーマンと呼ばれる類の人種には非常に多い。実に迷惑な勘違いである。上司が夜中まで会社にいたら部下も帰れないので本当に迷惑だ。だから管理職はさっさと帰宅しろ。過酷な労働をしなければならない事態とは、人の命が係っている場合とか、ここでやらなければ会社が潰れてしまうといった切羽詰った時だけだ。しかしそんな事態が年に何回起きますか。年がら年中こんな危機的状態の職場ならそんな職場を選んだことがそもそもの間違いなのだ。だから毎日のように過酷な労働をしている方々は人生の最も肝腎な部分に関して完全に間違った判断をしているか、過去の自分の怠惰のツケを払っているかのどちらかである。
 しつこいようだが、人生で最も大切なことは日常生活である。平常心是れ道。まともな日常生活を放棄してまで得るべきものなどこの世には何一つない。過酷な労働によって健康を害し、周囲の人間にも迷惑を掛けて一体何の人生か。仕事が人生で一番大切だと思うなんて考えは傲慢である。そんな才知は普通ない。だから働きすぎず、規則正しく健康的な生活をすることだ。毎日しっかりとした食事を作り、洗濯をし、掃除をし、快適な睡眠を取る。これ以上何を望むというのか。それに十分な睡眠と休息なしにできる程度の仕事は私にとって価値などない。12時間の徹夜で行う仕事量よりも8時間の睡眠の後の4時間の仕事の方が質量共に圧倒する。

無門関 第三十九則 趙州洗鉢
僧趙州に問ふ、学人作入叢林乞ふ師指示せよ。州云く、喫粥し了るや未だしや。僧云く、喫し了る。州云く、鉢盂を洗ひ去れ。その僧省有り。
僧が趙州に問うた。私は新入りの雲水です。どうか教えをお示しください。趙州が言った。粥は食べたか。僧は言った。はい、食べました。趙州が言った。鉢を洗ってきなさい。その僧は悟った。

これが分からぬようでは人生の甲斐はない。この僧の感動たるやいかばかりか。こんなに親切に先人が悟りの本質を解き明かしているのだから、しっかりと人生の根本儀を掴み取って幸福な人生を送ってもらいたいものだ。

2006年11月28日  思考の柔軟性
思考が柔軟でないというのは致命的な悪だ。自分の意見を洗練することを諦めてしまったのならば進歩がない。この世には頭の固い人間が溢れかえっている。そんな人々を私は勝手にタングステンカーバイド・ヘッドと名付けている。そんな人には何を言っても無駄である。説得しようとするだけ時間の無駄だ。
 何が柔軟な思考を阻害するのだろうか。何が思考を停止させるのだろうか。私が思うに、一種の強迫観念なのではないかと思う。自分の意見を曲げたり修正することが本人とって敗北であったり、恥辱であると思っているようだ。私にはその感覚がさっぱりと実感できないのだが、本人にとって一番大事なことは一種の見栄というか、誇りなのだろう。しかも、その見栄やら誇りやらがちっぽけな人間に限って頭が固い。頑固というのは強い我の表れであって、当然こういう類の人種は決して智慧を獲得しない。大切なものは自分だけであり、自分というものを犠牲にしてまでも得なければならない真なる価値を求めることなど永久にありえない。だから塵埃のごとく小さな既得権益を守るために平気で人を貶めるようなこともする。彼らにとって基本的に正しいのは自分だけで、でもそうは言っても彼らの「自分が正しい」という確信は真の確信ではなく単なる固執なのである。論理的に正しさを確信しているわけでも何でもないので、どんなに正論をこちらから言っても通じない。頑固人間の言う正しさとは、正しさの本質とは何らの接点も持たない妄想なのである。
 馬鹿は死ななきゃ治らない、とよく言われる。とんでもない。馬鹿は死んでも治らない。死んでも治らないからこの世には頑固な馬鹿が溢れているのだ。死んで治るのならば誰もが既に馬鹿ではない。だから生きている間に何とかしろということだ。私は言うことがよく二転三転する。過去の発言と矛盾したことも言っている。それは私が致命的な馬鹿ではないからである。己を顧みて間違った考えを捨てることができるからである。私にとっては自己の人格的完成こそが究極的人生の目的であり、そのためには日々過去の自分を乗り越えなければならない。だから容易に自分の過去を否定できる。私には留まっている場所などただの一箇所もなく、特定の場に留まる時間は一秒もない。私には確実な死が用意されており、限られたこの一生に対して誠実でなければ、阿僧梢の回数生を受けようともその長大な時間は自己を省みる一瞬間にも及ばないのだ。だから頭の固い頑固な人間は何億回死んでも無知の泥沼に沈んだままだ。自分の限られた人生に対して彼らほど不誠実な者はいない。

 曾子の曰わく、吾れ日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。

頑固なる者ほど学を憎む者はない。学を好む者は常に自己を顧み、研鑽しているものだ。思考の柔軟性を失うということはこの世で生の意味を剥奪されているに等しい。しかも死んでやり直せるものでもない。己に厳しい者は己に対して誠実な者であり、必ずやその果報を得る。その果報こそが智慧である。

2006年11月27日  法然故に
我が国の佛教史上最も偉大な名僧は法然上人である。空海でも最澄でも行基でも日蓮でも道元でも明恵でも栄西でも親鸞でもない。如何なる見地から見ても法然以上の僧はいない。それを書いておこう。
 浄土門とは聖道門と対となる言葉で、難行道に対する易行道、自力に対する他力である。浄土教、すなわち阿弥陀仏への信仰は言うまでもなく法然がオリジナルではない。ナーガルジュナ、ヴァスバンドゥから曇鸞、道綽、善導という一連の浄土念仏思想の流れがある。これは法然自身が選択本願念仏集で詳述している。日本においても空也というパイオニア的名僧がいたし、往生要集を著した恵心僧都源信や融通念仏宗の良忍もいた。では法然の何が革新的だったのか。それは専修念仏という発想である。これはあまりにも大胆、いや大胆すぎる発想だ。こんな途方もないことを考えた人間は法然ただ一人である。浄土三部教を私は何度も読んでいるが、どうやってもこんな専修念仏という無茶苦茶な経典解釈はできない。このあまりにも無茶すぎる解釈、いや、すでに解釈を超えた宗教的確信こそが法然の偉大さである。そして、何よりもこんな馬鹿げた主張が現に日本仏教の主流となってしまったことは疑いようのない事実であるし、それにも増して数え切れないほどの人々の心を救い続けているのである。ではどうしてこんなことになってしまったのか。
 それは、専修念仏という旧仏教を正面から否定してしまう驚天動地の教義を主張したのが法然だったからである。法然が言い出したから、洒落にならなかったのである。もしも親鸞が専修念仏の始祖だったとしたら誰もこんな馬鹿な主張は信じないだろう。なぜか。法然以上の清僧はいなかったからである。法然以上の学僧もいなかったからである。法然は卓抜した頭脳を持ち、しかも生涯戒律を堅く守り続けた、誰もが認めざるを得ない偉大な高僧なのである。ある意味、彼は彼自身が主張した浄土門から最も遠い存在であり、厳しい修行の末に悟りを開くという伝統的佛教の権化のような僧なのである。法然在世の当時において最も悟りに近かった、いや、悟っていた僧は彼だけだと言っても過言ではない。後に摧邪輪を著して徹底的に法然を攻撃することになる明恵も、法然を尊敬していたからこそあれほどの攻撃をしたのである。つまり、法然は誰が見ても尊敬せざるを得ない当代随一の僧なのである。そんなスーパーエリートの法然が、事もあろうか、専修念仏である。当時の佛教界がどれほどの衝撃を受けたか想像に難くない。それこそ法然は気が違ったのではないかと思う者もいただろう。法然の主張はまさに歴史を揺るがす激震だったと言える。法然がいなければ浄土宗も浄土真宗も日蓮宗もない。日蓮は単なるアンチ法然でしかないのだから。
 法然の経典解釈は言うまでもなく間違っている。しかし正しい。経典解釈は間違っていようとも、法然の主張は絶対的に正しく、人間の本質を捉えている。だから誰一人法然上人を論駁できなかった。そして何よりも、法然上人の心は慈悲に満ちている。上人の幼名が勢至丸であることは偶然ではない。法然こそまさしく勢至菩薩、マハースターマ・プラープタそのものである。なぜならば、法然の説く教えの本質は衆生を済度しようという仏の慈悲そのものだからである。当時の人々は、あの名僧である法然上人が仰る事なのだから、間違いがない教えだと心から信じ、どんなにか心に支えを持ったことだろう。殺伐とした殺戮の世界に身をおいていた武士たちがどんなに勇気付けられたことだろう。法然の慈悲と透徹した人間への眼差しは、悪人正機という次元にまで高められた。こんなことを主張できるのは、真の仏以外ありえない。法然上人はどんな人々をも救おうとする慈悲の権化である。深い宗教的確信がなければ、旧仏教の全てを敵に回してまでも浄土宗を開こうとするはずがない。実に法然の悟りは深く、その慈悲は限りがない。
 よって、後世への影響力、発想の革新性と独自性、宗教者としての偉大さ、どれを取っても法然以上の僧はいない。法然を太陽とすれば親鸞は蛍だろう。それは親鸞自身が一番良く知っていよう。日蓮の主張は法然に対する旧仏教からの反撃である。しかし日蓮では到底法然に勝つことはできまい。もしも両者が対峙したとすれば、温厚な法然が得々と説得するも日蓮が一方的に激高して喧嘩別れになる、ということになっただろう。それはともかく題目という発想は称名念仏のアナロジーに過ぎず、浄土宗なしに日蓮宗は成立のしようがないのである。

2006年11月21日  雲梯
雲梯とは古代中国で用いられた攻城兵器であるが、一般的には小学校の校庭にある梯子を横に倒した形状の運動器具を指す。ここで私が触れたいのは後者の方だ。とは言っても雲梯について論じたいのではない。比喩として雲梯が丁度いいということだ。
 こういうことである。私が「それ」を手放すと、手放した喜びに打ち震えて、「ああ私は遂に脱却した」と感涙の涙にむせぶ。しかし、私は「それ」を手放すと同時に、「ああ私は遂に脱却した」という意識に掴まっているのだ。まるで雲梯遊びのように、右手を離したときには左手が横棒を掴んでいる。何という人間の業の深さか。私がもしも永遠に長い雲梯を伝って彼岸へ赴こうとすれば、私の前には無限の道が用意されていることになる。私は放しても放しても次の瞬間には「放した」という事実に寄り掛かってしまうのだ。私は趙州録にある厳陽だ。
 厳陽尊者趙州に問う、一物不将来の時如何
 趙州、放下著
 厳陽、已に是れ一物不将来、這の什麼をか放下せん
 趙州、恁麼ならば即ち担取し去れ
厳陽は、私は何も持っていません、どうしますか、と趙州に聞くと、捨てちまえと一言。私は何も持っていないのに何を捨てるのかと問うと、なら担いでいけと趙州。要するに、捨て続けるという無限の行為によっては私は捨てきることはできないのである。これでは永遠に私は生死を越えられないことになってしまう。私が完全な無に至らなければ私は寄りかかるべき寄る辺を決して持たない。むやみに両手を離せば私は地面に落下するだけだからだ。私が出家への執着を断ち切れば在家への執着が降りかかってくる。私がいっぺんに全てを消し去らなければ、どんなに前進しようとも無限に続く執着の連鎖を止められないのだ。だから私はいっぺんに全てを消し去ってしまわないといけない。その時には雲梯という生死の道ごと粉みじんだろう。死んでから仏になるなど私は真っ平御免なのだから、生きているうちに意識から無意識から全てひっくるめて一刀両断にしてくれよう。

2006年11月20日  戒名のつけかた
死んでから戒名をつけるという実に奇妙な風習は日本独自のものである。没後作僧の根拠としての教理的背景についてここで触れることはしない。私は単に、どういう人間が大金を払ってご大層な戒名を付けたがるのかに興味があるだけだ。私自身は寺においては○○居士と名乗っているので、私に死後戒名をつけるとして信士は少々抵抗がある。在家信者として居士号であるべきだし、言葉の用法としてもそれが正しい。しかし、院号というものは実に馬鹿げたものだ。寺一つくらい寄進して初めて院号がつけられるものである。私に院号なんかつけたらたたじゃおかない。不釣合いにも程がある。現に私の家で院号なんてつけた人はいない。父方の祖母の家系は札差だったので代々院号がついているが、それは寺を寄進するほどの富豪だからだ。うちのような町人が院号なんて正気の沙汰ではない。明治以前ではみんな信士か比丘(出家していたんでしょうね)で、居士号なんて誰もつけていない。国民の大半が農民だったわけだから、院号をつけるべき人間なんて全体の1パーセントもいないくらいだろう。それが今や誰でも気軽に院号をつけてしまう。金を払えばつけられるからだ。しかし、そういった身分不相応な戒名が世間的に恥であるということに気付かない者が多いのだ。生臭坊主なら大金に目が眩んでゆたらと長くて立派な戒名をつけてくれるだろう。だが、戒名の本来の意味を考えれば、むしろ不釣り合いに長い戒名は逆効果。死んだ後にまで自分の俗物ぶりを嘲笑されたいのだろうか。庶民がつける院号居士、まして院殿大居士なんて戒名はブランド趣味の極み。絶対に止めたほうが良い。私が考える戒名の付け方の原則は以下。
 @先祖の戒名と釣り合いを持たせる。
 A本人の生き様を表現した文字にする。
 Bできる限り生前に付ける
一番大切なのは@だろう。ということは、一度馬鹿みたいに長い戒名をつけてしまうと子孫が迷惑するということだ。そういうことがないようにバランスを考えることが大切。我が家は浄土宗なので○譽○○○○居士(大姉)の8文字が基本形。私の戒名も8文字でなければならない。私が院号をつけて11文字にしたら子孫が大迷惑する。先祖代々6字戒名の家ならば8文字にする必要なんて全くない。むしろ6字で済むので経済的だ。次に大切なことはAで、適した戒名をつけてもらうのに一番よい方法は旦那寺と懇意にすることだ。住職が故人の事をよく知っていれば何一つ注文を出すこともなく勝手に最適な戒名を付けてくれる。そしてできれば生前に付けてしまう事だ。戒名とは本来受戒の際に与えられる名前である。生前につけてしまった方が仏の弟子としての自覚も出てくるので良い。
 結論として、たとえ自分の代で財をなしたとしても、先祖と不釣合いな立派過ぎる戒名は絶対につけないほうがいい。寺に寄進することは悪いことではないが、単に虚栄心を満たすために馬鹿げた布施をすることには何の意味もない。死後戒名の制度は長く日本に根付いてしまっているので私は反対はしないが、こんなものには何の意味もないので世間的に突飛な行為をして嘲笑われないようにすればいい、という程度のことだ。肝腎な事はどう生きるかである。

2006年11月16日  性別とは何か
ふと、こんなことを思うのである。起きている時間の中で私が「男」なのは何時間だろうかと。別に私が女になったりゲイになったりするということではない。性別という意識が働く時間がどれほどのものかということだ。自分が人間であると意識することがほとんどないのと同様に、自分が男であると意識することも実は稀なのである。それどころか、希薄な意識の中では性別意識はかなり混濁しており、私の本質は男でも女でもないことに当然のことながら気付く。不思善不思悪ならぬ、不思男不思女という見地においても人間存在の本質は現前するのだ。この不思男不思女という性別超越的意識は全く難しいものではない。誰でも、年中発情しっぱなしの病的淫乱は別として、毎日の大半の時間を性別なしで送っている。私は女性を前にしなければ決して、如何なる時間であっても厳密には男ではない。私が女性を前にして自分が男であることを性的に、相対的に確認してはじめて私は男であるわけだが、そんな意識に私の本質は投影されてはいない。なぜならば、たとえ私から性別という属性を排除してしまったとしても依然として私は私として正しく機能し、私の意識の最も純粋なるものが侵されることはないのである。それどころか、性別という意識が私の根源なる意識、生存へと続く非相対的への道を妨げ、性という高度に煩雑な意識によって心は惑乱されてしまう。つまり、性別という意識は全くの害悪なのだ。神秘主義においてはイブ誕生以前の原初人間たる超性別の「アダム・カドモン」を究極的精神と見る。神の最も直接的模倣としての人間のプロトタイプが性別を超えているという事実は両性具有が最も完成された人間であるという思想に繋がる。この教義は容易に歪曲せられて、男女の交合の中に究極的精神を実現させようとする背徳的性魔術に変化しえるのだが、それはともかく、性という意識は超克しなければならないものでる。しかしながら、それは全く禁欲を意味していない!
 大切なことは性の実体を見極めることである。性は周辺的な意識であり、決して人間の本質ではない。周辺的なものに本質的なものが振り回されてはいけない。私は性の不可思議に魅せられはするが、そこに留まるつもりはない。私の中の混濁した性意識は全くの妄念であって、この実体なき誘惑に心を動かしてはならない。私は「男らしく」性を超える。私が真に男だから。

2006年11月8日  生活保護という超不平等
イソップ物語のアリとキリギリス(アリとセミ)の寓話がちっとも教育的に成り立たない。日本国憲法第25条「1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という意味不明な条文は、史上最低の憲法とも言うべき日本国憲法の中にあっても特筆に値する頭の悪い条項だ。例えば私が風邪をひいたとしたら、私は健康ではないので憲法違反じゃないか、という馬鹿らしい事態にもなるし、私にとって最低限度の文化的生活とはブガッティに乗ってブランパンの腕時計をしてペトリュスを毎日飲むことなので何とかしろとイチャモンをつけることもできそうに思えてくる。健康で文化的という実に曖昧模糊とした意味不明な表現に、「権利」という水戸黄門の印籠も真っ青な錦の御旗がくっ付いて、まさに何でもありである。この条文からはどんなに荒唐無稽で突拍子も無い権利の主張も可能なのだ。まさにヤクザとプロ市民と部落民と在日が一度に市中に沸いて出るような、ユスリ・タカリのオンパレードの下地を保障する究極的にナンセンスで最低な条項だと思う。俺は全然働いてないけどちゃんと飯を出せよ、一日2箱のタバコも酒もパチンコの費用も文化的生活として最低限必要だから出せよ、という主張を妨げることはできない。妨げたら違憲だ。今の日本では勝ち組はキリギリスなのだ。自分は全く働かずにアリを奴隷のように働かせ、その一部を吸い上げてのうのうと過ごしている生活保護受給者こそ現代の貴族階級である。貴族は労働しませんから。じゃあ一生懸命働いている人たちは何なんですか、と言いたい。アリとキリギリスの寓話よりも今の日本がずっと悪質なのは、アリの善意でキリギリスを食わせているのではなくて、アリは税金を搾り取られているので無理矢理キリギリスに貢がされていることである。
 今の日本では自己責任という言葉がちっとも機能せず、この社会全体の歪みが青少年に極めて甚大な負の影響を与えている。正直者が馬鹿を見る世界に何の希望があるか。一生懸命働くことが無意味に思える社会にしていいはずがない。生活保護の問題は小手先の法律の問題ではない。憲法第25条そのものから発せられる腐臭の一つに過ぎない。老齢で生活保護を受ける者が多いわけだが、これこそまさにアリとキリギリスの寓話の通りであるべきだ。普通の人は自分が定年になった後のことを考えてせっせと貯金をしたり、保険に加入したり、きちんと年金を払ったりしているのである。そういう努力を何一つせずに、身寄りがないから生活保護を受けるというわけである。じゃあちゃんと定年後に備えて準備を整えている我々の努力は何なんですか。そんな努力を一切しなくても生活保護があるから安泰ってわけですか。冬に備えて何の準備もしなかったキリギリスは餓死して当然ではないですか。どうしてキリギリスに餌を分け与えることが我々の義務になってしまっているんでしょうか。こういう生活保護なんてものは税金ではなくて、慈善事業としてやるべきなのです。施したい人が施して功徳を積めばいいんです。仏教の六波羅蜜の最初が布施です。施すことは大切な行です。イスラムにおいても貧者、特に孤児に施すことは最も重んじられている信者の務めです。しかし、それを強制されてどうするんですか。強制には何の意味もありません。施すよりも施される方が相応しいようなフリーターや派遣社員が溢れ返っているのに、彼らはものすごい搾取を受けているわけです。標準三人世帯の最低生活費にどうして18万も必要なことになってしまっているのでしょうか。それより収入が少なくともちゃんと生活しているフリーターなんていくらでもいます。旦那が死んだわけでもない母子家庭なんて知ったことではありません。結婚したのもしないのも出産したのも離婚したのも自己の責任です。自分で何とかしてください。傷病者の受給者に対してすら私は冷淡に「知ったことではない」と言えます。皆自分が病気や怪我になった場合に備えて保険に入っているんです。入らなかった自分の自己責任ではないか。それに普通大きな病気や事故に遭ったら親戚や知人がカンパくらいしてくれます。
 真の支援とは、支援された人間が一人の人格ある人間として自立するよう促すことである。単に甘やかすだけでは世の中をますます甘く見て、成長が阻害される。そもそも相互扶助とは純粋な人間関係から生まれるものです。親しい人が困っていたら皆で助けるでしょう。通夜や告別式での香典もそういうものです。どうして見ず知らずの、しかもろくに働きもしない怠け者に香典なんて進んで出しますか。寺の本堂の改修のための寄進に強制力なんてないでしょう。生活保護を受けている人でその後ちゃんと自立できた人なんてどれだけいるんですか。単に甘やかしてその人間に怠け癖をつけて駄目にしているだけです。働かざるもの食うべからず、という観点ではなくて、その人間の成長と自立のためにも、生活保護なんてものは3年程度を限度に停止せよ。漫然と怠けた生活を送るよりも一人間として自立ある死を望むべし。その方がずっと文化的生活だ。少しは顔回を見習ってほしい。
賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や

