2005年の日記
平穏と智へ
2005年12月14日 徹底した無価値 2005年12月13日 決定されし人生 2005年12月9日 迷信の構造 2005年12月5日 言語 2005年11月28日 無上等正覚 2005年11月28日 地震の夢 2005年11月25日 発菩提心空拳章 2005年11月24日 赦し 2005年11月22日 胸 2005年11月21日 青年よ、貯金せよ 2005年11月18日 贖い 2005年11月17日 解禁日(悲劇と愛と) 2005年11月15日 魂の個体性 2005年10月26日 怠慢なる人間 2005年9月22日 数とは何か 2005年9月2日 行動 2005年9月1日 本質的問題の非本質性 2005年8月22日 悪魔の本質 2005年8月22日 権利と戦闘 2005年8月22日 政治 2005年8月17日 戦いの哲学2 2005年8月15日 戦いの哲学 2005年8月9日 軍事力のみが正義 2005年8月2日 恋愛 2005年8月1日 無価値なる理想 2005年7月29日 汗 2005年7月25日 悲嘆 2005年7月21日 貧者 2005年7月19日 税金 2005年7月18日 嫌いな言葉、好きな言葉 2005年7月13日 ドケティズム 2005年7月6日 凋落する日本 2005年7月1日 やる気 2005年7月1日 ジェンダーフリーという狂気 2005年6月30日 周期鬱の意味 2005年6月29日 語る力
人はなぜ既に決められている人生を決められているとは知らずに、のうのうと生き延びているのか。努力で人生は変えられない。なぜならば、努力する才能がなければ努力できないからである。努力できる人は才能のある人であり、最初から努力することが決められている。だから努力して人生が変わるのではなく、努力できるかどうかが決められているのだ。このように、我々には何一つ自分の人生を変える力を有していない。我々は運命という濁流に押し流される一枚の葉に過ぎず、流れを逆流することも進路を変更することもできないのだ。ただただ押し流され、翻弄され、流れに呑み込まれて一直線に死へと向かう。だから、我々はこの流れに逆らうことを止めなければならない。逆らえばそれは濁流だろうが、逆らわずに身を任せていれば、それはせせらぎとなり、いずれは運命は消滅する。全てを任せきるとはどういうことかと言えば、自分はこうなりたいとか、こうしたいとか、あれが欲しいとか、自分はこうあるべきだとか、そういう馬鹿馬鹿しい我欲を離れるということだ。別に有名にならなくても、偉大な業績を残せなくとも、いい大学に入れなくても、美人と結婚できなくとも、お金持ちになれなくても、いいじゃないかと思わなければならない。少年は大志など抱かなくて良い。大志とは野望であり、我欲の最たるものだ。大志などなくとも偉くなる奴は偉くなる。最初から決まっているのだ。何もかも決められているのにわざわざ叶えられない夢を抱くなど、愚の骨頂ではないか。自分を痛めつける暇があるなら自分の運命を滅ぼし去る方法を見出すべきだ。まあ、それさえも決められてはいるのだが。人生とは徹底的に無価値である。
私は「人生は全て既に決定されている」と考える決定論者である。この決定が何者によって為されるかはどうでもよい。神でも仏でも別に何でも良い。とにかく人の一生は生まれる前から決められている。誰も抗えない。私がここにいるのは必然であり、偶然ではない。この世に偶然はなく、必然のみである。選択肢は常に一つしかない。しかし我々の常識的知では必然は必然として映らない。我々はこの世界が確率によって支配されていると思っている。サイコロの目を完全に予測することさえできない。しかし、出る目は必ず一つなのである。そのひとつの目が出る確率は1である。確率は1/6ではない。なぜならば、それぞれの目が同時に1/6ずつ現れることはないのだから。しかし我々にはそれが必然とは思えない。結果は必ず1つであって2つの結果が同時に現れることはないのに。偶然とは単なる予想不可能性の謂いであって、常に結果は一義的である以上それは必然なのである
だが、それにしても、人は自分の未来や人生の予測に興味を抱く。そしてある者は占いに走るということだろう。占星術は統計学だという人がいる。いつどこでそんな統計調査をやったのかは甚だ疑問だが、もしその言い分が正しいとするならば、占いを信じる人も統計という科学は信用できると思っているのだろうか。ならばもっと綿密に調査した統計に基づいた科学的占いを私はいくつか知っている。この占いは確かな調査に基づいたものであり、ある児童がいたとして、その児童の将来をかなりの確率で予言できる。その占いとは、IQ占いとでもいうべきものだ。IQとその人間の社会的成功度には明らかな相関があることがアメリカの調査で報告されているのだ。たとえば、その子が女の子でIQが75以下の場合、望まない妊娠をして子供を産む確率は32パーセントである。社会保険を受けないと自立できなくなる確率は31パーセント、高校を中退する確率は55パーセントとなる。IQ125以上ならば貧困に陥る可能性は2パーセントに過ぎないが、IQ75以下だと30パーセントの人が貧困の中での生活を送ることになる。これってものすごい確率差じゃないだろうか。そして、こんな残酷で明確な「占い」を多くの人は望まないだろう。なぜならば、あなたは貧困になる可能性が高いと言われても、IQをあげられない以上貧困からの回避方法がないのだから。水子の祟りだからお布施すれば払ってやるとか言われた方が救いがある。
要するに何がいいたいのかと言えば、確実に当たる占いなんて人は決して望んでいない。外れる占いだからいいわけで、外れてもいいから占いはいつまで経ってもインチキで無根拠なのだ。将来遺伝子占いなんてものが登場しても、誰一人それを望まないだろう。癌の告知なんて誰もされたくないのは言うまでもないのだから。
人々の迷信深さは中世と現代では変わっていない。あいも変わらず根拠のない占いだのが横行し、それに人々は縋っている。誤解、先入観、決め付け、そうした数々の認識の間違いが大衆に迷信を植え付ける。自分が見たこともない霊の存在を信じ、自分で見たことがないから霊を誤解し、先祖が祟っているなどと脅かされて金を払う。何の根拠もない占星術を常に気にする女性も多く、そのため馬鹿馬鹿しい占いの本がベストセラーになったりする。テレビではさもそうした占いが根拠のあるもののように放映して国民を馬鹿にしている。そして伝家の宝刀とばかりに「科学は万能ではない」などと得意げに言う非科学的な人たち。アメリカでは今だに進化論を信じない人が多いという。なぜこうした無知で迷信深い人間がいなくならないのだろうか。教育のレベルは中世から全く変わっていないのだろうか。明らかに我々人類は近代において膨大な知識を獲得し、科学という自然界の認識手段を確立して真偽を見極める「ある程度精度の高い」方法を獲得した。にもかかわらず、なぜ荒唐無稽な嘘に人は騙されるのだろうか。ここには明確な構造がある。
迷信は常に無根拠に断定的で、断定的であるがゆえに人は騙される。人は「あった方がいい」と思うものを「ある」と思いたがっている。だからある人が「ある」と断定すれば「ある」と信じるようになる。それを本人は見たことも聞いたこともないのに「ある」と信じる理由は「あってほしい」という本人の願望なのである。だから曖昧な存在はなく、常に「ある」か「ない」かである。しかし、実はこの世界はそうはなっていない。極めて厳密な証明を必要とする科学の世界では100%断定できることは数学を除いて稀で、大抵は「〜の可能性が高い」という表現をする。あらゆる存在は究極的には不確定性原理の壁を越えて確定することができない以上、人間の知にはおのずと限界があることを科学自身が知っているのである。だからこそ、できうる限りのイドラを廃して客観的観測から可能性を突き詰めるのが科学なのである。
迷信が今もって生存できる理由は、科学が人間の最大の関心事である自分の人生の問題についてほとんど答えられないからである。それはそうだ。私かどんな人生を送るかを科学は決して正確には予測できない。そこで登場するのが占星術である。しかし、元来の占星術(というより天文学)は暦である。農耕民族にとって暦は極めて重要で、正確な暦を作成するために高度な数学が誕生した。算聖、関孝和の数学も暦を作るためのものだった。太陽、月、そして6つの惑星が地球から見た場合にどのような運動をするのかを正確に予測することは恐ろしく高度な数学が必要なため、文明未開の中世ヨーロッパでは結局ユリウス暦からグレゴリウス暦への改暦するのに1600年もかかっている。その間に暦がずれにずれまくったおかげで1582年10月4日の翌日は10月15日となってしまった。対して中国の暦は非常に優れたものであり、暦の作成は権力と権威の象徴だった。占星術は暦を作成するための高度な技術の集積であり、権力者は天文観測から天変の予測と解釈を行い政治的に利用していたのだろう。占星術は天体の動きと地上での出来事の関連性を追求するために発展したと言える。天体が人間の運命と関わっているという発想はかなり普遍的にあったのではないかと思われる。それは、天体の領域が神の領域であり、天体現象というサインは神のサインと同義であったからではないだろうか。
しかし、我々は天文学の発展によって天体の領域が神の領域などではなく、宇宙は空間的にどこもほぼ均質であることを知っているし、一見同じように見える星たちも、実は地球からの距離がまったく異なることも知っているし、突然出現する超新星の正体を知っているし、彗星や流星の正体を知っているし、惑星の運動も一般相対性理論でほぼ完全に支配されていることを知っているし、太陽系には惑星だけでなく無数の小惑星が火星と木星の間に存在することを知っているし、最近では冥王星以遠にも無数の小天体があり、冥王星に匹敵する、もしくはもっと大きな惑星が存在することさえも知りつつあるし、太陽系が銀河系の中の取るに足らない平均的な恒星であることを知っているし、宇宙には無数の銀河があることも知っている。そして、天体の配置が人間の運命に関係していると積極的に肯定できる材料を私たちは天文学から何一つ得られない。もしも天体によって人間の運命が決められているのなら、それはほとんど太陽の影響によって決まることになる。太陽系の99パーセント以上の質量は太陽にあり、地球に対する物理的影響の大部分が太陽だからだ。そしてもうひとつは月である。最も近い惑星である金星の影響力など、太陽と月の影響から比べれば皆無に等しい。まして火星、水星、木星、土星などから何の影響があろうか。もしそれらの影響が考慮されるのならば、小惑星の影響、彗星の影響、他の恒星の影響、他の銀河の影響など、無限の影響力があることになって収拾が付かない。つまり、占星術など馬鹿馬鹿しい迷信なのである。天文学の正確な知識がない時代においてさえも、聖アウグスティヌスははっきりと占星術を否定しているし、釈尊もジャータカの中でやんわりと否定している。占星術という迷信からいい加減に開放されなければ人間は真に知的とはいえないだろう。
