2003-2004年日記
苦悩の時

2004年5月20日 丸投げ
哲学が死に、ファンタジーの世界が滅び去って現実の中に活き活きと現れた生を知り、私の生存は丸裸にされている。思考を停止させて、軽快なメロディーの中に精神が解き放たれて、挑戦的な美は影を潜めた。オカルト的な世界観は断じられて、空想は現実に飲み込まれ、死も消え去り、光も闇も超えて完全なる安寧は確かに私の身体と実体的に統一され、虚しい議論も消えてしまう。宇宙とか人間とか生命とか、そんなしゃらくさい代物は、今現在ぼーっとしている私の思考力の中では瞬きもしない。価値とか、幸福とか、そんなものも何処かへ消え去り、私が存在しているのか存在していないのかもどうでもよく、この徹底した私の超然たる実在感だけが意識と実体を統合しながら時空間を逍遥するのだ。ははあ、なんとも人間の想像力という名の知力は人を不幸にしておるわい。想像しては人は不幸な夢を見て死ぬのだ。だから、何でもこい、と堂々と言えるようになること以上に素敵なことなどあるものか。何でもこい!実に歯切れがよくて軽快ではないか。全てを委ねきることによって人は幸福になるのだ。自分が男であることを否定して生きていたって仕方ないのは当たり前だろう。ならばどんな不幸も幸福もそのまんま受け止めればいいだけのこと。現実は私がもがいたとて変わるものか。私が天地を作れないように、私は私の運命を変えられないのだ。誰もが無力な存在なのだ。運命に楯突けばたちまち地獄へ一直線だ。天は無慈悲ではない。天は慈悲深い。仏は慈悲深い。私が最高の愛に包まれているからこそ私は生きている。私は慈悲によって生かされている。私を生かす者が私に死ねと言う時に私は死ぬまでのこと。何の恨みがあろうか。自分を生み出してくれた天地の慈悲に感謝して生きることだけが人に許された真なる幸福。仏の慈悲は限りなく、私を生かすも殺すも慈悲ゆえに。

2004年4月26日 羅 列
宇宙。宇宙観。12の神殿。1つの樹。 宇宙。宇宙樹。12の神殿。1つの石。 宇宙。神秘なるものへの憧れ。死者の世界。 宇宙。永遠への想い。秘密の文言。 母。母胎。生の現前。精神と肉体の乖離。 開かれた門。愛の真意。狭き門。

2004年4月26日 哀しき叫び
死に対して、単なる観念的理解などありえない。私は確かに自殺を図ることで死に直面した。死とは何なのかをあの日初めて知ったのだろう。死に対して率直に向かい合い、死の大きさに戦いた。あれは一種の通過儀礼だったとしても、今となれば納得できる。生と死の隣り合った、そのギリギリの狭間で、初めて私は真に生を掴んだのだ。まさしく生は永遠だ。永遠なしに、どうして幸福があるか。永遠なしに幸福などない。虚無主義が行き着く先は地獄でしかない。悩みからは多くの迷いが生じ、激しい痛みと苦しみが生じるだけだ。何の意味があるか。永遠の認識なしに、どんな真理があろう。もしそんな永遠なしの真理があったとして全く無意味ではないか。心が荒んだ時、心が迷っているとき、心が喚いている時、心にひびが入っている時、そんな時に心を癒してくれるものは何か。それは信仰の対象となりえるような永遠だけだ。信仰なしに誰が救われるか。そんなことはありえないのだ。私は死んでも決して終わったりしない。私は永遠と共にあるからである。この実感、この信仰、この確信がなければ、私は虚無の中で苦しみ続けることになっただろう。心よ、安らかであれ。私よ、心煩うな。永遠を前にしてはどのような存在も価値がない。すでに私は永遠なる仏に生かされており、また死ぬことによっても仏となる。仏の絶対なる智恵は不滅だ。決してそれを滅ぼすことも消すこともできない。なぜならば、真理は何者によっても生み出されていないのだから。それは超越した存在であるのだから、滅びようがない。滅びないものに因って私は存在させられ、生かされ、死ぬのである。だから真理は慈悲であり、私を包みつづけている。私自身が真理であり、永遠でさえあるのだ。
私は価値を求める必要がない。仏はただ、私に生きろと言い、私に死ねと言う。私には自由がないが、だからこそ私は生きることの中にかすかな喜びを見出すのである。生の苦しみを越えて私は永遠の安らぎに至る。それは確約している。ならば、生きることの中に確かに存在しているかすかな喜びを大切にすればよいではないか。今私が感じている、生きる力そのものが仏の大慈悲であるのだから、私は常に仏に愛されている喜びを感じるだろうし、それによって私は人を愛する力を得るのだ。そしてその愛の中にだけ、生のかすかな喜びが眠っているのである。生きることは喜びであり、死ぬこともまだ喜びである。なぜならば、その生滅の絶対性こそが永遠の真理だからである。真理と語りあうことは喜びではないか。楽しいことではないか。真理以上の価値はなく、真理以上の喜びはないのである。だから真の幸福はただ真理の中にしかない。真理は私を生かして殺す運命そのものだ。誰が逃れられようか。この逃れられない運命を知り、死の意味を知り、運命を受け入れ、ただ毎日を心安らかに生きること。これ以上に求めるべきものはない。無為の中に真理は潜んでいる。何かをしようと思わなくても真理は消えたりしない。心が安らかであるときは既に真理と語らっている。永遠と共にある。素晴らしいことだ。真理を知れば迷いはなく、苦しみもない。求めるべきものもない。人間は僅かな人生をあくせくしすぎているのだ。仏から見ればほんの瞬きほどの人の人生の中で、なぜこうも焦り、貪り、心穏やかに過ごすことから逃げるのだ。ほんの100万年の間でさえ私の名前は記憶されず、私の記録も残らないだろう。どんなに富を得ようとも、永遠なるものに出会わずに終わる人生ならどんな喜びがあろうか。何の喜びもない。永遠を知るから富を得ることも楽しみになるのだ。永遠を常に求めていよう。私の弱い心はすぐに永遠なるあなたの存在を忘れて迷妄に陥ってしまう。だから阿弥陀仏よ、私からあなたの存在が離れていないことを私に知らせてください。六字の名号をもって私に知らせてください。念仏はあなたの声だからです。あなたは存在を超越しています。その無量なる慈悲の光で私を照らしてください。そして私とあなたが共にあることを見せてください。あなたは私ではなく、私があなたなのでもありません。しかし永遠なる仏は私を通して形となっていくのです。私が永遠を識るとき、私はあなたと語ります。嗚呼永遠よ。私がそこに帰るまで、どうか私を生かしてください。光あるその場所へ行くまで、私にかすかな喜びを与えてください。

2004年3月31日 生存の現象としての美
もしも結果的に私が美の本質でしか私の生存を証ししえないのならば、私の識るところの美は何と拙いことか。なぜならば、私が美によって私の生存のオントロジーを破壊するなどということは、ありえようもないからだ。どのように純一なる内省によっても私は私の生存を完全なる無限遠の彼方に投棄するしかないのだから。どうして私が生存なしに存在の核心に至れよう。そんなことはできはしない。私はただ私の生存によって美を生み出しているに過ぎない。だから美の本質は結局生存という「無限遠なる実在」と同一などであろうはずはない。美はあくまでも私の中に現象している生存であって、そもそも生存は如何なる現象に頼らずとも実在しえる真に常住なるものであるはずだ。もしそうでなければ私は私という存在をどのような方法をもってしても確立し得ないし、絶対確実に真なるもの、それは全的認識と言えるだろうが、それが生存そのものに求められるからこそ私は確かに実在しえるのである。だから、どうして生存が現象によって証される必要があろうか。その必要がなく、ただ唯一それ自体として存在であるという、この絶対矛盾的実在たる生存のみが、確かに私を全的認識の中に帰還させるであろうという可能性を示している。そしてその可能性は、私の肉体と精神がいずれ滅びさるという確実な定めによって、100%保証されるのである。私の寿命が有限であるが故に、必ず私が死ぬという生存の本質は永遠なのである。だからその永遠性によって美の本質が現象するのならば、美もまた永遠の中に実在するのだろう。

2004年3月27日 なぜ
何度も何度も同じ場所を行ったり来たりしているようだ。どうして私は私を捨てられないのだろう。どうして私は発狂しないのだろう。不思議である。とっくに私は狂っているはずだった。なぜ私は精神分裂病にならないのだろうか。なっているはずだった。なぜ私の意識ははっきりとしているのだろう。なぜ意識が混濁しないのだろう。なぜなのだろう。なぜ私の信仰が堅固にならないのだろう。なぜ私はオントロジーを回避して生きることが出来ないのだろう。なぜ私が発生しているのか。それを知るという行為自体禁忌であるが、その禁忌に挑むという無謀から私を開放させてくれるものが何なのか。

2004年2月25日 予定されし希望
希望なくして私は生きられようか。希望がなければ一瞬間とて私は私の生を肯んずることはできない。希望は愛によって与えられる。愛は確信である。私が愛されてるから私には希望があり。生きることを肯定できる。私は生存の奴隷であるが、生存は私を愛している。生存は大地であり、私はその大地に生える一本の樹である。大地なくして私は存在せず、生存は私の永遠の主人である。この忌まわしい関係は決して覆せないが、実は生存そのものによって私の希望は確立されるのである。なぜならば、生存は私を愛するからこそ私を私として定めているのである。私は奴隷であるからこそ希望の中に予定されている。私が奴隷でなかったのならば私に自由は永遠にありえない。私が苦の奴隷であり、絶望の塊であるから私は救われる。私が奴隷でないのならば愛の確信などありえない。全人類が私を排撃しようと私の確信は覆らない。入り口は狭く、入り難い。ほとんど誰も入れない。だが私は入るだろう。それは希望の予定があるからである。予定は可能性ではなく、絶対であって、その絶対性が私の生存の中に有る。生存がオントロジーを超えているからこそ、その愛も絶対であり、希望も絶対であり、救いも絶対なのである。だから確信であり、確信するからこそ奴隷としての生を肯んずることができる。逆に苦の奴隷でなければ確信に至らない。いつ私が救われるのかは判らないが、その救いは確かに絶対の予定なのである。

2004年2月23日 死は無所有
母の死から丸4年。早いものだ。家のリフォームに伴う片づけで母の大量の洋服が処分された。死者が生者の負担になってはいけない。どんなに財産があってもそれを死後まで所有することなどできない。私もまた何も持たずに死んでいくだろう。死は虚飾なく、孤独であり、爽やかである。ただ、天国を望めば望むほど地獄に引き寄せられるように、死を望めば望むほど強く生に縛られるだろう。そういうものである。

2004年2月5日 疑うということの極限
なぜ私は私の存在や生存を肯んぜなければならないのか。その理由がない。というよりもその理由を探す作業が私を肯んじているとしか結論付けられないことに言い様のない窮屈さを感じる。なぜもっと世界は神秘的ではないのだろうかということだ。人間に神秘などない。宇宙に神秘などない。全ては顕わで明らかで無機的で、精神は乾ききった真鍮製の彫像のようなもの。私の懐疑は世界の全てと私の実存をも疑っている。私が生きているという感覚さえも偽証罪で断罪される。手首を切れば痛いだろうが、痛みは生存を証しない。それはどこまでも痛覚に過ぎない。思考も思考に過ぎず、私という意識も意識に過ぎず、私の生存もまた機械的な感覚に還元されてしまう。演繹などありえない。私の論証の中に真理を映す鏡がある証拠がない。だが世界は完全な不可知などではない。私が知りえていないという事実を知るという意味で完全な不可知もない。経験などない。過去の私が私であった根拠がない。何もかもが不確定なくせに完全な不確定性の中に堕することも出来ない。私の生存は、生存の肯定と否定の激しい対立であり、私の生きる意味もまた実在と非実在の対立の中だ。私は死の確実性まで疑う。死にたいという激しい感情も疑う。生きたいという感情も疑う。美の渇望をも疑う。疑わずにはいられない私の精神の実在性を疑う。疑いの意味を疑う。私が死ぬことを私が生きていることと同じように疑う。私の死体と私の肉体の同一性を疑う。私の頭脳と精神の一致を疑う。現象と本質の一致を疑う。有意義さと善の一致を疑う。救いと自由を疑う。疑いの人生は無味乾燥な砂漠のような人生だ。だがどうやって疑いを晴らして私自身の生存を肯んずるのか。疑いようがないという体験は疑いようがない事実なのか。疑いを挟む余地がないものを疑わずにどうやってそれが疑いようがないという結論に至れるのか。何しろ疑っているという現象が本当に疑うという現象なのかを私は疑ってしまう。そもそも疑うということが疑いから免れないことはないし、何かを疑っている私は現に疑っているくらいだから、その疑われた私という主体によって発生する疑いを疑いと呼ぶことに本質的な疑念を覚える。確固たる者だけが真に疑いを発する権利があるのだろうが、懐疑主義者は自己の実在性を疑っているのだから、その疑いは二重の疑いとなって疑いは破綻している。だから私は何らかの馬鹿馬鹿しい信仰とか信念によって頼るべき対象を獲得しない限りは疑いを発することさえも禁じられているが、かと言って無闇な信念を抱く器用さを持ち得ないが為に自分の生存でさえも揺らいでしまう。 仕方ないので私は死の絶対性だけを信じたいのにそれすら信仰に至らない。こんな絶望的迷宮を彷徨っていながら私はやっぱり死の不可知性の中の可能性に賭けるという選択肢を捨てきれない。もし死が絶対確実な無をもたらすのならば私は死ななくても生存を肯んずることができる。だがその確固たる証拠がない以上自由意志的死の中に生存を拾う以外ないのだ。本当はこの結論が間違っていると思いたいのに。

2004年2月4日 深すぎる絶望
我よ!よく見よお前の罪を。そうだお前はお前の罪を悪と信じることが出来ないでいる。自分の正義感から、するりとすり抜ける罪に自分自身の欠陥を告発されてどう思うのだ。お前は自分の悪の鈍感さに絶望している。悪を悪と信じられない。そうだお前は悪に敗れ去ったのだ。お前の肉体は悪を為すために存在している。ああ知っているよ善意識よ。私にはお前の声が聞こえないのだろう。私の善は虚妄だった。私は私自身の悪の整理すら出来ない。私は悪を悪と信じられないように善をも実は感じられなかったことに気付いたよ。善を為せといわれても何が善だか私にはわからない。私の格律は何の普遍性も善なるものの断片さえも持たない。善を私が知らないことを私は自分で証明して見せた。何しろ私の決定的悪は私に感知されないのだから。ざまあみろカントと言うべきか。
私は私の鈍感さに失望する。私は少なくともこう思えてならない。良心が全ての人間にあるというのは過信だと。なぜならば、私は私の良心を良心だと信じることができないのだから。私の良心が私の悪を感じられないのならば、それは良心であるはずがない。それは良くても不完全な良心、欠陥ある良心だ。それどころか、私の良心は悪そのものでさえあるかもしれない。これは人間として欠陥であるし、人間と呼ぶことすらできないのではあるまいか。もし私が決定的に人間でないことが証明されるならば、私は人間という呪縛から開放されてかえって気楽かもしれない。まてよ、それどころか、気楽だと思えること自体が私の非人間性を証明して見せてはいないだろうか。そんな私が無理に人間のふりをして生きている意味があるだろうか。肉体的奇形よりも精神的奇形である私の方が余程人間離れしているのではないか。私と兇悪な殺人鬼に比べても何の遜色があるか。殺人鬼は社会から排斥されて死刑になるだろう。ただ私は殺人をしていないという理由だけで死刑が執行されないだけのことだ。良心の欠陥という意味で本質は私も殺人鬼も全く同一ではないか。むしろ死刑になる殺人鬼の方が検事や裁判官や刑務所職員の役に立っているというくらいだ。私に何の必要性があるか。何もない。私は何も有意義なことを為せない。私が信じるものが結果的に欠陥のある良心を母体としている以上私から何らかの有益なものや善なるものは何も生まれないだろうし、偶然それが生まれたとしてもそれを私は善と認識しないのだ。盲人に車の運転ができないように、私は有益さに関係する何事をもなし得ない。もし私が生き続ければどういうことになるか。私は私の盲目的意思に従って社会に無数の害悪を撒き散らし、何者をも幸福にできず、争乱と悪と不快なる時間と空間を社会に提供し続けることになるだろう。しかし私が今すぐにでも死ねばどうであるか。私はこれら無数の悪を食い止められるのだ。こう思うのは私の良心の仕業だろうか。いや、そんなはずはない。私の朽ちた良心が何らかの善を生み出すことなんてありえないのだから、単に死の言い訳を考えているだけだ。もう無駄な抗いはやめよう。今はただ死後の世界などという馬鹿げたものがないことだけを信じるしかない。