2006年11月7日  給食制度廃止論
給食という制度は確かに便利なものである。親は弁当を作る手間から解放されるし、何より安価だ。しかし私は給食制度には反対である。
 給食費を払っていない親がいる。つまりただ食いしている児童がいるわけである。これは教育上非常によろしくない。世の中金を払わずに飯が食えるはずはない。が、事実金を払わずに給食を食っている奴がいる以上、我を押し通せばそれで済んでしまうというヤクザ体質が子供の時分から刷り込まれるということだ。給食費未納児童への給食の停止ができない以上、学校という治外法権の異常社会の中では間違った社会性しか身につけることが出来ない。タダで飯は食えないという厳しい現実こそ真実の現実世界であるのに、そうした現実の厳しさを児童に教えることを学校は拒否しているわけであるから、ガキにただ飯を食わせるような制度は教育上の観点から廃止してほしい。

2006年11月6日  孤独を愛するということ
人間という生き物にとっては人間こそが全てなのである。人が心を癒し、また傷つける。人が求めるものは人との関係であり、それ以外に人は本質的に興味など無い。人間の本性とは人間への飽くなき思慕であり、欲求であり、この抑えがたい衝動が社会性の本質である。人間に対する執着は極めて強く、払拭しがたい。このような人間の本能に逆らって孤独を楽しむことは極めて難しいことだ。山野にただ一人で暮らすことなど、並大抵の忍耐では無理だろう。だから人間は孤独を愛せるだけの強固な精神を求めはするが、あっさりとそれを諦めざるをえない。孤独を楽しむことは実に難しいことである。例え孤独を愛しているような人間であっても、その愛は極めて消極的理由だ。つまり、孤独によって他者からの迫害を逃れているに過ぎず、積極的に孤独を楽しんでいるわけではない。確かに他者からの干渉が無いことは楽しいことで、喜ばしいことだ。悪友と付き合うくらいなら友などいないほうが何倍も幸福だろう。しかし賢明な者と交わることは楽しいし、心安らぐことだ。結局出家というものは愚者と交流することを忌避するという消極的理由しかない。私が厭世的である理由も全く同じで、この世界には優れた人格者が絶望的なまでに少ないからである。私の心を惑乱させ、優れて統一的な精神から愚劣な世界に引き摺り落とそうとする、ありとあらゆる障害がこの世界には満ち満ちているのだ。だから私はなるべくこのような障害から逃れるようにしている。しかし、私が在俗の世界で生きる以上、私は穢れの世界の中でも孤独であり続けなければならないということである。それは私という存在が社会から断絶しているということではなく、如何なる惑乱に干渉されざる、精神の統一性がなければならないということである。これが真の孤独である。
 山に独居することが孤独なのではない。大都会の雑踏の最中にあっても、何物にも干渉されざる孤高の精神を持つことこそが、孤独を愛するということであるべきだ。そして、孤独を真に愛すること以外、人間の苦悩の本質原因を破る方法はない。もちろんこの境地に到達することは極めて難しい。人一倍鋭敏な感覚と神経質な性格を持つ私はちょっとした雑音や悪臭にも耐え難いほどの不快感を覚えるし、それが一層私の厭世性を助長している。私はまず様々な感覚の不快感を制御できるようになりたいと思っている。そうしなければ外界からの雑音に常に苦しめられ続けることになってしまうのだから。

2006年11月2日  査読制度の限界と害悪
20世紀後半以降、科学雑誌の査読制度が確立され、科学論文は雑誌に投稿し、査読を経て掲載されるという一連の制度が定着した。この制度は現在ほとんどの雑誌で普遍的に採用されている。だから査読を経ずに論文が掲載されることは原則的にない。しかし、この制度には非常に大きな問題点がある。この問題点は科学の発展において足枷になってさえいる。私は今回それを記す。
 非常に深刻な査読制度の欠陥は、誰一人査読できない革新的な論文は発表できない点である。私は今回ある論文を投稿したが、投稿から7ヶ月も待たされた挙句、誰一人査読できませんでしたというメールが来た。つまりrejectである。査読できないという事態が往々に発生しえるということだ。これは投稿時に私が最も恐れていた事態でもある。完全に独創的な発想と難解な理論を論文に書くと、理解できる査読者がいないので査読できず、どんなに重要な内容を含んでいても規定上掲載できないのである。これは査読制度が科学の革新的発展や独創的発想を封じ込めるための負の制度としてしか機能していないということだ。確かに、お粗末で発表すべきでない論文を排除する機能として査読制度は意味がある。しかしながら、その一方で査読不能の独創的論文が握りつぶされているということである。これは到底看過できない。査読されなかった有名な論文としてはアインシュタインの特殊相対論と光電効果の論文がある。ワトソンとクリックのDNA二重螺旋構造の論文も査読されなかった。ニュートンのプリンキピアは本であって当然査読は無い。つまり、科学史上最も重要な論文は査読制度を経ていないのである。しかしながら、この半世紀で査読制度が強固に確立されてしまったために、天才のみが為しえる天才的発想は封殺されてしまっている。天才的発想とは、その人間が発表しない限り誰一人その事実に気付かないような事実や理論である。だから誰一人査読できず、査読できないので発表できないのである!よって、現在の科学雑誌に掲載されている論文のほぼ全ては「どうでもいい」論文であって、無難なことを書いておいたほうが実際査読を通りやすい。無難なことしか書けないので科学の自由は失われ、革新的理論は発表されずにお蔵入りとなる。
 もちろん私の論文が決定的に歴史を変えるほどのものであるとは思わないが、少なくとも私が指摘しなければ誰一人指摘しえない統計理論ではあるし、極めて重大な内容を持っていると確信している。しかし査読できない。難解すぎるのである。それならば査読なしでも掲載すべきではないかと私は思う。この論文が発表できなかったら私は死んでも死にきれないとさえ思っている。なぜならば、この論文は私が初めて己の知力の全てを傾けて書き上げた論文であり、終始一貫して私が一人で書き上げた単名論文だからである。
 私は正直先が思いやられる。下手をすれば今後私が書く論文の大半が査読できないような事態に遭遇するかもしれない。結局雑誌という媒体抜きに研究成果を発表せざるをえないことになるのではないだろうか。つまり、本や、ネット上での掲載などである。私が1世紀前に産まれていたらどんなに良かったことかとさえ思う。19世紀のNatureを見たことのない人は一度図書館で見たほうがいい。今のNatureとは全く違って、本当に普通の雑誌なのである。そこには科学の自由が躍動している。21世紀にはそういう科学の自由闊達な躍動感がちっともないのだ。雁字搦めの権威主義と、相手をこき下ろす為にだけ存在しているような査読制度によって、科学は全くつまらない代物に成り下がった。私の父は学会の理事長や雑誌の編集長等をしているために査読制度の欠陥をよく理解しており、基本的に論文はエディターの権限で受理すべきであると考えている。査読者に論文の採択権を持たせないことで、革新的な内容を含む論文をひとつでも多く掲載するためである。そうしなければ科学の自由は保たれず、自由な議論ができなくなってしまうのである。全ての議論はオープンであるべきで、論文が掲載された後に皆で議論すればよいのである。たった二人か三人の査読者の間だけの議論で完結してよいはずがない。基本的に論文は全て掲載すべきだとさえ私は思う。論文数=業績などというくだらない評価制度は無意味である。学問はもっと自由で深いものなのだ。論文数やインパクト・ファクターなどの俗的要素に振り回されるからデータの捏造が絶えないのだ。そんなものは学問とは何の関係も無い。

2006年10月31日  計算遅延という問題 その3
全素粒子が単純な演算としての機能しか有しないと考えることで、宇宙全体の計算を不断に実行することは可能だ。当然2つの素粒子が接触した場合の演算の過程には時間が必要である。これは時間の最小値を与え、これ以上短い時間は観測できない。さて、ここでの本質的な問題は、この演算の最小単位、つまり宇宙の最も根源的アルゴリズムの性質は如何なるものか、である。より具体的には、この演算が確率という概念を含むかどうかである。つまり、ある2つの素粒子が接触した場合に起きる何らかの現象が完全に一義的なのかどうかである。これは確率という概念の本質を問う問題である。我々は単一の確率現象は決して認識できず、ある現象が繰り返して何度も起きた場合や極めて多くの等質の事象が蓄積された時に初めて確率という概念が発生するからである。いびつなサイコロを一度だけ振っただけでは1の出る確率は不明である。だから、宇宙の根源的アルゴリズムの中に確率という概念を導入すべきかどうかは最も慎重に熟考しなければならない。
 この確率の問題と同じように本質的な問題は、時空間と演算との関係である。結論から言えば演算という過程なしに如何なる時空間も定義されず、存在し得ない。だから時空間の中に演算を担う粒子(粒子でなくてもよいが)があるのではなく、演算そのものが時空間を定義しているのである。だから演算を担う粒子はある特定の時空間に存在するのではなくて、演算という過程と時間と空間は全く同時的に発生していることになる。だからこの宇宙には完全に無数の演算を担う粒子で満たされているが、この一部だけが実際に演算を行っていると考えても良い。演算を行わない粒子は存在しないことになり、当然時間も空間もない。これは極めて当然の結論であるにもかかわらず極めて奇妙な事態を生み出す。空間の中を演算を担う粒子が移動していることを確認する術すら無いのである。全ての演算を担う粒子は全く勝手気ままに時間と空間を生み出していて、その時空間の連続的発生が、ある平滑な時空間を現出させているだけなのである。我々が見ているこの世界は極小の時空間が織りなす巨大な絨毯のようである。だから、真の素粒子である演算を担う粒子の性質を記述できるような客観的時空間が存在しないことになってしまい、この時点で物理学は完全にお手上げである。演算を担う粒子の中に全ての時空間は畳み込まれてしまっている。華厳経の一即多のようなものである。
 ここでもう一つの問題は、演算を担う粒子自体が計量的性質を持つのかどうかである。究極的素粒子の中には単一の性質もしくは機能のみを付帯させなければならない。そうしなければ分割不能性を立証できないからである。単一の演算という機能と、計量的性質を同居させることは単純にこの粒子が可算である、すなわち一個二個と数えられると考えることで、この演算を担う粒子に「1」という計量的性質を付帯させられることになる。しかし、この「可算」という演算的性質を究極的素粒子に付帯させることはそんなに容易くはない。数える手段がないからである。しかし、それが可算でなければ素粒子として認めるわけにはいかない。そもそもこの演算を担う粒子による演算そのものによって可算性が定義されるのであって、定義する主体を定義するためには別の演算が必要となり、無限に解けない問題となってしまう。つまり、「これが1個である」と定義しうる何かが無い限り素粒子の可算性さえも定義できず、完全な自家撞着に陥る。さて、このような矛盾した性質こそが「確率」という概念を産み出しているのではないかと私の直感は感じる。我々は完全な「1」さえも知らず、極小の可算性の破られた世界では破られた可算性が確率という極めてマクロな性質と同化してしまうのである。
 結果的にはこの可算性の問題でにっちもさっちもいかないことに気付く。まさしくお手上げである。それが一個であるかどうかを判定できないのだからどうしようもない。

2006年10月25日  学校という異常空間・いじめの本質
苛めを苦として自殺する者が後を絶たない。いじめる側が一方的に悪いのではあるが、いじめた子供を刑務所に送ることが出来ない上、いじめという汚点を作りたくない教師としたら見て見ぬ振りをしたいのも当然。個々のいじめに対応する手段はあるが、普遍的ないじめ対策というものが存在しうるのかと聞かれれば、私は「ある」と答える。しかし私の主張を理解する前に、学校の異常性を深く認識してもらわないとならない。
 私は常々学校(特に小学校)という場所が極めて異常な世界であると考えてきた。よく考えていただきたい。学校という制度が成立する以前に、ほとんど子供だけで構成される社会というものが自然発生的に存在した例があっただろうか。ないのである。もちろん子供が何人か集まってその中に社会を作ることは極めて自然だ。しかし、子供「だけ」が百人も集まって、しかもそれを監督する大人が数名しかいない社会というものは、どう考えても不自然なのである。多数の大人の中に子供がいるという社会が正常である。子供もいれば、青年も老人もいるという社会が健全なのである。学校が無ければ、子供は多数の大人の中で学びながら育っていくのである。子供「だけ」を一箇所の施設に隔離して数名の大人だけで管理する状態が自然なはずがない。まさしく、学校は異常な空間である。だから私は、学校という制度そのものが致命的な欠陥を孕んでいるのだと考える。そもそも子供が集まっても子供が学ぶべき点は皆無なのである。子供は大人から様々な知識や技術学ぶのであって、子供同士で高めあうことはほとんどない。つまり、学校という場は子供同士を接触させ過ぎることで子供を堕落させているのである。子供にとっては子供同士の幼稚な社会こそが世界の全てであって、たとえどんなに愚かで反社会的な行為であろうとも子供社会の中でそれが正当化されておれば、どんな反社会的行為も肯定されうるのである。しかも子供は実社会から全く隔離された幼稚な子供社会以外何一つ見ることを許されない。昼間学校から出られないのだから!子供は籠の中の鳥どころか環境を管理された実験室のモルモットであり、彼らが接触できる人間は自分と同じように無知なモルモットだけなのである。40人もいるクラスに担任教師が一人しかいないのだから、どうやっても一人一人の生徒に完全に気を配ることなど不可能である。単純に一人の生徒が接する人間の頻度分布を熱力学的に考えれば(もちろん無理はある仮定だが)、教師の影響の全人間関係に占める比率はわずか2.4%である。この計算が極端だとしても、子供にとっての人間関係の90パーセントは自分と同学年の子供なのである。わずか1歳年上の子供と接する機会さえほとんどない。これが正常な人間関係と言えるだろうか。こんな環境で育てられた子供に正常な人間関係を構築する能力が欠如していたとしても、ちっとも不思議ではない。
 そこで本題である。いじめをなくすためには、学校をなくせばよいのである。極めて極端な意見で発狂していると思われるかもしれない。しかし、ためしに学校をなくしてごらんなさい。いじめは激減どころか消滅します。学校という異常な空間がいじめの場を提供しているのです。その証拠に学校という場を介在せずに起きている子供のいじめが全国で何例ありますか。まずないでしょう。
 つまり、学校という監獄制度が子供を自殺にまで追い込んでいるのです。なぜならば、学校に行かないことが「悪」だから。学校に行かないことが悪ではないのならば、いじめを受けたならば学校に行かなければよいのです。わざわざ自分からいじめられに学校に行く馬鹿がどこにいますか。そんな馬鹿なことをする必要はないのです。私の父はこういう考え方の持ち主で、いじめられるくらいならば学校に行かなくてよいと断言していた。私も同意見である。学校に行かないことが善ではないにせよ、悪ではないという意識を浸透させるべきである。子供にとって学校はあまりにも絶対的な世界であるがために行かざるを得ず、行っては苛められて傷を受けるというどうしようもない悪循環に陥っているのである。いじめで自殺するくらいならどうして逃げないのか。不登校になればいいのである。小学校や中学校など行かなくてよい。学校という制度を廃止することはできないが、本人が学校を「なかったことにする」ことは極めて簡単なのである。だから私はこう書いておく。いじめられたら学校に行くな!そんな場所にこだわる意味など全くない。悪友と付き合う必要は全くないのである。

2006年10月24日  腐りきった根性
奈良県市職員の問題に関しての部落開放同盟奈良県連の見解には心底呆れさせられた。普通は自分の組織の幹部が不祥事を起こせば謝罪するのが常である。ところがどっこい、さすがに「穢多」という言葉は伊達ではない。彼らは決して謝らないどころか、悪いのは奈良市であって、なんでうちが非難されるんだと開き直りである。いやはや実に呆れた連中だ。彼らには自浄という言葉がない。真に穢多だからである。日本には穢れという概念がある。それは忌むべきもので、祓われるべきものである。つまり自浄である。彼らにはそれがない。全くない。私は彼らは子々孫々に渡るまで永久に穢多からぬけられないのだと確信した。140年も穢多のままなのだから、あと200年経っても穢多だろう。そこから抜けようと思えば実に容易いにもかかわらず、穢多の身分の旨みを知った部落開放同盟の連中はもう永久にそこから抜けられない。それは彼らの深すぎる業ゆえである
 仏教では前世での悪業の結果として片端に生まれると考える。身も蓋もない言い方に思われるだろうが、正しい見解でもある。生存は永久に続いていくものであって、この一生が全てではないからである。だから被差別部落に産まれるというのも当然彼らの業である。もちろん、その業を理解して自らを高めようとするのならば、悟りを得ることもでき、尊敬されるべき人間にもなろう。しかし自浄能力が皆無な連中にはもう何を言っても無駄である。三界を越えようとせぬ者には生存が用意され、穢多を脱しようと思わぬ者には更なる穢れが用意されている。彼らを辛辣に差別しなければ、彼らは永久に自浄しない。だから私は慈悲もて差別する。仏の本願には裏も表もない。激しい屈辱の中で得るべきものを拾うことができれば、身分も職も人種も関係ない絶対的境地に入る。それこそ仏の説く真の平等である。