なぜ人は言語を獲得しなければならなかったのか。言語さえなければ我々は重荷を背負うこともなかった。言語なしに人類、ホモ・サピエンスは生存できなかったのだろうか。言語がなければ人類は生存競争に破れ、滅び去っていたのだろうか。
もしも私が釈尊と同じ悟りに至らないのであれば、私は何のために生まれてきたのか。中途半端な悟りに甘んじて再び生存の地獄を経巡って生きよというのか。釈尊だけが完全な悟りを得たなどと主張せし邪宗よ、滅び去るがよい。仏の本願を踏みにじる外道には救いなどない。そして道よ、消えうせよ。仏よ。消えうせよ。四諦よ、六波羅蜜よ、十二因縁よ、般若波羅蜜多よ、涅槃よ、全て消えうせよ。私は無上等正覚に至って無上等正覚を滅ぼす。全てを滅ぼしつくす。仏も祖師も菩薩も明王も天王も神将もまとめて滅ぼす。私は仏を滅ぼすために仏を信じ、供養する。神仏よ、私を護りたまえ。私にあなたたちの加護を。私が完全無欠に至るまでこの命を支えたまえ。そして全ての滅びに至る道へと私を導きたまえ。私はそのためには無数の死体の上さえも歩いていきます。
今朝、生まれて初めて地震の夢を見た。東南アジアのような見たこともない場所に私はいた。とても平坦で、舗装されていない広い土の道が交差する交差点に向けて歩いていた。私の脇には小学生くらいの女の子のような人がいて、私が交差点に差し掛かると突然地震が起こった。初めは地震と気付かなかったのだが、2秒ほど後に地震だとわかった。女の子がどういうわけか突然パニックを起こして狂ったように走り回り、わざわざ近くの家のある方向へ駆けていった。私は、「馬鹿者が、ここが一番安全な場所なのに、わざわざ自分から危険に向かって飛び込んでいくとは」と呆れ返った。私には地震に対する恐怖は全くなく、愚かな女児への苛立ちだけが私の心を支配していた。地震はしばらくして収まり、女の子も無事だった。
かくのごとき内容の夢であったが、何とも言えない暗示的な意味を感じた。所詮は夢であり、心の作り出した幻影なのかもしれないが、不思議と霊感を覚えるのである。私には動揺がなく、周囲の者がたじろいでも私は凛然と、冷静に状況をわきまえて最もよい場所を占める。最も安全な場所に私はおり、そこから動かない。私は不動であり、人生の交差点にあって革新的事態が起こるが、私は最もよい行動しかしない。周りが騒いでも私の精神は安立して、最も良い方向にしか事態は進展しないだろう。もしかすると、今私は交差点という人生の岐路にあり、地震という大変な事態に遭遇しているが、むやみに進むことを戒められているのであろう。道が舗装されていない土の道であることは、私の人生が決して平坦で進みやすいものではないことを示しているのだろうか。
ふと夢とは何かと考える。私は不思議と知らない人や知らない場所を夢に見る機会が多い。これは、夢が単に私の記憶を思い出して構築されたものではないことを示している。夢が創造的なのか、想像的なのかは不明だし、私の意識せざる何らかの記憶を引き出しているだけの可能性も否定できない。しかし、夢と言えども私の何らかの無意識的作用によって構成されていることはおそらく確かであり、夢が私の脳内経験であると結論づけることは至極まっとうな結論であろう。ここで形成されている経験は超知覚的経験であり、私は実際には感覚受容器を通しての情報を一切受け取っていないのにも関わらず、夢の中では何かを見、聞き、経験するのである。そう、この体験は構造的にまさしく神との遭遇という宗教体験とほとんど同じなのだ。知覚を越えた認識はとても深い無意識の世界に繋がっている。それを人は神と名づけ、阿弥陀如来と名づけ、それを超知覚的に経験する。この感覚をこそ霊感と言うのだ。だから夢というのは確かに霊感的で、通常五感によって眩まされている真実を見届けるのかもしれない。
若人三世一切の 仏を了知んと欲しなば 法界性を観ず応し 一切唯心造なりと 普く衆生を観ずるに 各各仏性具しぬれば 一念不生に至る時 忽ち仏性現前し 男女上下の隔なく 其儘即ち仏なり・・・
禅宗日課聖典において白隠禅師坐禅和賛の前に掲載されている「発菩提心空拳章」の文章は、何度読んでも実に素晴らしい。坐禅和賛と並ぶ珠玉の名文と言えよう。しかし、ここで示された境地を得るまでには大変な修行が必要となる。「法界性を観ず応し 一切唯心造なりと」とは完成された認識である。
映画「Matrix」では人類はMatrixなるヴァーチャル・リアリティーの世界に生きているが、実は我々の信じている現実というものも同じような構造をしている。荘子の「胡蝶の夢」のように、現実とは実に希薄な現実性しか持っていない。我々は感覚器官から受け取られ、神経を伝達して脳に受け取られる電気的信号から環境を感知し、感知された情報を分析して概念化し、それらの概念を論理的に構築して再統合し、世界を構築し、この構造を通して自我を定立させる。このような一連の認知、認識作用によって、本来実体を持たない情報は自己の精神によって「世界」として現実化する。この有様をまざまざと捉え、一連の心的作用の秘密を暴くのならば、一切唯心造、すなわち一切のことがらは心によって作られた仮構であることを「知る」のである。ここで使った「知る」は始原的な感知であり、認識ではない。頭を殴られた瞬間とか、熱い鍋にふれた瞬間とかに感じる感知である。世界はなく、唯感知のみがある。しかし、この感知に実体はない。実体とは現実感のある状態であり、認識がないのなら実体はなく、実体がない故に全ては「空」なのである。つまり、現実はない。全ては心を基とし、心によって作り出される。例えば私が今苦しんでいるならば、その苦しみは私の心が作り上げたものである。私に「失いたくないもの」があるのならば、それは取り上げられなければならない。もしもそれが取り上げられなければ、私はずっと「失いたくない」という感情に縛られてしまう。失いたくないという心があれば、失われたときに激しい嘆きを生ずるだろう。私の嘆きの原因は失われたことではなくて、「失いたくない」という心にこそ原因があるのである。全ては滅び、失われるものなのに、私はその失われるべきものに固執するが故に激しい苦しみを受ける。これを愚と言う。「無常」は真理であり、永続するものは決してない。熱力学的にも明らかなその原理に人は逆らい、心に拘りを生み、自分を縛り、当然の報いとして苦しみを受ける。私の所有物はゲームの中のアイテムのようなもの。現実の存在ではない。全ては空であり、存在の所在がない。何もかも私の心が作り出したものに過ぎない。この宇宙は私というたった一人の人間の心によって作り出された幻に過ぎず、存在論も形而上学も何もかも心の作り上げた幻影で、心の作り上げたものに私は縋って生きてきたのだ。では心は存在するのか。存在しない。慧可の故事が示すように。「可 良久して云く、心を覓むるに了に不可得なり。磨云く、我汝がために心を安んじ了れりと」まさしく全ては空なり。
人は赦しあうべきだ。私は全てを赦すべきだ。私が求めるべきものなどこの世には何もないことを知っているから、私はどんな愚も赦せるようになろう。この世という私の作り上げた虚構の世界。全ては空に帰すもの、実体はない。私の先入観を破壊して私は行く。羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦。私は行くと決意しているから、私は赦し、行く。私だけが行く。誰も私に追いつけない。私は行く。ただ一人で、そこへ行く。そこには私もなく、個体もなく、他者もなく、物体も精神もなく、認知もなく、認識もなく、感覚も、感情も、意識も、意識の作用も、現象もない。全ては収束し、縮退し、部分も全体もなく、整合も矛盾も数式もない。世界はなく、構造もない。善も悪もなく、聖も俗もなく、人間も人間存在も実存も生存もなく、全ての顛倒は完全に打ち壊されて跡形もなく、それでいて真理も悟りも真如も智恵も慈悲もない。完全無欠の無上等正覚に達してあらゆる作用は止滅し、究極にして無上の寂静に至って私は言語を絶する世界へと行く。如何なる言葉でも表すことのできない最高最勝の境地に至って全てを成し遂げる。私が生まれてきた目的を果たすために、私は菩提心を燃え上がらせて迷妄を焼き払う。私は今こそ全てを赦し、そして絶妙なる完全智を得よう。私はようやく気付いた。私が何を求め続けてきたのか。私が欲しいものは「完全無欠」だけなのだ。それ以外何一つ価値はない。私は不完全なるものを全て切り捨てる。そんなものは私には必要がない。私には経典さえも必要がない。そんなものは紙屑に過ぎない。
胸・・・心の臓の在り処。どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。体全体がおかしい。呼吸がなんだか苦しい。原因が分からない。肋骨が内側へ折りたたまれているよう。まるで深海に潜ったように、見えない圧力が体を締め付ける。手は常に汗ばみ、酷く意識が遠いような気がする。何だろうこの感覚は。無意識が叫んでいるよう。無意識が泣いているよう。私は悲しんでいないのに、体が悲鳴を上げているのか。魂が、この愛すべき肉体が、生存が、私の意識と無関係に激しく慟哭しているのか。静まれ我が無意識よ。お願いだから悲しむな。私を支える愛すべき血よ、肉よ、魂よ、慰められよ。
と、大騒ぎしてみたけど、ま、単なる運動不足みたいな気がする(笑)
私は自分の給料が高いのか安いのかさっぱりわからない。そもそも私は自分と同世代の人の平均的賃金も知らないし、興味もない。日本人の平均収入を知らないし、どうでもいいと思っている。私に支払われているお金という形での報酬に私はただ感謝するだけであり、その多少にはそれこそ「多少」は興味があるが、あまり本質的ではないと思うようにしている。しかし、一応社会人になったのだから少しは社会のこともわからないと単なる専門馬鹿になりかねんので少し勉強することにした。