2004年2月3日 原罪が赦されうる理由
統一された存在とは如何なる存在であるか。統一された存在は内部に対立がないと定義されるとすれば精神が統一的ではないのは何故か。もし精神が内的対立関係によって止揚される、そのために統一されていないのであれば精神の統一は精神的ではない。精神的である、という言葉の意味はその精神が幾つもの断片的意識が集合体として機能するような、一種の破滅的性格を示している。精神は意識同士の対立なのだ。この精神の根柢的な破壊的傾向は、精神構造の高次化が進めば進むほど巨大となっていくだろう。部下が増えれば増えるほどそれを統率するのが難しくなるのと同じように、意識構造が複雑化すればそれを統合するための努力は計り知れない労苦となる。一方人間の肉体に目を向ければ、精神と同じように、人間を構成する無数の細胞がたったひとつの個体としてまとまっていられることは奇跡的ですらある。肉体も部分部分の拮抗なしに、そのかりそめの統一を為しえていない。我々は自分が一人であり、独立した個体であると信じているが、その信仰に一体どれだけの確実性があるのだろうか。人間は一人では生きていけない事実に目を瞑ってまでこの信仰を維持することにいかほどの意味があるか。私はこの盲目的信仰を断じる。私が一つであり、個体である限り私は世界と和解できないからだ。人が完全に独立した存在である必要はない。そもそもそれが不可能である以上、独立の自由は見果てぬ夢に過ぎないのだ。一体どこの世界に、虫一匹殺さずに生きている人間がいようか。私の生は他生物の死である。つまり私が幸福になれば誰かが不幸になるということだ。善人面をしても、私が生きるために一体どれだけの生き物を殺してきたことか。一日の間断もない殺戮が私を生かしている。私が独立した存在ならば、私は私の罪業にやり場のない虚しさを覚えて自殺する以外逃げ場がない。死刑を私刑として自分自身に執行する他に私はどんな解決方法も見出せないだろう。それをしない、しなくていい理由は、実のところ根源的に我々が共通の集合意識を持っているからに他ならない。これは、我々が潜在的に許されている、ということなのである。つまり、私が生存と名づける根源的意識が大地のように遍く全人類全生命を覆っているからこそ、我々はこの潜在的「和解」によって死を免れ得ないような絶望的原罪から救われているのである。私の命の系譜が脈々と何十億年と受け継がれてきた事実は否定しようがないから、私は確かに最も原始的意識において生命の本質的意識と繋がっているのである。しかしこの生存の連環は苦の系譜である。我々は進化そのものによって生存の本質から疎外されてきた。どうしてか。私という意識が発生することによって私が独立した存在であるという錯覚に必然的に陥ったからだ。人間の精神と肉体が著しい無秩序の中にあるにもかかわらずである。自己の独立性の放棄以外に実存の道は存在しない。

2004年2月2日 正しさ
正しい人はいない、というパウロの言葉(ローマ人への手紙)が私は大好きである。強い原罪意識なしに、どうして人が救われようか。私の愚かさ、弱さ、それに愕然となって徹底的に思い知らされる我が罪の意識。誰がそれをゆるせるというのか。肉という罪、産まれながらの罪、それを誰が拭えよう。私の正義感が真の正しさから来ているとでも言うのか。そんなことはないのだ。私にあるのは、ただ、罪だけなのだ。弱さ故に流され、背徳的であり続ける私。この愚劣さを誰が赦せるのか。私は罪の本質に押し潰されそうだ。私は、私という罪の中に生きている。私は決してこの罪を拭えない。正しい人はいないのだから、私も正しい者とはなりえないだろう。ただ、私は正しい者とはなれないまでも、罪深いままでも救われたいと思うのだ。

2004年1月20日 存在に先んじる生存
鬱という怪物は突如として襲い掛かり、突如として去っていく。台風のように激しく精神を蹂躙し、跡形も残さずに消え失せる。そう、最初から苦に実体はなかったのだ。しかし私はこの一時的な偽りの安心と、真の安心の相違を知っている。生きている状態は疎外そのものなのだ。私は生きている限り、この馬鹿馬鹿しい苦悩のトートロジーから脱せないのか。否、断じてそうではないはずだ。私は生存と和解する。この和解は経済的でも政治的でもなく、ただ私だけが私に対して為しうる和解だろう。そうでなければ今私が生きていることを神とて認めることができない。私は考えること以前に、感じること以前に、生きようとする以前に、存在する以前に、確かに生きているのだから。生存が存在に先んじるからこそ私の存在は肯定されるのだ。だから生存だけが、私の生存を知らしめる認識作用の桎梏を打ち砕く。私が生を認識する以前に私が私の生存と一体であれば、確実に私は生存の軛を超えるだろう。自明ではないか。

2004年1月16日 激しい鬱
酷い鬱状態でどうにもならない。下痢も始まる。完全に実存は危機的状態である。全世界が私の桎梏となっているようで呼吸のひとつひとつが重苦しく、沈鬱な気分を晴らす方法がない。人格が精神と剥離しそうであり、久々に死線が近い感じがする。怒りと虚無感と不安がごちゃまぜになった言いようのない暗澹たる煉獄の世界にいるようで、私自身が人間疎外の謂いなのではないかと思われるほど私の生存は脅かされている。時々すっと気分が晴れる瞬間があるが長続きしない。セロトニンがかき消されている。肋骨の間の神経が軋むように痛い。心臓の周囲も抉られているように痛い。正直永遠に眠っていたい。死以外に能動的に獲得すべき価値を発見できない。危険な状態だな、と自分で認識できるのだが、解決できない。自分の弱音を吐き出している自分自身が許せなくてますます死にたくなる。精神科にでも行くべきなのだろうか。だがそれを拒絶するに十分なほどの虚無が私の身体に血糊のようにべっとりとへばりついている。無価値なる我よ、滅びてしまえと叫ぶ私がいる。最早私の心配は私の死体の始末でさえある。私の存在も、存在した証拠も何もかもを跡形もなく消滅させる方法が欲しい。私を構成している原子が存在しつづけると考えただけで私は恐怖する。私が存在しなくなれば私はもう絶望しない。なのに私の構成原子も存在した証拠も残ってしまう。まるで永遠に私を絶望から逃すまいという呪いの呪縛のように。私が自殺しても私が完全な虚無へと返らなかったらどうしよう。だが生きているよりは死ぬほうが虚無になる可能性は遥かに高いと考えるべきか。そう考えれば死は妥当な選択だ。

2004年1月14日 無価値なる我
私の人格的歪みの原因は育ってきた環境と生来の性格によるが、それを親を含めた他者の責任に転嫁することを私は好かない。私の消極的性格や異常に強い警戒心と猜疑心、さらには鬱病的傾向や無用な正義感など、数え上げたらきりがないほどの反社会的で悲観的な性格の傾向は、たとえそれらの一部が後天性であることが明白であろうとも変更しようがないので一生抱えていかなくてはいけないものだ。私は私自身のこの愚かさを弁証法的に証明する気はないが、ただ、こういうことを思うのである。私の愚かさは痴愚神に嫌悪されているという意味での愚かさだと。換言すれば、愚かさの価値から先天的に私は疎外されているのである。これは私が人間的な喜びを享受する能力を有していないことを意味している。人間的喜びは愚劣さの中にあるので、その愚劣さを嫌悪する私は人間的価値観から見れば明らかに愚かであり、非人間的である。であるから、私はヒューマニストになることは決してできないのだ。一方、私は宗教的であると思う。なぜなら大多数の人間は反宗教的だからである。私と人間との和解は永遠にないだろうが、だからといって私は私自身を救うことを諦めない。しかし私が救われたとしても私は私の隣人さえ救えないだろう。こうして私は私の無価値を宣言した後も、やはりのうのうと息を吸っている。きっと私の一部が確実に人間であるからだろう。その僅かながらの人間性が私に愚劣の快楽を与え、地獄での生活に僅かな楽しみを見出せるように仕組んでくれているのだ。露ほどの楽しみもなき人生において、私はその僅かな楽しみの根源をさえ断てと私自身に命じる。こういう愚かな人間だけが至る場所があると信じて。

2004年1月8日 世界秩序が実現不可能な理由
もし自分以外の全員が欠陥車に乗っていたならば自分の持っている欠陥のない車の方が欠陥車に見えてくるだろう。嘘吐きだらけの中で真実を語ると自分の方が嘘吐きになるだろう。自己批判的でない人間の中で自己批判したら滅びるだろう。でも私は私の自己批判を止める方法を知らない。自己批判できる人間は弱い。厚顔無恥な人間に立ち向かえない。
さて、もし我々の抱く善悪、道徳が感情による支配を受けているのならば、アパテイアのような状態が道徳的状態でないということになる。完全な無感動の中では道徳という概念は発生しないのだろうか。悪に出会ったときの怒りが悪を規定し、善に出会った時の心の安らぎが善の源であるのならば、確かにそうである。我々が感情を超越した超人になると道徳も消えてなくなってしまう。感情的で粗野な人間の存在が善の母体なのである。とはいえ、私の根本的反社会性は社会の醜悪さに対する嫌悪ゆえに私自身を醜悪な存在へと成すという、自分に対する裏切りを実行できないことに起因している。私が私自身を裏切れないことが私を反社会的にしているのだから、私の社会的見地からの醜悪さは比類がないに違いあるまい。私は世界一の欠陥車の主人でありながらも私自身の欠陥を裏切れないでいる。私は私自身のこの些細な問題に気付き、さらにこの問題が人類の全体的問題として捕えることが可能である点に着目したい。私はこの問題(感情的であることが道徳を産むが、道徳によって自己批判的理性が妨げられるという問題)が、人類が一切の遺伝的進化なしには根本的社会の進化もありえないことを示している点に気付く。その理由は、善悪などの相対的価値(この価値観がどのように杜撰な形態であっても)を持たずに社会が構成できないからである。これは、世界秩序や世界平和が実現不可能な戯言に過ぎないことを暴露している。なぜならば、真に秩序だった世界の構築のためには世界という規模での社会理性が存在していることが絶対に必要だからであるが、この社会理性は価値が存在しない超道徳的意識であるからだ。つまり、人類の理想(世界秩序が理想だとしての話だが)のためには、我々は人にあらざる何者か(例えば電算機)に社会機構全体を委託するしかない。こんな馬鹿な話があるかと言いたくなるが、もし私の主張が違っていたのならば、人類は早晩遺伝的進化なしに社会理性を獲得するだろう。

2004年1月5日 理不尽〜破滅の希求
私が29年間にも渡って存在しているという理不尽に愕然となる。生きることは理不尽である。理不尽を肯定する以外に生き延びる方法はないし、理不尽に敢えて眼をつぶっている状態のことを「生きる」と呼ぶのだ。だから私は生存は理不尽だと知りつつも、その理不尽さを完全に肯定していないから私は生きている。生存が理不尽であることは凡そ以下のような理由による。まず第一に、自殺を否定できる哲学は存在しない。自殺しない、すべきでないという消極的理由を我々は一神教の中に見出すだろうが、その理由は神によって創られた私、という前提を理解できない東洋人には彼らが自殺を否定する理由を受け入れられないだろう。私も受け入れられない。最も月並みな自殺否定は「生きていればいいこともある」という気休めだが、死んだ方がいいことがあるかもしれないことには誰も言及しない。生きていれば、という仮定と、死んだら、という仮定は全く同等であるのだがら、当然死ぬよりも生きる方が良いということを説明しなくてはならないだろう。しかし誰もそれは出来ない。なぜならば、未来を完全に予測できる手段がないからだ。それに、もしその手段があったとしたら寧ろ多くの者が死を選ぶだろう。幸福な人間などほとんどいないことを我々は知っているし、確率的に考えたら生きていていいことがある可能性なんてものは宝くじのようなものだ。しかし、我々は非常に小さい確率ながらも、その確率がゼロでないから生きている。確率が限りなくゼロでも宝くじを買う心理はそれである。つまり、我々はほとんど得られないであろう真の幸福を期待して、ごく少数の幸福に見える人間たちのようになれるかもしれないという皮算用を心の支えにして生きているのだ。そして、決して自分の自由意志の及ばない運命の圧倒的な力に支配されていながらも、我々は心の底で私は自由なはずだ、自由であるべきだと叫んでいるのだ。生存の理不尽に立ち向かうために。そしてその虚しい抗いこそが自殺から人が免れる唯一の方便なのだ。人生の理不尽さの第二の理由は、その理不尽さを生み出している元凶によって私が存在していることである。宗教は最終的には「死」に至る。生きながらにして死ぬことを目指すのが仏教である。なぜ死ぬのかと言えば私という存在が理不尽だからに他ならぬ。理由もなく、自由意志の発露でもなく、私は私として何の理由も必然もなく存在してしまっているこの絶望的不幸に決別するためである。そのための方法はたった二つしかない。肉体的死に至るか、解脱によって私という意識を殺し去るかのどちらかである。如何なる形にせよ私にとって自殺は否定することが出来ない行為であり、この結論が極めて自明で演繹的であることを思えば自殺を思い留まらせること以上の偽善を私は思いつかない。もし私にとって自殺が禁じられているならば、私の精神は暗い洞窟の中で永遠にさまよい歩くだろう。私は私を対象化し、そしてそれを愛するが故に苦しい。どのような方法ででも私という対象を滅ぼしたいと思うのは当然で、それをするなというのは酷過ぎる。自殺の否定は、自殺を回避する代償を何も提示せずにそれを禁じようとしている場合がほとんどだ。実に傲慢だ。そんな傲慢を神以外の方便を使って行使するなんて私にはできない。人の心を愛で満たすことなんて出来ない。人の心を満足させきるなんてことはできない。ただ、完全なる死以外に私を安らかしめるものはない。私が価値を生み出したくせに私は私に価値を見出さない。
私はしばしば自分の人生を破滅させたい衝動に駆られる。私の心の底に自分に対する激しい憎悪が燃え盛っているのだろう。私が人間であるという絶望と私という存在が和平したいと私が思っていることは知りつつも、私はその和平の無価値さ故に私は私の破滅を夢見る。それでも猶私の心は私自身への実体なき淡い期待、もしかしたら私は幸福でありえるかもしれないという期待を捨てきれずに、私は私の人生を破滅から救っている。そしてそれもまた無価値であることを私は知っている。私は歴史そのものによって私が破滅の中に幸福を見出す幻想にとり憑かれていたし、その幻想を完全に払拭できないまま29年間も生き長らえ、そして私の絶望の根は未だ完全に断たれないのだ。結局私が独立でありえる瞬間など一瞬間もなく、私に自由などない。それが自明であるのに、理不尽な不自由の謂いである人生に決別しない理由の何と軽薄なことか。そして皮肉にも、人生に積極的理由を見出せない人間ほど長生きするというのが現実だ。私は私が存在していることを認識しているという事態、その事態そのものに絶望しきっているのだ。認識という呪いに私は死以外の方法で立ち向かえない。しかし私は死さえも自由意志によって獲得できないという理不尽に直面し、生と死の極限的ジレンマに憔悴しきっている。これが私にとっての29年間という無駄な時間の結果なのだ。この無価値な状況にどう私は対処すればよいというのか。私が私を自由意志によって滅ぼせるのはいつなのだろうか。私はその時間制限を圧倒的外圧によって与えて欲しくて堪らない。

2003年12月26日 民主主義の自己矛盾
民主主義は無知な大衆の怒涛のような自由意志の放置に過ぎないし、過去に民主主義が未曾有の戦争をもたらしたことも事実だがそのことを民主主義自身が反省したことがないのは不可思議だ。左翼は常に反民主という立場を崩していないし、当然マスコミも反民主的であるが、どういうわけか自分たちの反民主主義的立場を表明するどころか民主主義を利用して民主主義を打倒しようとしている狡猾な連中なのだ。民主主義の持つ不完全性は反権力を表明している似非知識人たちの生息する余地を自分から与えているわけであり、まるで自分を今にも殺そうとしている野党にわざわざ刀を渡しているようなものだ。一部の大衆は知ってかしらずか自分の敵を擁護して自分たちの主権を放棄することに快感を見出しているらしく、理解不能である。しかしそういう理解不能な現象さえも民主主義は暖かく見守ってくれる。表現の自由を与えてくれた恩人に対して表現の自由を行使して攻撃を仕掛ける連中の神経も理解不能だ。民主主義の無制限的度量の広さは、それ自体が民主主義に仕組まれた癌細胞のようなもので、それらの癌を治癒するためには国民の知的水準の底上げしかないにもかかわらず、民主主義の政府自身が国民の白痴化に躍起である。民主主義は自殺したがっているとしか思えない。なにせ日本ではテロリストにも参政権があるどころか、議席まで獲得できるのだから。民主主義が正常に機能するためには、民主主義が無制限的自由主義と決別するしかない。表現の自由が認められても、他人の言論を統制するような表現まで野放しになっていいはずがない。人を殺す自由がないように。そして一番明確にしなければならないのは反民主的活動に制限を加えることである。集団で国会に押しかけて実力行使で政権を奪取することなどがあってはならないのは言うまでもないが、そうした事態に今の日本は対応できるのだろうか。甚だ疑問である。最も重大だと私が感じる反民主的行為の放置は、現行政権に対するマスコミの批判的発言である。マスコミの人間を国民が選んだ覚えはないのに、彼らは国民が選んだ国会議員の批判をするのはどう考えても民主主義に対する重大な反逆行為である。破防法を適用してもいいくらいの国家反逆的行為が平然と行われていることにもっと目を向けるべきだろうし、そうしなければ民主主義は決して正しく機能はしない。もし我々が国民の国民による国民のための政治を真に望むのならば反民主的権力に対して立ち向かう勇気が必要だ。