2006年10月23日  唾棄すべき輩
5年間で8日しか出勤していないなら市職員はやはり部落開放同盟の幹部であったことが判明して、誰もが「やっぱり」と思ったことであろう。いつの時代にも生きる価値のない人間はいるものだが、部落開放同盟なる犯罪組織はさっさと解体すべきではないだろうか。いつまでもいつまでもねちっこく被害者意識に凝り固まった、劣等感だけで心臓を動かしているような連中にわざわざ枷をはめるような組織が解放同盟と言える。本当に大切なことは彼らを人間として扱うことである。いつまでも特別待遇にして一人前の人間として認めず、そうしたことが彼らをつけあがらせ、ますます自立できない中途半端な人間にしていくのだ。このような唾棄すべき劣等な人間を差別しないことなど私には到底不可能だ。犯罪者が好きな人間は普通ではないし、私はある程度正常な分別を持つ者として死ぬまでこうした嫌悪すべき愚かな人間を差別するだろう。悪辣な犯罪者と同じように。まともに働かないくせにに差別を根拠にたかり、ゆすりを繰り返すような人間は実に性質が悪く、当然差別されるべきなのである。だから私は、堂々と人を差別する勇気を現代人は持たなければならないと思う。悪人を差別しないことは悪だからである。

2006年10月16日  何のために
「私は何のために生まれてきたのか」という青臭い疑問には、実は2つの別の意味がある。1つ目は私が生まれてきた個人的理由を問うものであり、2つ目は自分の社会的役割に係るものである。両者は密接に結合していると思われるのだが、本当は全く別次元の問題なのであり、両者の矛盾はしばしば大きな哲学的問題となる。前者の個人的な自己の生存理由は人智が及ぶ。それに対して私は正しく回答することが出来る。しかし一方で後者の質問に私はまだ答えるだけの技量が無い。

2006年10月12日  後輩の死
後輩が一昨日他界したという知らせを受ける。研究室の後輩であると同時に高校の後輩にも当たる。宿舎で死んでいたらしい。おそらく心臓が原因だろうが、死因はよくはわからない。私の母と同じような死に方である。20代半ばの前途有望な若者の突然の死に言葉も無い。将来は良い研究者になっていくだろうと思っていたのに、運命とはいえあまりにも残酷なものだ。死は何と突然で、何と呆気ないものなのか。何度味わっても知人の死はいつも圧倒的だ。その絶対性に私は怯む。そして死の後も平然と我々には同じ時間が緩慢と流れていく。
 何ゆえにあのような有能な男が死ななければならないのか。必要とされる者は逝き、愚者はここに留まっている。どう天に問いかけようと決して木霊は返ってこないが、私は問いかけたくなるのだ。私は再び運命の圧倒的な力を知り、そして人生の何たるかをより深く理解するようになる。決して私も宿命に逆らえない。死が私を攫うまで。それでも私は運命の奴隷として、何かを為さなければならない。私が死ぬ時は、それが遅かろうと早かろうと私の役目は終わっているはず。そうでなければ、どうして天が私に、私が強く確信するほどの賜物を与えるだろうか。彼は逝ったが、私はまだ逝っていない。私はまだ奴隷だからだ。そして、彼の死もまた私の運命の中にあり、彼によって私は理解するようになる。死の真意を。私が生きる宿命ならばたとえ天が落ちようと私は生きる。私は生きなければならない。もし私が死ぬ運命ならばどうやって死を免れようか。免れる術は全く無い。突如として死は私に到来し、予告も無く私の人生は終わる。もしも私が私の智の深奥を世に残すことなく死ぬのならば、それはそれで意味のあることだ。モーツアルトがレクイエムをあの世へ持っていってしまったように。だから彼の死もまた最もよき彼の結末として用意されていた。だから今はただ彼の冥福を祈るだけだ。私の嘆きは易々とは渇き果てないのだが。

2006年10月5日  計算遅延という問題 その2
大変な問題に足を突っ込んでしまったことに気付いた。この問題は人智を超えているのかもしれないが、私はどうしても考え込んでしまう。さて、簡単な例を挙げよう。コンピュータ上で様々なシミュレーションを行う場合、シミュレートされている世界はCPUの計算によって時間的に変化し、仮想世界が構築されている。もしもそのプログラムを止めたら、つまり計算するという作業を停止すればその瞬間にシミュレーションは止まり、仮想世界は全く機能しなくなる。こうした、計算してそれを描写するという一連の作業が仮想世界を作っており、予め与えられた計算のアルゴリズムが第一原理として仮想世界を支配している。しかしそのアルゴリズムは「計算する」という作業なしには何の意味も無い。CPUに電圧が全く供給されていないにもかかわらずアルゴリズムだけが存在したり、現象したりすることは決してないのである。もしもこれと同じ機構が現実世界にも当てはまるのだとしたら、これは容易ならざる事態である。なぜならば、何者かが「計算する」という作業を全宇宙的に不断に行っている必要が生じるからだ!しかも、この計算量は尋常ではない。我々が知っている全ての物理法則を完璧に全宇宙的に適用し、全素粒子の相互作用を計算し尽くすなどということはまさに神業である。しかも、この計算は正確無比であり、正確であるからこそ私が突然空中に浮かび上がってしまうような事態は万が一にも有り得ない。驚くべきことは計算量と正確さだけではない。計算にはeやπなどの無理数、超越数が頻発し、これらの計算を近似計算ではなく完全に行う必要があるからだ。こんな途方も無い計算を行う方法を人間は知りえない。そして厄介なのは、この偉大な計算機能を宇宙自体が持っていなければならないことだ。我々の存在しているこの宇宙の外側という概念は存在し得ないからである。そして計算を行っている主体を宇宙のどこか一箇所に固定することも全くナンセンスであることは明白なため、消去法で残された結論としては、全素粒子それ自体が計算の主体そのものであると考えるしかない。こう考えれば存在の根源は主体的に計算を不断に行っている素粒子であり、実はこの計算という過程そのものによって素粒子が実在として機能しているはずである。しかしそれにしても、たった一つの素粒子に対しても他の素粒子は那由他の数ほどあるのだから、その相互作用を全て瞬時に計算しなければならない。そうしなければ天体が運動することも適わない。素粒子一個が負担しなければならない計算量は途方も無く膨大である。ここまで考察して判る事は、「とても無理だ」ということだけである。どう考えても無茶なのである。よって、「計算する」という過程そのものに対してもっと深く考察しなければならないことになる。  
最終的には、演算の最小構成こそが真なる素粒子に付帯しなければならないということだ。この仮説については後に熟考しよう。

2006年10月4日  計算遅延という問題
神は無限大の速度で計算しているのだろうか。こんな疑問を発するのは私だけなのだろうか。
 つまりこういうことである。この宇宙は物理法則によって支配されていて、物理法則は数式である。数式は「解く」という作業があるから数式なのであって、解くという行為なくして数式は意味を持たない。我々は物理法則を解く事によって宇宙を理解し、現象を予測するのである。とすれば、この宇宙の膨大な計算を行っている者がいるとして、彼はどうしてそんなに速く計算できるのだろうか。もしそこに「計算する」というプロセスが存在するとしたのならば、その行為の速度は有限なのか、それとも無限なのか。もしも有限の速度で計算しているとしたら当然計算には遅延が生じることになる。もちろんその遅延は我々の時空間においては遅延として認識できないのかもしれないが、もしもこの計算という行為が我々の字空間の内側で行われているとするとどうやっても遅延の問題は避けられない。この一見すると馬鹿馬鹿しい問題は、常識的には「神は無限大の速度で計算を行っている」という結論に達し、この結論は「神は計算をしていない」ということと道義となる。要するに宇宙は計算という行為なしに数式が実在できることになってしまうのだ!これは実在論的にはどうしても受け入れ難いのだがそう考えざるを得ない。
 実はこの問題のアナロジーとして出てくる問題はもっと実感的で深刻だ。我々はどうやって計算をしているのか、という問題である。例えば、我々人間は平然と二足歩行しているが、これをロボットで行うためには大変な計算能力が要求される。ロボットを二足歩行させる計算と我々が二足歩行するために必要な計算は基本的に同じであるにもかかわらず、そして我々が平然と二足歩行できるにもかかわらず、二足歩行するための複雑な数式の計算を暗算でできる人間が誰もいないのである!我々の脳は今こうしている間にも視覚や聴覚からの情報を猛烈な速度で処理しているにもかかわらず、キーボードを打つために手と腕の筋肉の伸縮の加減をコンピュータなど比較にならないほどの速度で制御しているにもかかわらず、なぜ我々はそれが数式になった途端に計算不能になるのだろうか。これは大きな問題である。数式は簡単な問題をわざわざ面倒でわかりにくくするための道具のようではないか。我々の脳は現象として見れば驚異的な速度で微分積分の計算を行っているように見えるのである。それなのに数式で微分方程式を解くのにどうしてこんなに時間が掛かるのだろうか。これは2つの解釈が成り立つ。@数式を解く時と筋肉などの制御を行う時とでは脳の活動部位が異なっており、我々が意識的に使用可能な脳の部位は性能が著しく悪い。Aそもそも複雑な計算をしていない。このどちらかしかない。@の解釈の場合では、脳には一種の防御機構があって、何らかの理由で意識的に脳の特定の部位を使うことが制限されていることが考えられる。この仮説は、サバン症候群のカレンダー計算能力の存在などによってサポートされるかもしれない。しかしAの仮説の方が私にとってはずっと魅力的だし、納得できる。例えば逆上がりが最初にできた時などを考えてみよう。できない内はああでもないこうでもないと自分なりに試行錯誤するものであるが、出来てしまえば実に簡単である。これは複雑な動作ができるように訓練した末にできるようになったものではなく、簡単にできる方法を獲得したということである。逆上がりが出来る前と後とで脳や筋肉に何か差異を発見できるだろうか。我々は「簡単にできる方法」を発見したに過ぎない。だから我々が脳で行っている一見極めて高度で複雑な計算も、その数式を驚くほど簡単に解く方法を身に着けているために実は複雑な計算などしていないように思うのである。

2006年10月2日  淡い世界
まるで混濁した水彩絵の具のようにぼやけたこの宇宙を、私は言葉で切り裂いてしまう。美はいつもガス星雲ように淡く境界のない世界なのに、私はどうして切り裂いてしまうのだろう。この世界を。誰一人として愛の概念を?まえられないのに、どうして人は愛を知り、愛を求めるのだろうか。まったく不可知の世界を私は「見」て、まったく聞こえない音を私は「聞」き分けてしまう。無いのに在り、在るのに無い。でも、この、全く人間本位に構築された世界がふとした拍子に綻ぶ時、なんて世界は美しく輝いているのだろうか。境界がなくなって、でも確かにそこにはぼやけた見かけの確率の大海がある。未来も過去もみなぼやけていて、時間も空間も形も色も声もみな揺らいでいて、捕らえようとすれば逃げてゆき、しかし無心に眺めていると確かに存在があるのだ。存在のなんと儚いことか。言葉だけが障壁となって美の世界を掻き回しているが、しかし言葉が、もしも、限りなく淡くぼやけていくのならば、概念の希薄化が一層世界を詩的に照らす。美しい世界はいつも淡く切ないのだ。
 壊れゆくもの、そして死は、全く平凡な毎日の中での単調な時間の中で淡く輝く。単調で長大で永遠よりも長い永遠の時間は私の一瞬の夢。永遠と瞬間は溶け合って、時間のない、言語を超えた無限に広がる淡い、淡い世界が静かに暖かく美を包んでいる。美は、そして芸術は最後にこの夢のように淡い世界に辿り着く。もしも私が何も求めないのならば、私はきっと全てを手にするのだろう。全てはここにすでに在る物だから。この一種から永遠が生まれているのだから、私がこの一瞬を「愛」せるのならば、私は永遠によって愛されている。私は永遠によって愛される者となりたい。

2006年9月29日  破壊の愉悦と正論の困難
壊すことは創ることより容易い上に快感だ。構造改革という名の社会構造の破壊が国民にとって快感なのは、それが創造的事業ではなく、単純な破壊だからだろう。政治というものは古代ローマからちっとも進歩していないので、面白い見世物を与えておけば、国民は嬉々として為政者の言うことを聞き、賞賛するものだ。支持率とは見世物としての政治家の面白さの指標であって、政治家の器量とは何の関係もないし、政策なんて国民にとってはどうでもいいことである。自分が社会的に恵まれない立場だと思っている人とか、人生に何の希望も持てないような人間ならば、後やることといったら人の足を引っ張ることだけなので政治家に期待することはどれだけ社会に対して迷惑な政策を採ってくれるかだけに関心があろう。世の中には自分の職が奪われるような政策を掲げる政治家に投票する間抜けもいるのだから、政策という名の演劇が面白ければそれでいいわけであるし、政治家としての資質はお笑い芸人の資質そのものと言っていい。プロレスラーが政治をやっていたら確かに「面白い」し、金切り声を上げて喚き散らす小母さん政治家も一部の人にとってはこれ以上ないというほど愉快な人間なのだろう。
 そんな中で正論を言うことはまったく自殺行為に等しい。正論は常に退けられ、正論を語るものは激しい憎しみと妬みに曝されて必ず潰される。ガリレオの宗教裁判と全く同質の正論の拒絶は一貫して人類社会に存在し続け、そしてほとんどの正論は葬られてきた。なぜならば、正しい見解を持つ人間はいつの時代も少なく、民主主義は正論を確実に潰すシステムだからである。民主主義は極めて消極的な政治機構であって、最悪の事態を回避するため「だけ」にその存在意義があり、物事を理性的に考え社会を良い方向へ導くための積極的機構は全くないのである。それならば、民主主義の極めて消極的機構をより効果的に発揮させるほか政治において正論を反映させ、社会を理性的に機能させる他ない。私は今の日本においては民主主義が消極的存在意義という観点から見ても余りあるほどにまともに機能していないと考える。そこで私はまず、被選挙権の不平等を訴えよう。現実問題として立候補できるまともな人間がいないということである。その理由は、@選挙活動には膨大な資金が必要。A仕事を簡単には辞められない。B落選すれば無職になってしまう。つまり、立候補できる人間が極めて限られており、列挙すれば、@政治家の子息、A暇な金持ち、Bタレント、C無職、D暇な主婦、である。まっとうな人間で政治家になろうと思う人間はまずいない。そこで、民主主義を正常に機能させるためには出来うる限り直接民主制でなければならない。だから民主主義を徹底するためには直接民主主義に近づけるべく幾つかの制度を設けるべきであると思う。具体的な候補としては、@裁判員制度と同様に国民から議員を無作為に選ぶ。A憲法14条の貴族制度の廃止と権力の分散の観点から政治家の子息の被選挙権を剥奪する。B議員を廃止し、政策一つ一つに対して直接国民投票で決議する。あたりだろうか。当然多くの問題はあるが、少なくともAは権力の世襲を防ぐためにも憲法に明文化すべき条項だとは思う。もう無能な二世三世議員にはウンザリだ。新しい首相に期待すべきことなど何一つない。どうせ社会を悪くしかしないのだろうから。

2006年9月21日  作曲
あまりにも長期間曲を作っていない。思えば最後に曲を作ったのは、4年前に「激倒ドミトル」なる自主制作アニメの音楽を依頼されて、殺人的スケジュールの中で十数曲を作り上げた時である。4年前、つまり博士論文の執筆中である。博論提出直前にギリギリの空き時間を使って猛烈な勢いで曲を作ったのを思い出す。しかも非常に窮屈な曲作りで、秒単位で時間が決まっているために、実際のアニメを何度も見返しながら何とか時間を合わせた。曲の締め切りと論文の締め切りで追い詰められて全く満足のできる出来ではなかったが、あのスケジュールの中ではあれが限界だろう。そもそも博論執筆中に全く別の活動にあれだけのエネルギーを割く馬鹿者は私くらいだろう。あまりに時間がなくてとりあえずオープニングテーマの歌だけをマイクに吹き込んでそれを製作側に手渡し、締め切りギリギリで曲にするということもしていた。シンセで曲を作るのには長大な時間がかかる。全てのパートを打ち込むだけでもそれなりに手間であるし、ヴュリューム、パン、エフェクト等のコントロールにかなりの時間がかかる。80パーセントの完成度のものを100パーセントの完成度に押し上げるためには倍の時間がかかる。限られた時間では完全に自分の構想通りに作り上げるなんて無理なのだ。
 しかし人間というものは追い詰められないと何もしないのかもしれない。いや、それどころか追い詰められた状況でなければ良い物を作ることができないのかもしれない。だから今の私には良い物を生み出すだけの、殺伐とした心がないのだ。荒んだ魂の慟哭が芸術の源泉として機能してきたのだとしたのなら、私には破壊的芸術はもう作り出せない。人間とは、人生とは、こうした矛盾した均衡の上に構築されている。馬鹿なことにエネルギーを費やすことができるのは人間のみの能力であると思うが、馬鹿なことだけでは仕方がない。精神はそれが静まっている時も荒んでいる時も同様に重要な創造の力を持っている。だから私は今の精神が生み出せるものを素直に作ればいいのだと思う。
参考: http://d.hatena.ne.jp/AKIYOSHI/20051001/p1

2006年9月19日  胃腸
もう2週間以上下痢が続いている。何か妙な病気にでもなっているのだろうか。私はもともと胃腸が弱い。私の死因は、老衰で死ぬとしたらおそらく胃腸が弱っての衰弱死、それ以外なら心臓病で死ぬだろう。胃腸は自律神経と直結したような臓器なので、鬱屈した精神状態が続くと必ずお腹を壊す。しかし今回の場合はそういうわけではない。心には何の問題もなく、腸内細菌のバランスが慢性的に崩れているような感覚である。
 さて、内臓というものは私の肉体の一部であるにもかかわらず感覚が希薄で、統制することができない。そんな不思議な内臓の働きによって私は生きている。私が私以外の何者でもありえないという個体性は、外側から手械足枷で縛られているのではなくて、桎梏が私の内部に内包されているようなものである。私は私という概念の内側からワタシに括り付けられている。胃腸の蠕動、心臓の拍動、それは脳以上に実感的な私の概念の内壁である。陥入が生命の最初の運動であるように、 内臓とは陥入の延長として存在している初原的生命の運動性であって、私たちはこの見えざる原始のおぼろげな記憶を自分の内壁の内側に包んでいる。陥入は私という概念を否応なく2分3分するが、その分化の過程で私の複雑性は増し、複雑性が確固たる意識を構成する。だからたとえ内臓の感覚が希薄であったとしても、内臓は私の意識のかなりの部分を占めているのである。だから脳が私の意識の全体なのではない。

2006年9月14日  死の宣告
余命3ヶ月と告げられたら、私は自分の死を完全に理解しえるだろうか。突きつられた死を本当に、これまで以上に切実な事実として認識しえるのだろうか。避けられない死に対して、私が向き合ってきた仮想的「死」がどれほど小さく虚しいものであったのかと打ちのめされるのだろうか。それとも、確かに私が向き合ってきた死は確かなものだったと、死に対してまったくこれまでと同等に付き合うのだろうか。死さえも私は破滅へ追いやって、この一瞬の切ない命の閃きにもう一度幸福の意味を拾い直せたら良いとは思う。しかし私は避けがたい死の絶対性が、いかに私が求めて続けた本当の死から縁遠いかを再び知るだけなのである。虚構の死はいつまでもいつまでも幻影のように、神秘的な価値を有し続けてしまう。その価値が薄められたとはいえ、私が死者でない以上私の死は私が生き続ける限り影のように付き纏う。死という宇宙からの断絶は、私の理性が幼稚な知性に負けた瞬間から確かに意味ある、そして実在性のあるものに変化する。追い出した泥棒が再び戻ってくるように。私が人間である以上、私にとって本当の死と幻想の死はいつも混濁する危険性を有し、私が目覚めていないときには瞬間的に私は幻想の死によって再び生死の世界に戻ってしまうのだ。私がどんなに巧みに、どんなに強固に自分を守ろうとしても、私は私の中に寄生している多くの愚痴の残骸に絞め殺されそうになる。まるで水泳選手が溺れるように、私は動かない手足をもたつかせながら幻影の死に心を腐らせる。だから私は真実の、動かしがたい死の宣告を待ち続ける。私は最終的に倒さなければいけない敵との決戦を死の直前まで待たなければならないのだろうか。私は死の中に、まだ僅かな価値をほのかに感じてしまうのだろう。
 私には何一つ希望などないが、絶望もない。汚泥の中に拾うべきものは何もない。この世に価値あるものは何もなく、あの世にもない。一切は無希望、無価値。人生とはだらだらと過ぎ行く時間そのもの。全く完全に無意味。私の虚無主義は完成されているが、ただひとつ倒すべき相手は知っている。だから私にとって私がいつ死ぬかは何の意味も持たない。意味が機能しえることは肉体的精神的苦しみだけである。苦しみは最も強い実在性を持っているからだ。そして肉体的苦痛だけはどうにもならないのである。まさにどうしようもない。だから死という苦からの脱却に、淡い憧れを残してしまうのだろう。