まずは貯蓄額を調べることにする。日本の勤労者世帯の貯蓄額の分布の統計を見ると、全く正規分布になっていないのがよくわかる(最近言われる二極化というのはまったくの嘘だということも分かるけど)。平均貯蓄1460万と言っても、この数字に統計的意味は全くない。人とは不思議なもので、成績だろうと何だろうと自分が平均以下だと焦り、平均以上だと安心するものだが、この1460万という数字を見てがっかりする人が大半なのだ。分布は大きく正に歪んだ分布になっており、中央値は850万円ということになるが、最頻値は400万円くらいだろう。30代の人の分布でも最頻値は100〜200万円ということになりそうだ。で、こっから分かることは、全く貯金をしてこなかった私は多分同年代の人の平均貯蓄額かそれ以下の貯金しかないという明確な事実である。社会人一年目なので仕方ないだろうが、ちゃんと貯金すべきであることをデータから自覚したわけだ。ちなみに私の父親の推定貯蓄額は分布の極大近くにあるという事実も判明した。金持ちだと思ったことはあんましなかったけど、データから見るとすごいですね親父。お願いだからSLR-マクラーレンを買わないでくださいと言いたい。私はまず平均貯蓄額を目指して5年間貯金の鬼になります。
割れたワイングラスと同じグラスが見つからない。行きつけのワイン屋では親切にも別のワイングラスをただで差し上げますと言われたが、ペアにならなければ意味がないので断った。楽天で買うことにしようと思う。
どうしてここまでグラスに拘るのかと言えば、ワイングラスがとても重要な概念をシンボライズしているからだ。そして、私が常に完全を求めているからでもあろう。
葡萄酒はキリストの血であり、「私の肉を食べ、私の血を飲む人は永遠の命を得」るのであるから、葡萄酒を飲む行為はそのまま命の獲得である。そして、その行為はキリストとの契約(その内容は愛)であり、つまり愛の受容である。グラスは聖杯の意味であり、またワインを注ぐ行為は生殖の象徴でもあり、いずれにせよ命に繋がるという意味がある。私を死線より救い出したものは愛であり、今その愛はワイングラスという象徴を通して破壊されている。だから私はそれを「買い戻さ」なければならない。「買い戻す」とは「贖う」という意味である。「贖い」とは、もともと土地や奴隷を代価を払って買い戻すことであり、新約聖書ではキリストが磔刑の死によって人類を罪からを買い戻す救いの業である。だから、ワイングラスを「買い戻す」ということは命そのものを買い戻すことの象徴であり、私が死から生へ繋がるために、私が私自身を贖うということなのである。
私はこの象徴的行為(儀式とも言える)を迷信的で魔術的だとは思わない。なぜならば、これは言い伝えでも何でもなく、私自身が私の行為の中に象徴的意味を見出し、それを通して私が死の認識から解放されるからである。私は生きるために「生を買い戻す」象徴的儀式を執行し、それが「成し遂げられた」ならば、私の愛と生は贖われ、それは「復活」する。この儀礼はキリストの救いのアナロジーとして機能している。
恥は、知られず、悲嘆は、孤独の家。悲しいと思うから、ここに、何も私は思わずに、駆け出して、過ぎ去って、数多の、恋のかけらたちに、締め付けられ、私は、好きという感情に、私は、私は、涙など、もう、過去の中に溶け、去って、切ない毎日の、この連続が、惨いと、酷いと、誰かに、叫んで。天に瞬く星々さえ、消え行く、はかない、蝋燭の灯火で、ここにある、一つの命も、誰とも絡み合わずに、静かに、揺らめいている、小さな燈。光と影、どこへも行けない、行けないよと、泣き叫ぶ、愛の児。嗚呼、ここで聞いた、あの、かよわく、強く、美しい言葉たちに、明けることなき、月夜に、光よ、希望よ、美しくない、僕だけ、なのか。下僕に、地下の牢獄の、囚人の、赤い、紅い、刻印は消せない。僕たちは、君たちは、赦し、赦しあい、殺し、殺し合い、慰めあい、不毛な人生に、薔薇を。血の器、買い戻す、命を、メシアの血と、その器を。透き通る、赤に、愛と、命のウテナ。帰って、帰ってきておくれ、伝えたい。悲劇と愛は、この手の中に、永久の結晶が、作り出す、この、美しい幻影に、、、アーメン。見えない夢よ、感じられない霊よ、知りえない心よ、聞こえない誓いよ、永遠なれ、悲劇と愛と、共に、アーメン。
悲劇と愛に散り行く魂の耀き。燃える、燃える、燃え尽きる。真実に。
さて。血を入れる器を買い戻しに行こう。メシアの血。命へと繋がっている。それを飲まずには私は命に至らない。だから買い戻そう。命を得るために、血を飲むために、血の器を取り戻そう。
私が一人の私であるのは時間的に永遠だろうか。永遠の過去から現在まで私は、私の魂は、個体性を保っているのだろうか。私の魂は、それが永遠の過去から永続的に「存在」しているとして、他の魂と混ざったり、分かれたりしたのだろうか。私の両親の魂の混濁こそが私なのだろうか。私は私の個体性を現時点でさえも疑ってはいまいか。私はこのような疑問を抱いては、私の存在のベクトルを探索する。私が得ようとしている永遠で完全なる智は、私の個体的精神の限界を超えているはずである。しかし、私は私が生まれ、生きているという限界によって宇宙の本質は私から秘匿されている。それが隠されているという事態が、私の生きている理由に繋がっている。もしも私が個体性を失っているのならば、私はこの世で何も学ぶ必要がない。私は全知で、全てを理解し、全てが顕だろう。それなのに私がこの永続的な個体性にしがみついているのは、少々奇妙だ。なぜ私が発生する必要があり、なぜ世界が構造化される必要があったのか。それは単に私が「知る」ためである、という理屈でしか説明できないのだ。この理屈のなんと拙いことか。私がこのような認識を得たとしても、依然として宇宙は秘匿の中にあり、私は魂の個体性の神秘を解き明かせない。私を導く存在を神と呼ぶならば、どのような高い認識を得たとしても、この現実の世界の真相を知ることはあっても、神の真意は不明なのだ。私が何をすべきで何を獲得すべきかはこれほどに明瞭であるにもかかわらず、私の個体性と、宇宙の意図は読み解けない。言い方を変えれば、私が救われる方法は分かっていても、なぜ救われなければならないのかが不明なのだ。私が幸福になる方法を知ったとしても、なぜ私が幸福にならなければならないのかは理解できない。たとえ神が私を導いているとしても、なぜ私を導いているのかは私には分からない。これが人の智の真の限界かもしれない。完全なる悟りがこのような虚妄な論議に止めを刺すことは知っているし、この論議に価値があるとも思えない。なぜならば、私が何らかの結論を得たとしても、その結論に私が満足できるかどうかだけが問題であるからだ。完全な理論であっても高度な数学を用いる物理学は私には理解できないので満足できないようなものだ。私はただ、この現在における私(現在存在とでも言うべきもの)のみが主題として機能するのであり、それ以外のことを考えることに本質的な意味はない。もし私が私の個体性を真剣に議論し、自分自身を納得させようとするならば、必ず自家撞着なり矛盾に陥って脱出不能になるだろう。私は宇宙の意図を無視する必要はないが、私が学ばなければならない目先の問題にこそ真理を見出すべきである。それであっても私がこの宇宙の意思を掴み取ろうとしてしまうということは、私の業と言えるだろう。
基本的に人間は切羽詰らないと何もしない。何もしなくても毎日自動的に食事がでてくるのなら誰が料理をするだろうか。毎日豊富な食料が冷蔵庫に自動的に蓄えられるのならば誰がスーパーに毎日買い物に行くだろうか。そんなことは誰もしない。哲学も同じだ。考える必要がないのにどうしてわざわざ必死に考えるだろうか。考えるはずがない。だから基本的に人間というのは何もしたくないのだ。何もしたくはないが、仕方なく何かしているのである。仕方なく遊び、仕方なく仕事し、仕方なく寝、仕方なく起き、仕方なく息をし、仕方なく歩き、仕方なく文章を書く。そもそも仕方なく生まれてきて、仕方なく死ぬのだ。本来人間は怠け者で、できることなら生まれてきたくもなかった。でも生まれる必要があったので、嫌々ながら生き、嫌々なので仕方なく人生を楽しく過ごそうとし、遊びや仕事に刹那的充実感を感じ、うまく自己暗示にかけて自分の嫌々な生をうまいこと騙しながら、それでいて最小限の労力で生きているのだ。
数とは何か。これは大変な難題だ。私が一応科学者と名乗れる立場であるならば、私にとっての科学を確立すると同時に、科学の根源について私は探究したくなる。科学の根幹の半分は数の性質に依っている。数式によって宇宙が記述できるという信仰にはそれなりの根拠があるし、これまで多くの現象を数学は予言してくれた。しかし、誰一人として数が何かを知らない。数が何かがわからなければ数学は解らないし、なぜ数式によって多くの現象が記述できるのかも判然としない。
私は数学という論理が人間に内在している原理に従って発生していると信じている。数はそれ自体人工的なものであるが、人間の認識を発生させている原理が数をも生み出しているとも思っている。つまり、数を発生させている原理がひとつの究極的原理に繋がっているはずで、我々はその原理が数として現象している認識世界から数を再発見している。我々が理解している数は数そのもの(真の数)というよりも、数のようにみえるもの(数的実体)であり、数的実体は事物の諸性質として我々にとって認知可能である。数はとりもなおさず数えるという行為と密接に関係しており、事物が可算である場合は整数という数的実体を再発見する。しかし、私は全ての数的実体(すなわち整数、有理数、無理数など)は単一の「数」であると考えている。なぜならば、それらの全てが数としての単一の性質を有しているからである。数的実体とは我々が認識を構築する際に、認識対象に対しての統一的標識方法によって標識されたラベルのひとつである。我々は数えるという行為によって、測るという行為によって、数を知る。こうして得られた数を再び利用して我々は事物を比較し、計算し、予言する。数の諸性質は我々の認識構造の性質であるので、数学の論理は我々が人間をやめない限り保障されている。人間の認識はあまりにも複雑で精巧であるので、我々は数学を通して自分たちの認識構造から宇宙を再発見できる。なぜならば、我々が知る限り人間の脳は宇宙が必然的に作り出した究極の構造であり、その構造の中には宇宙の原理がそのまま表現されているからである。人間が宇宙に存在している以上人間の認識は宇宙の原理と無矛盾である。