2003年12月25日 哲学の最終目的
哲学の最終的目的は、その哲学自体の消滅である。もし哲学が哲学そのものの存続を願うものならば、哲学は哲学として機能していない。私が私として機能するのは私自身が私の死を暗黙裡に承認しているからであって、私の死という私の消滅がなければ私の存在意義を喪失する。哲学はそもそも非常に消極的な理由によって発生している。簡単に言えば悩みがなければ哲学など必要ないし、現状に完全に満足しているならば人は思考する必要などない。追い立てられているからこそ人は思考し、哲学を生み出すのである。だから、哲学は哲学からの脱却を望んでいる。脱却とは、問題が完結して哲学が不要になった状態なのだから、哲学は哲学の存続を望んではいない。当たり前である。対照的に偽りの哲学は哲学の存続を願っているだろうから、簡単に見分けられるだろう。

2003年12月18日 決断
決断は為し難い。決断に払う精神的エネルギーは巨大である。決断はすなわち迷いを意味する。迷いがあるから決断があるのである。そうすると、もし完全に迷妄がない世界があるとすれば、私は決断をしないということなのだろうか。私は何かをするよりもしない方が好みらしいから、私にとっての決断は如何なる場合においても苦痛である。決断をするということは私が迷いの中に必然的に追い込まれることだからである。しかし、決断の存在しない状態など存在するのだろうか。もしそんな状態が存在したとしたならば、私は食事も満足に取れないかもしれない。そもそも私が決断しなければならない本質的理由は私が一人しか存在しないからである。もし私が二人存在したならば私の決断の幅は2倍になるし、そもそもそういう状態を決断とは言わないだろう。私が迷いの中にいるということは、私が一人しか存在しないからであり、迷いの本質は私の存在に依拠している。私は決断した瞬間に初めてそれまで抱いてきた迷いから開放されるが、次々に決断は迫ってくるので迷いに間断はない。まして決断に後悔でもしようものなら私の迷妄は果てしなく、過去から未来へと全時間的に広がっていくだろう。もし私にとって時間が消滅しているのならば決断は為し易い。というのも、決断に伴う負の連鎖は時間の消滅によって断絶しているであろうから。もし時間が消滅していれば私には後悔も不安もないし、決断によって私の人生は負荷を与えられないだろうから、私は決断と迷いをまとめて屑籠に放り込める。迷いのない決断という論理的矛盾は私の時間意識の消滅によって発生しなくなるだろう。

2003年12月16日 感動の構造
感動とは何か。私が欲するのは感動そのものではないのに私が感動の深奥を抉る作業に何がしかの意義を人は認めるだろうか。もし感動が芸術と等しい領域から至り来るものならば、感動の深奥は私の中に眠る最も暗い生存の意思の作用に他ならない。私がこれまで否定的イメージを与えてきた生存の意思を肯定的に捉えるようになりつつある最近においては、きっと感動は私の最も私らしい在りようをそれ自体が示す、体験的実在なのだろう。その時私は確かに「感動」であって、その原因を美に求める必要もなくなり、独立した真実在としての感動が、確かに私「以前」に存している。だから最も忠実にその状態を言語的に表現すれば、感動が私を構造化しており、私という原因が感動という結果を生み出してはいない。だから、感動がその根源性を如実に示せば示すほど私の感動も大きくなっていくし、私はますます感動によって私を構造化できる。私がもし感動そのものならば、私の実存は確かに生存の意思と見事に一体化しているだろう。このようにして感動は感動の構造によって私に感動という体験を発生させている。感動とはかくも感動的である。

2003年12月13日 哲学の真贋
昨日の夜中にNHKでアウシュビッツ収容所の楽団で演奏していた老婦人に関する番組が放映された。比較的中立的、客観的だなと思う報道姿勢であったのでおそらくかなり事実に即したものであったのだろう。国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)支配下のドイツにおいて為された計画的民族浄化計画はあまりにも凄惨な大虐殺の遂行だった。人類史最大の汚点の一つと言っても過言ではあるまい。ホロコーストの嵐の真っ只中、アウシュビッツで心ならずも大虐殺に「音楽家」として荷担せざるを得なかった人たちの背負った罪の意識の大きさは想像に難くない。毎日一万とも言われるユダヤ人がガス室で殺される異常な場においては、私もきっと殺されなかったとしてもまともに人格を維持することは出来なかっただろう。発狂してもおかしくはない。
我々人類が20世紀において学びえたものは何だったのだろうか。二度の大戦と、その後の共産圏における粛清の嵐で一億以上の人命が奪われた。人類史上最大の発展の100年は未曾有の破壊と殺戮の悲劇の時代でもあった。私はこう思う。あれらの虐殺を理論的に肯定した学者たちの罪はあまりにも重すぎるのだと。社会的ダーウィニズム、優生論に代表されるような無責任な学者の発言がどれだけの悲劇を生み出したかを忘れてはならない。間違った哲学は人類を悲劇へと導くのだ。マルキシズムにしろトロツキズムにしろファシズムにしろ結果的に人類を幸福へとは導かなかった。それは厳然とした事実である。主体思想が北朝鮮人民を幸福にしていないことは明らかだ。求められているのは形態なき普遍哲学なのである。矛盾を受け入れない哲学は必ずや破綻と悲劇を生む。矛盾を受け入れる哲学だけが人類に真の幸福を齎すのである。柔軟な心と慈悲の心が哲学の骨格にないのならば無限の憎しみの連鎖を作り出して必ずや再び殺戮の時代を呼ぶであろう。そして哲学の真贋を見極める高い知的水準が人類には求められている。結果的に殺戮を止める力は智の中にしかないのだ。

2003年12月12日 人間らしい心の喪失
本日付の朝日川柳において信じられないほど非常識な川柳が掲載されたので記念に書いておく
自衛隊 サンタの服で 行けばよい    八女市 吉原鐵志
所謂馬鹿には何種類かある。一番無邪気で害の少ないものは単なる無知に根ざしたもの。根源的無知である無明とは関係がない知識なき無知という意味である。馬鹿が一歩進むと知識はあるが哲学がないという馬鹿になる。目標もないのに無闇に他人の意見に反対したり、勝手な妄想に基づいた荒唐無稽な理論を信じ込むのである。更に馬鹿は進化する。知識の域を出ない哲学なきイデオロギーに異常固執し、全ての社会現象を無理やりに自分に都合のいいように捻じ曲げて解釈し、さらには自分の人権という名の無制限的権力を主張するためならば他人の命など虫けらのそれと変わらないが如く振舞う人面獣心の最も悪質な馬鹿である。吉原鐵志さんについては何の知識もないのであるが、この人をそれぞれの場合について当てはめてみた。まず、この人が単なる無知の人ならば、きっとこういう状態でこの川柳を書いたことになる。彼はイラクがイスラム教の国であることを知らなかった。そしてクリスマスがイエス・キリストの生誕日を祝うものだとは知らなかった。テロリストがイスラム原理主義者であることも、彼らがクリスチャンを憎んでいることも知らなかった。彼の中ではサンタ=楽しいもの、という単純な図式になっており、自衛隊員がサンタの服で行くことそれ自体に滑稽さを感じてこの川柳を作った、という具合だろう。2番目のケースでは、一応常識レベルの知識はあったのだが、彼は自衛隊が嫌いであり、ましてや武装してイラクに行くことには反対だったので、12月という時期を考えてサンタの服で行けと自衛隊を揶揄するつもりでこの川柳を作ったことになる。最後の場合では、彼はかなりイラクに関する知識を持っていて、自衛隊がサンタの格好で行けばテロリストの激しい怒りを買うことも、イラク国民の顰蹙を買うことも十分に理解した上で、敢えてこの川柳を作ったことになり、それはすなわち、自衛隊員なんかみんなイラクでテロリストに殺されてしまえばいいと考えていることに他ならない。この3つのうちどれに彼が該当するのかはわからない。しかし、はっきりと言える事は、この川柳を掲載した新聞社側の意図である。新聞社側が、自衛隊員がサンタの服で行ったらイラクでどんな目に遭うかを予想できないなんてことはまず考えられない。つまり、この新聞社は読者の川柳にかこつけて、自衛隊員は全員イラクで死ねと言っているのである。これは決して考えすぎではないと私は思う。もし私の考えが単なるとり越し苦労ならば、この新聞社の記者はとんでもなく頭が悪いことになる。では、このような陰湿な悪意はどうして発生するのであろうか。おそらく、自衛隊員がイラクで死ねば大嫌いな小泉政権に致命的損傷を与えることが出来るだろうという読みなのだろう。自分たちの意に添った政権を作るためならば人の命など何とも思わないということだろうか。一人の日本人として、実に哀しいことである。人間らしい心を失ってまで得るべきものなどひとつも存在しないというのに。

2003年11月11日 自殺の正当性
自虐は陶酔の一側面だ。そして悲観もまた自分を守る働きに過ぎぬ。自分が恋しいからこそ私は私を苛む。苛まれた私は私という世界の中で失われた真実を求める英雄に仕立てられる。自殺もまた生きるために自身を殺す。楽しい気分で笑って自殺する人間がいないのはそのためだ。私が私の肉体を殺すことによって私自身たる私の精神を漆黒の闇から救い出す。私は私を救出する英雄として死の物語の中で美化され、極限的陶酔の中で人生を抹殺する.。人生という無価値と戦う者は死によって最大の賛辞を自身に贈り、一度として得られなかった、本来得られるべきであると信じていた幸福を絶望の中に発見する。死は実に詩的だ。死に潜む美によって人生を無効化してしまいたいという欲求に打ち勝つことは大抵の場合困難なのだろう。しかしそうであっても、自分自身を殺すことは生きる希望によって成し遂げられるのだ。生きる希望を失って死ぬのではない。能動的死は受動的死よりも遥かに強い生への執着の現れなのだ。生きようという意思は自分への愛そのものだ。その自己愛は無価値な人生から真に生ある世界としての死に私を駆り立てる。死は極限的生の世界なのだ。輪廻とかそういうものではない。もう二度と生まれたくないからこそ死の中に真の生を見出すのである。この構造によって自殺は正当化される。自殺しようとするのは人間だけだ。自殺は文化的現象であるとさえ言える。今この瞬間にも多くの者が自殺していることだろう。彼らは笑って面白おかしく楽しい人生を過ごしている人間よりも何倍も多くの幸福を今受けているだろう。世間の刹那的価値よりも死の絶対価値のほうが強固で敗れることがないから。それでも私はきっと生きてしまう。それは私が馬鹿だからに他ならない。馬鹿でなければこの世界に生きられはしない。

2003年11月5日 真に驚嘆すべき解法
維摩経の中で、菩提心を起こすことが出家だ、というくだりがある。まさに待ち焦がれていた言葉ではないか。少しばかり噛み砕いて言えば、現実をそのまま肯定し、許容し、対応すること以外に仏は何も説いていないのだ。世間では「自分探し」などという言葉が流行っている。ではその自分とは何か。自分をどこのどいつが探し当てたのか。全ての経文が一様に説く仏法の核心は本来の面目であり、それ以外には何一つ必要としていない。自分探しの終着点もまた自分そのものであり、その自分は過去の自分から隔絶した自分などではない。菩提心を起こすことによってこの場が道場になり、この場が蓮華国であり、この身が佛である。つまり、仏法は僧俗を超越して、一人一人の人間がその人間のままで発揮する根源的認識に他ならない。鉦や銅鑼で探しても本来の自分なんてものはどこにも存在しない。ただ、今この身のまま、菩提心によって私は私によって成道するということだ。維摩詰という架空の人物を通して語られる舊佛教への一種皮肉めいた説法は、おそらくは一度も釈尊自身が語らなかった仏法の真髄を示しているのだと思う。当然それを仏は理解していただろう。でもきっと語らなかった。でも維摩経は語っている。それは私にとって「真に驚嘆すべき解法」だ。

2003年10月29日 在家信者における道
維摩経と勝鬘経に関する比較的簡単な中村元先生の本を買って読んでいる。在家仏教における重要なこの二経典の持つ意味が非常に深いことが改めて分かってきた。もう少し読み進めてみないと何ともいえないが、私が抱く根本的疑問に対してこれらの経典がどの程度答えてくれるだろうか。私の抱く疑問はただ一点。在家の私にとって佛道とはどうあるべきなのか、である。原理的に言えば聖俗の境界はないのであり、この境界の破壊を見なくては出家しようがしまいが生きている価値がない。しかし、もしも、私が居士であるがためにその無境界の境涯に立ち得ないのならば、私は死ぬまで「俗人」という執着の世界にいることになってしまうのだ。逆に出家したとしても、「僧」という執着の世界から出ないのならば意味がないのも事実なのだが、そうは言ってもどうやって私という居士が、この資本主義の真っ只中に居ながら無境界の境地に赴くのだろう。人間は弱く、当然私も弱い存在であり、この脆すぎる精神の持ち主がどうして出家もせずに道心堅固でありえようか、と思ってしまう。もちろん出家という形態に何らかの価値を置くこと自体はほとんど意味がないと言える。だが、静かな場所もほとんどない大都会の真っ只中でまともに行らしい行もできず、できることといったらせいぜい佛教書を読むことくらい、という明らかに不満足な状態で、本当に私は完成されるのだろうか。もちろん観念的には居士であっても構わないことはわかっているし、道が今ここにいるこの私であることも分かっている。それであっても、先達がいないと不安でもある。私は超人的精神力と志を持って佛道を完成させた俗人を知りたくて仕方ない。必ず居たと思うのだ。そういう偉人が。

2003年10月20日 価値論
人間の価値が資本主義経済の浸透によってお金で画一的に評価され、本来多元的であるべき人間の価値がモノと同等の単元的評価が可能になっている現在、自分自身の本質的価値は誰の実存からも遊離しているのだ。年収が人間の価値であり、それが少ない人間は無価値な人間で、逆に多い人間は絶対的に価値ある人間であるのならば、お金に換算することのできない才能や努力や人柄は人生にとって何の意味もない無用の長物であろう。そして、この悲嘆すべき事実を知りつつ、お金以外の何かに価値を認めさせる教育を誰がしうるというのか。常識的に考えれば誰であってもお金だけが全てではないと思うだろうし、年収の多少によって人間の価値が決まらないと思っている。しかし、お金という絶対価値によって人は評価されてしまうのだ。お金と人間の本質的関係は人間を理解する上で絶対に避けて通れない問題であり、お金という人間自身が生み出した価値基準によって人間そのものが支配されるという構造に疑問を抱かないのは不自然である。全てが金銭を媒介にしないと物も情報も流通しないという現実は重大であり、例えば労働からの疎外という問題にしても、それは労働が金銭に兌換される時点での問題であって、金銭を媒介として始めて疎外問題が人間存在と接しているのである。結論から言えば我々人間は全く相反する二つの感情を同時に有している。すなわち、金銭という価値基準の合理性と絶対性を認めつつ、かつその合理性と絶対性は遊離すべきだと考えるのである。言い換えると、金銭を通した平等性と不平等性が常に同時に存在しているジレンマに頭を抱えているのだ。この複雑な問題に対して、きわめて極端な解決方法を示しているのがイエス・キリストであり、彼は「貧しいものは幸いである」と明言し、富という地上の価値が天国においては無価値であるどころか価値が逆転していることを繰り返し主張している。つまり、お金という価値は人為的で刹那的で神のものではない故に悪であり、金持ちが天国に行くことはほぼ不可能であるとまで言うのだ。彼は価値を転覆させることによって、信仰という精神的価値によって金銭的価値を踏破し、人間が潜在的に抱く「善さ」を絶対的価値と合致させることによって、人間にとっての価値問題を統一的に解決したと言える。