2006年9月6日  女性教授
「男女共同参画の観点から女性教官の増加が求められているが、東大はほとんどの学部が5人以下で、経済学部と薬学部はゼロ。最高学府の後進性が浮き彫りになった」という読売の記事には失笑を禁じ得ない。女性教授が多いと先進的らしい。それなら、部落民の教授と朝鮮人の教授が全体の4割だったりしたらさぞかし先進的だろう。いつから大学は学問とは全く何の関係もない基準で教授の人選を行う、人権団体の出先機関に成り下がったのか。東大の女性教授の割合は3.8%だそうだが、妥当な数値ではないかと思う。女性であるというだけで不当に有利な人事になることはおかしいし、そんなことをしたら大学の学問レベルの著しい低下を招くことは疑いない。公平な立場から見て東京大学の教授として的確な人間の96%が男性ならば、女性教授の割合が3.8%であっても何一つ問題ではないし、当然の結果である。そこでこんなのはどうだろう。
「男女共同参画の観点から女性力士の増加が求められているが、力士に占める女性の割合は0%で、角界の後進性が浮き彫りになった」
「男女共同参画の観点から女性用下着と男性用下着の区別の撤廃が求められているが、女性用下着を着用する女性の割合はほぼ100%で、衣料品業界の後進性が浮き彫りになった」
さて、なぜ女性教授は増やそうとするが女性力士を認めさせようとしないのか。都合のいい時だけ権利を主張するというのは最低である。東大は何としても女性教授を増やさないようにしていただきたい。単に公正な人事をすればいいだけの話である。女性であるというだけで無能な人間に教授になられたら皆が迷惑します。

2006年8月21日  十の真理
佛智は稲妻である。一閃にて迷妄を砕く。しかしただ一度の稲妻で森を焼き尽くすことなど出来まい。しかしそうは言っても、稲妻の一撃なくしては森に火をかけることすらできはしないのだ。

根の深い迷いの世界とは、迷っていない人間の世界ことである。迷っているのならば、まだそれだけ見込みがある。賢者は迷っているのでも迷っていないのでもなく、迷いの所在を根絶している者である。

愚者はこの世で多くの楽しみを受ける。しかし賢者はこの世に多くの苦しみを観る。

如何なる言葉であっても、言葉によって全ては穢れる。佛や慈悲や智慧や真如という言葉でさえも。しかしどのような言葉によっても穢れることがないのならば、既に彼に課題というものは何一つ残されていない。

愚かさは隠しようがないが、賢明さは常に隠されている。愚者は騒々しいが賢者は静寂を愛する。愚者が賢者を知る方法はひとつもない。

万人を救おうとする者に賢者はいない。自分ひとりに対して忠実でない者は誰に対しても忠実ではないからである。だから唯一人しかいない自分に対して誰よりも忠実であれ。宗教は自分だけのものである。隣人の信仰に関心を抱く者は須らく邪宗に陥る。他人に関心を寄せる者は最も智慧から遠い。だから賢明な者は他人を救おうとするな。他人を救う術はひとつもない。他人によって救われた者は一人も居ない。どんなに優れた指導者でも全員を導くことは出来ない。しかし自分の問題を回避する道はどこにもない。

坐禅によっても持戒によっても瞑想によっても苦行によっても学問によっても悟りは得られない。それが解れば坐禅によっても持戒によっても瞑想によっても苦行によっても学問によっても悟りを得る。

悪い事と同じように良い事もするな。善悪は人を愚鈍にする。だから善悪を思うな。善悪を思わなければ全てが善となる。達人ともなればその善によって汚される物はない。

神仏を語るな。荷が重いことをするな。饒舌は無知よりも性質が悪い。

今齷齪働く者は一生齷齪働く羽目になる。欲が少なければ気楽に人生を送ることが出来る。そうすれば。一日十八時間労働しても齷齪しない。

何のために自分がこの世に生を受けたのかをはっきりと見ることができないならば、決して良い人生を送ることは出来ない。そして何が良い人生なのかも知らずに死ぬことになる。生の意味をはっきりと見る者は既に生死を越えている。最高の境地にある者は時を破る。

2006年8月9日  地獄の門
眼前にある地獄の門に気付かない者は必ず地獄へと赴く。地獄から逃れる術はない。地獄に堕ちない者は稀である。なぜならば、地獄を見る者が少ないからだ。地獄の淵は全地を覆っている。だから地獄へ赴かないようにせよ。
 誰が地獄へと堕ちるのか、それを知らなければならない。しかし私は逃れる術のないことを人に強いているわけではない。他人が地獄へ堕ちることを誰も止められないのだから。地獄の在り処を見極めるだけの智慧を備えし者は自ずから地獄の在り処をまざまざと見るだろう。彼は地獄へ赴かない。しかし如何なる善人であろうとも、自ずから智慧を獲得し得ない者は真っ逆さまに地獄に堕ちる。彼の善行は地獄の前には無価値だ。だから地獄へ堕ちたくないならば智慧のみを望み、智慧だけに奉仕せよ。智慧に仕える者だけが全ての罪と善悪を打倒する。如何なる悪行も智慧ある者には清浄行となるだろう。彼に罪はありえない。
 悟りを望む者は地獄を見る者である。地獄を見ない者は悟りには至らない。地獄とは幻のようなもの。罪という幻影の中で人はその罪の根を断ち切れない。智慧の目が開かないならば永遠に人は罪の中に在る。どのような行為もその罪を消し去れない。どれほど強い信仰があろうとも、どれほど涙ぐましい努力があろうとも、どれほど輝かしい栄光を受けようとも、どれほど多くの人の命を救ったとしても、彼の無限の罪を消し去れない。しかし一度智慧の目が開かれたのならば、無量の罪過でさえも一瞬にして断ち切られる。どのような罪を犯したとしても、どれほど多くの人を傷つけたとしても、彼の罪は存在しない。罪の根拠が失われてしまっているのだから。地獄の在り処を見極めた者がどうして地獄へ堕ちようか。地獄は善悪で推し量れるものではないのだ。
 この世は迷妄に覆われた密林である。木々に遮られて視界は悪く、どこに道があるのかもわからない。必死で木を切り倒して開拓しても、道はみつからない。森は無限に広いからだ。人は必死で森を切り開こうとして力尽きる。彼のちっぽけな達成を見たまえ。これが彼が人生で成し遂げた無限に小さな業績だ。人々は迷妄に覆われたまま地獄へと直行する。地獄は人手に事欠かない。一方で地獄への道を避ける者の何と少ないことか。智慧に目覚める者の何と少ないことか。「からし種一粒ほどの」智慧があれば、全ての罪業と苦悩から解き放たれるというのに、その一粒の智慧を求めずに山ほどの空しい富と栄光を人は求める。そして永久に発見不可能な「自分」を探し回って力尽きていく。生死の道程の何と長く、地獄の門の何と近いことか。最も賢明な者だけがこの生死のからくりを暴いて地獄の主人となる。閻魔とて彼を裁けない。悪逆非道の限りを尽くそうとも、賢者は智慧もて無限の罪を滅ぼし去って地獄の鬼どもを屈服させる。魔の軍勢もたった一粒ほどの彼の智慧の前に勝ち目はない。彼を地獄に堕とす方法はない。しかし愚者を地獄に堕とす方法は無限に用意されている。愚者を地獄から救い出す方法は全くない。だから自らの意志によって自分自身を救い出せ。如何なる行為も無意味であると知って智慧のみを求めよ。純粋で強固な意志だけを友として生死を打ち破れ。

2006年8月2日  悪の枢軸、人材派遣会社
誰が格差を望むのだろう。誰が苛烈な競争を望むのだろう。誰が社会の破壊を望むのだろう。誰が和を乱すのだろう。破壊者の狂気がこの国から希望を奪う。血を吸う飢えた吸血鬼のように、無慈悲な為政者は人間たちの悲鳴を楽しむ。自殺者の叫びは彼らにとっての讃歌だ。
 現代日本における種々の問題のうち、就労問題が最も深刻であり、その悪の元凶が人材派遣会社である。私は21世紀の現代にこれほどあからさまな人身売買が行われることになろうとは夢にも思わなかった。間接雇用が職業安定法によって禁止されていたにも関らず、労働者派遣法によって公然と人身売買が行われることになったのである。こんな馬鹿な話があるだろうか。人材派遣会社などという人身売買結社を運営していてよく良心が痛まないものだと実に呆れる。元フリーターの人材派遣会社の社長が偉そうにマスコミに出ていたが、私は何という偽善者かと腸が煮えくり返った。さすがにフリーターのことをよく知っているだけあって、彼らを食い物にする商売には長けているわけである。人の生き血を吸うような商売を私は許せない。我々は断じて商品ではない。まして奴隷ではない。間接雇用は断じて認めてはならないのだ。人材派遣会社とは何のことはない、要するに女衒ではないか。こんな時代を逆行した組織の存在を容認するならば、国会議員も全て派遣にして人件費を削減してほしいものだ。税金で議員を安く女衒から買えばいい。それが似合いだ。

2006年7月31日  我が欝は知の病
私が20年近く感じ続けていたあの憂鬱は、多くの方々が陥っている鬱状態とは全く異質なのではないかと思い始めている。鬱病の症状や原因と思われるもののどれにも私の例は当てはまらない。私の欝は全く単一の、純粋な知の病であったからである。私の鬱は心因性でも内因性でもなく、私自身の知性が生み出した根源的疎外に起因していたからである。私の鬱は私の実存がないという悲痛な叫びであって、環境とはほとんど関わりがないためである。私は比較的裕福な家に生まれ何不自由ない生活をしてきたし、愛情を受けて育ち、欲しいものは何でも買い与えられた。並以上の教育を受け、自分の学費が幾らかさえも知らされずに暢気な生活を送ってきた。勉強しろと親からせっつかれた事もなく、物質的に不自由したことも一度もなく、傍から見れば深刻な抑鬱感に苛まされるような素因はどこにもないのである。しかし、私は誰よりも苦しんでいた。私は私以上に苦しんだ人間に会ったことがないし、マスメディアなどの伝聞でも聞いたことがないし、私と同じ苦しみを受けた歴史上の人間をたったひとりしか知らない。私の苦しみは、物質的な不足によるものではないために、より深刻であり、どこにも解決の糸口がなく、誰一人として苦痛を共有できず、共感できず、他者の理解を超えていた。私が欲していた私の「必然」を与えてくれる人間はどこにもいなかった。誰一人として若かった私の質問に答えられなかった。世界から隔絶された私だけが知の泥沼にはまってもがいていた。あの苦しみ、解決の糸口さえ見つからないもどかしさ、どんな言葉であの苦しみを表現しえよう。自分が存在することに何の必然性も見つけ出せず、私は完全な孤独、脱出不可能な、世界からの断絶の中にあった。私は全てから断絶されていた。宇宙と私の間に横たわっていたのは地獄さえも浅く思えるほどの、深淵へと続く断崖であった。私は私が存在することをどうやっても証明できなかった。私の意識を意識の活動そのものによって肯んずることなど私にはできなかった。そんな程度の哲学で私は私自身を納得させることなどできなかったのだ。私は全てを疑っていた。私は最大の懐疑主義者だった。私は私が存在することを疑い続け、存在の根源への思索を続けた。勉強をすることなど私にはできなかった。疑っている私自身を疑い、疑いの連鎖によって私の心は静かに破滅していった。私の精神は極度の憂鬱に陥り、わたしただ一人だけがこの絶望的問題に気付いていることでさらに絶望を深めた。私の絶望は「知性からの疎外」であった。知性によって私は絶望の深淵に叩き落されていた。
 何かが不足しているために鬱になったのならば、それを補えば解決できる。人間関係が原因であれば、その人間と会わなくなれば解決できる。嫌なことをしなければならないことで鬱になっているのならば、それをしなければ解決できる。しかし私の鬱の原因は私が存在する限り取り除けなかった。原因は私そのものであった。私自身を完全に消滅させない限り私の憂鬱は晴れなかった。しかも、私の死が私の消滅を意味するかが明らかにされない限り、私の死さえも私の鬱は晴れないのである。しかも鬱の原因たる私自身には存在の必然がない。私の苦しみは矛盾と自家撞着に陥っていた。永遠の命を得た人間が終身刑になっているようなものだ。暗雲を晴らす智慧を私は求め続けていた。だがその智慧は完全無欠なものでなければならなかった。最大の懐疑主義者である私を納得せしめるものは、完全なものだけだったからだ。私はその完全なものを求め、それが得られないことに対して絶望し、深刻な鬱状態に何度も陥った。私が経験した鬱は、近年増加している鬱病とは根本的に違うように思う。

2006年7月25日  A級戦犯
靖国の分祀論が盛んになっていると聞く。分祀などできないことはわかっているが、実を言うと私は分祀に大賛成だ。いや、もっと正確に言えば分祀ではなく、祀る必要すらないと思うのだ。しかしその理由は他の方々とは異なるやもしれない。私が分祀に賛成の理由は、戦犯の連中が戦死者ではないからだ。
私はA級戦犯という表現は認めないが、敗戦責任があると思っている。彼らの罪は戦争を起こしたことではない。戦争に負けたことが罪なのである。彼らは敗軍の将として処刑されてしかるべきだ。A級戦犯だけではなく、敗け戦をした上に戦争を生き延びた司令官は誰であろうと靖国に祀られるべきではない。残酷なようだが敗軍の将は敗北の責任を取らなければならないし、英霊ともならない。彼らは戦死していないのだから当然である。靖国に祀られるべき神は、戦死者である。戦死していないものは祀られるべきではないのだ。たとえ敗軍の将であろうと、果敢に戦い力尽きた英雄たちは数知れない。平将門は逆賊であろうとも神なのである。しかしA級戦犯とされた者たちはのうのうと生き延びた敗軍の将なのである。恥を知るべきだ。あまつさえ死刑判決を受けるまで自決しなかった者など武士ではない。敗北の責任を取ってなぜ8月15日に皆自決しなかったのか。許しがたき精神の脆弱さだ。
 靖国分祀論に関しては原点を見つめ返せと私は声高に言いたい。戦死者以外は靖国から放逐すべきだ。そんな奴らは神ではない。靖国とは、天皇のため、この国のために命を掛けて戦場で戦い死んでいった幾万の英霊を祀る神聖な神社なのだ。戦死者とは戦場で死んだ者と、戦場で受けた傷や病が元で死んだ者だけだ。戦犯だの何だの関係なし。いい加減に原点に回帰せよ、靖国よ。隣国の言い分などどうでもいい。ただ私は靖国に純粋であってほしいのだ。大好きな場所なのだから。

2006年7月24日  少子化
日本の人口は減少に転じ、少子化の傾向に歯止めがかからない。挙句の果てには少子化担当大臣などという末期的な内閣府特命担当大臣まで登場。止めとばかりに無能な大臣が出現して日本を腐らせつつある。統計データをまともに読み解くことすら出来ない馬鹿が元教授とは恐れ入る。一番恐れ入るのはそんな人間が日本の将来に関する最も重要な懸案を指導する立場に収まっていることだが、私の個人的印象としては、こういう女を見ているとやっぱり女性が政治に関ると碌なことにならないという確信が深まる。それはともかく、少子化問題を「少子化を食い止める問題」として定義するのならば、なぜ子供を産まないのかの理由を明らかにすべきだ。そして問題を単純化していくことが大切なのである。少子化の原因は以下の2つである。
 @結婚率の低下
 A出生率の低下
実に当たり前である。だがどちらが深刻なのか、つまり第一義的課題なのかと言えば、当然ながら@である。結婚するから子供ができるのが普通の姿なのだから。この結婚率は年収と完全に相関している。つまり、日本の少子化問題は就労環境の問題なのである。非正規雇用者の圧倒的な結婚率の低さと、非正規雇用者の増加が日本の少子化を牽引しているのだ。この15年間で非正規雇用者の割合は倍増しており、正規雇用者と非正規雇用者の間の結婚率には2倍もの差があるのだから、非正規雇用者の増加は未婚者の増加となる。実に簡単な構造の現象なのだ。この就労問題を置き去りにしてAの出生率だけを上げようとしても何の意味もない。非正規雇用者の比率は依然として上昇しているのだから、出生率を上げても焼け石に水なのである。それなのに、出産を無料化しようとか、働きながら子供を育てられる環境にしようとか、完全に無意味なことに税金を投じようというわけである。出産にお金がかかるから出産を諦めるなんていう変人を私は見たことがありません。子供を育てやすい環境にすることは結構だが、そんなことで少子化は止められません。当たり前です。問題は何一つ解決されていないのだから。くだらないことに税金を使わないで就労環境の整備に税金を使いなさい。頭の悪い政治家どもには懇切丁寧に解説しても理解できないのでしょうし、説明する気もないのだが、あまりに馬鹿すぎるので思わずくだらないことを書いてしまう。

2006年7月20日  幸福と生活能力
幸福とは不安なく、煩いがないことである。人の欲望は決して満たされないのだから、欲を抑えて生きるしか幸福になる方法はない。私の心から一切の邪欲が消え去れば、私は真に幸福なる者となる。
 国家は国民の幸福を定義すべきであると私は考える。なぜならば、国が国の未来に対して明確な指針を持つことは大切なことであり、指針は当然国民の幸福の希求であるべきだからだ。国民の幸福の希求こそが国家の意思でなければならないのだから、国民の幸福とは何かを定義しなければならない。そして私は以下のように定義する。
 「国民の幸福とは、国民ひとりひとりが知的で文化的な生活を送ることである」
知的で文化的という言葉の中に全ての幸福の要素が包含されている。知的で文化的な生活とは、野卑で自己制御できないようなむきだしの欲望を否定し、節度ある健康的な生活を送るということである。つまり、国民には高い生活能力が要求されているのである。そして、そのような高い生活能力を獲得することで健康的で文化的な生活が実現され、必然的に幸福を享受できるようになるのである。幸福は日々の日常生活の中にあるのであり、お祭りのような一時的熱狂の中にだけあるのではない。我々が日常生活の中に幸福を見出すためには、高い文化性を身につけなければならない。無知な者は決して幸福にはなれない。幸福は知によって生じるものなのだから。無知な者は欲望の赴くままに生きることに疑問を感じない。よって暴飲暴食によって健康を害し、反社会的行為も平気で行い、生活習慣は乱れ、結果的に幸福は離れていく。文化的で知的な生活を送る者は自己を制御している者である。よって規則正しい生活を送り、欲望を抑え、ストレス少なく、健康的で、日々感謝の心を忘れない。そのような者にこそ神仏の加護はある。