ところが、数的実体が完全な概念として機能できない理由は人間自身が示している。もしも数的実体が最も優れて万能ならば我々はコンピュータのように数以外の概念を必要としないはずである。あらゆる現象を数値化することができないことを我々は知っているし、異論を挟む余地はない。数的実体の不完全性は数的実体も示しており、数値化が容易なものでさえ、例えば長さでさえ究極的に測定することは出来ないということである。測定に究極の精度というものは存在しえないからである。0で割るという単純な演算でさえできないし、無限を考えるとあらゆる数学は破綻してしまう。例えば全ての整数と全ての二乗数の数が同じになってしまう。このような数の奇怪な性質は、ある数的実体がひとつの「数値」を示しているからである。もしも1という数的実体が僅かでも分布を持つ統計的性質を有しているのならば、数直線上のある閉空間内に無限の実数を配置することには意味がなくなるし、操作主義的考え方に立てば測定精度未満の測定数値の差は差として認識されないのは当然だ。私の結論としては真の数はひとつの確率的な連続空間である。1にも2.45にルート2にも全く同一の操作主義的な確率的揺らぎが存在していて、この揺らいだ空間こそが数そのものなのである。数とは数的実体に付加される確率的性質であり、この性質によって数は生まれる。ある数値は我々が数えたり、計算したり、測定したりすることによって初めて可視化されるひとつの極限である。しかし、この数値が点としての性質を持ってしまうために数学はしばしば破綻する。
人間の行動は全て心理的作用に基づいている。心理的作用に基づかずに引き起こされる行動は極めて稀だ(例を挙げれば痙攣など)。人間の心理的作用は矛盾的作用である。私が哲学を創出する能力を喪失してしまったのならば私はわざわざその哲学を取り返すために自虐的な行動を取るだろう。人間は目的を達成するために行動するのではなく、目的を創出するように行動するからだ。この目的創出力は行動そのものを意味付けるために働いている。行動が行動そのものを定義つけるようにしか人間の心理は働かない。だから行動を伴わない心理作用は厳密には存在せず、ある心理的作用は必ず行動的であり、肉体的である。たとえ体を一寸も動かさなかったとしても、心理作用はそれ自体で行動的であろうとする。行動の目的が喪失してしまえば心は不安に陥って目的を求めて行動するように働く。人間の心理は完全に自己完結的で自己を拡張などしない。人間の行動も自己完結的で目的という虚構の中で閉鎖している。私は私が生きているという「事態」の中に目的を閉鎖させている。
本質は本質を孕んでいない。この提案は単純に言葉の問題というだけではなく、本質の本質的意味(不可解な日本語だが)の問題である。この問題の根幹は、本質的本質、極限的本質が存在できないことにある。私が度々議論している形而上学の問題では、オントロジーの根源をオントロジーそのものを破壊してしまう絶対的存在原理として「生存」なる概念を創出したのだが、この生存の本質は生存の持っている性質に投影されているだけであって、生存が非観察的で非存在的なのである。存在論の根幹が非存在的生存であるのだから万物の本質は本質という実体がなく、実体が無いが故に本質は現象できる。生存が本質そのものである、という表現は正しいが、万物の本質は、生存によって我が発生し同時的に世界が構造化されるという一聯の過程(非時間的連続であるのだが)によって「予想」されている抽象的存在だ。同様にあらゆる社会的問題においてもその本質は非実体的であり、我々はその本質の作用のみによって本質を「予想」するしかない。また、本質が(物理学的な意味ではなく)空間的時間的な拡がりを持っていないある「点」でなければそれが本質でない以上(本質が分解可能ならば本質ではなくなってしまう)、本質は本質そのものを孕まない。このように本質的問題が実体的問題でない以上、本質的問題は本質性を本質的には有していない。私はここで不可知論を唱えているのではなく、本質という概念が的確に本質的でない以上、超越的概念である「生存」の中に最も究極的本質の意味を押し込めざるをえないと主張しているのだ。私の言う生存は代替不能なる究極の概念であり、それは究極であっても神ではなく、智慧でもない。生存はまったく分解不能である。
映画エクソシストは、少女に取り憑いた悪魔と悪魔祓いを行う神父との激しい戦いを描いたものであるが、この映画を私が気に入っている理由は、この映画のテーマがキリスト教の本質的問題をテーマとしている点である。悪魔祓いの起源は言うまでもなく福音書に記されている、イエスが行った奇跡である。福音書の中でイエスは幾度となく悪霊を追い払っているが、その方法は神(それはまぎれもなくイエス自身でもあるが)の権威によって悪霊に出て行けと命ずるだけである。なぜ人は悪霊に取り憑かれ、イエスはそれを追い出すのであろうか。それは、山上の垂訓の論理をそのまま応用すれば、「悪霊に取り憑かれた者は幸いである、彼らに憑いた悪霊は追い出される」のであり、さらに「悪霊に取り憑かれた者は幸いである、彼らは自由と信仰を手に入れる」のである。悪霊(後世では悪魔)の存在意義は、彼らが祓われることにあるのであり、この役割は福音書の中で非常に重要な奇跡として取り扱われている。何故ならば、イエスが行った他の数々の奇跡と同様に、悪霊が祓われることによって神(イエス)の権威は明確に示され、その行為の目的は「あなたがたが信じるようになるため」なのである。つまり、悪霊(悪魔)は神の被造物として、神の権威と実在を人間に示すための役割を負っているのである。だから悪魔は決して神と敵対などしていない。神は彼らを滅ぼすこと(滅びの予言であってもよい)によって人類に神の実在を証しているのである。それは、イエス自身が十字架に掛かって一度「死ぬ」ことによって神の受肉を確証し、使徒の信仰を確立したのと全く同じ構造で、悪魔という生贄、犠牲によって我々人間が正しい道、信仰の道に立ち返ることが出来るのである。悪魔が強大で、立ち向かえないほどに恐ろしければ恐ろしいほどにイエス・キリストの威光は逆説的に証しされるのである。だから、人間と敵対する根源的悪として悪魔が機能しなければ、人間を愛する神の実在もまた人間にとっては曖昧模糊であり、決して人間は神に対する確固たる信仰に至らないのである。だから、強い信仰を持っていれば絶対的に悪魔に打ち勝つことが出来る。なぜならば、彼らはそのためにこそ存在しているからである。悪魔は完全なる信仰を持つ者(つまりイエス)には決して太刀打ちできない。彼らは弱い心、弱い信仰を試すためにこそ使命があるのだ。だから彼らは人に試練を与え、その試練に人は打ち勝って信仰を確立する。そして悪魔の敗北を見た人々は神の実在を確信できるようになる。神の計画からすれば悪魔以上の貧乏くじはないが、人間は彼らに同情する前に打ち勝たなければならないということだ。
私が有している権利は、私を守る権利だ。それ以外に権利と呼べる権利はない。私はたった一人でこの世に生を受け、たった一人で死んでいく。たった一人で自分を守らなくてはならない。私を守れるのは私だけであり、誰も守ってはくれない。誰かが私を守ってくれるような状況を作り出しているのも自分。私が人を守るために戦わなければ誰一人として私を守ってはくれないだろう。私が携えているもの、美しいあらゆる事象も悪意ある獣によって奪われる運命にある。私がそれに抗って戦わなければ私の命という最も完全な美も崩壊して跡形もなくなる。
昨日エクソシスト・ザ・ビギニングを見た。多くの暢気な連中はこの映画に出てくるような悪魔の実在を信じてはいまい。しかし、私は悪魔が実在することを知っている。奴らは人間の弱い心に寄生して憎悪と悪意の炎で人間を焼き尽くす。仏陀の降魔成道。キリストの荒野で受けた悪魔の試練。魔と戦わずしては誰も智慧には至れない。私が守る私、それは私自身を魔から守るということだ。私が私を守らなければ私の弱き心は智慧の高みからいとも簡単に突き落とされてしまう。現に多くの者が悪魔に肉体と精神を乗っ取られ、人としての心を失っているではないか。ある者は見ず知らずの人間を虐殺する。ある者はその殺人犯を死刑宣告から守るために殊更に人権を叫んでいる。悪魔は悪魔同士で助け合い、世界に憎悪と混沌をもたらすためにせっせと働く。狡猾な奴らは甘い言葉で人を騙し、誘惑し、真・善・美を滅ぼそうとしている。私はこのような悪と決別し、私を守り抜かなくてはならない。奴らの甘言を退け、弱き心を奮い起こして善を興隆させねばならない。私が敗北しても誰も私を助けてはくれないのだから。
政治の中に何一つ有意義なものを見出せないのはどうしてだろう。政治がなくては人間は困るのだろうが、政治という茶番に人間はいつまで付き合わされるのだろうか。人間は政治を脱却することはできないのだろうか。
何度も言うが生きることは生存という名の戦闘そのものである。私は生きるために片っ端から生き物を殺して食っている。人間は皆同じように他の生物を殺しまくっている。私らは大量殺戮の上に乗っかった生態系の帝王。殺戮は食うためだけではない。自らを守るために今現在においても片っ端から細菌やらウイルスから虫やらとにかく殺しまくっている。一瞬とてこの殺戮を止めてしまったら私はお陀仏だ。私の生存は継続的な戦闘、殺戮の上にしか存在できない。この戦闘と殺戮は善悪を超えて肯定される。自分自身に死ねと私が要求しないのだから、私が私に生きろと要求しているのだから、私の戦いは無欠の正義を具している。戦わざるもの生きるべからず。生きることを諦めた人生の敗北者は戦わずして朽ち果てるだろう。生態系とは捕食の連関であり、誰もそこからは逃れられない。逃れたいのならば死ぬしかない。しかしそのような敗者の哲学に何の益があろうか。
しかし、許されざる闘い、殺戮というものもある。それは捕食、自己防衛以外の無意味な殺戮である。突然目の前の人間が殴りかかってきたら私はそいつと戦うしかない。しかし、私が見ず知らずの他人にいきなり何の理由もなく襲い掛かったら、それは肯定されえないことは明らかだ。もしも突然人に襲い掛かるような気狂いが世界に一人もいないのならば、当然ながら他人から突然の攻撃を受ける心配もなく、防衛のための戦闘も起こりえない。なぜ気狂いじみた蛮行が起こるのかと言えば、その狂人にしてみればその蛮行も生きるための闘いだからである。よりよい生を求めて人を殴り、殺し、盗み、奪い、陵辱する。強大で捻じ曲がったエゴが気狂いを醸成する。もしも社会が健全に保たれることを社会自体が望むのならば、気狂いは社会の防衛のための戦闘の名の下に抹殺されなければならない。病原菌を私が体内で駆逐しているように。