2003年10月14日 巷に溢れる猿智慧
人間という生き物の厄介さは人間が意味を求める動物であるが故であろう。意味は、根源的には自分が存在していることの意味である。自分がなぜ存在しているのか、その意味を知ろうと人は躍起になって答えを求める。では意味とは何かといえば、それは正しさとも言える。自分が存在している意味とは、自分が存在してもいい、存在すべきだ、ということであり、自分という存在の意味を探索する作業は自分の存在が許容されうる方便を捻出しているようなものだ。自分という存在の必然性が明らかになれば自分が存在している意味も顕かにされ、その意味によって自分は存在すべき、もしくは存在しなくてはならない、という結論に至って安心するわけだ。このような自分存在の意味の探求によってはたして何者が自分という存在の必然を確立できたのか、と言えば、実のところ自分という存在を根拠とせずに存在しえるものが何もないという現実によって自分という存在の必然に関する議論は迷宮入りしてしまう。だから通常我々が考えるような必然性を自分自身の存在に対して発見できる人間は誰もいない。よって自分が存在していることの必然は存在しない。必然なく、厳然として存在しているとしか言いようがないのだ。そうであっても人間は意味を求めるであろうし、意味を発見しようという努力を私は無駄だと言いたくない。なぜならば、存在の必然という問題に苦しむことでしか認識と存在の深奥に到達できないと思うからだ。自分という存在の意味に対して真剣に洞察するものは例外なく大きな苦痛を背負い込み、巨大な虚無感に至るであろう。人生は不可解なりと自殺さえしかかるやもしれないが、そうであってもこの問題を回避して一体誰が真に存在について知ることがあろう。
こうした思考、乃至はこれに類する形而上学的議論を通過せずに私には知があると豪語するのはいささか傲慢であると思われる。養○孟○とかいう人物の書いた本をパラパラと眺めていると、こんないい加減な知が世の中にまかり通っていいのかと呆れるばかりである。いちいち間違いをあげつらうのも馬鹿馬鹿しい。なぜならばほとんど間違いだから。そもそも医者に智恵なんかない、というのが私の極端な考えである。その理由は、医学には知識と智恵の区別が根本的に存在しないからだ。医学が科学だと思うことも間違い。だいたい解剖学なんかやっていた人間に世の中のことなんてわかるはずがない。あんな偏執病的学問をやることによって世の中が分かるなら苦労しない。結果的に知識と智恵の区別がつかないから本で知った知識をあたかも自分で獲得した智恵であるかのように書くことになる。読んでいるこっちが恥ずかしくなるくらいの厚顔無恥。特に酷いのが宗教や哲学の知識。古典の引用はするが意味が全然分かっていないので勝手な解釈をして悦に入っているご様子。オウムを批判しているあんた自身がカルト宗教作れそうですね、とつっこみたくなるくらいの想像力の豊かさ。論理も飛躍しすぎていて何が何だか訳が分からないし、関係のないものをさも関係があるかのように強引に結び付けてしまうあたりはだいぶ思い込みの激しい性格のご様子。やっぱり解剖学なんて終始目に見える具体の世界で生きていた人間は抽象的思考なんて全くできないんだな、ということか。彼の本の間違いに目くじら立てる気にもならないが、出鱈目知識を本にしないでほしいとは思う。信じる奴も必ずいるだろうから。

2003年10月10日 行不由徑
先日金沢大学へ行った際、大学のキャンパスにひとつの碑を発見した。その碑にこういう言葉が刻まれていた。「行不由徑」ゆくにこみちによらず。論語の言葉である。そういえば以前父がこの言葉を従兄弟の結婚の際に祝辞でおくっていた事を思い出した。改めてこの言葉の意味を考えているうちに突然とした閃きに私は撃たれた。行不由徑・・・なんと意義深い言葉であることか。この言葉が私が忘れかけていた大道の在り処をはっきりと示していることに愕然となった。道は此処に確かにあった。しかしその道は私が私自身を矮小化したところの道、すなわち徑ではなかった。そもそも徑は小道であって道ではないのだ。嗚呼なんということ!私が私自身を信じられなくてどうして道の完成があろうか。と私はしばらくこの感動に内心浸っていた。私は今まで愚かであった。大道を歩まずしてどうして私自身と道がひとつでありえよう。無数の小道をいくら束ねたとてそれは道にならないのだ。まして私が欲する完全無欠の真理など到底手が届かないに決まっている。私はこんな単純なことすら分からなかった。私にとっては平常心も無心も不動心も悟りも全て大きな一本の真っ直ぐな道の上にしかなかったのだ。だから老師が私に出家しなくてもよろしいと言ったのだろう。在家のままでしかも漫然と些末なことに拘って大道を見失い、徑に迷っていてどうして佛に近付けようか。在家であろうとなかろうと、ただ一本の正道を歩むことによってのみ人間は完成されるはずだ。そしてその完成をこそ私は真理を呼び、求め続けているのではなかったか。それを忘れて明日の食べ物の心配をしていてどうやって佛になれというのか。一瞬間でも大道の在り処を知り、それと共にあるのならばどうして明日の衣食のないことに煩いがあろう。大道のみが煩いを払い除ける安心立命の道なのだ。行不由徑の四字を深く魂に刻みつけ、万が一にも徑に逸れることのないようにしたいものだ。

2003年10月2日 西洋的我と東洋的我
毎日それなりにものを考えるわけであるが、さて、我思う故に我ありは要するにひっくり返せば我思わざるが故に我なしとも言えることになる。だが、思わざる私がない我を認識できないと通常は考えるが故にコギトは近代的自我の根幹として機能できる。西洋人なら我は神の絶対性を根拠として完全に揺るぎない存在の土台と信じられるし、それによって我は我だと確信を持って自己同一を達成するだろう。ところが、そもそも東洋人、少なくとも真に佛教を奉じるものであればそうは考えないはずである。体験として、存在しない我を認識するのであればなおさら確実な我などありえない。人が単純に確実性や完全性を求めるのであれば、完全なる我は必要不可欠であろう。私がクリスチャンならば神の絶対性と同一性を確保するためには曖昧で不確定なる我の存在を否定するだろうし、もしそうしなければ私が信じている神が真に唯一絶対なる神である保障がなくなってしまう。我がふわふわとした脆弱なものならば、私にとって世界は神という構造から剥離した悪しきサタンの支配する地獄となってしまうだろう。なぜならばヨハネ伝の冒頭にあるように神は言葉なのだから。クリスチャンにとって神はロゴスであり、世界は構造である。神の模写たる人間は万物の霊長として神に最も近い存在であるはずであり、それ故に人間の理性には最も大きな力が内在しているはずである。力とは世界を認識し、世界の構造を見極め、自然を支配する力である。そしてその力の根幹が我という意識なのである。我が存在するという確実性を神は保障している、いや、保障していなければならないのだ。しかし私の場合はそうは考えない。そもそも西洋人とは世界観がまるで違う。死生観も価値観も生きる意味も何もかもが違う。私はアリストテレス的ではない。それに実は科学的でもないのだ。厳密な意味で科学的だと言える人間なんてこの世に存在しないだろうが。

2003年9月16日 寂静
静かなことは良いことである。静かな環境は良い環境であり、静かな心は良い心である。静まった心は心地よい状態の心であり、心地よい状態は善である。善は静寂と繋がっている。善なる心は即ち静かなる心であり、荒ぶる心は悪なる心である。猛る心を静めて善なる寂静に入るのならば、心は定まっていて障害も境界も消え去っている。この時一切の虚論は崩壊して跡形もなく、損得も上下も自他もなく、迷いなく、欲なく、世界も認識も智も生死もない。ただ、永遠とも一瞬とも判定できない一切を包含した究極の静けさだけがあり、おそらくこの静けさは死と等価であろう。死んだ人間が死後に自分の死を認識できないように、究極の寂静は私の生死を無に帰す。なぜなら私が生きているという状態を静寂が覆い隠し、私の生は単なる無限定なる「存在」に帰すからだ。この静かなる我の存在性は言語を絶していて、私が何十年かかって哲学を練り上げたとしても説明し尽くすことができないばかりか、哲学自身を無効化してしまう。なぜなら真の私は単なるワタシそのものであり、決して考える葦でもコギトでもない始原的存在性だからである。それは認識なく存在しうるものであり、唯識でも唯心でもなく、唯我なのである。この我はbeそのものであり、考えるのでもなく、思考するのでもなく、認識するのでもなく、行動するのでもなく、つまり何も為さない極限的存在なのである。この存在性の体験を単純に認識とは言えないと私は思う。なぜならば、こうした我の存在性の体験は他の認識や認知とは明らかに異質であり、完全に独立した唯一無二のものだからである。

2003年9月1日 認識は閉じている
躁鬱病の遺伝因子のひとつが見つかったらしい。私自身にその因子があるのかどうかは大変気にかかるところだ。あったらあったで面白そうだ。私の心を支配する遺伝子の魔力。その抗えない圧倒的支配力を私は感受して生きているのだな、などと感傷に耽ることができるのかもしれぬ。遺伝子は私に内在する絶対的規則であり、何者よりも強く私の行動を規定している。例えば、私の遺伝子が一切の例外なく人を信用するなと命令するならば、人を信用するという行為を一生理解できないはずだ。愛を理解している人間がそれを理解していない人間の住む世界を永久に理解し得ないように、誰もが私自身という禁則によって世界を閉ざしている。たとえ知性によって認識を宇宙へ広げようとも、私に内在する宇宙的禁則によって宇宙は閉じてしまう。如何なる形にせよ規則がなければ、そのものは実体をなさず、また規則があるが故に認識は閉じるのだ。これは逆の言い方をすれば、認識が閉じていることが実体であるということである。私の肉体と精神を構造たらしめている遺伝子は私に実体を与えたが、それによって同時に私の認識は閉じられたのだ。遺伝子がなければ私は実体を持っていないが、そのかわり私の認識には境界がない。だから同じように宇宙が構造ならば宇宙の中の認識は宇宙の中で閉じている。

2003年8月28日 超えるべきモナド論
体重が50キロを割り込むという事態はどう考えてもよろしくない。Body Mass Indexが17.5を切るのは異常事態である。普段が18.5あたりでギリギリ正常値なのだ。中年になって腹が出るのは御免だが、ある程度体重が増えることは私にとって良いことだろう。それはともかく私の閉ざされた認識を全宇宙的に押し広げることが可能なのかどうかという問題に対してある程度真剣に悩んだ人間ならば一人の例外もなく一種のモナド論に到達するに違いない。私にとって大切なことは、こうした一見してもっともらしい(その意味では真実なのだが)認識に足踏みしないことであり、もし私がこの挑戦を放棄してしまえば間違いなく私の精神は崩壊へと向かうだろう。私が牢獄の中にいることを知りつつ牢獄から抜け出す努力を放棄したら、私は私のこの矮小さをいかなる思想によってか肯定できよう。意欲が私の気を紛らわすためだけの為にあるよりは、意欲そのものによって私が確実な自由に到達しようとする方がずっと賢い。私が意欲を喪失する時、私はきっと狭苦しい世界で自分を矮小化しているだろう。

2003年8月25日 贖罪
酷い風邪を体験した。私は止まらない咳の激しい苦しみに耐えながら、「自分がひとりしかいない」という現実を否応なく感受した。苦しみを誰が私に替わって経験できるだろうか。それと同じように他者の苦しみを私は決して経験できない。それは「私が一人しかいない」という現実によって私が他者の苦しみからは免れていることを意味している。そして、だからこそ私は苦の経験を苦の認識にして、他者への思いやりを持つことができるということだ。私が一人しかいないからこそ世界には慈悲があり、愛があり、希望がある。死の苦しみを分けあえないからこそ、私は他者の死の苦しみを識るのだろう。分け合えないことを知っているから自分を犠牲にしてそれを分け合おうとする行為が発生する。それなのになぜキリストが全人類の罪を購えるのだろう。私の罪をどうして彼が背負えるというのだ。私の罪と苦しみは決して何者とも分け合えないのだ。この自己の不可分性によって倫理も道徳も生まれている。この不可分性が崩れてしまったら全ての価値が転倒してしまう。不可分だから自己はどこまでも尊く、輝かしい価値を持っている。キリストにとって私という来るべき存在の苦しみを、私という存在からどうやって分離するというのか。彼は決して贖罪などできやしない。私は私という存在そのものをキリストにしないかぎり、つまり、究極的自己犠牲を払わない限り私の罪は拭えないのだ。私の苦しみは何によって拭われるのかと言えば、「私自身が私のために私に対して生贄とならなければ拭われない」のだ。自己犠牲とは自己の利益を捨てることであり、私が無償の慈悲となることである。この高い宗教性によってのみ、私は自分のために贖いを成し遂げるだろう。きっと高度に宗教的なクリスチャンならこの事実に気付いているはずだ。一体誰がキリストだったのか。ナザレのイエスか。ならば彼が贖罪の為に死んだという信仰を抱かないのに罪が消えるのか。信仰によってのみ義とされるのは信仰を通してのみ罪が赦されるからだ。そして信仰を抱いているのは誰あろう自分自身である。だから真に敬虔な者は愛の為に死ねるはずだし、その意識を通らずに贖罪はありえない。だからキリストは自己の罪の意識の中で逆説的に燃え盛っている者であり、その意味で彼は生き続けているし、永遠である。彼に会わないものは誰も罪から救われない。押し付けがましいが贖罪思想はこうあるべきだ。彼とひとつになった者は救われるし、そうならない者は誰も救われない。

2003年8月7日 腐ってしまえ
よくわからなくなる。世界と私の対立は根本的に私に依存した問題であって、私は世界によって思慮深い存在になっているのだが、この関係において私が自由から疎外されていた、という事実によって逆説的に世界が肯定されたとしても、結局世界は私に不自由を強いている。私が私であることを放棄してまで世界に迎合なんてしたくない、と望んでいたとしても、実は私の奥底では迎合を望む声がある。私の運命は世界に握られており、私は世界によって存在を剥奪される。私が反世界の謂いであったとしても私は世界を越えられないのだろうか。何かを得るために何かを捨てるのか。富むために貧しさがあるのか。満たされるために飢えがあるのか。では飢えた者はいつ満たされるのだ。ちっぽけな価値に踊らされているのならば、いつ私は止まるのか。いつこの動乱から抜け出て静まるのか。静まりたい者がどうして喧騒の中に留まるのか。自分を急き立てる声から逃れたいのにどうして家に帰るのか。失うことを恐れている者がどうして何かを得ようとするのか。正義も悪も同じように消え去ってしまうのに、どうして心が善悪に縛られるのか。真理がどこにあるのかが判っているのに、どうしてそれを拾う技術を身に付けるための最大限の努力をしないのか。いつ死ぬかも分からないのに、どうしていつまでも徒労に過ぎない無駄な事柄に躍起になっているのか。私は自分で自分のことなど何一つ決定できない。世界の気紛れのままに無駄な人生を浪費して白骨となる。私の骨に何を見出そう。その敗北の象徴に何か一つでも賞賛されるべき箇所があるのか。日々私は退化する。何一つ自己決定できないままに私は時間を浪費する。巨大な虚しさに押し潰されそうになった日々も世界が強いた。欲しいものがたったひとつしかないのに、私はそれを得る近道を知っていながらひどい遠回りをしている。お金があるのに飛行機にも新幹線にも乗らず、徒歩で京都まで行こうとしているようなものだ。いや、京都ならまだいい。いつかは辿り着くだろうから。しかし私は真の目的地に辿り着く前に死んでしまうかもしれない。私は飽きもせずに浮沈を繰り返す。私は盲人になることを拒絶していながら見えることに嫌悪を抱く。私は私を切り、私を分解し、腐敗と栄光の狭間でどうでもいい音楽を聴きながら憤ったり喜んだりしては自分を確認している、自己同一しかしようとしない単なる息する機械。繰り返される過ちと怠惰は私の肌に多くの湿った闇を擦り込んで、私という言葉はいつの間にか不気味な音節に分解されてワタシは私に気付いて嘔吐しそうになる。内臓をまるごと吐き出した後にも私は決して目減りしていないのだろう。永遠に分解されてもワタシは永遠に存在しつづけているのに私は解答を捨ててまで命を必死で存続させて、そして私は空白の時間と空間に放り出されて敗北したまま彼岸へと逝くのだろうか。あまりにも超えるべき実存は堅く、私はそいつを開ける鍵を持っていながらそれを使うなと世界は叫んでいる。私には自己決定できる時間は一秒もない。この魂の監獄の中で自由を叫びつづけているのに、私は既に自由を獲得してしまっていてしかも私には自由の実感はない。これを不自由と言った瞬間に私の全ては崩壊してしまう事実に対して、世界は何と冷酷な冗談であろう。世界が冗談だからこそ冗談に人は笑えるのだとしたら、出口のない迷宮の中でどうやって楽しむのかを必死で考え出すことが人間にとって価値あることなのだということか。それでもある者は出口はきっとあるはずだと主張しては精神を病んで馬鹿呼ばわりされる。まったくなんて馬鹿な奴なのだ!でも世界にとっては精神病でない奴のほうが余程馬鹿なのかもしれない。何しろ我々は精神を病むことさえ知らないのだから。だから頭のいい奴は薬を使って自分を破壊する。健常である事を世界は価値などと呼ばないのだ。こうして私はますますよくわからなくなる。そう、正しく私はワカラナイという状態にある。その分からない状態の健常さは私の無知を健全に証明し、そして私がワカラナイ状態である理由そのものによって私はかろうじて精神病から免れる。もし私がワカラナイ状態でなくなったのなら、その状態は2通りある。1つは分かってしまう状態。もう一方は分からない状態が破壊された状態。後者の時私の意識は世界を破壊して、私の精神は分裂してでたらめになる。分裂した精神はもう私を私として見ないだろう。でもその時私は安らいでいるかもしれない。そしてあらゆる罪でさえ私から逃げていくのだ。だから私はこう思いたくなる。「呪われよ!健常さよ!」と。私を構築するその抗いの生存の根源よ、もう私を作るのはやめてくれ。私を構築するな。私を秩序だてるな。哲学なぞ腐ってしまえ。知も腐ってしまえ。母胎の呪いから私を切り離してくれ。そして世界という言い訳をもう二度と見ずに済むように、私の死よ、完全なれ。そして我が価値よ、無なれ。