2006年7月13日  死刑
もし私が死刑か終身刑かを選べと言われたのならば、どちらを選ぶだろう。ほとんどの場合は刑務所の生活の過酷さ如何によるだろうが、「無希望」という地獄の中で何十年もの間苦痛に耐えるよりは、絞首刑で楽に死んだほうがずっとましだとは思う。普通の神経を持った人間で、刑務所の生活が過酷ならば、死刑より終身刑の方がずっと重い刑だ。
 死刑廃止論者が犯罪者を死刑ではなくて終身刑にしろ、と言っているのかどうかなど知ったことではないが、死刑を宣告されるような極悪人はまともな神経を持っている人間ではないのだから、刑務所で何十年過ごそうと別に何とも思わない可能性はある。彼らにとって終身刑など、死ぬまで飯を食わせてくれるのだから楽に生きられて都合がいいかもしれない。その意味では面倒なのでさっさと死刑にして無駄な出費を抑えるべきだ。その方がずっと経済的だ。
 私は感情的にも死刑大賛成だが、もっとクールな目で死刑は良い刑罰だと思う。まず、絞首刑はとても楽に死ねる処刑法であり、残虐性がない。次に、経済的にお得であり、刑務所の収容力を圧迫しない。さらに、再犯率がゼロである。終身刑になる人間が更正しても社会には何の意味もない上、僅かでもまともな神経を持っていれば終身刑よりも死刑の方が軽い刑罰なので、犯罪者の人権的立場からも死刑はお勧めということだ。

2006年7月13日  湿度と精神
乾湿寒暖のうちで湿が最も辛い。それは病そのものとさえ思う。湿度ほど大きなストレスを私は知りえない。騒音にも散々悩まされたし、悪臭に苦しんだこともある。しかし湿度ほどの病はない。湿度は心の腐敗を早める。
 それにしても人間とは何と軟な生き物であることか。300K前後の僅かな温度範囲でしか生きられない。酸素分圧のわずかな範囲の中でしか生きられず、水中でも生きられず、宇宙へ出ても宇宙線には堪えられず。

2006年7月11日  法の措定
私のような法律のど素人がおこがましくも法について考察することには気が引けるが、巷間に溢れる文系人間の非科学的発言に比べたら、私の挑戦を過度に責める権利は誰にもあるまい。
 法律が根源的な原理であるところの正しさから構築すべきであるという私の思想は、更なる熟考をすることで哲学的に洗練される。まず法律に最も必要な根幹哲学を整備すべきである。そのためには法律という概念を厳密に措定しなければならない。そのためには、@法律とは何か、Aなぜ法律が必要なのか、B法律は如何にして制定されるべきか、の3点を明確にする必要がある。現在の法体系においては@とAが欠如している。しかしこの2つを憲法の初めに記述しなければならない。そして、憲法の条文は大きな原理から小さな原理へと向かう一貫した構造の秩序が必要である。もしも法治国家を標榜するのならば、法によって全てが明確に措定されなければならないのだ。国家の体制が法を決めるのではなく、法そのものの根本義によって国家の体制が演繹されるべきだ。これは、国家の構造が自然界の原理と基本的に同一であるべきであるという思想に基づく。この思想は、自然という最高の美に準えて国家の構造がその美を模倣するというものだ。そして、法体系が首尾一貫することによって、幾つかの基本的原理から全ての法が導き出されるような、法体系の骨格の原則を分かりやすく国民に提供できる。もちろんこうした美しい法体系を整備できる人間に求められる哲学的資質は恐ろしく高い。
 昨今盛り上がりを見せる改憲論議であるが、私の本意は9条などという狭い範囲に収まるものではない。私は法の概念そのものを刷新しなければならないと思うのだ。つまり、憲法が全ての法の上に君臨しているのではなく、実証的正しさと合意的正しさによって憲法が定められなければならないという理念こそが法の源であるということである。法の中核はこの理念であって、条文ではない。条文は理念から必然的に滲み出してきた一時的な決まりに過ぎない。だから我々が真に定めるべきはこの理念に対する「合意」であって、その意味ではこの理念そのものでさえ国民の合意に基づいて排斥される可能性がなければならない。理念が理念自体を破壊できる機能を持っていなければ、必ず理念は暴走して破滅的悲劇を生み出すからだ。だから、もしこの理念を憲法の上に君臨する根源法として合意できれば、必然的に憲法も首尾一貫した体裁を持ちえよう。そして9条も帰納法的に消え去ることになる。表面的な理屈ではなく、まさに帰納法的にだ。

2006年7月4日  法律
法律ほど馬鹿げたものはない。それどころか、法律は人間の愚劣さを証明している。人間が賢明ではないからこそ法があるのである。しかも、困ったことに法は人を賢明にはしない。むしろ法は人を愚鈍にし、知を蝕み、人間性を奪う。なぜならば、法は理屈ではなくて屁理屈であり、原理ではなくて解釈であり、整合性なく矛盾そのものであり、時代に取り残された化石であり、把握しきれないほどに膨大で無意味に難解であり、賢い者から時間と手間と労力を奪う。法は極めてしばしば人間の良心と対立する。やるべきことは何も示さないのにやってはいけないことは示す。禁止はあっても促進はない。法は常にブレーキであって、人間の良心的活動を極めてしばしば阻害し、罪なき善人を鞭打つ。法律には常に例外が付きまとっており、一貫性がなく、科学の視点から見たら我慢ならないほどに出鱈目だ。理念がないからこのような法体系が生まれるのである。つまり法律には何の一貫性もなく、しかも我々には法体系を根本的に整備する権限もない。
 政治の究極的理念は愛でなければならない。愛とは国民の真の幸福を願う心である。よってその心は善でなければならない。そして法律は究極的善を示すものでなければならない。法律と政治の根幹は愛と善であるべきで、それ故にその愛と善の意志に従えば、法体系は根本的正しさに依るべきである。すなわち実証的正しさと合意的正しさである。よって根源法として、このような条文がなければならない。  「全ての法は正しさに基づかなければならない。正しさとは実証的正しさと合意的正しさとである。実証的正しさは合意的正しさに先んじる。実証的正しさとは適切な方法によって得られたデータによって科学的に動かしがたい真実に基づくものであり、実証的正しさと矛盾する如何なる法もこれを認めない。合意的正しさとは大多数の国民が自分の良心にのみ従って判断した際に正しいと認めるものであり、実証的正しさに反しない限り、法はこの合意的正しさに反してはならない。」
 つまり、なぜ法律が正しいのか、なぜ法律を守らなければならないのかが憲法のどこにも書かれていないのが問題なのである。私が主張していることは、法は根本的正しさの上に打ち立てられなければならないということである。数学が公理の上に建設されるように。この 正しさの上に国家、国体、国民、国土などをひとつひとつ厳密に定義していかなければならない。なぜ人を殺してはならないのかと言えば、大多数の人がそれが正しい行為ではないと認めるからである。法律があるからそこに正しさが発生しているわけではない!断じて!人を殺す行為が正しくない理由は他人に迷惑 をかけるからでもそれが残忍な行為だからでもなく、純然と「合意」のみがあるのである。合意以外の如何なる理由もそれは排斥されなければならない。そうしなければ正しさの純粋性が失われ、数限りない屁理屈によって合意的正しさは本質から遠ざかってしまうのだ。だから合意の変動によって法も柔軟に変わっていかなければならない。変わらない法律はほぼ例外なく悪法であり、時代遅れの負の遺産である。合意は時代と共に必ず変化するからである。よって全ての法律は期限付きであるべきである。いらない法律は片っ端からゴミ箱に捨てていかなければならない。文体も平易な言葉にしなければならない。国民の大多数が読んでも意味が分からない法律など何の価値もない。国民の「合意」によって全ての法律は分かりやすく書き換えるべきだ。まずそういうことから現行法の洗濯をすべきである。既に日本の六法などカビの生えたふんどしくらい価値がない。

2006年7月3日 無給研究者
時々薄給でもいいから研究を続けたいなどという志の低い人間が居る。実に迷惑千万な輩と言える。私の研究能力は金銭に換算して月10万円です、とでも言うつもりだろうか。そんなに自分に自信のない人間には研究なんてしてほしくないし、する必要もない。こういう発言をする資格のある人間は大富豪だけである。実験機材も全て自前で購入できるほどの莫大な財産を持っている人間だけがこういう格好いい発言をする資格がある。私は無給でもいいから研究する時間がほしい、なんてことを言ってみたい。いや、今の世の中そういう人間が出現しなければならないのである。だから、私が一時的に研究を完全に止めてしまって、その間猛然とビジネスでひたすら金儲けをして、自由に使えるお金を20億円くらい貯めてから自分で研究所を作るのが一番理想だし、実際その方が成果は出るだろう。研究機関は国や自治体などのあらゆる干渉から自由でなければ駄目だ。学問はその自由から創造される一種の藝術だ。統制の中で優れた藝術が生まれないことは共産圏をみればよくわかる。
 もし私が研究を10年間くらい止め、自分に流れる商人の血を目覚めさせることにしたら、一体どんな人生が待っているのか、想像もつかない。しかし私は儲けた金をほぼ全て研究に投資できるだろう。一方、今この日本には真の金持ちがいない。だから他人や、他人の才能に投資できる人間が居ない。パトロンたりえる人間が誰も居らず、儲けた金で自分が贅沢することしか出来ないせこい貧乏人しかいない。お金は出すが口は出さないという粋な金持ちが多く出現して、お抱え研究者に自由に研究してもらう、なんて時代がきたらいいと思う。まあそんな酔狂な人間が多く居るとは思えないが、少なくとも贅沢を極めて尽くして金の使い道がないくらいの金がないと無理だろう。研究や芸術に無償で融資できるほどの文化性と教養を身につけるためには、3代以上続くくらいの富豪でなくては無理かもしれない。所詮成金は自分の贅沢のことで頭が一杯だろうから。それに大抵の成金は芸術的センスがない。
 閑話休題。今の私は、薄給でもいいから研究を続けたいなんて口が裂けてもいえない。極端な薄給では生活が出来ないし、そんな薄給で働かされるくらいなら研究に未練などない。こんなことを言うと、お前には研究に対する情熱はないのか、などと戯けたことを言う輩も居ようが、はっきり言って研究はそんな高尚なものではない。頑張ることには意味があるが、苦学することには意味がない。苦労することは大切だが、苦労しすぎることには意味がない。大抵の場合、苦労しすぎるのは自業自得だからである。だからものすごい薄給で研究を続けることになったとしたら、それはそんな職種を選んだ本人のせいである。望まない妊娠をして苦労をするのが本人の責任なのと同じである。だから薄給でもいいから研究を続けたいなんて発言は、私は馬鹿ですと自分で告白しているようなものだ。

2006年6月27日 研究者は必要ない職業
現実を受け入れることは大切なことである。なぜならば完璧な環境に暮らしている人間はいない。たとえ間違った思想、間違った哲学、間違った方針に従って組織が運営されていようとも、どうして一個人がその流れに抗うことなど出来ようか。知を求めることが正しいことであるといつの時代でも考えられてきたわけではないし、現実問題として今の日本では真に学問できる環境などどこにもないだろう。いや、もし真に学問できうる人間がいたとしたのならば、その人間は趣味で学問をやっている人である。職業で学問をやっている者は常に馬鹿馬鹿しい、取るに足らない些細な要求に時間と才知を忙殺されている。それどころか、学問をやるなという圧力さえ掛かっている。こんな学問不毛の時代においても、きっと一部の天才たちは偉大な業績を残すのだろう。しかし、彼らには、何としてでも世間を啓蒙などしないで欲しい。学者が社会にとって必要な職業だとは私は全く思わない。研究者など一人も居なくても別にそれはそれでいいのである。少なくとも日本は国家として研究者を育てる気がゼロであるし、学問を興隆させる気もないし、科学技術で生き延びていく気もないのである。我々は我々自身の精神と肉体を見据え、その中に知を見出していけるだけの資質があれば、原始的生活を送るように時代を逆行しても別に構わないのだ。人間を真に豊かにする技術や知識は存在しない。我々は欲望を空しく貪る生物であって、それが人間らしさというものだ。そこに完璧な知を求める必要もないし、原理などわからなくても生活が便利になったり所有欲を満たせる魅力的な商品が産み出せれば別にいいのである。学問は神聖なものではない。人間らしい貪りの行為の延長でしかないし、どんな研究であっても等しく馬鹿げているのである。
私はもう学問や科学を擁護する気がない。無駄ことをやっていると言われれば無駄そのものだと答えるし、研究なんかしなくていいと言われれば一日中楽しく酒を飲んでいればいい。でも私は学問が無駄であるからこそ愛しているし、馬鹿馬鹿しいと思える研究ほど興味をそそられる。純粋なものほど馬鹿馬鹿しく、役に立たない無駄な研究なのだから。私は科学のために死ぬ気はないし、基礎科学を興隆しようという気も全くない。そんなことは一人の人間が叫んだところでまったく無駄であるし、学問の無意味さと同じくらい無意味な行為だ。それどころか、私はなるべく多くの人が研究者にならないようにしてもらいたいと切に願っている。なぜならば、真に有能な人間こそ為政者に相応しいのであって、研究者になどなってはいけないのである。それに、日本の研究者のレベルが国際的に著しく低下しない限り、研究環境を改善しようなどという政策を誰も取らないのだから。こんな劣悪な環境であってもこんなにいい研究が出来るならもっと予算を削ってやろうというのが国の方針だ。社会に必要とされていないのが研究者という職業なのだから、わざわざ研究職に就くくらい馬鹿な選択もあるまい。だが、そういう馬鹿な選択をして馬鹿馬鹿しいことをやっていることは、一種の世捨て人である私にとっては実に都合がよい。私は永久に天に昇る気のない、酒の沼で酩酊している龍のようなものだ。実に私は智に近いと言える。

2006年6月22日 2本の直線
白い紙に2本の直線を引いたとき、どのように直線を配置したときに一番美しく見えるか、という実験をしたことがある。解答は多くあるのだが、明らかな正解と間違いがあるという結論に私は達している。2本の直線によって区切られた空間の中に正方形がある場合、単純にそれが正解とは言えない。白い紙は普通のA4の紙を想定した場合だが、2本の直線によってそこに適度な大きさの正方形を作った場合には画面全体があまりにも安定化してしまうために、私が欲するような美を見出しづらくなる。もちろん一般的観点から言えばこの区切り方は美しく、正解なのだが、私はそれは美しいのではなくて綺麗なのだと表現したい。美はもっと玄妙で数値化されない極めて微妙なものだからだ。よって、白い紙に5度程度の傾きをもった直線で大胆に区切る場合が比較的正解に近くなる。紙の縁と平行ではないが、平行的な関係を持つことによって、秩序と混沌の両者を並存させることができるのである。よって、1つの解答はこういうことになる。A4の紙を立て向きに置く。まず2つの直線によって画面の左下に適当な大きさの正方形を作る。この時最も美しいと思われる正方形を作ると、非常に不思議なことに、紙の下の縁を黄金比に分割するように直線を引くことになる。自分の美意識だけに従って直線を引いた後に長さを測ってみると、驚くほど黄金比に近くなるのである。A4の紙の場合、左の端から約13センチの場所に縦に直線を入れることになり、画面左下に一辺約13センチの正方形が出現する。しかしこのままでは正解にはならない。次に、2つの直線のうち、縦線を時計回りに、横線を反時計回りに5度程度傾斜させる。しかしこれだけでは左下の菱形があまりにも安定化しすぎているので、縦線を右に、横線を下にそれぞれ1センチ程度ずらす。角度と距離のずらし具合は非常に微妙で、区切られる4つの領域の力学的関係によってある程度は一義的には決まるだろう。しかし、このずらしの作業の際に紙を180度ひっくり返すことが大切だ。上下さかさまにしても美しく見える点が美の「ツボ」であり、正解である。安定性と不安定性を両立させることが最も重要で、秩序から無秩序へ、無秩序から秩序へと変動する動的な動きを感じさせるものでなければならない。だから完全な黄金比では駄目で、黄金比からの微妙なずれが、一種の性感帯のような美の感覚を刺戟するのである。真に優れた芸術は安心感を与えるものではない。心地よさの中にどことなく不安を感じるものが最高なのだ。この感覚を私は「心地よいもどかしさ」と名づける。単に2本の直線で画面を区切る場合であっても、心地よさともどかしさが共存しなければ美は顕現しない。いい加減に線を引いただけならば単にもどかしさしか感じないだろう。ここで示した他にも色々な解答があって、例えば横線を時計回りに約15度、下方向に約2.5センチずらしたものにも正解がある。縁にほぼ平行な縦線を2本引く方法や、紙の途中で線を止める方法など、挙げたらきりがないし、そのほとんどがなぜ美しいのかを説明できないのである。そして黄金比とは全く無関係なものが大半である。線の太さによっても微妙に正解は変わってしまう。

2006年6月1日 ユダの福音書発売前における私のユダ観
ついに原典ユダの福音書が発売となる。その発売前に私がこれまで抱いてきたユダ観をここに整理しておこう。イスカリオテのユダは聖書の福音書中で最も重要な役割を担っている人物だと私は常々思ってきた。それは、ユダの担っていた役割はイエスの栄光の達成、つまり磔刑を実現するための行動であったためである。イエスは自分の死をずっと予告していたことからもわかるように、その死が避けられない運命であることを深く理解していた。ユダがイエスを裏切るために出て行った直後、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。」とイエスは言っている。イエスの栄光の実現、すなわち預言の成就のためには、誰かがイエスを裏切るという最も過酷な使命を果たさなければならないのだ。しかし、一方でイエスのユダに対する評価は辛辣だ。「人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう。」と述べているように、ユダが悪であるという見解を明確に示している。これは非常に不思議である。なぜならば、イエスにとってユダという弟子は最も必要で、最も重要な弟子だからである。たとえペテロやヨハネやヤコブが居なかったとしてもイエスはユダによって栄光を受けることができただろう。十二使徒の中で最も重要な人物がユダだと言っても過言ではない。イエスの救いの計画の中で、最も欠けてはいけないパーツこそがユダであり、もしも彼がイエスを裏切らなければ彼の教えはとうの昔に滅びてしまっただろう。つまり、イエスがユダを非難した発言は極めて不可解なのである。譬えとして適切かはわからないが、鍛冶工の子チュンダの料理を食べて体調を崩して死に至ったブッダはチュンダを庇う発言をしている。この場合と同じようになぜイエスはユダを擁護しなかったのか。この答えは一つしかありえない。すなわち、ユダを真の裏切り者とするためである。彼が真に裏切り者でない限り、預言の成就とイエスの栄光が達成されないからである。よって、イエスがユダを非難したことこそ、ユダが最も忠実な真の使徒であったことを逆説的に示している。もしも彼が銀貨三十枚のためにイエスを裏切ったのだとしたら、イエスは彼を庇うだろう。イエスが十二使徒たちを前にして「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」とユダの裏切りを知らせる聖餐の場面はどこかわざとらしい。しかも与えられたのはパンと葡萄酒であり、契約の血なのである。その後ユダは誰から非難されることも引き止められることもなくそそくさと出て行ってしまう。「席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった」とあるように、これほど明確にこの人が裏切りますよという演出をしてもなおかつ誰一人ユダが裏切ることを理解できなかったのである。ユダが信仰心厚く、皆から信頼されていた証拠である。「ユダが金入れをあずかっていた」という記述もこれを裏付ける。普通最も信頼できる者に財布を預けるからだ。素直に考えれば金庫番には収税人だったマタイあたりがふさわしいようにも思える。ユダに関して「自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をこまかしていたからであった。」という記述は良く考えるとおかしい。どうやって中身を誤魔化していたことが判明したのであろうか。ユダは既に裏切って袂を別っているのだから福音書記者は彼の行動を検証しようがないし、裏切る以前から中身を誤魔化していたことが判明していたのならば財布を預けてはいないのである。意図的にユダを悪者にしようという作為が見られる。もしもユダが以前から怪しまれたり疎んじられたりしているような人間ならば、たちどころにペテロに切りつけられていてもおかしくない。イエスがこうまでして裏切りを演出しなければならなかった理由はただひとつ、ユダだけがこの過酷な使命を果たせる器であり、そうであるが故に彼が裏切ったということを皆に信じ込ませる必要があったためだ。もしもこの演出がなければ、おそらく誰もユダの裏切りを信じられなかったに違いない。イエスはユダを完全な裏切り者に見せるための綿密な計画があったと考えられる。過越祭に自分が十字架に架けられなければならなかったからだ。イエスの死はあまりに出来過ぎており、計画的過ぎる。わざわざ危険を承知でエルサレムに入り、ユダが裏切ることも完全に察知しており、しかも過越祭だ。時間、場所、死に至る過程、これら全てがあまりにも作為的なのである。前々から自分の死を予言している点も死の計画性を裏付けている。精確に自分の死を予告し、しかもその死の危険を避けようとする気配が微塵もない。なぜか。イエスは自分が神の子であると確信している故に、自分の運命、すなわち預言を完全に成し遂げなければならなかったのだ。それは避けることの出来ないものであった。激しい葛藤があったに違いない。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」とはイエスの最後の嘆きである。イエスは死ななければならなかった。そしてその死は完全な成就でなければならなかった。「すべては成し遂げられた」とはそのような意味である。イエスの生涯は彼自身の手によって完全になったのである。だからイエスの死は計画的だったのである。ユダがたまたま絶妙のタイミングで裏切ったわけではない。最初から計画されていたのである。そんなことはないとは思うが、もしも過越祭に日食が発生することが予測でき、それをイエスが知っていたとしたならば、何が何でもその日に計画を実行しなければならなかっただろう。なぜこの年の過越祭を選んだのかも納得がいくことになる。イエスはその日に死ななければならなかった。そのために選ばれた使徒がユダであった。これが私の今のところのユダ観である。