私は正義を破壊しようとしているのではなく、絶対正義の原理を構築しようとしているのだ。だから善悪を超えた議論不要なる絶対的正義としての戦闘をここに措定する。正義とは力である。では私がピストルを持っていれば私に正義が宿るかと言えば、それはまったくの逆だ。私は銃刀法違反で逮捕されるだろうから私は寧ろ力を喪失する。私の言う力は自分を守る力である。防衛力である。他者を徒に虐げる力は真の力にあらず。私の理想は専守防衛であるが、それは強大な力の存在を意味する。防衛することは攻撃することより難しいからである。如何なる奇襲によっても屈することなき絶対的防衛力なのだから、それは他者、他国を完全に圧倒する力、軍事力である。戦争を仕掛けられたのならば圧倒的軍事力と無慈悲の殺戮によって敵を完膚なきまでに殲滅する力である。この殺戮は肯定される。自己、自国を守るための戦いは生きるための戦い、生存のための戦いのなのだから、一片の情も必要がない。私が病原菌に慈悲をかけないように、仇名す敵は残らず駆逐しなければ自己の安全は保障されない。謀反人が一族郎党根絶やしにされるように、根絶やしにしなければいずれ自分が滅び去る。平家が滅び去ったのは頼朝や義経などを根絶やしにしなかったためだ。
私が人間として生まれてきたということは、人間として生きる資格があるということだ。生きるということは私の生命と財産を脅かす存在を倒す資格があるということに他ならない。私に生きる資格が無いのにどうして私に命が授けられようか。私が生きているという否定しがたきこの存在論の根本において私の戦いは正当化されている。私を殺そうとする者を前にして私が殺されるのを待つ必要はなく、私はその者を殺して生き延びなければならない。私の部屋に包丁を持った強盗が押し入ったのならば、私は隙を見てその強盗を殺すしかないだろう。そうしなければ私に命の保証はないのだから。この場合殺さずに済めばいいというのは偽善である。なぜならば、私は生き延びるために最大限の努力を払う義務があるからだ。強盗を隙を見て刺し殺せばその後私が殺される心配は100パーセントないのだ。足を砕く程度では反撃される可能性がある。私は生き延びるためには如何なる道徳もかなぐり捨てるべきだ。無人島に取り残されて食料が尽きそうになったのならば、私は隣人をも食わねばならない。耐えがたい良心の呵責に苛まされようとも私は私の原罪を背負って残虐に生き残るしかないのだ。こうして私の戦いの哲学は肯定される。道徳も倫理も私の生の戦いの前では意味がない。ではどうやって戦えばいいのか。私は生き残るために最大限の知力を尽くして戦う義務がある。だから最高の戦略と戦術でもって私の生存に仇なす者を粉砕しなくてはならない。戦いは超道徳という名の下の正義である。
私は心の底から「平和」という言葉が嫌いらしい。平和は維持するものだ、という主張には腸が煮え繰り返りそうになる。平和を維持するのに軍事力が必要ないなどという寝言を言う人間もいるようだ。何と馬鹿げた主張か。平和は維持するのではなく勝ち取るものだ。勝った者だけが平和を獲得する。では如何にして勝ち取るのか。軍事力で勝ち取るのである。私は断言する。過去の人類史を通じて軍事力に拠らずに平和を勝ち取った例はない。平和を維持した例もない。弱小な軍事力しか持たない民族は悉く滅ぼされ、駆逐され、ある民族は絶滅し、ある民族はより強大な民族に同化させられ、ある民族は辺境の山岳地帯に追いやられた。日本という島国に住んでいる暢気な連中は大陸の激しい民族攻防史を知らないから平然と呆れた主張をする。軍事力のみが正義であり、力のみが正義であり、勝った者だけが正義であり、負けたものに待っているのは敗北の屈辱、徹底的な辱め、完膚なきまでの隷属、民族の散逸、そして絶滅だ。私たちが求めるのが平和ならば、常に新たな平和という勝利を求めて戦い続けるしかない。それが人間の宿命なのだ。悪人と戦って奴等を駆逐し続けなければ治安の安定はないように。我々は正義の為にではなく、勝利の為に闘わなくてはならない。勝者だけが正義となり、歴史を語る権利を持っているのだ。敗者には歴史を語る権利がない。正しい歴史とは勝者の歴史であり、戦いに勝利することでしか歴史は紡がれない。敗者は悪として歴史に登場するしかない。正義は常に勝たなければならないからだ。敗者に人権はない。敗者は虫けらのように虐殺されるだけなのだから。日本は戦争に負けたから徹底的に悪だ。日本人は敗れた民なのだから人権などない。悔しかったら勝つしかない。つまり日本は再び戦争するしかないということだ。しかし次の大東亜戦争では敗北してはならない。完全なる勝利を収め、正義を勝ち取るのだ。
人は恋をする。何故であろうか。私にとって恋愛は私自身を補填しようとする渇望だ。私自身への愛を完成させるために私は愛に渇望する。異性に愛されることで私の身勝手な渇望は潤う。おそらくこの渇望をこそ恋愛と呼ぶのだろう。私は不可視なる愛が無限の力を持ち得ないことを知っている。だから私の渇望は愛によって決して満たされない。愛に鈍感になれば私の飢えは増していくだろう。しかし、私はこの愛の希求の中には強い強い力を見出す。愛そのものにはない圧倒的な力を、愛の渇望は秘めている。渇く者は渇きを癒すために全力を傾ける。
私は全身全霊で人を愛す。私の渇望は満たされるべきではないし、満たされない。満たされないから無限に愛を受け入れ、無限に人を愛する。愛の渇望によって私は人を愛せるようになる。飢え乾く者は満たされるようになるだろう。私は飢え乾いたから満たされるだろう。しかし完全には満たされない。これは哀しき人の性ではあるけれど、私はもう人を愛さずにはいられない。人を愛する私自身の美に私は身震いする。恋に苦悩する私は美しいし、恋に喜びを見出す私は美しいし、恋を完成させる私は美しい。人を想う事ほど美しいことはない。だから恋の物語は美しい。恋の歌も美しい。しかし決して満たされない無駄な努力こそ恋愛の真実でもある。それが無駄であればあるほど恋は美しく燃え上がる。だが、たとえそうであったとしても、私は無限の無駄な恋の中から恋愛を超えた唯一の存在を選び出す。
そして私は恐怖する。私がいつか孤独に突き落とされるのではないかと。人の命は儚いからである。か弱き命の力では私の愛を繋ぎ止められない。愛する者の死を私は恐怖してしまう。それであっても愛するから、私の恋は胡蝶の恋ように可憐で儚い。力強く確固たる恋など、私にとって恋ではない。
人間の薄汚い本性は消え去らない。私が優生論を棄却して人類に訴えられる哲学はある意味全て虚しい空論である。なぜならば、私が理想を語ったとしても人類には何の甲斐もないし、理想を語ることは徒労だからだ。実践可能な哲学だけが哲学であって、実践不可能な理想には何の意味もない。理念は現実に則していなくてはならない。しかし現実に即しつつ理想を語ることは非常に難しい。現実とは如何なる現実であるか言えば、環境問題は決してなくならないし、人々から憎しみは取り除かれないし、紛争は絶えないだろうし、不幸な人間は居なくならないし、自殺者も減らないし、いつか我々は滅び去る運命であるし、道徳は廃れっぱなしだし、人間は迷信を払拭できないし、悪人はいなくならないし、犯罪も消え去らないという現実である。だから私が人類に智と賢明さを押し付けたとしても何の影響もない。この永久に穢れ、汚濁にまみれた血と肉の世界に理想など何の価値もないのだ。しかし、この世界は無理想なるヘドロの海であるのに、私はこの世界と強く繋がっている。それは私がその汚泥を通してしか真に無欠の理想を築けないからだ。汚泥の中の理想だけが真に価値ある理想である。それは実践可能で、実現可能で、人間の許しがたいほどに哀しき運命を丸ごと受け入れるのである。私に小手先の理想を説けと言うのならば私は喜んで優生論を唱導しよう。理想が美しいものならば私は薄汚い人間に立ち向かい、これを滅ぼすしかないからである。しかし私はそれを説かない。私は人間が持っている本質的な邪悪さが払拭不可能な存在であると知っているからである。だから私はその邪悪さを丸ごと請け負ってしまう道を説く。これだけが智の道であり、最高に理性的な理想なのだ。ただ、私の理想を実現できたとしても人間から邪悪さは消え去らない。消え去る必要がないのだから。そして私の理想は人類に何の甲斐もない。私の言葉を理解するものは少なく、人類の大勢に影響などない。私はただ私一人だけを救うために産まれてきた。だから私は私のためだけに真の智と哲学を説く。至高の哲学は私だけに付随している。これは実に幸福なことである。
体調を崩して昨日は欠勤した。首の周りに不快な汗をかく。気がつくと汗でベットリと濡れている。纏わりつくような粘った汗だ。意識は朦朧とし、認識は不明瞭。しかし、こうした状況がかえって私を哲学に回帰させてしまうのはどうしたことか。まるで脱皮で脱ぎ捨てた殻がもう一度自分を包むように、過去と言う名の桎梏が私の孤独を養分として蘇る。私は孤独の中に多くの善を見出したが、私はその善を必要としなくなっている。しかし、封じられた善は私の弱者の心には染み入っていて、私の体調不良をこれ幸いとこの過去の善は色めき立つ。それは私の汗と同化して、私の肉体を虐待するのだ。不必要な善は不快なる汗、決して私から立ち去らない。漠たる意識の中で私は再び私の居場所を問うてしまう。答えを知っているにも関わらず。病とはまさに、この弱き人間の心であり、私を智から切り離そうとする恐るべき力なのである。だから私は病を恐れ、それから逃れるべきだ。私の心が邪悪なる力によって智を失い、再び無価値な哲学に屈服しないように。私は有益なる哲学のみを握り、無価値なるものを切り捨てる。不毛な論議を排除し、何者にも反駁されざる孤高の哲学のみを抱く。私の哲学は論議を超えるが故に完全であり、かつ幸福に繋がっていなくてはならない。私の哲学は私のみに属し、私のみを幸福にする。だからこそ私の哲学は、この完全なる主体性によって普遍化され、人類に共有されるのだ。病はこの完全性を偽りの善によって破壊し、私と哲学を剥離させる。それは哲学が死ぬ前の状態に戻るということだ。しかし私は哲学を起こさない。起こしてはならない。死んだ哲学はそのままでは蘇らない。私は哲学の虚妄を暴き立て、それを葬ったのだから、無価値な哲学は一時的な私の汗に過ぎないはず。私が健康を取り戻せば再び私は真の哲学を取り戻し、強い意志の力で世界を打ち壊すだろう。さあ私よ、奮い立て。再び私が奴隷とならないように一念発起して智を勝ち取れ。