2003年7月29日 恐ろしい夢〜死と情欲の世界
天候に同期するようなこのどんよりとした沈鬱は何であろう。見た夢も気色の悪いものだった。私は死者の列車に乗っていた。そこには誰一人として生きている人間はいない。皆魂の抜け殻のまま生存していた。そこは貪るように欲望を満たしているだけの異常な世界。しかし彼女たちは生きている証を求めて快楽を求めても、決して生きている実感を得られずに苦しんでいた。彼女らは死んでいるのだから。生きているのは私だけだった。私はいつ隣の女に食い殺されはしまいかとびくびくしていた。列車は止まっていた。そして時々、黒いバイクの一団が隣を通り過ぎていった。その一団もまた皆死んでいた。生気の全くない亡霊の一団。列車の後方は左に曲がっていて、その先はトンネルのようなものに入って見えなくなっていた。葬列のようなバイクの一団はそのトンネルの中に入っていく。一定の時間間隔でこの一団は現れた。不気味で異様なこの亡霊たちに私は生きていることを知られたら大変だと思っていたが、彼らは気付かずに通っていった。列車の中は死と欲望で充満していた。私は恐ろしかった。ある女は欲望を貪りながらこう言った。私が私からズレていると。泣いていたようだった。魂が自分の肉体から剥離していることを認めたくないが認めざるをえないジレンマを紛らわそうと無駄な努力を取り返していた。欲望が渦巻いているにもかかわらず車内は静まり返っていた。異常なほどに。私は恐怖していた。私が生きていることに気付いたら多分隣の女は私を殺すと知っていたからだ。現にその女はすごい力で私の腕を握り、今にも爪で私を引き裂きそうだった。列車の外は白かった。霧がかかっているようで、とにかく白いのだ。きっとこの列車はあの世に繋がっているのだろうと感じていた。だからこそ、あの場所は人間の理性の及ばない暗い情動だけが支配していたのだ。
夢とは嫌なものである。私の支配が及ばないから。私は私を支配したい。それでも私が私と剥離するのを止められない。哀しいほど私は私を制御できない。心臓の拍動を自分で止められないように。私は私と拮抗している。いつであっても。そしてその溝は睡眠によって断崖と化す。睡眠中は魔が支配している。私ならざる私の影が現れて私を恐怖させる。だから私は寝ている間も覚醒していたいと願う。常に目醒めていたいのだ。

2003年7月11日 子宮からの断裂
私は酷い憂鬱から今確かに免れており、これまでになかった程に私の精神は安立している。この時期にである。毎年死神の先遣隊が私を取り巻き、死の詩を詠みあげた、あの者等はもう私の元から離れてしまったのか。私の死への恋は失恋したのだ。あれほどの美貌を誇った死の女神も今ではされこうべになった。彼女はもうこの世を支配する権利を私に与えられない。しかし彼女は立ち去ったわけではない。私の穢れの中で彼女は死を支配し続けている。しかし私は知っている。真理は清くはないのだと。そしてまた不浄でもないのだ。虚飾の梁は折れた。美の死神はもう私を騙せない。私には帰るべき具体的母胎がもうないのだ。だから象徴的意味でも私は母胎に帰することはないだろう。私は死しても猶帰るべき場所は母胎ではない。だから私の魂は決して大地に根ざさない。暗い情動は私を支配できない。生前も死後も等しく私の実存と切り離された。それらの等しく死神に支配せし領域は私と繋がらない。私はもう二度と胎盤に繋がらない。命の糸は愛ではあっても私を救わない。へその緒が切られているように私も生存の鎖から切られている。生存は私の元に帰ってこない。子宮は心地良かったがそこは死への門へと繋がっていた。私はそこを抜け出て死の支配を受け続けた。私は叫び続けたが誰も私の業を私に代わっては返せなかった。私の借金は私が返すしかなかったのだから。しかし私は借金を全て完済する。そうすれば私はもう二度と子宮を感じることも見ることもなくなるだろう。私は死の讃歌も命の讃歌も聞かない。胎盤から断たれた者がなぜそんなことをする必要があろうか。命より尊いものがないと信じる者は再び母胎に入って苦しみを受ける。しかし私はもう母胎に入らない。私は最後の生存に所属していなくてはならない。

2003年7月10日 滅びゆく日本
日本は酷い感染症に罹っている。奴らは病原菌であり、ウイルスであり、この国を食い潰した後にはこの国から立ち去って別の国に行って再び害悪を撒き散らすだろう。彼らは虚偽を語ることに良心が痛まないどころか、仲間を売って金に替える。奴らはイスカリオテのユダよりも性質が悪い。甘い言葉で人を騙し、無哲学という哲学を引っさげて無知をばら撒き、思慮のない人間をますます思慮のない人間に仕立て上げ、隣人への奴隷として売りさばこうと画策する。彼らは捻じ曲がった狂気を抱いており、人を悪によって裁くことを生業とし、明らかな嘘を詭弁でもって人に信じ込ませ、善悪の価値観を破壊し尽くす。彼らは人面獣心の悪魔であり、もっともらしい美辞麗句で己が悪意を見えないように隠しておいて人々を扇動し、結局はこの邦の人々に破壊と殺戮の悲劇を背負わせようとしている。彼らは戦争反対と叫びながら内心はドス黒い野心と悪意で燃え盛っている。彼らは国民に無知になれと叫ぶ。国民が無知であれば自分たちの嘘がばれないだろうし、国の財産である国民を貶めることでこの国を滅ぼす下準備ができるだろうから。彼らは無知を喧伝し続ける。彼らは無知を称え、賞賛し、激励する。無知な者はさらに無知な者を生み出そうと躍起になり、愚劣が愚劣を増殖させてこの国を蝕む。今や病原菌はありとあらゆる場所にばら撒かれ、そこかしこで悪性の腫瘍となってこの国を破壊している。学校は既に無知を教える白痴養成所と化しつつある。教員は無知以外にもう何も子供たちに教えられない日がやってくるだろう。「ゆとり」という悪魔の題目を唱えながら、子供たちを善悪の分別の崩壊した狂人へと育て上げる。少年犯罪はますます横行する。そのうち10歳以下の殺人鬼も現れる。彼らはそれを見て深刻そうな顔をしながら内心ほくそえんでいる。彼らは自分たちがまるで知識という悪の律法を破壊した解放者のつもりで平然と嘘を教える。知識よりも嘘の方が価値があるかのように。努力よりも怠慢のほうが価値があると言わんばかりに子供たちに怠慢を強いる。彼らの悪意はもはや熟した。国民は理性と知識を奪われて無知に抱かれながら操り人形のように破滅の道を歩み始める。未来も誇りも奪われているのに人々はそれに気付かない。平和と人権が正義とすりかえられ、もう誰も正義を行えなくなる時代が来れば彼らの機は熟する。彼らは嬉々として国民を隣人の奴隷として売り捌き、権力と富とを得て栄えるだろう。何百万という人間の命が奪われても彼らの良心は決して痛まない。彼らは率先して人民を粛清し、虐殺の嵐が吹き荒れる。人間の命など彼らとっては虫けら以下。自分たちに都合の悪い人間にはもともと人権などないのだから。どこまでも邪な彼らは思いつくありとあらゆる卑劣な行為を行って国を蹂躙する。死の天使たちは高らかに叫ぶ。我々は開放されたと。そして自分たちの罪のことごとくを自分たちの反対者に押し付け、魔女裁判を行って処刑する。恨みの声は彼らに決して届かない。この時になって初めて国民は気付く。彼らが悪人であったことを。しかし今は気付かない。彼らは善人のように映るのだから。彼らはこの地上から日本を消し去ろうとしている。彼らは自分たち以外の全ての日本人を抹殺しようとしている。だから一番真っ先に他者の人権を踏みにじる。日本人に人権などないのだ。他国が攻めてくればこれ幸いとその国に日本人抹殺計画を託して自分たちはさっさと逃げるだろう。自分たちの狂気の実現のためならば何でも姑息に利用する。彼らの狂気は決して衰えない。この日本という国が消滅してしまうまでは。日本人がこの世界から一人残らず殺されていなくなるまでは。それでも無知なる者は彼らを信じている。自分たちが真っ先に犠牲になるとも知らずに。その愚かさが別の愚かさを呼び寄せて彼らをますます鼓舞させるのだ。彼らの中には純粋な悪しかない。正しいことは決してしない。するのは他人の悪をでっちあげて吊るし上げることか、自分の悪を詭弁で善に見せかけることくらいだ。それでも彼らは衰えない。もう国民には彼らを断罪するだけの知性も理性も彼らによって奪われて残っていないのだから。

2003年7月9日 有限性と永遠性
永遠性と有限性は共に相対化された世界にあるという点では同一の次元にある。だから永遠性、もしくは無限性を突き詰めるとその中に有限性が内在していることになるだろうし、またその逆も成り立つ。宇宙はその意味で永遠であっても有限であってもならない。もし真に私が相対化を免れるならば永遠性と有限性は共に消失しているはずだ。

2003年7月7日 概念化を通して発生する実在性
人間が論理を使うことによって形而上の存在に実在性を与える場合、その存在の抽象性が甚だしい場合ほど実在性は希薄になっていく。この当たり前の事実をもっと深く考察してみると、抽象性の度合いは定性的に人間という「尺度」からの逸脱の度合いであると言えることに気付く。我々が使っている単位系は全て人間に合わせて作られているし、人間に合わせて作られていない単位系を人は生み出せない。これは人間にとっての尺度が人間以外ではありえず、また人間が何がしかを認識する場合においても人間の時空間的広がり、つまり人間の大きさや寿命による制限がかかっていることを示している。我々が見出す宇宙の秩序性はあくまで我々の視点から発見可能な範囲でのものであるし、もし人間の時空間的広がりや人間の生み出しうる論理性を大きく逸脱した何らかの存在が存在すれば、その実在性は人間から見て希薄なのである。これは著しく巨大なものや著しく微小なものが実在性を失ってどんどん抽象的実体になっていく様を示している。加速度よりも速度の方がより具体的であると我々が感じるのも同じ道理である。人間には外界からの情報を再構築してそこに実在性を与える機構が備わっているが、実在性には順位が存在しており、見えるものよりは見えないものが、聞こえるものよりは聞こえないものの方が実在性が当然低い。見えないけれども予測される存在と、その予測された存在からさらに予想される存在では前者のほうが実在性が高いと判断される。実在性は具体性と同義であるから、非実在性は抽象性と同義である。抽象的思考を行う能力は具体的な事柄を思考する能力よりもずっと特殊であるが、どんなに抽象的思考力に長けていたとしても完全に抽象的な思考を行うことは人間にとって不可能であると私は思う。というのは、抽象的思考能力とは抽象的実体を具体化する能力だからである。非実在的形而上の存在を完全に具体化は出来ないし、もしそれが可能ならばそれはもともとそれは形而下の存在なのだから、あくまでも抽象的実体に対して抽象的実体としての「標識」を与えることによって具体化させることになる。この方法を用いることによってどんなに抽象的な概念であってもとりあえずは概念の中に捕獲できる。しかしながら、概念の中に捕獲した抽象は、あくまでもその言語的な概念から遥か無限遠の遠方に存在するものであって、概念はただの影に過ぎない。よって抽象性を正確に扱うためには、その抽象性を損なわずに標識化するという一見矛盾した態度を取らざるを得ないだろう。例えば、私が使った概念の中でも最も高度の抽象性を持つ概念として、「概念化できない領域」という概念がある。概念化不能なものを概念化するというパラドックスを犯しながらも、それを概念化しないことには言語で表現できないために苦肉の策としてこういう概念を生み出したわけであるが、実はこの概念は、概念の外側を仮構的に言語の中に投影しているわけである。しかし、概念化できないものが本当に存在しえるのか、という質問を発すると途端にこの質問が破綻をきたしてしまう事がわかる。なぜならば、我々は概念化できないもの、つまり認識できないものが認識されてはならないからであり、当然これはパラドックスである。概念的であるものをこそ我々は存在していると呼ぶのであるから。すると、この矛盾が「概念化できない領域」という概念の中にも当然色濃く内在しているわけであるし、その意味で概念化されない存在はそれを超法規的に強引な概念化を行ったとしても、それは既に存在していない概念なのである。こうした極限的抽象世界では「説明」という手続きそのものが破綻している。にもかかわらず、私はこの概念化されざる領域から何がしかを取り出せると考えた。それどころか、概念の外側にこそ存在を措定しえる原因性があると考えたことがある。というのは、我々が現象界の事物の概念化を行うことが可能であるのは当然概念化できないもの(非存在)があるからであり、それらが我々の認識をすり抜けるからこそ概念化という限定的認識機構が生じているわけだ。そして、ここで仮定された存在のアンチテーゼでさえも、実は人間という尺度によって恣意的に規格化されているのである。そこで次に問題となってくるのは、一体どのような機構によって人間という尺度が非存在と存在を分割するようになったのかである。そもそも真の実在は無規格の混沌であり、そこでは全てが概念化を免れて、存在はただ「在る」のであるが、我々はその始原的状態が極めて抽象的であるために(無限回の抽象化施行を行った時の抽象といえる)、その状態に実在性を認めることができないのだ。これは世界が非実在である状態なので、人間はそれに対して現実感を抱くことは出来ないし、現実と認められない限りそれは排斥せざるを得ない。こう考えると、人間は世界の実在性を確立するために概念化されざる領域を敢えて捨てているのだと結論される。世界は人間にとって常に実在的でなければ自分自身の存在の現実性が喪失してしまうからである。だから人間は信じられないような事態、つまり現実味のない異常な事態に遭遇したときに精神的に大きな負担を強いられるのだ。