2006年5月26日 ウパニシャッド
最近寝る前に寝転がりながらウパニシャッドを読んでいるが、私の哲学との間に驚くほどの共通点があることに気がついた。今まで気がつかなかったのだが、アートマンとブラフマンとが合一したものが、私の哲学における「生存」と極めてよく似た概念なのである。私が15年間の思惟の末に確立した生存の哲学の原型ともいえる哲学が、既に数千年前のインドにあったわけである。ただ、私が言う生存は分割不能であって決してアートマンとブラフマンに分割(という言い方は精確ではないにしても)されたりはしないし、分割不能であることによって概念化されない、という絶対的に矛盾した概念なのだが、その絶対矛盾の中に極限的真理の凝縮を見ている。アートマンとは言わば極限的自己性であり、その極限的自己性が宇宙の根本原理と同体であるという点では、私の哲学と基本的構造が同じなのである。しかし、私は生存を概念性が打ち破られたオントロジーの根幹と位置づけることで、生存の中から一切の実在性を排除している。つまり、生存は全く実在性を有していないのである。一方でブラフマンとアートマンは極めて認識困難であろうとも、その実在性は放棄していない。この点は大きな差である。ウパニシャッドを読んでも、アートマンが「存在しない」という表現はない。アートマンが存在しないという主張は佛教のものであり、私の哲学は明らかに仏教的である。私は生存という概念を提唱しつつもそこから実在性を剥ぎ取っているからである。
このように、確かに私の哲学の基本的エッセンスはウパニシャッドと通じるものがあるが、私の哲学との根本的断絶もあるのである。そして、この断絶は極めて決定的でもあり、それ故に私の哲学の方が優れている。ウパニシャッドの概念を使って私の哲学を表現すれば、アートマンとブラフマンは同一であるが故に実在性がなく、実在性が放棄されていることを認識することによって人間は智に至るのである。たとえアートマンとブラフマンの合一を見たとしても、それが実在であると考えれば何も見ていないに等しい。合一が意味するものは存在の超越であって、超越しているがためにそれは存在しているのでも存在していないのでもなく、だからこそ、この非実在性によって形而上学は完成されるのである。形而上学はこのような帰結点を持たなければならないし、それ以外の結論に至る形而上学は全て間違っている。

2006年5月24日 ミャンマーへの憧れ、そして出家
私が高校生の頃から大学生の頃にかけては、自分の行動と決断の全てに対して哲学を要求した。しかし最近では自分の直感を重視し、哲学を要求しなくなっている。そんな私の直感の中に、極めて大きな「憧れ」が鎮座している。それがミャンマーである。
 先日私の実家にミャンマー人が3人訪れた。大変流暢な日本語を話すことに驚いたのだが、私がミャンマーで出家してみたいと言うと、全面的に通訳を務めてあげようと約束してくれた。それが彼にとっても功徳になるからだという。彼らの中に佛教が生きていることを知り、感銘を受けた。出家といっても永久なものではない。上座部佛教の出家はかなり気軽で、短ければ一週間くらいで還俗してしまう。気楽な出家体験をすることも良い経験だろう。

2006年5月19日 歴史とは何か
少し哲学的に整理することにしよう。歴史とは何か、と言われれば、それは事実の連続によって組み立てられた人類の軌跡と大抵は考えるだろう。歴史は個人、家、民族、国、地域、人類と様々な次元で語られ、多元的に構築されている。それら全てが歴史と称せられるものである。しかし語られない歴史は歴史ではなく、埋没してしまった大量の事実は歴史として認識されることはないのである。つまり、膨大に蓄積されつつある情報のうち、重要なものだけが歴史として語られる以上、その情報の選別には恣意性が付き纏っている。歴史とは人間による情報の「選別」である。これが歴史の最初の意味である。そしてその選別は正しい選別ではなく、良い選別に過ぎない。しかも人間は情報を歪曲させる力を持っている。情報の力は所詮相対的なものであり、10人殺した殺人鬼が居たとしても、同時代に100人殺した殺人鬼がいればその悪は霞むだろう。歴史が人間による選別と歪曲によって著しく正しさを失っている上に、その歴史は常に人によって評価される以上、ある人物が時代によって英雄となったり逆賊となったりするのだ。その人物の人生はひとつだけであって変わることは絶対にないにも関らずである。つまり、褶曲させられた情報をさらに解釈するという一連の作業が実は歴史なのである。その中に真なる歴史的事実や真実はどこにもなく、あくまでも自分にとっての歴史しか存在しないのである。つまり、たった一つしかないはずの人類の正確な事実の堆積は歴史とは呼べず、私にとっての歴史が存在しているだけなのであり、歴史はまったく普遍性を持たない。これは、歴史というものの価値は客観的に正確な情報にあるのではなく、自分にとって歴史とは何かという、自己満足的価値しかないからである。歴史上の人物の言動を自分に都合よく解釈して自己弁護するために利用したり、自分の虚栄心のために先祖を利用したり、面白い作り話の小説を読むのと何ひとつ変わらない単なる物語として歴史を学んだり、政治的に利用するためにある歴史的出来事だけを殊更に取り上げたり、自分の好奇心を満たすために歴史的遺物を見学したり、そういう情報の選別と解釈を果てしなく続けているのだ。
 要するに、歴史とは地球化学者が地球の進化過程を探求するのとは全く異なる非科学的意図によって構築されている解釈学なのである。そして、事実よりも解釈にこそ意味があるのである。歴史の非科学性に我慢がならないのは一部の科学者だけで、ほとんどの人にとって歴史は非科学的だからこそ意味があるのである。神話にはこうした人類が共有している歴史への根本的態度、つまり事実の修飾と歪曲、が見事に結実しているといえる。だから我々は歴史的事実よりも、その事実が如何に解釈され、如何に修飾、歪曲させられてきたかに興味を持つべきだと思う。なぜならば、そのような情報の修飾の中に人間精神の興味深い傾向と性質が発見できるからである。歴史は人間のものであり、人間と切り離した歴史は存在しない。我々が人間である以上歴史を外側から見ることはできないからである。今知られている歴史は全て何らかの意図によって選別され、修飾され、捏造され、解釈されたものである。テレビの報道が極めて意図的に情報を選別しているように、歴史とは検閲を通り抜けたものしか存在し得ない。我々がその検閲を通る前の元の情報を集めることは極めて難しい。マスコミが意図的に報道しない情報を得ることが難しいように、情報の復元はほぼ不可能である。歴史とは事実の蓄積ではなく、神話とほとんど変わらない事実を元にした作り話の寄せ集めなのだ。そしてそれが作り話であるからこそ人間にとって価値あるものなのである。この主張は全く矛盾していない。動物は物語を作れないのだから。

2006年5月17日 中国の博士号、その驚愕の実態
昨日The Christian Science Monitorに衝撃の記事が掲載された。新聞記事なのでいずれ消えてしまうことを懸念し、備忘録として、大変気が引けるのだが、一部以下に転載させてもらう。正直この記事には驚愕した。中国の博士論文の60パーセントが剽窃で、同じ割合で賄賂の贈答が認められたというのだ。これは日本の博士号の質的失墜など遥かに霞むほどに酷い状態である。中国の博士号は国際的にはほぼ「紙切れ」であることが判明したということだ。しかも、この記事の中でFang Zhouzi(方舟子)氏は「実際の状況はそれより悪いかもしれません、特に社会科学の領域では」と述べているのである。60パーセントでさえ過小評価しているかもしれないというのだ。Fang氏は中国における剽窃、不正と闘っており、告発によって解雇された大学人の例が具体的に記事には記されている。合肥工業大学のYang Jinganは海外の学術誌からの随筆の盗作が明らかにされた後に共産党から追放され、Tongji大学生物学部長のYang Jieは改竄されたレジュメを指摘されて首になり、上海のJiaotong大学では中国チップの父と呼ばれたChen Jinが開発したと発表したHanxinディジタル信号チップがオリジナルでなくモトローラDSP 56800Eであったことを助手に内部告発されて解雇されているという。そして、このような学府の最高位に位置する人々に不正が浸透している以上、この剽窃文化は続くだろうと、不正を是正しようとしている人々は考えている。
 中国における不正と剽窃は完全に文化として定着しているのだということを、中国人自身が認めているのである。こうした不正の横行は中国中に蔓延していて、ばれているのは氷山の一角と考えてまず間違いない。最も学歴の高い人々でさえも(であるからこそ、かもしれないが)この有様なのであるから、一般の人々の倫理観など絶望的に低いと考えるべきであろう。我々は中国という剽窃大国の台頭の時代に生きているのであり、科学はますます無価値で形骸化したものへと堕していくように思える。中国でイカサマ博士が大量生産されることで、科学がはたしてどれほどの不利益を蒙る羽目になるかと考えると憂鬱になる。科学は既に個人の名誉のための「道具」に成り下がっており、科学者に最も必要なものが学問への忠誠心であることを忘れているのではないだろうか。データの捏造や剽窃は確かに数百年前から行われてきたし、それを完全に食い止めることはできないだろう。しかし、中国における博士論文の不正が60%という数字はあまりにも常軌を逸した数値であり、こんな状況の中で真面目に研究する人などいるはずがない。真面目に研究するだけ無駄、という雰囲気がどれほど科学を駄目にするだろうか。科学者の倫理という言葉が発生した時点で、もう科学は駄目なのだ。
図らずも中国の歴史書がいい加減で信用できないと書いた直後だけに、かの国の民族的詐欺体質に失礼ながら深く納得するのであった。

Research fraud rampant in China. A Chinese study found that 60 percent of PhD candidates admitted to plagiarism, bribery.
A recent Ministry of Science study of 180 PhD candidates in China found that 60 percent admitted plagiarizing, and the same percentage admitted paying bribes to get their work published.
"The actual situation might be worse than that, particularly in the area of social sciences," says Fang Zhouzi, a biochemist who splits his time between California and Beijing, and runs a website that has detailed more than 500 cases of serious academic fraud in China.
Mr. Fang is one of the feistiest whistle-blowers - wellknown and also feared in Chinese academic circles. Fang, whose real name is Fang Shi-min, is an Old Testament angel of vengeance when it comes to lying and cheating, and his work has led to a number of high-level fraud exposures and dismissals in the academic world.

方舟子的BLOG
http://blog.sina.com.cn/m/fangzhouzi
中国語なので私は読めないが参考のため。

2006年5月15日 人類史という虚構
歴史はほとんど信用できない。私はこう結論せざるを得ない。
あまりにも多くの嘘、捏造が歴史として語られすぎた。人類には歴史を語る資格がない。未来永劫我々は歴史を語る権利を持ち得ない。これが私の結論である。もしも我々の歴史を記す権利を持つ者があるとしたのならば、それは地球人ではない。地球人を完全に客観視できる地球外の者だけが、我々の歴史を語ることが許されるのである。
 20世紀の歴史は捏造の歴史でもある。南京大虐殺が完全な捏造であることは疑いを挟む余地がないが、ホロコーストにしてもほぼ捏造であると思われる。アウシュビッツにガス室はないし、一体どうやって600万人ものユダヤ人を殺せたのだろう。死体を処理する施設もない。チフスによる病死が大半で、死者はせいぜい数十万人ではないか。戦前と戦後でユダヤ人の人口がほとんど減っていないのが何よりの証拠で、ホロコーストは彼らが被害者ぶるための捏造以外のなにものでもない。600万人殺されたのに50万人しか人口が減らないなんて、どういう民族ですか。ゴキブリなみの繁殖能力です。ガス室で殺された死体は一体も見つからず、ユダヤ人絶滅計画の命令書も一通も見つからず、ガス室と言われている部屋で青酸カリも検出されず(これは決定的)、それでも大量虐殺があったと私が信じられるはずがない。
ホロコーストという大嘘をのたまった挙句に、彼らは被害者面してパレスチナに勝手に国を作って中東の平和を著しく破壊し、世界中に迷惑をかけまくっている。残酷な言い方だが、こういう慢性的虚言癖と身勝手で尊大で他者との協調性のまるでない行為こそがユダヤ人が差別される最大の理由だろう。ドイツ人の気質を考えたら、奴らは我慢ならない連中、というのも分からないでもない。自分たちは被害者面してせっせとアメリカで原子爆弾を開発して大量虐殺を楽しんでいるのだから、本当にどれだけ最低な連中なんだろうかと思う。ユダヤ人は科学と歴史を貶めた、という表現も、言い過ぎではない。世界の宗教対立の火種も元は全て彼らに原因があり、一神教という最大にして最悪の発明によって世界中に戦乱を撒き散らしているのだ。現に今も。こんな嘘吐き民族の書いた聖書の記述など、歴史書としてはほとんどまるで当てにならないと思う。バビロン捕囚も被害者面するための捏造かもしれない。話が逸れたが。
 我々は歴史を出来る限り取り戻さなければならない。たとえ歴史を語る資格を剥奪された愚かな人間であったとしても、歴史はできる限り快復すべきものである。過去の呪縛を断ち切り、我々は真に正しい歴史に向かって歩まなければならない。正しき歴史とは正確な歴史である。正しい知識と正しい証拠と正しい統計に基づいた純粋に科学的な視点から歴史を紡ぎ直さなければならない。そのためには歴史から政治や宗教を完全に排除しなくてはならない。歴史学者は執拗なまでの猜疑心を持ち、実証主義者でなければならない。この世から嘘吐きが居なくなることはなく、嘘吐き民族も消え去らない。嘘を信じる愚か者も消え去らず、嘘によって利益を得る者も消え去らない。だから我々が完全な歴史を得ることは絶対にない。たとえ嘘吐きが地獄で裁かれたとしても、我々も同様に嘘を信じた罪を裁かれよう。ファンダメンタリストに至っては嘘を全く見抜けないという罪で無間地獄に堕ちるだろう。しかし、そうであっても我々に知性があり、知を義務付けられているのならば、正しい眼で嘘を見破り、狡猾な詐欺師たちから身を守るべきであろう。歴史は詐欺師によっていいように作り変えられてきた。そしてその捏造に満ち満ちた虚構の歴史を「歴史」と呼んで学ばされてきた。我々が学んできた歴史とは歴史そのものではなく、歴史が如何に曲げられてきたかという「捏造の歴史」なのである。歴史の中に真実を見出そうとは誰もせず、疑いもしない。疑わないことは罪であり、安易に信じることは悪である。信じることは人を地獄に招く。智慧から遠ざかった状態をこそ地獄と名づける故に。歴史が歴史にあらざることを心得れば、人は歴史の正しい姿を知り、邪悪な罠から逃れて知を得るだろう。しかし、欧米でホロコーストの否定が法律で禁止されている現状を見る限り、このような歴史に対する冒涜を行う人間達には歴史を語る資格などないのである。

2006年5月11日 邪馬台国論争
私は日本史にもかなり興味を持っている方であり、特に日本の古代史にはロマンを感じる。邪馬台国論争にもかなりの興味があるので、ここに徒然に書き殴ろう。まず、邪馬台国を「やまたいこく」と読むことに大変な違和感を覚える。邪馬臺国はどうみても「やまとこく」にしか私には読めません。根本的な問題は、魏志倭人伝の記述にはほとんど信憑性がない点だ。地理的描写から戸数にいたるまで、数値は極めていい加減でまったくあてにならない。当時の中国の地理の知識は恐ろしく貧弱で、方角から距離に至るまですべて信用できない。確実に信頼に足る記述は朝貢の記録だけだろう。親魏倭王印を与えたことはまず間違いないだろうから、これが発見されれば邪馬台国の所在はほぼ確定することになるわけである。漢委奴国王の印と同じように。話がそれるが、委を「わ」と読ませるのはいかがかと思う。どう見ても「い」である。さて、そこで問題なのは当然神武東征神話だが、これは概ね史実だったのだろう。日本書紀の記述を見ても、わざわざこんな神話を創作しなければならない合理的理由は皆無であり、戦争の描写もかなり具体的であることから大筋で史実と考えるのが妥当だろう。よって邪馬台国=大和朝廷の前身もしくはそのものと素直に考えれば、当然邪馬台国は東征以前なら九州、以後から近畿となるわけだ。卑弥呼をどう読むのかも問題だが、彼女を記紀の誰に比定するのかはもっと問題だ。初期の歴代天皇の異常なまでの高齢は、聖書の創世記ほどではないにせよ不自然であり、意図的に引き伸ばしたことは間違いない。その分を差し引いて考えれば、卑弥呼を天照大神に比定するのはそれなりに妥当であって、この場合東征も当然それ以降になるので邪馬台国は九州ということになる。卑弥呼=神功皇后というのは従来の説だが、不思議なことに神功皇后が架空の人物であるという説が存在し、その架空の人間から応神天皇という実在の天皇が生まれるという脳みそが沸騰しそうな話をしている歴史学者が居るのに驚かされる。歴史学者の頭とはどうなっているのだろうか。架空の人物から実在の人物が生まれるわけですから、現実とバーチャルの世界を混同してはいけませんね。聖徳太子は実在しないが厩戸皇子は実在すると主張している痛い学者もいるくらいだから歴史学とは実にいい加減な学問である。
津田左右吉という学者がいたが、この人物の主張のいい加減さにも実に呆れ返るばかりである。日本書紀の何もかも虚構だと言うのだから研究する気があるのかこの男は。文化勲章を受賞できた理由が全くわからないが、歴史学も理系の人間がやらなければ駄目だと心底痛感する。学者の言っていることも出鱈目だし、魏志倭人伝もかなり出鱈目だし、倭の五王に至っては讃、珍、済、興、武というほとんど意味不明な漢字を当てているし、明史倭人伝も超いい加減だし、要するにに中国の歴史書における日本の記述は朝貢の記録以外は全く無価値だ。
くどくどと書いたが、私の主張の要点は、@魏志倭人伝はほぼ無価値だが、大和朝廷の前身もしくは朝廷自体が朝貢した可能性がある。邪馬臺国はどうみても「やまとこく」であって、信頼性のない魏志倭人伝の中ではかなり正解に近い記述なのかもしれない。A卑弥呼を誰かに比定するのならば、一番素直な解答は神功皇后であろうが、そもそも比定することに意味がない。B宋書の倭の五王の記述に見られるように、人名に関しては信憑性がまったくない。卑弥呼という人物の実在性は極めて疑わしい。基本的にいい加減で、様々な時代の情報が混濁しているのが中国の史書であり、天照大神を最高神とする日本=女王が治めている国、という信じられないくらいに飛躍した曲解が成されていたとしても不思議ではない。実際は男の天皇が魏に朝貢の使者を送っていただけなのに、史書にハチャメチャな記述をされたせいで学者が混乱しているだけの可能性は高い。
結論:記紀の記述の基本的なエッセンスは史実を反映したものであり、邪馬台国という名称は魏志倭人伝の中で数少ない有力な情報であるとの立場に立てば、邪馬台国と記述された政体はおそらく近畿に存在しており、だからこそヤマトなのである。東征していない段階でヤマトと名乗る理由は全く見つからず、大和地方を征圧して根拠をそこに構えたからこそヤマトなのである。誰もが納得する素直な見解ではないだろうか。単純な理論ほど正しい。邪馬台国≠ヤマト政権という発想は無理がありすぎる。卑弥呼を誰かに比定しろと言われれば神功皇后かな、と答えるしかないが、卑弥呼の中には様々な人物や神話、誤解が凝縮されており、譬えるならばアメリカ人の考える極端な日本人像(侍と忍者が今でも居て、女性はみんな芸者)のように、全くの虚像であって、結論から言えば卑弥呼に対応する人物は存在しない。よって、魏の時代に日本を女帝が治めていたこと自体怪しく、全く別の時代、下手をすれば数百年前のことを書いているかもしれないどころか、フィリピンや台湾、下手をすればベトナムあたりの情報と混じっているとも思える。よって、魏志倭人伝の中にわずかに存在している日本の正しい描写を拾い出す作業は極めて困難なのである。想像力を逞しくして考えれば、遥か昔の神話の時代の話、つまり天照大神の話が魏の時代の情報とごちゃ混ぜになり、そこにフィリピン、台湾、ベトナムの話までもが一緒になって、不思議なほど詳細に魏志倭人伝中に描写されているのかもしれないし、現に倭の民の描写はやけに生々しいわりには日本の風俗とは思えない描写が多すぎる。卑弥呼という呼称にしても単なる普通名詞であるかもしれないし、そんなに巨大な権力を持っていた女帝ならば当然記紀の誰かと完全に一致しなければおかしいし、記紀がわざわざ無視するはずがないのである。よって、卑弥呼がいずれの天皇とも完全に一致しないことそれ自体が魏志倭人伝の根本的歴史性の欠如を証明しており、そもそもここでの倭が日本であることすら怪しいと私は思っている。ほとんどの記述が完全な創作、でっちあげである可能性もある。中国の歴史書の出鱈目さに比較すれば記紀の方が遥かに歴史書としての価値は高いと思う。