悲嘆の種は尽きない。悲嘆の種に比べれば歓喜の種は少ない。悲嘆は常に人間に対しての悲嘆である。人間である私が人間でないものに悲嘆することは少ない。人間ほど悲嘆すべき存在はないのだ。私が近年あまり悲嘆しなくなったのには様々な理由があるだろうが、主に2つの理由による。1つ目は、悲嘆に対して鈍感になったこと。2つ目は悲嘆すべき愚かな人間との遭遇回数の減少である。
悲嘆とは何であろうか。字義は「悲しみ嘆くこと」であるが、私における悲嘆とは、本来あるべき人間の姿から離れている状態に対して「悲しみ嘆くこと」ということになる。「本来あるべき人間の姿」という言葉には私の主観的価値観が反映されているように見えるわけだが、この「本来あるべき人間の姿」は私が単に恣意的に決定している概念とは言えない点は明確に示すべきだ。本来的人間は私が人間である以上本来的自己に他ならず、両者は一体である。本来的自己とは理想的自己であり、理想的自己は自己でない自己である。自己でない自己とは、自分の意志によって対象化されざる自己であり、対象化を免れた自己でなければならない。なぜならば、理想的自己が対象化を免れないのならば、私は決して幸福になれないからである。理想的自己は幸福なる自己であり、幸福なる自己こそが本来的自己でなければならない。もしこの結論に至らないならば哲学は目的を失って崩壊してしまうし、崩壊した哲学によって私は不幸になる。不幸なる自己を自己の理想とすることには意味がない。不幸という言葉は既にその不幸から「逃れる」ことが前提となっているのだ。だから不幸からは速やかに脱出しなければならないし、不幸を肯定すればそれは不幸と言わないのである。よって、理想的自己、本来的自己は幸福なる自己であり、その幸福が対象化を免れている以上その幸福は完全な普遍性を約束されている。だから私が言う本来あるべき人間の姿は、普遍的人間像として機能できる。長くなったが、私が悲嘆するということは、あまりにも多くの人々が自分を不幸にしすぎているということに他ならない。自分の意志で自分を不幸にしているのである。自分を不幸にする構造の観点から人間を4つの種類に大別できる。@自分が自分を不幸にする行為を行っていることに気付かない者、A自己を不幸にする原因を探そうとするが原因を突き止められない者、B自己を不幸にする根源的原因が知性(認識能力)である点に気付いて絶望している者、C自分を不幸にしない方法を獲得している者、である。ほとんどの人間は@かAである。@のタイプの人間は自分が不幸であることにすら気付かない鈍感な者で、ある意味幸運な人である。Aのタイプの人間は自分は不幸だと思ってはいるが、その原因が自己の外側にあると誤認している者である。Bのタイプの人間は哲学的な人間であるが、非常に苦しんでいる。Cの人間はこの問題を解決した人間で、極めて稀である。そして、Cの人間が稀であるという事態こそ、私の悲嘆の原因に他ならない。よって私は私を不幸にしなくとも、私の悲嘆は晴れることがない。
その時その時の感覚で文章を書き連ねている以上。私の日記には論文のような整然とした秩序は無い。それは当然だがやはり自分の日記を読み返して、その雑全ぶりに、もうちょっと何とかすべきか、と思うこともあるが、そんな桎梏を嵌めてしまっては文は死んでしまうのだろうからこれでいいのだろう。
さて、世の中には救いがたい程の愚者がいる。愚者とは要するに無知の輩だ。自分にとっての幸福が何処にあるのかを知らぬような者だ。だから自分に対して仇のように振舞って自分の人生を破壊する。特に私が嘆かわしいと思う愚者たちは金持ちという名の貧乏人らである。私はこうした金持ち貧者を見ると、何とも言えぬ哀愁をおぼえる。ある有名企業社長の息子の知人ははっきりこう言った。結局金が全てだと。何という貧乏人か!この類の人間は一生を金に振り回されて死んでいくのだ。ある者は金を得て傲慢になる。ある者は異常な浪費をして豪遊する。何と情けない乞食どもか!高級料理店で高級料理を食べ、高価な酒を飲むことが幸福だと思っている。高級車を乗り回して高級ブランドを身に付けて海外旅行に行って愛人を囲うことが幸福だと思っている。そんなことが幸福ではないといい年こいても気付かない貧者の何と多いことか。有名人が知り合いだと自慢する人間と同じくらい哀しい人間どもだ。私ははっきり言う。貧乏は治療困難な病だと。貧乏人は大金を手にしても貧乏であり、裕福な者は財産が無くても裕福だ。何ゆえか。富者とは幸福の所在を知っている者である。貧者とは幸福の所在を知らない者である。幸福の所在を知らない者はいくらお金を持っていたとしても幸福を買うことができない。裕福な者は幸福をタダで買う。裕福な者は智慧ある者であり、貧乏人は智慧なき者である。貧者は智慧がないので幸福を見つける手段すらもたない。富者は智慧を働かせて幸福を掴む。これが真の貧富の姿であり、たとえ巨万の富があったとしても幸福には至らない。私の祖母の両親は一生の間一度も働いたことがないそうだ。労働する必要がなかったのである。曽祖父は賭博狂いで、祖母は父を賭場まで迎えに行ったと言う。それが情けなかったと後年祖母は述懐していたらしい。何もしなくても食っていける莫大な財産があったのだろうが、私の曽祖父は幸福だったのか?私は自分の先祖を非難したくはないが、私ははっきりと言う。曽祖父が幸福だったはずがない。幸福な者が賭博などという非生産的活動に馬鹿馬鹿しいほど長い時間を浪費できるはずがない。巨万の富でさえ人を幸福にはしない。私は「お金持ちになりたい」という子供を見聞きするだけで哀しくなる。このような子供が裕福になることはないだろうから。なぜならば、お金持ちになろうという気持ちが既にその人間から真の裕福さを奪っているのだから。もうひとつはっきり述べておく。貧者と富者の境界は厳然としている。富者は決して貧者にならない。ある者は全財産を失って初めて貧者から富者となる。しかし富者は財産を得ようと失おうと貧者にはならない。貧者は虚飾を好むが富者は好まない。貧者は虚栄に満ちており、財産があれば自分が金持ちだと威張り、財産が無ければ貧乏だと卑屈になる。貧者は金のことばかりで他のことに関心が無い。貧者は権威に弱く、騙されやすく、分別が無い。貧者は自分自身の本質に関心が無く、無哲学で、何事も金に頼ろうとする。貧者は金に依存し、金に依拠し、金しか信じない金の奴隷であり、奴隷の身分であることに疑問を抱かない。一方、富者は金から自由であり、決して奴隷の身分に逆戻りはしない。
地球上にはほとんど税金のない国家がある。ブルネイやアラブ首長国連邦、ナウル共和国だ。一方で恐ろしく税金の高い国家もある。北欧諸国がその典型。税制はなぜかくも国家間でばらつくのか、と考えさせられる。何しろ自分自身税金で食わせてもらっているのだから、税金を否定することはできない。一方でやっぱり税金が高すぎると思うこともしばしばだ。私の最大の疑問は、なぜ政府が税金を運用して税金を増やすということができないのか、である。極端な話だが、例えば軍事予算を使って軍隊を強化することで他国を侵略し、それによって領土と資源を獲得できれば当然税金を増やすことができる。これはある意味効果的税金の使い道だろうし、侵略される方はたまったものではないが、侵略する側としては税金を運用できて国民としては助かるだろう。もっと平和的なことを考えれば、政府が何らかの営利目的の企業を持ち、その利潤を税金に還元できれば国民としては実に助かる。例えば、既出のアイデアだが、ラスベガスを越える巨大なカジノを建設して外国からの観光客をバンバン呼び込めば大儲けである。日本の最新技術を駆使した超ハイテク設備を導入すれば話題沸騰間違いなし。ディーラーがアンドロイドだったりするだけで物見遊山に人が集まるだろう。国営企業が駄目だったのは利潤を考えなさすぎだったからで、こういう絶対に儲かる業種をやればいいのである。これからは如何に税金を搾り取るか、ではなくて如何に税金を増やすか、を考えたほうが賢明だ。あとは借金取りもやった方がいい。貸した金を返せと迫り、返せない場合は領土の割譲を要求するくらいのエゲつなさが日本には必要だ。駄目なのは税金が高いと国民に思わせてしまっている点であって、その理由の第一は、こんなことに税金を使って欲しくないと大多数の国民が思っていることに税金を使いすぎている点。特に政府開発援助などは論外。無駄な援助をするための増税よりも対中戦争を望むのは私だけではあるまい。その方がずっと税金が効果的に使われているという実感がある。せめて私が生きている間に日本が戦争できることを心から願う。これは過激な考えだ。しかし私はその過激さから眼を逸らさない。
無知と偽善を砕かない方が多数の人が死ぬことよりも遥かに大きな悪であり、避けるべきであり、多くの人を不幸にしている。人が死ぬことによって人々が智に至るのならば、真の幸福に至るならば、私は真っ先駆けて死んで見せよう。戦う気がない、ということ以上の偽善を私は見出さない。死を恐れること以上の軟弱さはない。分別がないから戦えないのだ。3世紀頃のキリスト教徒は度重なる迫害で殉教していったが、彼らは非暴力で戦っていた。アグネスのような幼い少女でさえも戦って死んだ。殉教者たちはローマの神々への信仰を強要されても断固としてそれをはねつけて死んでいった。これが戦いでなくて何であろう。ガンジーの非暴力は戦いのための非暴力だ。釈尊は苦行という自己への暴力を捨てて非暴力的に自己と戦い、これに打ち勝った。私は戦争を否定しない。戦わないことよりも、暴力を使ってでも戦う者の方がましだからである。だが非暴力で立ち向かう者の方が優れている。私が戦争を望んでいるのは、戦争をしてもいいぞという国民の心意気の切望なのだ。自らの死を恐れない心を切望しているのだ。一番卑劣なのは自分の命を捨てられないこと。平和を叫ぶ者で自分の命を平和の為に捨てられる者など見たことがない。自分が一番可愛いと思っている者に正義は留まらない。最近のテロリズムが胡散臭い一番の理由はビンラディン自身が自爆しないことだ。自分に死ぬ覚悟のない者たちは歴史から切り捨てられる。死の恐怖を払拭できないような幼児期に逆転した日本には戦争という薬が必要だ。それこそ50万人くらい死ななければ目が醒めないだろう。よって北朝鮮にはぜひとも頑張ってほしい。日本の税金の有効活用のためにも。