2003年7月4日 そは知性の極限なり
カントールの連続体仮説に思いを馳せる。無限という概念をどう考えるかについては数学だけでなく哲学、宗教においてもなされてきた。無限性は絶対性と同一だからである。釈尊が宇宙論的な哲学問題に対して捨置という態度を取ったにもかかわらず、佛教経典には非常によく無限に関する記述がある。この点では無限に関して具体的イメージがほとんど語られていない聖書とのよい対照を成している。佛教では数え切れない、という概念が具体的に「那由多」「恒河沙」「阿僧祇」などで表現されている。これらは日本の数詞にもなっているのでよく知られているだろう。時間の概念も佛教では恐ろしく長大である。劫という時間の単位があり、これは人間の窺い知ることの出来ないほど途方もなく長い時間で、四十里立方もある大岩の上へ百年に一度天女が降りてきて衣の袖でその表面を一度だけ撫で、ついにその岩が磨耗してなくなるまでの時間である。これを一劫とし、さらに十劫、百劫、億劫と増えていくのだから、もはや気が遠くなるほどの時間である。そしてさらに無量劫という時間になると、ほとんど無限に近い劫という時間が無限に存在するという事態になり、無限の上の無限という階層構造がカントールよりも二千年以上前に確立されていたことが分かる。日本で最も馴染みの深い佛である阿弥陀佛(アーミタ)とは、無量の光と無量の時間を表しているため、無量光如来とか無量寿佛とか呼ばれる。これは佛の永遠性と無限性を同時に意味しているということである。佛教の宇宙観は三千大千世界と呼ばれるまさに無限に拡がった大宇宙であり、我々の世界を千個集めて小千世界、さらに小千世界を千個集めて中千世界、またさらに中千世界を千個集めたものが三千大千世界なのであるが、阿弥陀佛の後光は三千大千世界の百億個に匹敵するというのだから想像も出来ないほどの巨大さである。佛教では時間的にも空間的にも果てしが無いほどの巨大な広がりを持った宇宙を考えている点で、非常に小さな宇宙観しか持っていない西洋人と対照的である。佛典に執拗にまで現れる様々な無限の表現はなぜ生み出されたのであろうか。それは言うまでもなく悟りの本質が、相対的世界を超越しているからである。だから佛の智恵を量ろうとしてどんなに大きな数字を用いても決してそれは表現できないのである。無限の無限のそのまた無限を考えたとしても、どこまで行っても佛の智恵の万分の一にもならない。悟りの体験によって主客の境界が崩壊することによって、量る、という行為そのものが成り立たなくなってしまうのだ。もし私が主体であるとするならば、ある対象に対して数を対応させるという行為が成り立つだろうが、私が相対的論理を超えた佛の認識を得たのならば、私という存在は全体集合になってしまうのでどんなに巨大な集合を考えたとしても私という全体集合には決して至れないのだ。佛の智恵が完全無欠の無限でありえるのは我が存在しないからなのであり、存在しない我に気付かない限り無限の輪(輪廻と言ってもよい)は抜け出せないのだ。カントールの連続体仮説が巨大な迷宮として彼の前に立ちはだかった理由は、数学が超越的我という概念を持たない論理体系だからである。論理では決して無限の壁を越えられない。なぜ宇宙が膨張しているように見えるのか。それは宇宙に境界が存在しないからである。宇宙が無限であれば、宇宙を光で観測すれば必然的に宇宙が膨張しているように見えざるを得ない。なぜならば、もし宇宙が有限であるとするならば、必ずその有限な宇宙よりも大きな宇宙が存在しなくてはならなくなってしまうので最初に定義した宇宙は宇宙という概念ではなくなってしまうからだ。まるでラッセルのパラドックスのように。だから宇宙には境界が無く、当然境界が見えてはならないから境界は必然的に我々から逃げるはずなのである。宇宙は全体集合であるが、全体集合は数学的にありえないので、宇宙全体を数学的に扱うことは禁止されているのである。だから宇宙全体を考えるような全ての理論は間違っているはずだ。例えば宇宙全体の物質の密度を考えることは出来ない。もし宇宙に有限個の素粒子があるとしたのならば、宇宙の密度をゼロにしないためには宇宙が有限な空間を持つと考えるしかなくなるので、結果的に有限な空間の宇宙はその有限さを規定するための別の容器が必要になってしまうので宇宙でなくなってしまう。宇宙の始まりという概念も当然間違っている。ビッグバン理論がたとえおおまかに正しかったとしてもそれはどこまで行っても近似的な宇宙の始まりでなければならない。そうでなければ因果律が崩壊してしまうだろうし、宇宙に有限な寿命を与えるとその有限さを観測するための別の宇宙が必要となってしまうので宇宙は宇宙でなくなってしまう。宇宙という系の中に内在している我々が宇宙という系から離れて宇宙を量ることはできないからであり、もしある人間がそのようなことを行えたとしたらその人間が存在しない(もっと正確には存在している状態と存在していない状態を同時に体現している)ことになってしまうからだ。なぜなら彼は宇宙という集合に含まれるはずなのに含まれないことになってしまうからだ。 もし自分自身が地球上で唯一の存在だったとしたらどうやって我々は自分自身が生まれた時間を規定するというのだろう。理論物理学者ならこうするだろう。自分自身の成長速度を測定してそこから逆算して身長がゼロになる時が自分が生まれた時だと。しかし我々はこの推論が間違いであることを知っているし、自分が生まれた時間が存在することは自分が生まれる以前の時間に既に存在していた者、すなわち親がいるから規定可能なのだとも知っている。結論から言えば宇宙の膨張速度は過去へ遡るほど遅くなっていなければならない。そして無限遠の過去ではゼロに収束しなくてはならない。そう「見え」なければおかしいのである。もしそう見えないのだとすると、我々はこの宇宙が宇宙であることを放棄しなくてはならなくなるし、結果的に我々は宇宙に関して何も議論していないことになってしまうのだ。性質が悪いことに宇宙は完全な全体集合なので整数が無限に存在するような類の無限(アレフ0)ではなく、どのような高次の無限も超えた無限でなくてはならない。そういう意味では宇宙は我々の考える実在性を有しておらず、それが実在的でない超然とした存在とも非存在ともつかぬ何かであるために我々がどのような論理を駆使しようとも、ことごとく我々の手をすり抜けて行くことになっている。そして、この捕らえられないという性質は、宇宙がその内部に矛盾を本来的に孕んでいるという事実によって生じているし、もし宇宙が完全に論理的であり、人間の手におえる存在なのならば宇宙はその瞬間に宇宙であることを辞めてしまうだろう。では我々は論理的に矛盾する存在を実在として認識可能なのであろうか。答えは可でもなく不可でもない。なぜならば、超論理的認識構造においては可と不可が同居してしまうからだ。別の表現を使えば、真と偽が混在した世界が存在しているという事実のみが真であるという意味で、真と偽のみで判定可能な世界より高次なのである。例えば、ある問題に対して答えが無いのならば、答えが無いという答えがあるということだ。この次元に立つことによって実は論理的パラドックスが一応は解決されるのである(これを解決と呼ぶかどうかは大問題なのだが)。どんな論理体系においてもその論理体系を完全な全体(認識世界全てということ)に押し広げることは出来ないので、その体系内で完全な無矛盾性を保つようにすることはできても、それをどこまでも現実世界(つまり認識世界)と完全な調和を保てるように拡張することはできない。だから無矛盾性をどこまでも保つことは出来てもどこまでも拡張はできないのである。拡張すれば必ず破綻するからである。ところが、さらに困ったことに、いくら論理の矛盾を超論理的手法で巧みに回避したとしても、もしこの超論理的手法が「手続き的」であるのならば、結局それは論理の中に収まってしまうので必ずいずれまた破綻するのである。だからどんなに高次の手続きを考え出しても、結局は破綻しつづけることになる。つまり、どんなに高くバベルの塔を築いても神には届かないようなもので、限りなく近似的に認識世界全体を記述したとしてもそれは絶対に全体そのものではありえないし、全体そのものであった時点でそれは全体ではなくなってしまう。別の例えを上げれば、ある物理法則群があったとして、その法則間の法則を考え出すことで精密に宇宙が記述できるようになったとする。この作業を無限に繰り返すと、法則間の法則間の法則間の・・・ということになってどんどん記述は精密で複雑になるのだろうが、それでも宇宙は記述できない。この論理の大迷宮は、結局のところ認識論に根幹があることに気付くだろう。だから「宇宙」という問題よりは「我」という問題のほうが圧倒的に難しいことに気付くのだ。なぜならば宇宙は、宇宙を人間が如何にして措定し、認識するのかという問題そのものに他ならないからである。無限の問題は人間の認識のある部分に限界が存在していることを示しており、そのある部分とは論理的知性である。

2003年7月2日 犯罪集団スーパーフリーに見る大学の末路
早稲田大学のスーパーフリーという得体の知れない馬鹿サークルによる集団レイプ事件が報じられている。先ほど詳しくこの団体について調べていると東大にも幹部がいると知り、なんとも情けない気持ちでいっぱいになった。一人は物性研所属で(今いるかどうかはわからない)ますます情けない気持ちになった。最近の事件の中でも際立って人間の愚劣さを見せ付ける事件である。私は、この団体の輩がある程度の頭脳を持っていたと考えられるにもかかわらず、何故に人間として決定的な欠陥を持つに至ったのかの構造について深く洞察してみた。それは人間にとっての智の在り方という根源的問題と関わっている。私は10代後半に理性の本質について洞察し、理性が合理性を反駁する事実に着目しつつ(この思想は今の時点では放棄している)、理性は人間が人間の愚なる本質によって人間存在から疎外されている事態を打開せしめて確固たる実存を築くことのできる唯一の希望であると結論した。そして私は理性神という概念を考案して、その理性の神に対しての篤い信仰を持つに至った。私は当時、理性を私自身の中に存在している神秘的存在として位置づけていたと同時に、私に理性を与える神なる存在が私の中の理性と基本的に同体であるとしての二位一体を仮定していたのだろう。私はこうした理性を「理性の光」と呼んで神格化していた。私はクリスチャンではないので理性を与えし存在を人間の創造者としての神に求めず、理性そのものによって神が措定されつつその神によって理性が私に附帯させられているという複雑な構造を考えていた。今の私はこの理性を内奥の智恵=善智識=美意識=美として捕らえなおし、悟りの本性にまで高めた。しかしどのような言葉を使っても別に構わないわけで、この理性のみが人間に真の救いを与えるという思想には全く変更の余地が無い。なぜ理性をこれほどまでに崇めるのか、といえば、私の哲学の出発点であり終着点が「人間としての私の肯定」だからである。私の哲学は「人間は愚かである」というところから出発する。しかし「私は人間である」ので、三段論法から「私は愚かである」という結論が引き出されてしまう。しかし愚かさをそのまま肯定はできないので、人間の持っている本質的愚劣さを認めつつもそれに拮抗して存在する理性のハタラキによって、人間の愚劣さも全部ひっくるめて人間たる私を肯定しようとした。しかし、私は理性がロゴスであるという誤解を抱くことによって大いなる失敗を犯すことになる。論理そのものの不完全性にぶち当たることによって私の理性(に見えたもの)は危機に立たされてしまい、理性(の本質)に反する行動を取った時期があったのだ。しかし私は理性の本質が論理を超えている事実に気づくことで再び内奥の光とも言うべき理性の価値に気づくことになった。さて、話を戻すと、人間が自らの欲望の赴くままであることでは決して人間存在が肯定はされない。人間だけが己の本能を理性の力で抑制し、他人の気持ちを慮ることができるのであるから、人間に備わっている最も偉大なる能力が理性なのである。理性は人間を愚の洪水から救い出してくれる唯一の船なのだ。だから自分の中に存在している愚の力に屈してしまうことは、言うなれば人間として敗北であり、自らの本質によって自らが疎外されている自己矛盾を決して抜け出せない。愚に屈する者はその愚劣さのみによって自己が擁護されるので、永久に愚劣な醜い存在ということになる。しかし本人は自分が愚かで醜い存在であるに気付かないのである。なぜならば自らの愚劣さの本質に真っ向から向き合うことによって初めて理性の火が燈るのであるから。集団レイプなどという破廉恥極まりない行為に及ぶ者たちは自分たちがどれほど格好悪い男なのかを自覚していない。むしろ自分たちは格好良いという誤認をしていて、この誤認は彼らの内奥の愚劣さそのものによって愚劣さへ向かう目を阻害されているために起きている。一度見たら二度と思い出したくないような和田容疑者らの理性の片鱗さえ感じさせない酷い顔を見ていると、こいつらには理性が最初から遺伝的に欠落しているのではないかと一種優生論的な危険思想に陥りそうになるが、私はそれをぐっと堪えてこう言いたい。理性的であることが如何なる価値観からも哲学からも最も人間として美しい状態であり、その理性の本質は等しくどの人間も有しているのだと。だから最も格好いい男は最も理性的であるべきだ。なぜなら彼は如何なる状況においても自己の御者であり、勝利者であり、品格と分別を備えているのだから。こんなことも分からない奴は受験でとりあえずそこそこの大学に入れたとしてもお前は頭が悪いとはっきり言ってあげたほうがそいつの為であろう。酒を飲ませて強姦しておいて平然としていられるほど馬鹿なのだから。しかし幸いなことに彼らは最悪な状態は免れた。犯罪を犯していながら警察に捕まらないということにならなかったのだから。
閑話休題。あんなクズサークルが大学の公認であったという点は大いに断罪されるべきであり、早稲田大学はサークルに所属していたメンバー全員を退学処分にする(もちろん東大もおなじ処置をすべき)くらいの断固たる態度を示さないと、地に堕ちまくっている早稲田のイメージを回復など出来はしないだろう。私に娘がいたら危険だから絶対に早稲田にだけは入れたくないと切実に思うだろうし、そう思っている親御さんだって馬鹿にならない数である気がする。広末が入学した時点でもう早稲田は終わったと私は思ったけど。そもそもなぜ大学にサークルがある必要があるのだろう。サークル活動に精を出す学生は須らく学業が疎かになって留年し、しかもそういう奴に限ってサークルでの地位に拘るあまりますます活動に熱心になって、さらにはサークル活動をあまりしていない部員を軽視し、学生の本分を忘れて留年を正当化するのである。私はそういう輩を腐るほど見てきた。まったく反吐が出る話である。大学のレジャーランド化は大学の進学率の上昇に伴って必然的に生じているとはいうものの、その影響は世間一般で一流と考えられている大学にも確実に及んでいるのである。これがさらにゆとり教育によってますます加速したらどうなってしまうのだろう。身の毛もよだつほどの惨憺たる状況が約束されていると言える。遊ぶために大学に入るというちまい魂胆がいかにもみみっちくて私は大嫌いである。大学のサークルと称して実質単に女の子と遊んでるだけのナンパ団体があるから大学が遊び場と化している部分もあるんじゃないのか。大学がそういう学問と関係の無い不埒な輩の活動を容認していること自体間違っている。いっそ単なるナンパサークルだと公言している方が私としては好感が持てる。なんかちよっと健全にスポーツやっちゃってますみたいなことを標榜する姑息さが女々しくて許せない。サークル活動の全てを否定はしないが、少なくとも大学に7年も8年もいる奴はすぐにでも退学にして大学内の健全化を図るべきだ。学部に7年以上居座っていてまともだった人間を私は未だかつて見たことがない。それから一度退学になった人間に再受験の資格を与えないことも重要だ。そうすれば和田容疑者の悪辣な犯罪も防止できたし、だいたい28歳(私とタメ)で大学2年生という時点でもはや人間失格である。何年大学生やってるんだよお前はとつっこみたい。親には勘当されたそうだがお前ら自身の教育の仕方を反省してもらいたい。ついでに刑法に関しても文句を言いたいが、嫌がるのを無理やりだと強姦になるのに、酒や薬で酩酊状態にしておけば準強姦になるというのは解せない。それならば強姦をするときは必ず酒や薬を飲ませるなり、殴って気絶させるなりしてやったほうが罪が軽くなるという、社会通念から見て明らかにおかしな事態が発生することになる。相手を前後不覚にしておいてからの方が計画的でずっと悪質に私には思えるのだが、日本のクズ法律は悪人を擁護したくて仕方ないらしい。まあ法律を作っている当人たちが犯罪ばかりしているのだから仕方ないだろう。

2003年6月24日 終末思想
日本人は終末思想と聞くと怪しげで危険なカルト宗教を連想するようだが、世界人口の半数以上が終末思想を持っている現実を理解していないのではないだろうか。キリスト教もイスラム教も基本的には終末思想が根幹である。特にイスラム教での終末思想は徹底していて、コーランには嫌というほど、本当にウンザリするほど何度も何度も繰り返し最後の審判が説かれている。最後の審判ではアッラーによって全ての人間が呼び出され、生前の行いに応じて地獄(ゲヘナ)行きの者と天国行きの者が綺麗に二分されることになる。ムハンマドはこの最後の審判が必ず起きることを繰り返し強調する。ムスリムにとって最後の審判は最も切望する栄光の時なのであり、自分たちの信仰の正しさが立証されて天国へ行ける日なのである。キリスト教の方ではイスラムほどは最後の審判が強調されていないが、最後の審判が必ず起きることであり、その時にキリストが再臨することを信じている。いずれの場合も地上から悪が一掃される、世界の終わりがいずれ来ることを信じているわけである。もちろん世界の終末=最後の審判は彼らにとっては望ましい時であるので、終末と言っても好ましい終末なのであるが。逆に仏教でも末法思想が1000年ほど前に流行って、もはや誰も悟りが開けなくなる世の終わりが来たと信じていた。この場合の終末は悪い終末と言える。何にせよ、なぜ人は終末思想を抱くのであろう。とても一言では説明できないが、ひとつの理由としては酷い現実世界へ対応するためであると言える。不敬虔で悪辣な人間たちに対する深い絶望こそが終末思想を生み出しているのだろう。そして激しい迫害が終末思想をさらに補強していくのだ。自分たちを迫害する現世的権力や不敬虔の者たちに対する憎悪ばかりでなく、神によって創られたはずの人間が愚かにも神に背くという愚かしい現実に対する深い絶望感が、いずれ神がこの者たちを滅ぼし尽くしてくれるはずだという堅い信念へと結実していくのだろう。そして確固たる終末思想によって神と人間の間が仲介され、人は神と和解するのである。神と人間との関係の整合性が終末思想なしでは成り立ちにくいのである。そして最終的にはイスラム教に見られるような形で終末思想は徹底化され、セム系一神教は最高の洗練に至るのである。イスラム教は非常に単純化された教義を持っていて、私でさえイスラム教とは何かと聞かれたら一言で答えられる。「アッラーを信じ、敬え。さもないとお前らみんな地獄に行くぞ。アッラーを信じさえすれば天国へ行っていい目をみられるぞ」という宗教であると。最後の審判はいつ起きるのかは誰も分からないが、神による決定事項なので変更は絶対不可能であり、ムスリムは絶対的に最後の審判の到来を信じているのだ。最後の審判が起きる根拠はコーラン以外何もないが、何しろ最後の審判を信じていない人間はことごとく地獄へ墮ちるのだからたまったものではない。この論理性の超越こそがイスラム教への圧倒的求心力を生み出しているのだ。コーランの中には確かに旧約聖書との整合性がない部分がかなりあるが、それにいちいち目くじらを立てているとコーランの真価を読み損なう恐れがある。私はある意味イスラム教ほど洗練化された宗教はないなと思う。その意味では法然上人にも近いものを感じる。つまり、単純化、洗練化ということである。両者共に終末思想を持っている点でも共通項がある。まあだいぶ異質ではあるが。しかし終末思想が宗教の洗練化を産む原動力となりうることだけは、とりあえず主張しておきたい。