2006年5月8日 差別戒名の罪
先日ある被差別部落へ行き、部落内の寺と墓を調査した。かねてより気になっていた事を確かめたいと思い立ったからだ。それは墓石と戒名である。私が墓に興味を持ち始めたのはもう7年も前であり、その頃神保町で墓に関する本を漁っていた。その時に差別戒名の存在を知り、激しい衝撃を受けた。差別戒名とは、被差別部落の人々に対して与えられたあからさまに差別的な戒名である。おそらくほとんどの人が文盲であったこともあり、住職がいいように付けていたのだろう。具体的には4字戒名で、○○畜男など、一目でそれとわかる戒名である。わざと画数を落とした漢字を使うといった手の込んだことも行われたらしい。
部落来訪に先立って私はこう予想していた。おそらく明治より古い墓石はないだろうと。差別戒名の刻まれた墓石が現存しているはずはなく、すべて撤去されているはずだからである。そこでそれを確かめるためにその部落へと足を踏み入れた。そこが部落であることは、幼少時におそらく祖母から聞いたのだろう。何となく足を踏み入れてはならない場所であると思っていた。一種の心理的バリアーがあって、触れてはいけない、行ってはいけないという無言の、しかしそれでいて強力な圧力が働いていることを今回痛感した。この感覚は父も同様であった。幼い頃に聞かされた暗黙の禁忌。誰もその部落のことを口にしなかったが、口にしないからこそ近寄ることが恐ろしいのだ。余程の理由がない限り行くことはないだろうし、私とて、私の生家から僅かな距離にあるこの部落を訪れることは皆無であった。どんな場所なのかも全く知らず、地図上の孤島のようなもので、明らかに近隣の町とは隔絶していた。
寺をカーナビで探し、何とか狭い道を抜けて境内に車を滑り込ませた。朽ち果てた安普請の本堂と開放的なオープンカーとは奇妙な違和感とぎこちなさを呈し、およそ似つかわしくない場所に似つかわしくない物体があるように思えた。本当にこんな場所に来てしまって大丈夫なんだろうか、と不安に駆られたが、私は墓地へと歩を進めた。はたして墓地を調査してみると、やはり予想していた通り、古い墓が全くない。見事なまでに古い墓は皆無なのだ。そればかりか、墓誌にさえ古い戒名が刻まれていない。しかし、これはこの寺が新しいということを意味してはいない。なぜならば、住職の墓だけは数百年前のものまで確認できるのだから!まさに異常な光景だ。この墓地では過去が完全に葬り去られている。私は言葉にできない一種の違和感を感じて身震いした。こんな感覚を寺で感じたことはない。直接差別戒名の墓石を確認したわけではないが、私の当初の予想はほぼ間違いないという確信を得た。差別戒名の存在はやはり本当だったのだ。
今回の調査はかなりの衝撃であった。単なる風聞などではなく、確かに差別は存在していた。それも寺が、仏教がそれを行ったのだ。差別戒名は日本仏教史上最大の汚点といえる。いや、それはすでに仏教ですらない。仏の十大弟子の一人、ウパーリ(優波離)がシュードラ(奴隷階級)だったように、仏教は完全にカーストを否定し、真の人間平等を説く教えである。仏の前には全ての人は等しく凡夫であり、弟子であり、その間に身分の上下などない。ウパーリ出家の際のエピソードにその思想は凝縮している。アヌルッダやアーナンダなど、身分の高い者たちを差し置いて、ウパーリを先に出家させて兄弟子とし、身分の高さによって高慢な気持ちを起こさせないようにしたのである。仏の教えは身分も性別もなく平等に説かれた。そもそも戒名とは授戒によって与えられる仏弟子としての名前であり、当然そこに生まれによる差別などあるべきではない。仏は言う。「生まれによってバラモンになるのではない。行いによってバラモンとなるのである。」言われなき差別を受け、幕府によって身分を固定されてしまった社会的弱者たちにこそ仏の救いが必要だったはずだ。にもかかわらず、仏教は彼らに対してあまりに冷酷すぎた。穢れによって極楽往生できないとさえ言われていたのだ。彼らが極楽へ行けないのならば、肉を常食としている現代人など一人も往生できまい。極楽に往生できないと宣告されることが迷信深かった彼らをどれほど恐れ戦かせたかは想像に難くない。その上戒名まで酷い字を付けられ、未来永劫その被差別の鎖を断ち切れないようにするなど、反仏教にも程がある。たとえ生きている間の差別はなくならないとしても、せめてあの世では西方浄土へ行けるように仕向けてやらねば救いがないではないか。
差別戒名は制度として存在していたのではなく、ほとんど住職の一存で採用されていたようである。それだけに住職でさえも差別意識をもっている点での差別意識の根深さに恐ろしさを感じる。もちろん世間一般の、特に農民の差別意識はさらに根深かっただろう。もしかすると、農民たちが自分たちと同じような戒名を彼らにつけることを極度に嫌がったのかもしれない。いや、それは十分すぎるほど考えられることだ。農民たちの不満を逸らすために差別戒名をしぶしぶ付けざるを得なかった場合もあったやもしれない。美作一揆に見られるように、農民の差別意識の強さは実に苛烈だ。農民の不満を逸らすために穢多非人の身分を幕府が固定したという説もかなり説得力がある。それほどに百姓の彼らへの差別意識は強い。美作血税一揆での残虐行為の数々は、差別というものが単なる差別意識などではなくて憎悪なのだという事実をも示している。
一方で、その百姓に対する差別意識があることも私は認める。町人の家系である私の家では、士農工商の中で最も身分が低いにもかかわらず、百姓を小ばかにするような感覚がどういうわけか根付いていることを認めないわけにはいかない。つまり、大なり小なり差別的意識は育った環境によって継承されている文化的側面があるのだ。もちろん差別を文化として肯定しようとしているわけではない。そうではなくて、一種の刷り込みなのだということを強調したい。情報が差別を生み出しているのだ。だから子供たちに情報を与えないことが最も効果的に差別を撤廃する方法なのだ。だから小学校で同和教育をやってはいけない。何しろ私が部落の存在を知ったのは小学校の同和教育だったからだ。同和教育での不思議な感覚は今でも覚えている。差別って言うけれど差別なんて聞いた事も見た事もないし、一体何を言っているんだろうと不思議に思い、帰ってから家で部落の存在を教えられたのだ。つまり同和教育を行っている彼らが差別を未来永劫伝えていこうとしているのだ。寝た子を起こし、知らずに済んだことを掘り返す。しかも子供の頃にそうした差別意識を植え付けられるのだ。同和教育の撤廃と、地名の抹殺によって全てを清算するのが一番良いと私は思う。

2006年5月2日 精神の三層構造
ここで私が示すような階層構造を誰かが提唱しているかは知らないが、私は長年の内省と自己分析によって精神は大まかに三層構造を成していると結論付けている。まず最も深い部分に存在しているのが、私が「生存」と呼んでいる普遍的生命原理である。生存の基本的性質は自己保存的であり、究極的自己愛であり、自己愛であるがゆえに慈悲であり、ある意味盲目的であるが純粋で、どんな価値観によっても善悪判定不能なものである。それは超道徳的で、どんな概念の侵入も基本的に許さない最も始原的混沌である。それはどのような言葉で捉えることも困難であるが、少なくとも私、いや、全生命において最も根幹となる意志であり、根幹という意味においてはオントロジーの起源である。存在とは生存によって与えられる仮想的実体に過ぎない。
この把握不能なほどに広大で混沌とした「生存」によって、その上に建設される大きな領域がある。これは無意識的領域として一括できる、深層意識である。深層意識は生存の初期的働きによって、経験に基づいて形成される基本的な自己保存のための無意識領域で、極めて厄介な領域だ。得てして無意識は否定的で、偏重的自己中心主義の世界であり、歪んだ病的認識に満ちており、憎悪、嫉妬、怒り、苦悩、拒絶といった数限りない悪しき感情はここから生じる。ほとんど全く「善」に区分されるような感情はここからは生み出されない。それは、基本的にこの無意識の領域は幼少時の嫌な経験のみによって再構成されるためである。自分を守り、保存するために社会との軋轢を解消するため、あらゆる苦痛な経験を無意識の世界に閉じ込める、言うなれば過酷体験の牢獄なのだ。つまり、社会や他者への怒りや憎悪を解消するために設けられた施設なのであり、この施設の中だけに煮え立つような悪しき感情を幽閉することで社会との軋轢を解消している。もしもこの感情が全て開放されてしまったのならばたちまち人は犯罪者となって、かえって自分の人生を破滅させてしまうだろう。それは「生存」の意志に反している。無意識の世界は満たされなかった思いや欲望が沸々と煮えたぎっており、決して癒されない永遠の精神の傷として存在している。誰もそれから逃れることはできない。また、この無意識の世界は矛盾した感情によっても満たされており、錯乱の世界でもある。
この恐るべき混沌の世界は、意識の世界が存在するために必然的に生みだされたものである。意識の世界は極めて高度で複雑な世界であり、知性や理性などによって統括されている。この統括は意識的である時間には、つまり起きている時間の大抵は強力で、全ての無意識を簡単に抑え込む。生存の意志は意識世界に留まることのできないあらゆる感情を無意識に押しやることで意識世界を正常に機能させている。無意識と意識はたゆまざる激しい激闘を繰り返しているが、大抵は意識が勝利する。ところが、一度眠りにつくと意識の統制は弱まる。特に病気で高熱を出した時などにおいては意識の支配力は極度に衰退し、その際には無意識に追いやられたどす黒い感情が時々悪夢となって顔を出す。

2006年4月26日 頭痛の種
私が知りたいことなんて何もないのだ。知りたいことなんて何もない。何一つとして。
そんな私が知を産み出せるはずがない。知っても知っても果てしがない世界で、何を知ろうというのか。全くの徒労だ。それでも私が無理に知を産み出してどうなるのか。そんなものは無価値だ。
私には欲しいものがない。素晴らしい心地であるが、意欲もないのだ。誰かが私に意味づけをしなければ私には意欲などない。海外にも行きたくない。なるべくなら動きたくない。思考の快楽との付き合い方が分からない。私は思惟の価値を投げ出しかねない。理想も消えうせた。世界を変えても国を変えても何の意味もない。人は変わらない。変わっても意味がない。正義も無価値。悪が消え去ることはなく、消え去っても無意味だ。愚者は消えず、消え去っても無意味だ。人が愚かさから離れても離れなくても意味はない。私だけが愚から遠ざかっていることだけに意味がある。私だけが知を携えていることだけに意味がある。それを人に押し付けたり、偉そうに高説を述べても無意味なのだ。
論文など無価値だ。価値はないが手段ではある。私が生きるための手段。私に意欲などないのだから。
価値のある人間は少ない。しかし価値などないが生きるのが人なのだ。そんな世界で私が真なる正しさと真なる幸福を愛すべき人類へ伝えることなど、全く馬鹿げているし傲慢な話だ。私がどんなに正しいことを言ったとしても、耄碌した知の老人どもは理解し得ない。そんな者たちに私がどんな知を生み出すのか。こんなにも悲しく空虚な知の囚人である私に、何ができるというのか。

2006年4月20日 必然性
私は哲学を一度として目的としたことはない。しかし、今の哲学なき状態に妙な不安を覚えるのだ。これは不思議なことではないか。私が真に哲学を滅ぼしたのならば、私は哲学の枷から開放され、不安などないはずだ。もちろん私の精神は安定しているし、死にたいと思うわけでもない。しかし、私が科学に何を求めるべきかに関してはいまだに答えを見出せないことに対しては言いようのない焦りを覚える。科学が私の欲しいものを与えることは原理的にありえない。しかし、そうであっても私は科学の中に比類なき有意義さを見出さなければいられない。矛盾しているようだが私は知りたくて仕方がない。
まず、最も解決しなければならない問題は、なぜ宇宙に物理法則が存在し、それが数学で記述できなければならないのか、である。そして、この問題と私の実存や人生の根本問題とが全く無関係に思えるのはなぜか、である。宇宙の中に我々が神話を見出さなければならないのと同じように、私は私の中に生存を見出さなければならない。宇宙論という神話に我々が安堵するのならば、それは確かに宇宙の法則性が私の生存を肯んずるであろうが、たとえどのような荒唐無稽な神話であろうとそれが私を納得させてしまうのならば、宇宙の法則性など私の人生にほぼ無関係なのだ。たとえそのような法則性が存在していようとも私がそれを積極的に見出そうとしないならば、それは私にとって存在の外側の話であって、宇宙の法則は何の実在性も持っていない。つまり、単に積極的で原始的な好奇心だけが宇宙の法則性を必要としているだけであって、それよりも高次の懐疑的精神においては宇宙の法則はそれこそ無用の長物だ。なぜならば、我々は神話よりも今日の糧を必要としているからだ。では何のために我々は神話を求め、何のために神話の中に究極的演繹性を求めるのだろう。我々を奮い立たせているのは結局無知への恐れだけではないか。つまり科学こそ我々の「恐れ」が産み出した、世界から自分を守るための盾なのである。そして、実は宇宙には法則性などはないのであるが、我々は宇宙の中に自分たちの中の論理性を投影することで初めて宇宙に秩序を見出す。そして、投影されし秩序こそが宇宙が本質的に無矛盾の体系として機能せざるをえないように我々に見せるのだ。結局そうでなければ我々は宇宙を認識のなかに繋ぎ止められない。繋がれざるものは実在性を失って認識の彼方に消え去ってしまうだろう。だから我々は我々が認識できるような部分だけを宇宙から切り取ることで初めて宇宙を認識し、宇宙を構成している。
宇宙と私が相補的でないのならば私は宇宙を認識しない。では私たちが獲得した科学の本質とは結局私たち自身の欠片に過ぎないのだろうか。人間がいなかったとしても科学は存在しているのだろうか。これらの疑問が全く馬鹿げていると確信しえる理由はなんであろうか。私が疑問を発さなければ、実は宇宙は終わってしまうのだ。
究極的に因果律が破壊されてしまう現象がない限り、我々はこの宇宙の法則性そのものを必然とみなすことはできない。原因と結果が相互に入れ替わることかが可能ならば、我々は初めて宇宙の本質に迫る可能性を獲得するだろう。しかし、時間は逆に流れない!

2006年3月28日 円周率
円周率3.14159265・・・どこまでも果てしなく続く不規則な数の羅列。円周率πは超越数である。この奇怪な数が物理学と数学の最も根幹に位置する数であることはある意味驚異的である。そして、オイラーの等式によってπはもうひとつの根幹的超越数であるネイピア数eと虚数iと結びついて0と1に変換される。この驚くべき性質に宇宙の神秘を見る者も少なくないだろう。我々は多くの根幹的物理法則においてπを見出す。我々はπという記号によってうまく円周率を丸め込んだが、実のところ誰一人としてπの真の値を知らないことにはもっと興味を持つべきだ。我々は円周率を知らないのであり、その真値は絶対的秘匿の内にある。
円周率と一口に言うが、それは平面幾何学上の円周率である。球面幾何学では円周率はいくらでも小さくできてしまう。ある意味πの値はこの宇宙の曲率によって直接的に、そして必然的に決定されし値であるように私には見えてならない。πが超越数であることは、ある意味完成されきった完璧な宇宙の調和の中に存在する、非常に稀な気まぐれのようだ。πやeがなければ、我々はこんな超越数などは数という概念から除外することさえ厭わないだろう!