平和、人権、差別、権利、平等。こういう言葉を頻繁に使うようになったら人間もおしまいである。智慧、真如、寂静、慈悲。こうした言葉は力強く、雄雄しく、好ましい。だが智慧以上の言葉はない。言葉ではそれが最上である。
最近ドケティズムに関心がある。仮現説と約され、キリストの人性を認めないグノーシス主義の基本的立場である。実を言えば私が最初に新約聖書を読んだ当時にも同じような考え方に至ったことを思い出す。ドケティズムは必然的に発生せざるをえない信仰上の「躓き」であるということだろう。そう、誰であってもイエスの人性には戸惑いを覚えるだろうし、三位一体が正統教義である以上イエスの人性は抜き差しならないほどに緊迫した信仰上の大問題なのだ。エホバの証人は三位一体を認めないので、彼らはやはり躓いている。(よくは知らないが、彼らの話を聞く限りではアリウス主義か?)イエスが人であり、人でありながら神であるという、こののっぴきならないほどの異常な事態を正確に理解できない限りキリスト者ではない。私はキリスト者ではないが、それであっても実は「躓いていない」。この表現は他聞に誤解を与えかねないが、躓きの意味を理解できる以上、キリストへの信仰なしで私は躓かないのだ。大抵のクリスチャンが聞いたら猛反論するだろうが。
キリストの人性に関する基本的な6つの異端、ドケティズム、エピオン主義、アポリナリウス主義、アリウス主義、エチュケス主義、ネストリウス主義が発生したが、どの異端の見方も正統的教義の卓越した純一さと、一見すると突拍子もないほどの完全性は有しておらず、故に異端は滅びるのだろう。イエスの中に神としての完全性と人としての完全性を見出すカルケドン信条の洗練された文に心を打たれる。人智を超えた絶妙なる神の完全性との対話だけが真に信仰と呼べるだけの聖性を放つ。このような対話のない信仰は虚空に向かって声を荒げて叫び続けるようなもので、木霊は返ってこない。人間は小賢しい知性を駆使して神を理解しようと試みて、その結果として躓くのだ。だから私は躓きようがない。神の本性はまったく直接的で、現実的で、体感的で、それが「言葉」であっても超論理的であって、超越しているが故に非特殊であって、普遍的であって、日常的で、非神秘的であって、その全性質は人の本質と統合される。究極的には信仰は「信じているのでも信じていないのでもない」という次元にまで高められ、この完全な信仰は証を必要とせずに実在となり、オントロジーを完成させて「私」を統一させ、この現実世界を照らし出す。キリスト者ならばキリストを通してこの「天国」に入ればよい。これは天国の「予期」でも「期待」でも「切望」でもない。それは神の愛そのものでなくてはならず、そうでなければ信仰は完成していない。この完成は自分が人間であるという事実の肯定によってのみ可能となっている。だから人は人を通してしか救いの中に入ることはできない。人でないものの言葉に人の真実は映されない。だからキリストが「人そのもの」でなければキリストを通しての救いも購いも絶対にない。実のところイエスが処女から産まれたことがむしろ彼の偉大さを損ねているのだが、クリスチャンでない私はあまり気にしないようにしよう。仏教にはドケティズムのような議論が発生しえない点は実に有難い。ゴータマ・ブッダはまさに人なのだから気楽だ。
4日付の読売社説は日本の科学技術計画の脆弱さを訴えていた。尤もである。人材育成に関してはこうある。「次代を担う人材の育成も心もとない。1期、2期計画では、若手研究者を増やす施策を展開した。ところが、就職するポストが足りず、収入は不安定で社会保険料を払えない、という例まである。」同感だ。闇雲で無計画な計画を計画などと呼んでよいものか。博士が増えれば必要となるポストも増えるなんて幼稚園児でもわかる計算ができないのだろうか。無能そのものではないか。計画的でないのに計画とは何たること。科学技術無計画と改名していただきたい。社説はこう結ぶ。「何が課題で、何を目指すのか。総合科学技術会議は、科学技術立国への道筋を明確に提示すべきだ。」要するに具体性がないのである。何が課題で何を目指すべきなのかも分からないのである。こんな凋落寸前の日本の未来を私が背負わされるような羽目にはならないようにしていただきたいものだ。無知からは無知しか産まれない。無知な人間が何百人集まっても知にはならない。せめて文部科学省の役人くらいは全員博士であってほしい。しょうもない博士であっても学士よりははるかにマシだからである。何しろ博士の深刻な就職難をまともに考えてくれるだろうから。科学技術を支えるのは人間であって、金さえ出せばよい研究ができるはずだと思っているようなエゲつない人間がいくら額を寄せ合ったとしても日本の科学技術を振興させることなどできやせぬ。根幹たるは人であるはずなのに、人を人とも思わぬ施策によって学問を空洞化させようとする政府には我慢がならぬ。学問をする意思のある博士までニートに追い込もうとするような政府にニート対策などできるはずもない。有能な若手研究者が無能な万年助手がポストに居座っているおかげで日雇い労働者同然の扱いを受けている現実にももっと眼をむけるべきだ。酷い場合だと教授より助手が年上だったりする。いい加減にして欲しい。そんな無能な助手を採用した人間にはそれ相応の責任を取らせるべきだ。不公平不透明な人事を一新し、ポスト数に見合っただけの博士を育成することが大切なのだ。そのためには大学院の合格者数を今の半分以下にして無能な博士を生産する悪循環を断ち切らなければならない。現状はバーゲン大セールのように博士号を連発し、博士の権威を失墜せしめているだけではないか。おかげでまるでダムに堰き止められた雨水のようにポスドクに蓄積した博士たちは今にも決壊しそうだ。大学院の合格者数を減らすことで徒に職にあぶれる博士候補たちを救えるのだ。何しろ学士や修士ならば職など選り取りみどりなのだから。そもそも学問にマンパワーなんて必要ない。全く勘違いも甚だしいのだが、本当にマンパワーなんて必要ない。理系ならば博士一人に二人くらいの技官がいればいいではないか。文系ならば尚更で、一人の天才には百人が束になっても敵わないのである。仏教学の中村元先生の業績に対抗できる人間がいないのは誰の目からも明らかで、ああいう天才はたった一人で凡人百人分以上の遺業を完成させてしまう。どうして博士を増やす必要がありますか。ないでしょう全然。数学なんてさらに顕著。秀才が百人集まったって算聖関孝和には敵わないでしょう。当たり前です。天才に敵うわけがない。本当に傑出した人間だけ選べばいいだけの話なんです。だから単純に大学院の定員を減らせばいいだけの話で、それでみんなハッピーになれる。私の理屈に文句のつけようなんてないはずです。大学院の試験に落ちる程度の人間が学問をやったって不幸になるだけですから。肝腎なことは研究者ではなくて研究補佐官を増やすこと。無用な雑事と肉体労働から研究者を解放し、純粋に頭脳労働に従事させてあげなくてどうするんですか。私が荷物運びをしたり馬鹿馬鹿しい書類書きをしてどうするんですか。何の意味があるんですか。そんなことのために私に給料を払わないでください。私は純粋に知の為に人生を捧げているんですし、その為にこそ私に給料を払っていただきたい。
最近はあまりテレビを見ないが。時々見ると雑学系の番組をやっていることが多いことに気付く。少しはテレビも国民に益になる情報を流しているようだ。
さて、やる気のない時には何をやってもやる気は出ないものだ。30年生きてきて得た結論のひとつだ。モティベーションなどと横文字を使うのは嫌いだが、そういう自己の動機付けは何の前触れもなく内側から突如として沸き出てくるような類のもので、やる気がある時は何があってもやりぬけるし、やる気がないときはどんなにお膳立てされてもやる気にはならない。だからやる気のない時はじっと待つしかない。とは言うものの、常に一定してやる気があるように見える人間もいる。常に一定してやる気のない人間もいる。今私の隣にいる外国人は常にやる気のなさが滲み出ていて面白い。じゃあやる気って何だろう。
やる気って好奇心の別名だろうか。興味のあることに対しては誰であっても異常なやる気を見せる。でも疲れている時はやる気は減退する。眠い時もやる気がしない。元気な時しかやる気は出ない。要するに好奇心に火がついて、しかも肉体的に精力に溢れている状態は、やる気に満ちている。でもやる気の原因が好奇心だけじゃないことにも気付く。義務感や責任感がやる気を牽引することもあるだろう。でも、殊芸術に関しては義務感などに追い立てられたらロクなことにならない、のかもしれない。いや待てよ、近年の私の曲は全部義務で作曲したものしかないじゃないか。あれれ。
まあ要するにこんな幼稚なことを考えている時点で、今の私にやる気がないことの証明は足りている。私にとって「待つこと」以上の美徳はない。待てば必ず素晴らしいものが勝手に天から降ってくるのだから。その意味では私ほど気楽な人間もいない。強烈で抗いがたい生きる動機は、まさに突如として現れる天使のように美しく、かつ気まぐれだ。その気まぐれと付き合いながら生きる私も人生もまた気まぐれで、気まぐれであるからこそ気高く美しい。気まぐれで美しい私の人生を私は愛してやまない。
男女共同参画、要するにジェンダーフリーなどというマルクス主義のなれの果てのような白骨思想が現代社会において猶亡霊のように徘徊しているのは実に哀しむべき事だ。人間社会へのマルクスの憎悪はもう十分すぎるほど人の血を吸って満足したのではないのか。ダンマパッダの言葉が浮かぶ。恨みでもって恨みに報いれば恨みの止むことはない。実に恨みに支えられた思想からは良きものは何一つ生まれない。生まれるものは新たな憎悪と限りない人間の不幸である。