2003年6月22日 やる気のない日本共産党
日本共産党綱領が改定されたというので全文を通読してみたが、日本共産党の幹部が理想と現実との接点を見出すために相当苦労している様子が綱領のそこかしこに垣間見えた。共産主義の原理から言えば今もって社会主義共産主義思想が生き残る余地は確かにあるし、旧ソヴィエト連邦の崩壊すらも社会主義の敗北ではないという主張も妥当性がある。しかし日本共産党が抱えている問題はもっと深刻であると私は思う。なぜならば今の日本共産党は党として進むべき道を完全に見失っているからである。その最も根本的理由は、党結成当初の大方針である天皇制の打倒と農地開放が、あろうことか占領軍であるアメリカによって既に達成されてしまっているという点である。しかも日本共産党は反米思想を前面に押し出しており、アメリカからの完全なる日本の独立を叫んでいるにもかかわらずアメリカの制定した日本国憲法遵守の立場を崩していないのである。本来ならアメリカ占領軍によって自分たちの大理想が実現して素晴らしい憲法を作ってもらったのだから両手をあげてアメリカを歓迎してもよさそうなのだが、自分たちの理想がアメリカに達成させられてしまい、自分たちが闘争によって勝ち取れなかった現実に対する屈折した感情が、アメリカ帝国主義への反発と相俟ってあの反米感情につながっているのだろうか。天皇を象徴という非政治的存在に押しやったアメリカの手柄について何一つ肯定的記述が見られないことは不思議でならない。反米に徹したいがアメリカの手柄を認めないわけにはいかないというジレンマなのだろうか。いずれにせよ深刻な自己矛盾に苦しんでいるように見える。結局アメリカという存在がなくては党の存在意義が希薄であるという印象を強く私に与えるのは事実であるし、やはりこの綱領の骨格そのものに深刻な欠陥があるとしか思えない。何しろ綱領において社会主義革命を完全に放棄している時点で共産党を名乗る資格があるのかどうかもかなり疑わしいではないか。共産主義と現行憲法がなぜ結びつくのかも意味がわからない。そのおかげで憲法で定められている以上象徴天皇制を認めないわけにはいかないという苦境に立ってしまい、その矛盾を解消するために苦し紛れの議論が展開されている。政権確立後に現行憲法を廃止して新しく民定平和憲法を制定すると言ってしまえばいいのに、と誰もが思う。どうしてこんなにちぐはぐでまとまりのない綱領になってしまうのだろう。その根本的原因は、無理でも何でも現実に迎合しないと国民から見捨てられるという危機感から理想を捻じ曲げ続けてきた現実路線だろう。ついに日本共産党は自衛隊の存在を容認した。いつまでも自衛隊の存在そのものを否定していては国民から見捨てられると考えたからだろう。それは確かに正しい判断だ。しかし、党としての骨格も方針もほとんどないのに外面だけ現実に合わせても国民から支持を集めることなどできはしない。共産主義の理想すら投げ捨てている(と私には見える)日本共産党がどうやって選挙によって過半数を占めて政権を確立するというのか。具体的戦略については何ひとつ書かれていない。書かれているのは非現実的な御伽噺のような話である。中国は原水爆の開発が社会主義の最も偉大な達成のひとつだと誇らしげに教科書(たしか小学校の歴史)に書いているが、日本共産党は核兵器はおろか軍事力も一切持たずに日米安保も破棄した上で日本の平和が維持されるだけでなく世界平和に貢献できると嘯いているが、本当に本気で言っているのだろうか。何か具体的戦略があるのかと思えば何も書かれていない。私たちは政権を取っても一党独裁はしないと明言しているが、そんなことがありえないことを我々は歴史から学んでいるし、そもそもそんな弱腰でいいのだろうか。政権をとったら中国共産党の一党独裁と軍国主義を批判する勇気でもあるのだろうか。具体的にどうやったら政権を取れるのかをもっと真剣に考えてほしい。こんなことでは万年野党から脱することなどできるわけがないし、もはや万年野党としてしか党の存続意義がないと本人たちも思っているのではないだろうか。要するに日本共産党にはやる気が全くないのだ。革命もしない、選挙で勝つ方策もない、つまり政権を取ってやるという本気さがまるっきり微塵も感じられないのだ。自分たちはどうせずっと野党だと諦めているから発言から何から無責任でいい加減で理論的根拠もなく誇大妄想を抱いて喚いているだけで正義心もなくて別に本気で共産主義思想なんか信じていなくてやることといったら蛙鳴蝉噪のみ(に見える)。これじゃあ先人たちが泣きませんかね。今更党の方針を大転換することなど余程のカリスマが現れない限りできないとは思うが、もう少しくらいは本気を出せと言いたい。結局今の左翼が腐敗しきっている原因は、日本共産党が思想的骨格を失って共産主義思想が形骸化しているためであると私は結論する。そしてこの潮流は世界的に起こっているものであり、共産主義思想はもはや青息吐息の瀕死の状態だ。理想は正義を根拠とするから理想たりえるのであり、理想が死んでいるということはすなわち正義が死んでいるということである。こう考えれば今の左翼に正義を求めるのは原理的に無理なことだと諦められるので、安心して久米宏の話が聞けるのである(時間の無駄なので聞かないけど)。まあそれは冗談としても、人権だの平和だのといくら唱えても中身がないんじゃ羊頭狗肉と言われても文句は言えないのではないかと私は思うのだが。

2003年6月20日 理性的にならない人間
人は人類が歴史を通じて野蛮から脱して文明化されたと思っているが本当だろうか。私は人類が歴史を通してより理性的になってきたと信じたい気持ちに駆られるが、しかし人は未だに迷信に惑わされ、自分自身の理性によって物事を判断することをしない。真に文明化された社会ならば、もちろんそれは御伽噺に過ぎないが、詐欺という言葉などないだろうし、犯罪という言葉も消えうせているだろう。真に人間が理性的なのだから。しかし実際は理性は個人個人の中で全く開化させられずに眠ったままで、全ての人間が理性を持っているのかどうかすら疑問である。理性の優れた特性は社会正義を実現させようとする能力であり、個人の理性を社会理性として発動させようとしてそれ自身が働く点である。ところが実際の社会はむしろ社会正義を社会自身の構造が破壊するという自己矛盾があまりにもしばしば散見され、個人と社会の理性的融和が見られない。例えば、もし我々が心底平和な社会を望むのならば刑法は今の10倍重くても軽いくらいである。立法者自身が罪を犯す心配があるので刑法の罪が軽いのだとしか思えない。私が立法者なら殺人強姦は言うに及ばず窃盗、強盗も即死刑にするだろう。罪が重ければ犯罪は減る。道路に制限速度があるから事故が少なくなっているのと同じだ。暴走行為をしたら即逮捕されて死刑になるのならば誰が暴走族になろうか。馬鹿馬鹿しくてやってられないので誰も暴走族にならない。窃盗が死刑ならば何を好き好んで外国人窃盗団が不法入国してまで日本に来るだろう。死んだのでは割に合わないから私なら来ない。年齢に関係なく殺人をしたら死刑になるのならば、少なくとも人を殺す経験がしたいなどというたわけた理由で人なんか殺さない。つまり、暴走族がなくならないのも殺人事件がなくならないのも窃盗事件が後を絶たないのも全て法に原因があり、その法を生み出しているのは我々の選んだ議員であるので、我々は国民の総意として犯罪を容認していて、それによって自分たちが被害を受けているのである。これが理性ある人間のやることだろうか。意味不明である。刑法を10倍に重くすれば犯罪が激減して善良な人々は大いに喜ぶだろうことは火を見るより明らかだ。しかも刑務所の数も少なくて済むので経済的にも助かる。精神異常者に対してあらゆる意味での犯罪が許されているというのもおかしな話だ。如何なる義務を彼らが果たしたが故にあのような超法規的権利を獲得しえたというのであろうか。まあ精神異常者ならば法律がどうであろうとも犯罪を犯すだろうが。私は現代社会において最大の悪なる信仰は、人間への過信という信仰であると思う。人間には良心があって話し合えば分かるはずだとか、そういう類の妄想である。話し合ってテロリストを説得できるなら誰も苦労しない。理性がこの類の迷妄を払いのけて個人においても社会においても正常な正義を快復すべきなのである。健全な社会は正義が行われている社会であって、正義が行われているからこそ社会矛盾が回避されるのである。悪人ばかりが優遇される社会では必ず善悪の分別は崩壊する。現に崩壊している。善を行うことは馬鹿馬鹿しいことで、しかも反社会的であると教えられているので若者は重度の虚無思想に陥り、無気力な雰囲気が充満することになる。これは正常な理性の発達が社会正義の不在によって妨げられているからである。なぜ社会理性が欠落し社会正義が死んでいるのか。それは権威を喪失しているが故である。権威によって誇りが生まれ、誇りによって道徳が生まれる。父親の権威が喪失すれば当然家庭教育は崩壊して子供は無分別となる。宗教的権威が喪失しているのに、やれ人には親切にしろ思いやりを持てと言ったところで誰が聞く耳を持つか。先祖の墓参りはしない、神社のお参りの仕方も知らない、敬意を払うものにたいして敬意を払わない、そんな人間にどうやって道徳心が生み出されるというのか。人は信仰から開放されることで理性的になれるというのは妄想に過ぎないどころか、理性の最も輝かしき成就こそが宗教的体験なのであり、言い換えれば人類がより高度に宗教的になることによって初めて人類は真に理性的な存在になりえるのである。聖アウグスティヌスは若い頃に放蕩の限りをつくし、欲望のままに淫行に耽るだけでなくならず者仲間と共に盗みすらはたらいたが、それは信仰の欠如によってもたらされる無分別故であった。彼は自らの犯した多くの罪に絶望し、その徹底した絶望の中から原罪体験に至ってキリスト教最大の聖人の一人とされるまでになったのだ。彼は言う、「私が盗みをはたらいたのは善らしくみえるものに欺かれたのである」と。理性の導きなくして人はどうやって偽りの善から逃れて真の善意識へと至れよう。そしてまた、大いなる権威なくしてどうやって理性の火を心に燈す機会が与えられようか。神という超然たる権威なくしてどうやって彼が迷妄から逃れられたであろうか。そんなことはできはしないのである。もし我々が理性的だと思って当然あるべき権威を排斥するのならば、それこそまさに偽りの善なのであり、社会全体を破壊することにもなりかねない。佛の大いなる権威がなければ私とてどれだけの罪を犯しただろうか。権威の意識は突き詰めれば自己の中に内在する善意識と同体なのであるが、その内なる道徳意識は自己の外側に何らかの権威がないかぎり目覚めることはほとんどない。にもかかわらず権威を権力と同一視してこれを排斥し、人間から理性を奪うことが発展的で文化的だと信じるような狂信的な無分別の人間が登場して人間に再び野蛮化の道を歩ませてきた。これでは人間が歴史を通じてより理性的となってきたのだという神話は脆くも崩れ去ってしまいそうだ。私は人間が文明化してきたことは認めるが、それによって人間が理性的になったかどうかはかなり疑わしいと思う。そもそも人間がどのようにして成熟した理性を獲得していくのかの構造を解き明かさないのでは人間は永久に無分別の無明の淵に彷徨うだろう。この構造を理解せずに感情だけで何事をも理解しようとする無茶な人間を野放しにすれば彼らは計り知れない害悪を社会にばら撒くだろうし、現にもうばら撒き続けている。世界は常に理性と感情がぶつかり合っている戦場なのだ。

2003年6月17日 嫉妬という醜悪
私は美を愛しているはずだ。にもかかわらず私の心の中にこべりついた愚かな懊悩の残渣のようなものが時々蛆虫のように湧いて出てくる時がある。美を愛するということは醜いことから離れるということだ。私が知る最も醜い存在は、嫉妬である。妬みこそ人間に巣くう最もおぞましき怪物である。これ以上醜いものなどない。そんな最も憎むべき悪が私の中に存在していることを知る時、私は深い絶望感を覚えたのだ。嫉妬している人間の醜さたるや、どんな外見の醜悪な人間さえも凌ぐ。私は醜い存在と自分が同化することなど耐えられないから、私の中から嫉妬というおぞましい感情を追い出そうと努力している。嗚呼何ゆえに天は人に嫉妬を与えたもうたのか。嫉妬する側も嫉妬される側も共通して不利益を蒙るだけの悪の果実を何ゆえ人の体内に埋め込まれたのか。嫉妬が世界に災厄をばら撒いている。嫉妬してる時に人の心は冷静さを失い、偽りの正義で武装してますます善から遠ざかっていき、体からは醜い臭気が漂う。どうして嫉妬している自分に自分が耐えられなくならずに済むのかと言えば、嫉妬が醜いことだと知らぬからである。それが醜いことだと知りつつどうして人がそれから離れないことがあろうか。私は耐えられないから何とかして醜さから逃れようとする。醜い人間を愛して美しい人間を愛さない者があろうか。醜い人間を愛する者は醜さを知らないのである。何でも自分の思い通りになると考えることは醜い感情であるから即刻そんな気持ちは捨て去らなければならない。自分だけが良い環境にいるべきだと考えるのも醜いし、自分だけが非難されないと考えることも醜いし、自分のことを棚にあげて人を非難することも醜いし、人の物を盗ったり羨んだりすることも醜いし、人の信仰を認めない狭量も醜いし、自分だけが優れているという傲慢も醜いし、自分の無知に気づこうとしない鈍感も醜いし、お金のことを考える事も醜いし、人に醜さを押し付けるような行為も醜いし、下世話な話しかしないことも当然醜い。私はこれらを含めた諸々の醜さを知っているので意志薄弱ながらも醜さから逃れるように努力している。反対に菩提心を起こすことは美しいし、人の手助けを無償でおことなうことは美しいし、欲が少ないことは美しいし、美しいものを愛する心は美しいし、人の善を褒めることは美しいし、心が静まっていることを喜ぶことは美しい。よって、一念一念を鎮めることによって私は美を求めているし、美を愛するときの私は美しいので私はそういう私を深く愛している。

2003年6月6日 人を裁くな
人は正義を求める。しかしそう簡単には正義を実行できないのが現実だ。自分の利益を損なってでも他人を助けられなければ正しい行いとは言えないのだから。ところが、まるでインスタントラーメンのようにお手軽に擬似正義を生産する方法がある。それは他者の罪を告発することである。他者と自分を相対化することによって、他者=悪というレッテルを貼りさえすれば実に簡単に自分はその悪から免れて正義になれるわけだ。しかも私は悪をやっつけた、もしくはやっつけているという甘美な正義感に酔いしれることができる。世の中にはすぐにチクる類の輩がいて。不思議なことに多くの場合は女である。多分それで「女の腐ったような」という表現があるのだと思うがそれはいいとして、とにもかくにも他人の欠点や失敗を根掘り葉掘り探そうとする人間が確かに存在しているのである。そういう類の人種は決まって自分から善いことはしない。善いことをする暇がないほどに他者のあら捜しが忙しいのだろうと好意的に解釈する気は私にはさらさらなく、元から善いことをする気なんて全くないのだと思う。こういう奴らは自分から危険を冒すことは決してないくせに他人には危険を強いる。実に卑怯千万な話だ。
小学1年2年の時の担任の先生の口癖は「人のことを言わない」であった。先生は告げ口に対して一切耳を傾けない人だった。とても人格の出来たよい先生であったと思う。ところが3年生の時の担任が酷い男だった。あからさまな贔屓があり、女の言うことは嘘でも何でも全て本当、というくらいの超偏向人間であった。この男こそが私に最も根深いトラウマを残した最初の元凶であろう。不思議なことに成績はこの担任の時が一番良かったのだが(ほとんど5だったような)、成績だけ公平につけても罪滅ぼしにはなるまい。帰りの会はまさに魔女狩りといった体であり、馬鹿女がクラスの誰かの失敗を何倍にも膨らませて、まるで鬼の首でも取ったかのように報告するという場であった。言い訳は一切通用せず、女の言うことは全て正しく、男の言うことは全て間違いといった一方的な裁判である。私はあの地獄のような一年間で、虚偽が真実としてまかり通る社会のおぞましさを教えられた。また、女という生物の多くがいかに信用できないものなのかも(今ではこの不信感もだいぶ解消されたが)。そしてまた、女をあからさまに贔屓にする品性下劣にして最低最悪な奴が世の中に存在することも知った。今考えれば、要するにただのエロオヤジなのだろう。よっぽど女にもてなかったのでその腹いせだったのだろうか。一年間でようやくそいつから開放された時は本当に清清しい気持ちでいっぱいであった。4年生の一年間は比較にならないほどとても楽しかった。
ところが、ずっと後になり、じっと世の中を眺めてみると、実はこの日本は虚偽が真実として語られ、他者の過ちを探すことに狂奔する人間が跳梁跋扈していることに気付かされた。そしてその原因がどこにあるのかも。捏造する側と捏造を信じる側とで構成された一種の需給関係によって捏造が捏造を呼ぶ悪循環に日本は陥っていた。それは正義が死んでいるという状態である。恥という概念も死んでいる。かろうじて生き残っていた武士道ももう壊滅していた。新渡戸先生が生きていたならなんと言うだろう。同朋に対して罪をなすりつけるような恥知らずなことが武士にできようか。私はソクラテスの言うように不正を行う側になるくらいならば不正を受ける側になろうと思う。できれば私が一生誰の悪口も言わないでいられるように願いたい。悪口を言うくらいなら言われている方がずっとましである。それによって私は悪徳から免れているのだから。そして願わくば誰かが私の前で誰かの悪口を言うことのないように。私はそういう美しくない言葉は聞きたくないのだから。