2006年3月24日 GNH
GNHという概念がブータンにある。国民総幸福量と訳すのだろう。この大変素晴らしい仏教的概念に賛同する先進諸国の国民も多いことだろう。幸福は富を欲望で割ったものである、と定義されるらしい。欲望は情報に比例するので、資産量を保有している情報量で割り、ある係数をかける事で幸福量を数値化できると考えることは突飛な発想ではあるまい。しかし情報量をどのように数値化すべきなのかは問題だ。
コンピュータの場合には情報量は明確に数値化される。情報量は正確に何バイトかわかる。しかし人間が保有している情報量とは一体どのようにして測定するのだろうか。これは難題だ。情報量に関して何らかの法則が存在するのかもわからない。情報量は保存しないように見える。我々は環境すべてから無限に情報を生み出し、蓄積していくことが可能であるように思われるからだ。例えばここに一冊の本があるとする。その本の中にはある情報が含まれており、その本を読むことで人は情報を得る。すると、系全体が保有する情報量は読書前より増加している。コンピュータも同じように情報をコピーすることで無限に情報は増殖していくことになる。情報量は系の中で保存されない。この非保存性を打破するために、情報の質的な量を考えることにする。つまりコピーした情報は単なるコピーであって何ら新しい情報を含んではいない。その意味では本質的情報量は増加しておらず、情報量は保存されていることになる。この考え方に立てば宇宙全体の情報量も保存されていなければならない。我々が完全な無から情報を産み出す事ができない限り、この法則性は保たれることになる。しかし本当に我々は無から何も生み出せないのだろうか。

2006年3月7日 自己完結的宇宙
以下のような哲学的思考による結論は不確定性原理の中で、ある粒子が個体性を放棄していることを示している。私は同じ理屈で私の個体性さえも不確定な確率のなかに揺らいでいるのではないかとさえ疑う。一方で私は個体性、すなわち数の発生の根幹が不確定な確率の世界に漂う泡だとは思っていない。もし宇宙に起源があるのだとしたら、宇宙はゆらぎによるのではなく、ある必然的な理屈によって自発的に発生したはずであると考える。それは、宇宙という概念は、それ自体が完全に自己完結的な体系を構成していなくてはならないからである。もし宇宙の自己完結性が破れてしまうようならば、私はそれを宇宙とは呼べない。しかし、私は宇宙それ自体が宇宙を説明しえる、即ち宇宙の実在性によって宇宙の起源を説明しうる方法を見出せない。私はこの意味で完全な無限性を宇宙に求めざるを得ない。全ての因果関係が宇宙の中で閉じていなければならないからである。

2006年3月2日 個体性とは何か
昨日の思考を発展されるためには、まず個体性について考察しなければならない。つまり、1とは何か、である。私は一人であるが、なぜ私は一人なのか。水素原子1個が持っている電子は本当に1個と言えるのか。林檎1個を二つに割れば2切れの林檎になるのに林檎は如何にして1個という個体性を発揮しているのか。完全に「1つ」と言えるものは存在しえるのか。そこが解らなければならない。困ったことに私の直感は素粒子が存在しないと告げている。
1つ、とは性質であるのか、それとも操作主義的に「数える」という行為によって定義されるべきなのかは問題だ。数兆個(くらいか?)の細胞で構成されている私が一人である根拠は、私の性質によっているのか、それとも私が数えられる行為によって一つとなるのか。もし前者ならば、私が一つの人格を形成していることが主要な根拠であるだろうし、後者ならば私以外の誰かが私を一人と数えることによって私が一人ということになる。1が性質なのか、行為なのかということだ。行為である場合は、それが1つであるということにする、という暗黙、もしくは明確な定義の上に「1」が成立する。しかし、1が性質ならば、その性質がある物体の中に内包されていることになる。その1という性質だけを物体から乖離させることはできないし、我々の恣意的な定義や作用から、その性質は独立した実在であり、守られている。だから我々が何かを1つ2つと数える行為なしにある粒子はそれ自体として1という性質、つまり個体性を維持できることになる。この考え方はかなり唯物的であって、私はその考え方を退けざるを得ない。なぜならば、どのような手段を使っても、その1という性質は我々には、真に唯物論的観点からは実証できないのである。実証や証明という行為は人間の恣意的作用だからである。とすると、1という性質は究極的に存在し得ないことになる。これは素粒子の実在を完全に否定する。なぜならば、それが素粒子、つまり、これ以上分割できないと考えられるものが完全な個体性を持っていることは誰一人として実証できないからである。それを仮に「1つ」の粒子であると定義することによって、そこに個体性が発現しているのある。たとえば素粒子と考えられるものの中に我々が何一つ集合的性質を見出さなかったとしても、その粒子自体が真なる個体性を保っていると示すことはできないのである。我々はそこに1つというラベルを貼り付けるだけで満足するしかない。
このことは全ての個体的性質を持った物体が、同時に集合的性質を発揮しなければならない可能性を示唆している。なぜならば、これはかなりトリッキーな理屈だが、我々は素粒子と思われるものの中に集合的性質を見出そうと努力しなければならない。そうしなければそれが素粒子かどうか分からないからである。しかし、我々の意思自体によって集合的性質は付加されるのだ。なぜならば、全ての測定には統計的誤差が付帯しているからである。どれほど精確な測定によっても統計誤差を避けられない。統計的性質は集合的性質そのものなので、我々は永久に素粒子には至らないのだ。今のところ私はそう結論せざるを得ない。

2006年3月1日 確率と死神
死神が明日私を黄泉の世界に連れて行く可能性は。確かにある。毎日毎日は死の可能性との接触の連続だ。今日の死亡確率、明日の死亡確率、明後日の死亡確率・・・。確率は加齢と共に上がっていき、最終的にはどこかで死にぶち当たる。避け続けることは誰にもできない。落とし穴だらけの道を歩いていけばいつか必ず落ちる。どこまでも永遠にその道を歩くことはできない。しかし永遠に穴に落ちない可能性は確かに0ではない。非常に小さいながらも道全体が穴になっている場所がないかぎり、永遠に落ちない確率は0にならない。しかし、人間の寿命が150歳にすらならないのはどうしてか。つまり、先に掲げた死の確率の連続というモデルが間違いなのではないかということだ。130歳0日の人が130歳1日まで生きる確率は本当に0なのか。もしそれが0ならばモデルは間違っている。私たちは確率の中で生を拾い上げているのではなくて、絶対的死の壁に向かって一直線に生きているに過ぎない。もし、確率が1になることがないのならば、単に150歳まで生きる人間が出ないほど人間の数が少ないだけだ。我々は死神の来訪を拒み続けて生きているだけなのか。それとも死神はまったく気まぐれで来訪しているのか。
私のこの議論の中で、確率という概念の不備を感じる。つまり、確率という性質は個々の事象に付帯しているものではなくて、マクロな、現象の集合のみに対して適用されうる概念なのではないかと疑うのである。たった1つの粒子に対してエントロピーという概念を持ち込むようなもの。我々が普段接している現象世界は完全に集合の世界であり、個体性が発揮される世界ではない。私はビーカーの中の水分子のひとつひとつを見分けられない。水素原子は全て「同じ」水素原子であってそこに個性はない。しかし確実に彼らは同じではないのだ。なぜならば、ひとつの原子が同時に二箇所には存在できないのだから。しかし、もしも水素原子が全て「同じ」であるならば、1つの水素原子は同時に宇宙全体に存在していることになる。彼らに差がないのだから。しかし原子が集合となることによってそこに確率によって支配されるエネルギー分布が見えるようになる。私は摂氏25℃の水素原子1個のなかに集合的性質を本当に見出すのだろうかと疑う。ある時間の間観測すればそれを見出すだろう。しかし、その時間によって水素原子は本当に個体性を維持していると言えるのだろうか。つまり、一個の水素原子が「同時的に」複数の原子の集合として振舞うのであれば、それを一個の原子と言えなくなる。もしそうならば量子というものも集合に過ぎない。私は個体性と集合性は究極的には不可分になってしまうのではないかと推測する。1個の粒子が1個ではなくなってしまうのである。だいぶ話が逸れたが。

2006年2月15日 私は何を為したいのか
私は結局科学を破りたいのだ。科学の根本哲学を否定したがっているように思われる。私は「思わざるが故に存在せし世界」を示したい。だから科学が嫌いなのだ。いや、好き嫌いではなく破壊したくて仕方がないのだ。何のために。私のために。科学の根本哲学が間違っているのに科学は確かに正確だし、極めて有用だ。何ゆえか。その正確さや有用性そのものが人間が求める真の智慧ではないからだ。私は真の智慧を求めている。だから科学は根本的な正しさがない。科学の部分的で不完全な正しさに安住する気がさらさらない。私は科学者であるからこそ科学を超えたい。ぬるい理想論などではなく、完全無欠であり、現実的である智慧こそ私が求めるもの。少なくとも完全に合理的に宇宙を説明する方法が存在しないことが確かであるのだから私たちが求めている真実とは一体何なのかを合理的に私は再考する。もちろん科学の合理性は否定しようもないが、私はその科学を流動的で不定なる体系で包み込みたい。我が子を抱きかかえるように。

2006年2月3日 廃棄
全てを切り捨てることが救いへの道である。全てを切り捨てられなければ苦しみへ赴く。善き場所は何もない場所であり、悪しき場所は何でもある場所である。私は何もない場所へ行くことによって全ての柵を断ち切る。私は全てを廃棄して、全存在の中心に在る。周辺には何もない感覚だ。感覚の周辺部には存在がなく、私は全宇宙の中心に聳え立つ巨峰であり、そこには静まって統制された精神の縮退がある。全ての思念は中心にだけ収斂していて周辺が消え去る。全身は廃棄されているが身体は単一の念に縮退している。私は見ているものを見ていない。聞いているものを聞いていない。ただ一点の超然とした感覚に全宇宙は収まって揺るがない。時間も空間も融合されて差別がなく、過去も現在も消滅している。あらゆる事態は既に起きており、既に終わっている。揺ぎ無い静寂。想念は揺るがない。

2006年1月27日 音
非生産的人間を許すことは難しい。暢気な連中を導くことは難しい。しかし人間を見捨てることはもっと難しい。この苦しみは消えなければならない。私は世界を見たくなかった。しかし情報の波は私に激しい悲しみを苦しみを押し付けた。情報との接触が苦の原因であった。情報とは人間の情報であり、人間は愚かである。よって情報とは例外なく愚劣な情報である。愚劣が私に怒りと絶望を呼び起こし、苦しめていた。私は猿の群れの中で暮らさなければならない人間のようだ。
私にとって苦は音である。音によって苦しみは心に浸入する。音は防げない。私がどんなに耳を塞いでも空気の振動は体を震わせ、鼓膜を振動させる。音が精神を乱す。平安を壊す。音以上に憎むべき存在はない。不快な音を消し去りたい。全ての不快な音を消し去りたい。

2006年1月26日 占いについて 1
あまり真面目に書いたことがなかったと思ったので一度書いておくべきだろう。
結論から言えば巷の占いには何の価値もない。根拠もない。まず占星術だが、どうして惑星が人間の人生に関係するのかの根拠が全くない。星が我々に何らかの影響があるとしたらその影響の99パーセント以上が太陽の影響である。これは当然だ。太陽は膨大なエネルギーを地球に送り、昼夜を作り出す存在だ。生命の源である。残りの1パーセント以下の影響の大半は月だ。月の重力は潮の満ち欠けを生み出し、生命のバイオリズムに深く関わっている。この2つの天体の影響は明確で否定しようがない。しかし、最も地球から近い惑星である金星でさえも、この2つの天体から比べれば地球に対してほとんど何の影響もないと言っていい。重力は距離の二乗に反比例するし、金星の光など太陽と月とは比較にならないほど弱い。とても生物に影響があるとは思えない。火星に至ってはもっと小さい。木星も巨大ではあるがあまりにも地球から離れすぎている。土星に至っては肉眼で見ることさえ困難だ。天王星以遠の惑星に至っては肉眼では全く見えないほど遠く、影響は無に等しい。こんな遠い惑星の位置が人間の一生に関係しているというのはあまりにも無茶な仮説である。もしこうした惑星の影響があるのならば、無数の小惑星や彗星の影響も無視できないだろうが実際は無視している。
占星術は統計だという主張もあるらしいが、そんな統計調査をいつ誰がしたのだろうか。余程綿密な追跡調査と適切なサンプリングが行われなければ無理である。そして少なくとも数万例という膨大なデータがなければ極めて多様な人生を歩む人間に対応できない。しかし誰がいつどのような調査を行ったのかは全く知られていないばかりか、そのような調査を行った形跡さえどこにもない。これに対して占星術の起源が極めて古いことを主張する者もあるだろう。しかし、これは非常に大切なことだが、つい最近になるまで、つまりケプラーの法則が発見されるまでは惑星の運動を正確に予測することは途方もなく難解な数学が必要だったということである。つまり、惑星がいつどの位置に存在するかさえ正確に予言できない時代に占星術が成立しているのである。言い換えれば、極めて稚拙で大雑把な天体観測の上に成り立っているのが占星術という怪しげな迷信だと結論せざるを得ない。
他にも色々な占いがあるが、タロット占いに至っては議論する価値もない。ほとんどの場合は単に確率によって支配されているカードの羅列であって、その解釈にその人間の心理が都合よく反映されているというだけである。手相占いも意味がない。手相はその人間の手の骨格と肉付き、加齢に伴うしわの増加、握る物体の質と頻度などによって支配されているだけで、人生が手相を決めることはあっても手相が人生を決めることはない。例えば非常に重い荷物を運ぶ人とデスクワークしかしない人とでは必然的に手のしわは異なってくるだろう。肉体労働者のしわがあるから肉体労働に従事するようになったのではなく、因果関係は逆である。
当たるも八卦、当たらぬも八卦という言葉が如実に示しているように、占いとは全く無価値であり、人生に何一つ有益なものをもたらさない。科学の理論が当たるも八卦、当たらぬも八卦ならば誰も信用しない。完成した科学の理論が予言するものはほぼ100パーセント当たる。化学ならば初期物質と反応条件を制御すればほぼ完璧に予測どおりに反応は進行する。しかし占いの的中率は恐ろしく低い。どんなによく当たると言われている占いでも必ず外れる場合がある。的中率80パーセントなら占いならすごい的中率なのだろうが、科学ならばその理論は排除もしくは修正されるのは言うまでもない。テレビに出てくる細木なんたらの占いに至っては当たることの方が少ない。それでも外れると言い訳をし、それを受け入れる人間がいるのには驚かされる。

2006年1月24日 世界に理想は不必要
社会に理想は必要なのだろうか。私は必要がないと思う。なぜならば、理想の追求が成功したことは一度もないからだ。過去の歴史は我々が理想などを抱くことの無価値を明確に示している。そしてこの人間社会にとって理想というものがどのような形にせよ、それは虚構であることを教えている。理想は次代の幻滅に過ぎず、かえって人間社会に暗雲をもたらす物だ。だから私は人間社会に理想を抱くことは、まったく無価値であるどころか害悪であると考える。社会理性は実現不可能なものであると私は断言する。もしも私が理想の実現のために、かつてのように魂を燃やし、巨大な力を得たとしたら、おそらく人類史上最悪の虐殺、粛清が行われてしまうだろう。理想とは極端に大きな犠牲を強いる。その理想が崇高であればあるほど、その理想に漏れる人々に多くの死を要求するだろう。たとえ私がこの世から一切の悪を除去し、善を興隆したとしても、すぐにまた悪は蔓延るのだ。ゴキブリを完全に駆除することが難しいように悪の駆逐は難しい。私がこの世に完全な善を確立したとしても、人はすぐに堕落するのだ。だから私はこの私にのみ理想の完成と完全なる善の達成を誓う。敗れ去る理想には意味がないが、決して敗れない理想のためならば命を懸けるべきだ。しかし私が勝利したとしても誰ひとりとして私と同じ勝利には至らない。私の霊性は他者の霊性に何のかかわりもないからだ。私は身勝手に私だけを汚濁の中から掬い取る。そして誰一人として私の影を踏むことはできなくなる。そして私は私を完全に捨て去り、私は存在を超える。哲学は究められて跡形もないだろう。
この時になってはじめて私は社会と人間を語る資格を得る。今の私の考えは稚拙で未完成である。今私が思う正義は正義ではなく、私の思う悪は悪ではない。しかし私はいずれ完成の中に善と悪の破滅を見るだろう。その時理想は滅し、私は全体と部分の不可分を見てその無の中に没入することだろう。

2006年1月18日 何が正しいのか
数学には正しい答えがある。正しい式の変形があり、論理は完成されているはずだ。しかし、0という数字が登場すると途端におかしくなる。0!=1というのは変な話だし、e^0=1も不思議といえば不思議だ。0が登場する度に数学は修正を強いられる。一体0とは何なのだろう。0の性質こそが論理の深奥なのだという確信はあっても、0の持つ意味がわからない。0は単なる極限ではなく、実在する0なのか。それとも0は実在しない極限なのか。0だけは単純な四則演算さえ受け付けない。0はそれ自体から如何なる数も生み出さないように見える。しかし0!は1である。階乗をガンマ函数として一般化してしまうと0!もΓ(1)になって面白味が半減してしまうが。それはともかく0とは数の発生によって産み落とされた反数のようなものに思えてならない。難解すぎて考えがまとまらないのだが。

2006年1月6日 論議の無価値
哲学的論議は全く無価値である。スッタニパータの中でも特に印象的な記述は議論の超越である。仏法には形がない。教義がない。仏教は無限で形態なく、自在であり、柔軟だ。仏の教えの究極は言語の超越であり、これが解らない限り仏典の一行一句に右往左往することになる。釈尊の真意を量りかねて無駄な議論を繰り返し、知性で経典を引っ掻き回す。これではまったくの盲人だ。釈尊の真意は存在しない。存在を超えているからだ。議論は無意味であり、無価値である。議論を超えた次元に仏の真意はあり、超えているが故に存在の所在がない。雲のように自由自在であり、儀式も教義も戒律もヴェーダもアートマンも何かも「ない」。ただ本質的な体験だけが存在していて、しかしこの体験すら実体的ではなく、何にもかもが縁起の中に集約された空である。高慢な心が私を形成し、正しさという根拠のない空論を信じて論争し、勝った時には欣喜雀躍する。人間に付随するありとあらゆる根源的悪徳に勾かされて無意味な論議に時間と労力を浪費しているのだ。ではどのようにして論議の誘惑から逃れればよいのだろうか。法とはまさに「暖簾に腕押し」のようなもので意気込んで求めれば掴めず、かと言って求めなければ決して得られない。臨済禅師に至っては「坐禅なんかするな」と言い出す始末だがまさにその通り。坐禅をしても読経をしても寺を寄進しても議論を越えた場所になんか行けません。どんな努力をしても、何をやっても行けません。当然です。高い煙突のてっぺんに置き去りにされ、梯子も何もない状態でその場に留まることなく、かと言って飛び降りることもなく自分を救えなければ無理ということだ。

2006年1月4日 困難さ
生存の鎖を断ち切ることは困難だ。私が全てを捨てることが困難なように、魂の鎖を断ち切ることは困難なのだ。どうやって私が在俗の世界にとどまりつつも分別なき世界に赴くのだろう。私はここに絶望を覚えかねない。幾度も絶望し、幾度も立ち上がり、修正し、補填し、我が魂よ救われよと叫び、また冷静に思惟し、瞑想し、また絶望する。この世界は偽りの世界。私が作り上げたこの虚構の世界から私は離れたい。私よ、どうして君は私を作ってしまうのだ。どうして世界を作ってしまうのだ。私は捕らわれ、執着し、迷妄を完全に断つことができないでいる。私は音を聞いてしまう。私は音を聞きたくないのに聞いてしまう。私は見てしまう。見たくないのに見てしまう。私は味わいたくないのに、嗅ぎたくないのに、触りたくないのに、私は感覚に従う亡霊にすぎない。心地よい体験も不快な体験も全て私を縛る煩悩と執着の鎖である。感覚によって私は私を作り、誤った認識に陥り、愚劣な感覚に耽溺し、苦悩する。私は不快感も快感も憎む。全ての感覚は私を捕縛し、我が魂を智慧から遠ざける魔の所業だ。では私はどうやって孤独と智慧を確立すればよいのだろうか。私はここを離れたい。全てを離れて完全な静穏を得たい。雷鳴も轟音も響かない無欠の寂静に至りたい。煩わしいものの全てを脱ぎ捨てて清らかにありたい。分別を超えて生きたい。善も悪もなく、優劣もなく、平等もなく、何一つとして比較しえない、比較の存在しない完全な精神を聳え立たせたい。私より大きいものも小さいものもなく、等しいものもなく、私より優れた者も劣った者も等しい者もいない世界。そこで私は初めて人生を完成させる。そのために私は最も強い決意をもって生活を修行とし、正しい瞑想と思惟によって絶望と苦悩と傲慢の根を断ち切って執着を滅ぼし尽くそう。





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