人間の生物学的性は、社会的活動を行う知性ある人間に、ある文化の影響の下で社会的性を与える。人間の性はその意味で動物の性とは決定的に違った文化的性である。この文化的性は当然多種多様であり、それぞれの文化の最も直接的反映として機能している。大抵の民族は男と女が異なる装束を身に付けているが、その装束は民族ごとに千差万別だ。男女の体型の差は一目瞭然だが、にもかかわらず更に自分が男である、女であると自分を装束で標識する行為は、人間が社会的にある「空間」を占有することが必要であるからだ。私は男です、というのと、私は○○社の課長です、というのはほとんどおなじ意味を持つ。それは、自分に明確な付箋を貼り付けることで、自己の社会的役割や社会的「空間」を獲得できるからである。これは基本的には縄張り意識と同じで、普通自分の家にまったくの他人を住まわせないことからも分かる。自分の家に住んでよいのは家族という付箋の貼られた肉親だけなのである。人間はこの付箋貼りを闇雲に行っているわけではない。自分の最も根幹に関わる要素から、自分の属する文化風土に対応するよう貼るべき付箋を決めている。例えば性、血縁、部族、国などである。自分が男ならば男という付箋を貼る。その付箋の役割は文化によって異なる。自分がメオ族ならメオ族という付箋を貼るだろう。我々は社会の中で何の肩書きもなしには生きられない。それは、自分に与えられた役割が何もない状態、つまり何の付箋も貼られていない状態は社会から隔絶した孤独だからである。そんな反社会的人間は普通いない。付箋は役割に他ならない。役割は社会的空間を構築している。性はその最も根本的な付箋である。社会的性は生物学的性の文化的反映として現出している。文化は多様なので当然多種多様な社会的性の姿がある。文化の成熟とこの付箋−社会的性差−の発展が相互に関係し合っていることは当然で、社会はこの最も根本的社会原理たる性差が、社会全体の効率的運営を可能にするように流動的に決められる。私がここで強調したいことは、ジェンダーフリーの思想が、身分制度を破壊するといった近代の流れとは全く別次元の思想である点である。身分制度の場合はそれをある程度破壊して平等な社会を実現することができる。なぜならば、例えば武士が農民の格好をすれば農民に見えるし、実際に農作業をすればそれは農民そのものだろう。逆に農民が武士の格好をして武士の振る舞いをすればどう見ても武士そのものである。新撰組のように。つまり、農民と武士は付箋が違うだけで中身は本質的に同じなのである。それならば付箋を貼りかえることも、全部同じ付箋にしてしまうことも可能である。しかし性はどうだろうか。私が女の格好をして女そのものに見られるだろうか。それはありえない。骨格が違う。生殖器も違う。胸も膨らんでいない。どう見ても男である。つまり男と女は付箋の貼り替えようがない。中身がそもそも違うのだ。中身が違う人間が同じ付箋−それはすなわち同じ社会的役割−を担えるだろうか。土木作業員の半数が女であっても本当に大丈夫なのであろうか。オリンピックの陸上競技を男女一緒にして女性がメダルを取れるだろうか。どう考えても女性はメダルを1つも取れないだろう。男女共同参画を推し進めるならばこうした状況にも女性は遭遇しなくてはならない。女性の肉体は体格的に勝った男たちとの激しい競争に駆り立てられて悲鳴をあげるのではないだろうか。会社でも学校でも女性は男性と全く同じように力仕事をさせられるだろう。男女共同参画なのだから。これで本当に女性は開放されるのだろうか。むしろ痛めつけてはいないだろうか。これまで社会は女性を弱者として侮りはしたが庇ってもきた。もうその庇護は女性にはない。上野公園の浮浪者の半数は女性となっているだろう。女性は否応なく社会に進出させられ、家事だけでよかった主婦は昼も夜も仕事と家事に追い立てられる。家事の半分を夫がやっても仕事の負担は激増だ。よって家庭を持つことを敬遠する女性が増して出生率は低下の一途を辿り、結婚を拒絶した無責任で未成熟な女性たちはシングルマザーとなって子供を虐待する。父親を知らない、酷い場合には父親が誰かすらわからない子供たちは心に快復不能な傷を抱えて成長し、少年犯罪者となっていく。治安は当然悪化する。家庭を失ったフリーセックス社会は無数の中絶胎児の死体の山と性病患者で溢れかえり、社会は社会としての機能すら果たせなくなるのだ。なぜこのような世界をフェミニストたちは望んでいるのだろうか。それは、この思想が憎悪、恨み、憎しみ、妬みに支えられているからである。初めに書いたように、ジェンダーフリーから生まれるものは新たな憎悪と限りない人間の不幸である。フェミニストたちが望んでいるのは自分の幸福ではなく、幸福になれない自分の恨みを晴らすために、全ての人間を不幸にすることなのである。ジェンダーフリーは人間の最も人間らしい働き、すなわち理性を否定する。人間に獣になれと教え、奔放な性を礼賛し、援助交際を助長して女性の価値を貶め、貞操観念を破壊し、文化的行為を否定する。家庭は社会と文化の基盤であり、まさに文化が社会的性を形成したのだから、これを破壊しようと躍起になる。家庭崩壊は学級崩壊、共同体崩壊と大きくなり、最後には国家が崩壊する。人々が蒙る不幸はどれほどであろうか。もう一度言う。フェミニストたちの目的は全ての人間を不幸にすることだ。自分は既に不幸なんだから痛くも痒くもない。要するに腹いせなのである。男性から愛される女らしい女性、幸福な家庭を築いて女性の喜びを享受している女性たちを自分たちと同じような不幸な人間にし、憎たらしい男ども、自分を愛してくれない男どもに復讐し、屈服させたいのである。だが人を不幸にする思想には一片の正しさもない。フェミニストたちの口から出る言葉は一つの例外もなく全て間違っている。極論ではない。悪しき樹には悪しき実しかならない。正しき言葉も悪しき者から出れば悪しきものとなる。愛しい男性から愛される以上の幸福が女性にあるだろうか。その至高の幸福を自分が享受できないからといって他人を妬み、あまつさえその幸福を否定し、罵倒し、荒唐無稽な虚論で女性たちを騙し、不幸に陥れようという狡猾な者どもを擁護する言葉はたとえ観音とて持ち合わせてはいない。
ジェンダーが「フリー」である点が狂気なのである。新しいジェンダーを創出するという建設的思想は彼女たちからは決して生まれない。新しい男性らしさや女性らしさを作ろうとするならある程度常識的であるのに、男性らしさや女性らしさを完全に「なくそう」というこのあまりに突飛で無茶な発想こそ、彼女たちが粗野で原始的な理性なき未開な無哲学の人間であることのこれ以上ない証明である。もちろん理性を否定する人間たちならばそれが相応しい姿だろう。もはや誰も彼女たちを救えまい。既に言葉を理解する理性をも投げ捨てているカルト集団なのだから。
この時期より始まる毎年恒例の沈鬱な気分はどうも不可避のようだ。生理現象らしい。湿度の上昇に敏感に反応して自律神経が失調するのだろう。もちろん例年になく平穏な一月になると期待するが、それであっても少々の鬱状態は覚悟している。このような鬱が智の母体であることを私は知っている。苦の集積が人を智に導いていく。苦の集積は止むことがない。たとえ完全な悟りを得ても、日々の身体的不快は避けられないのだ。しかし、そうしたひとつひとつの苦痛は人の目を智に向けさせる。そのためにこそ苦は存在している。私は毎年の周期鬱を身体的苦痛のひとつとして捉える。生理現象なのだから、これはまったく身体的だ。身体の不調と精神の不調は同期している。気分の晴れ渡った重病人など普通いない。身体の健康が大切なのである。しかし毎年の梅雨時期の鬱はどんなに健康に気を遣っていても不可避だ。何しろ気温と湿度の問題なのだから私が制御できようはずもなく、私はそれに従うしかない。だが、この暗澹たる気分は否応なく私の眼を智の本質へと向かわせる。一年に一回は必ず私は哲人としての自分に向き合わなくてはならないことになっているのだ。私はこの運命を積極的に受け入れよう。この鬱こそ、苦の天才としての私の才気に他ならない。私は人に百倍する苦悩と戦ってきたはずだ。もし私が人に百倍する苦悩を受けていなければ、智慧などか私に臨みようはずもなく、偉大な経験も生まれなかった。それは確かだ。私はこの不快感を払拭できないが、私はそれを通してもっと深い、もっと高い智慧の深奥を極めるだろう。天が私に降らせる苦の雨は、智を育む恵の雨だ。
私の毎日は平穏だ。この梅雨の時期、体中に纏わりつくような猛烈に不愉快な湿気の中にあってさえも私はこれまでに経験したことがないほどの平穏の内にある。理由は明快だ。煩いがないのである。たとえ東大の総合図書の蔵書を全て読了したとしても、これほどに完成された智慧には到達しえない。身体の不快、たとえば暑さ、寒さ、空腹感、といったものを消滅させることは不可能である。しかし、そうした身体の直接的不快感は、実際には本質的煩いや苦悩には直接結びついていない。なぜならば、たとえば暑いならばクーラーをつけたり扇風機を回したりすればその不快感は回避できるが、どれほど自分の生活空間を快適にしたとしても、本質的な生の苦悩に起因せし鬱屈した気分を晴らすことなど決してできないのだ。そうでなければ釈尊の出家に意味がない。
無尽の向上心だけが、この壁を打ち破る。壁を打ち破った者だけが語る力を持っている。だから私が真に智を語る時には「〜だろう」「〜と思われる」とはもはや言わない。私が智を語る時、私の言葉は常に断定で、「〜だ」「〜である」となる。経験や体験に推定はありえない。実際に体験したにもかかわらず、私はこういう体験をしたかもしれない、と言う者はいない。私は目覚めており、明瞭な意識を持っているのだから、私の体験は有か無のどちらかだ。体験せし者だけが断定し、体験せざる者は推論する。だから語ってよい者は断定できる者だけである。愚者は推定し、推量し、憶測し、予想し、酷い場合には賢哲の言葉を曲解し、毒を吐く。しかし賢者は断定する。賢者の言葉に曖昧さはない。だから断定する者に親しみ、推量で語る者から遠ざかるべし。神に遭遇せざる者が神について語れようか。悟りを得ざるものが経典を解釈できようか。神を知らざる者、神について語るべからず。悟りを得ざる者、経典を解釈すべからず。これは私が常に言っていることだ。智を求めないものは誰一人として苦の奴隷から脱しない。人生の究極の目的を見極めようとしない者は最高の幸福には至らない。しかし、聖書や経典を解釈しようとする者は一人残らず地獄に堕ちる。苦行によっても座禅によっても悟りなど得られない。何千万回題目を唱えようと念仏を唱えようと真智には至らない。何万冊の哲学書を読もうとも智慧の階梯の入り口にすら至れない。如何なる修行も無価値で無意味。棺桶の中の五円玉程の価値もない。理性も知性も本能も何の役にも立たない。目も鼻も耳も舌も役には立たない。腕も足も胃も腸も心臓さえ役に立たない。非凡な頭脳の持ち主がどれほど深く考えても解けることがない。ただ一人、苦の本質と正面から向き合い、これと闘う勇気を持つ者だけが語る力を持つようになる。賢者の言葉の中には獅子の咆哮の如き力が宿っている。たとえどんなに穏やかで平易な言葉であっても、その言葉は千万の無益な言葉に勝る。智ある一言は世界中の全ての哲学書よりも重みと力がある。それであっても、その言葉は智慧の百億分の一にも満たないほどの価値しかない。智慧とはそういうものだ。