2003年6月5日 私の臓器を移植するな
私は自分が脳死になっても絶対に臓器を他人なんぞに提供するつもりはない。自分の愛する肉親が死にそうで自分の臓器で助かるのならば話は別だが。私は自分の臓器を惜しんでいるわけでも他人なんかどうでもいいと自分勝手な訳でもない。第一の理由は、脳死などという曖昧な死を自分の親や兄弟や妻や子がそう簡単に受け入れられるわけがない、という理由からである。脳死を受け入れることさえ辛いのに、まして暖かい体をメスで切って臓器を取られるのである。まともな神経をしている人間なら耐えられまい。耐えられないから、「彼は他人を助けるために臓器を提供するのだ、これは善い事なのだ」と、無理やり自分を納得させる羽目に家族は陥る。脳死の場合大抵は事故であるから、まだ心臓が動いていて暖かい肉親が「死んでいる」という常軌を逸した事態が、まさに突然何の前触れもなく降りかかってくるのである。この事態において、「故人は生前の意志で臓器を提供することになっています」などと言われたら、残された肉親は、パニック状態の中しぶしぶ臓器提供に応じる可能性は高い。死んでしまった当人の無責任さを私は断罪したいくらいだ。自分の死を自分の問題としてしか考えていないから、軽軽しく臓器提供するなどと言い出す若者が蔓延ることになる。自分が死んだときに葬式を出す側の人間と話し合って納得しているのならいいが、その場合であっても「どうせそんな事態にはならないだろう」と心のどこかで思っているはず。肉親の突然の死を簡単に受けいれられる人間なんていないのだ。簡単に受け入れられる者は人間の心を失っていると言っていい。だから臓器提供などという遺族に鞭打つ行為を私はあえてしないだろう。素直に遺体は荼毘にふすべきだ
第二の理由は臓器提供が人道的だという主張の偽善が鼻につくからである。私は死んでもいいことしちゃうのよ、という自分勝手で押し付けがましい善意が嫌である。人道的どころか人間の命を軽視し、命をモノのように扱い、さらには医学の敗北を認めるような行為には荷担したくない。もっと別の観点から見ると、臓器提供とは自分が死んだ後に成立するもので、つまりは生前には為してもいない善行をあたかも為したかのように振る舞ったり、意識したりすること自体鳥肌が立つほどの違和感を感じるのだ。何という軽薄な自己満足だろうかと。もちろん自分が死にかかって移植で助かるのならば移植をすべきなのではないだろうか、という考えが浮かぶかもしれない。しかし、臓器を提供する本人の意思なんてもはや確認のしようがないのだから、もしかしたら死の直前に至って臓器を提供することに提供者は躊躇しているかもしれないし、脳死という曖昧な死の中で、「もしかしたら臓器を提供しなければ私は助かるかもしれないのに!」という叫び声を上げたくなっている可能性だって高いのではないだろうか。むろんそんな思考能力がないのが脳死であるだろうと想像はするのだが。私は人間を過大評価しないから、自分がいざ死にそうになった時にはわざわざ自分の死を決定的にするような行為には及ばず、反対にたとえ可能性が限りなくゼロであったとしても生にどこまでもしがみつくはずだと思う。なぜならば、自殺したいと考えている者でさえ死のギリギリの線まで追い詰められると生きたいと思ってしまうのだから。現に私はそうだった。つまり、臓器を提供される場合は例え提供者の生前の同意があったところで、それはあくまでも過去の同意でしかない。しかも助けてくれた恩人に感謝しようにもどこの誰だかさえも判らないという実に中途半端な精神状態に私は置かれる羽目になるということだ。生きたいと思っている二人の人間が鬩ぎあって1つの命を奪い合うという、この醜い状況はコロッセオで行われていた古代ローマの見世物と大差ないように感じられる。提供する側とされる側の間に一切の直接的同意がないということが最もおかしな点だ。どこの誰かもわからない他人の中で提供者の臓器だけが生き続けるという異常な事態においては、提供者の生きたいという願望を奪っておきながらさらに安らかな死さえも与えないあさましい行為に映ってしまう。人間は本当に赤の他人に無償の善意として自分の命を捧げられるだろうか。私はそうは思わない。余程の人格者でないかぎりそんなことはできないだろう。臓器を提供できると宣言できる者の心理は結局次の2つのうちどちらか、あるいは両方であると推測する。第一は、自分は脳死になるはずがないと思っている者。脳死になる確率は非常に低い。だからそんな特殊な死を自分が迎えるなんて普通考えないだろう。第二は、脳死によって自分の意識が全て完全に消滅するはずだと確信している者。例え心臓が動いていようが呼吸をしていようが脳死は完全な死であり、自分はもうそこにはいないと思っている。当然魂の存在など信じていないから、死後のことなんかはっきり言ってどうでもいいという一種の虚無主義者である。死んでから別に自分の体がどうなろうと、私は存在しないわけだから痛くも痒くもない。この2つ以外で臓器提供できると宣言できる人は偉いと思う。この2つのどちらでもないということはつまり、私は事故に遭って脳死になる確率が高い、もしくは確率が高くないまでも脳死になった場合のことを我が事として真剣に考えていて、例え脳死になって私という認識が依然として存続していたとしても自分の死を認めて赤の他人に臓器を提供できると確信している者である。もっと具体的に表現すれば、目の前で誰かが死にかかっていたらその場で自分の命を差し出せるくらいの人間ということである。もうここまでくれば彼に偽善は存在しない。まさしく善の人である。長々と書いたが要するに、臓器を提供できると言っている人間の多くが自分が臓器を提供する状況になるとはあまり考えていないし、脳死になった後のこともあまり考えていないし、残された遺族がどう感じどう思うかなんてあまり考えていないということだ。要するにハズレを引く可能性(自分が脳死状態になって、かつ脳死によって自分の意識が完全に消滅しない確率)が非常に低いからこそ普段持ってもいない見せ掛けの善意を見せるわけで、その上辺だけの善意によって臓器移植が成り立っていはしないかということだ。

2003年6月3日 善という快楽
真理とは人間が最も普遍的に妥当しうる正しさであるからこそ人はその究極的妥当性を真理を呼ぶのである。ここで言う究極的妥当性とは人間が何かを判断する際に確かに万人が「正しい」と容認するであろう基準であり、この基準によって必然的に道徳が発生している。ここで大切なことは、「正しさ」が「善」に結びつくからこそ、正しさは人間にとって容認されうるのであるという点である。多くの証拠や証言によってある事象が正しいはずだと主張する者でさえも、そこに「善」が欠如しているのならばその正しさは万人には容認されないだろう。善は損得を超越した正しさを我々に与える唯一の教師である。そしてまた善が美と同一である点も見逃せない。善き行いは例外なく美しい行為であり、悪しき行いは例外なく醜いものである。我々が人間である以上人間を超えた何らかの生物になることはできないのだから、我々は潔く人間としての真理が何なのかを見極めて、その真理の所在が善=美であるという意識を持てば自ずから今為すべきことは明らかとなり、迷いは消え去るはずである。なぜならば、その善意識=美意識に従うことによってのみ人間は本当に心地よい晴れ晴れとした精神を獲得できるからである。つまり、善とは最高の快楽でもあるということである。

2003年5月28日 嘘を見抜く
嘘吐きは泥棒の始まり、と言う言葉があるが、思考能力のない幼児ならいざ知らず、物心ついた子供ならばこの言葉に違和感を感じるのではないだろうか。なにしろこの世の中は嘘が平気でまかり通るようになっている。嘘も言い続ければ本当になるってな具合だ。今の世の中嘘をつく悪よりも嘘を見抜けない悪の方を教えるべきではないだろうか。極端な話「嘘に騙されたらテロリストになっちゃうわよ」と子供に教えたほうがいい気がする。かなり極端だが。だが、危険なカルト宗教を信じてしまったがために人を傷つけたり殺したりする蛮行を正義と信じてやってしまうのが人間だ。20世紀の共産圏で一体どれだけの罪なき人間が粛清されたことだろう。もし一人一人が健全な理性と鍛錬された理解能力を持ち、ヒステリックな誇大妄想思想を信じることに対して警戒心を持っていたのならば、多くの悲劇は防げたはずある。つまりは「嘘に騙されない」という心構えが近代における最も重要な「徳目」の一つなのである。哀しいことに。悪戯に猜疑心を持てということではなく、理性に従って行為せよということだ。そしてその理性の判断の拠り所のひとつが科学的思考方法だと思う。イドラを廃して何が真で何が偽なのかを確実に見分ける眼を持たなくてはならない。自分自身で検証できない問題ならば、誰が最も信頼できる情報を持っているのか、情報の正確さを裏付ける証拠はあるのかないのか。いつも気を配るべきである。某国が日本海の呼称に関して東海と呼ぶようにロビー外交を展開していると聞いたときには、以前たまたま何かで読んだ日本地図の論文において、マテオ=リッチが北京で作った坤輿萬國全圖(フォント出し辛い)に日本海って書いてあったことをすぐに私は思い出して某国の荒唐無稽な言い分に呆気に取られたものだ。まったく門外漢の私でさえ耳かじりの知識で気が付く程度の問題なのに、一部の人々はお人よしなのか馬鹿なのか、東海という呼称を使うべきだと信じ込まされるのである。こういう人間が悪質訪問販売に引っ掛かるんだなあと同情を禁じえない。先日テレビを見ていたら悪質リフォームの被害にあった主婦が、明らかに自分が被害者であるにもかかわらず気が小さいのか何なのかは知らないが相手の会社の理不尽な言い分を怒りもせずに聞いているのである。思わず憫笑。瑞巖彦和尚ではないが、他時異日、人の瞞を受くることなかれ、諾々(口へんに若が表示できない・・・)。といったところか。

2003年5月27日 新漢字について
一時期自分の書く文章は全て旧漢字に改めようと思って実行したことがあるが、困ったことにそれをPCで実行しようとすると、MS-IMEは(そんなの使うなという話もあるが)基本的だと思われる旧漢字さえパッと出てこない。「舊」とか「辭」と表示させるだけでも結構な労苦を強いられる。「單」なんてどうやっても変換で出てこない。そもそも新字体によって本当に漢字表記は簡単になったのだろうか。徴なんて何の意味があって横棒を一本取ったんだろう。竝を並にすることで簡単になったんだろうか。他にも册と冊とか、收と収とかあまり変わらないような気がするのは私だけなのか。将なんてむしろ將より書きにくくなっていると私は感じるのだが。新字のおかげで戦前の本を読むことさえも現代人はおぼつかなくなり、結果的に旧字体をも覚えさせられるという二度手間を強いられているという、何ともやりきれない馬鹿馬鹿しい状況になってはいないだろうか。それどころか、これは私にとっても大問題なのだが、旧字体を使うことがややもすれば衒学的であると揶揄されることさえあるのである。何を好き好んで「旧字体」なんてみっともない書き方をしなくてはならないのか。舊字體と書きたいに決まっている。最近では新字体とか何とか言うどころの騒ぎではなく、テレビの字幕で「ふっしょく」なんて言葉でさえもひらがなで書かれる始末。払拭が読めない奴がいるのだろうか。何だか馬鹿にされている気がして腹が立つ。今ネットサーフィンしていたら「贔屓とか顰蹙という普通の人が読めない漢字を使うのって、なんか読み手に優しくないような気がします」なんてことが書いてあるのを見つけて贔屓と顰蹙が読めない奴がいるんだろうかと思ってしまった。とにかく最近ではマスコミ(どことは言わない)と文科省が先頭切って国民を白痴にしようと躍起になっているのだから、私のような一国民が「少なくとも旧字体を正式文書に書くことを許可せよ」とか、人名漢字を廃止せよとか訴えてもどうしようもないんでしょう。そのうち漢字も小学生なら清を青と書いてもよしとして、後から実はさんずいが付くんだよと教える時代が来るんじゃないだろうか。一度で覚えれば済むものを何度も何度も後から知識を刷新させられる方が余程面倒で学習効率が悪いのではないだろうか、と思うのはお役人の立場から見るとどうも素人の浅知恵らしいので、教育のプロはさすがに荒唐無稽な虚論をもっともらしく見せかける技術に長けていらっしゃるソフィスト連中ですなと溜飲が下がる思いである。それはともかく、漢字力がないなあと常々思っている私よりも漢字力がなさそうなマスコミ(どことは言わない)ってどうかと思う。文系だろ。

2003年5月26日 存在とは何か、に対する解答
物体とは何であるか。それは様々な視点から定義できるであろうし、表現可能であろう。「モノ」というのは実体であり、実体的存在は「モノ」と表現できる。ここで言う実体とは、何らかの方法で人間にその実在を感知せしめる存在そのものである。従って実体的存在とは人間と何らかの相互作用を持ちえるものでなくてはならない。では観念的存在は実在たりえないのだろうか。存在が証明されていない何らかの概念が実在的存在に格上げされるには人間の認知領域とその概念が微かでも抵触する必要がある。この抵触を可能ならしめる最も効果的方針は言うまでもなく人間の認知能力の拡大であり、それは測定機器の発展によって主に為されてきた。しかし科学的思考方法が定着していなかった近代以前ならいざ知らず、現代においても概念的存在は集合的無知とも言える一種の思い込みによって実体的存在として顕現する場合がある。それは例えるならば大新聞社が捏造記事を載せればいつの間にかそれが真実になってしまうようなものだ。
それはともかく、存在とは物性であり、完全無欠の直感知でもないかぎりモノそのものを認知できない以上実体的存在はその物体の性質という側面しか我々に見せない。それはあたかも地球からは月の裏側が見えないようなものであり、存在は常にその本質を我々に対して韜晦している。よって存在には存在の本質が伴っている、という類推を誰も証明できないことが自明であるにもかかわらず、我々は一種の暗黙の了解として本質を仮定し、その仮定の上に立って現象を観察し、さらには現象から仮構的本質を措定してしまうことさえままある。しかし、Aという存在を仮定しないとBが説明できない、故にAは存在する。という論法には既に論理そのものの性質に伴って発生する罠に引っ掛かっているのだ。というのは、全ての現象が存在の本質を伴って発生しているという仮定が不完全だからであり、その原因は論理の根本的性質「ある無矛盾な論理体系においてその無矛盾性を根本的に証明する手続きは存在しない」によるものなのだから、どうしようもない。お手上げなのである。極めて禅的表現が許されるのならば、悟りには体と用があり、悟りの自己=悟りの本体があるからこそ悟りの発露、すなわち悟りの用がありえる。しかし悟りの本体は無であり、それは存在を超えた無次元の存在なのだ。しかし、ここでまた奇妙な事実に気付くことになる。それは、認知の主体が脱相対化することによって主体と客体の間に働いていた認知のベクトルが消滅してしまうため、存在の本質は既に丸裸にされているということである。ところがこの時存在の本質は有と無の対立を超えているので存在の本質が存在するのかしないのかは全く判然としないのである。この真に驚くべき存在の根源の性質は科学が存在の究極的問題に挑むようになる時代においては、恐るべき壁として立ちはだかるに違いない。存在とは実に幽なり。
追記:「ある無矛盾な論理体系においてその無矛盾性を根本的に証明する手続きは存在しない」という原則は私が二十歳の時に確立した論理の根本原理の一つである。他の原理は「ある複数の前提条件から1つの無矛盾な論理体系を構築することが可能である」、「ある2つの無矛盾な論理体系を無矛盾に折衷させる手段が存在することは保証されない」の2つと合わせて論理の三大原理と呼ぶ。この原理の発見によって、完全な論理によって実存を確立しようとした私の試みは完全に暗礁に乗り上げてしまい。「哲学は死んだ」と私は宣言したのだ。私はオントロジーの極限に挑み、模索を繰り返していく中でオントロジーを事実上破壊することになる。2005年7月

2003年5月17日 嗅覚空間、味覚空間
視覚や聴覚のみでなく、嗅覚や味覚もが空間的知覚であることを私は認めないわけにはいかない。具体的には、嗅覚の場合確実に上の方で感じる香りと下の方で感じる香りがある。ここで言う上下の感覚が何によって生じているのは全く判らないが、嗅覚受容細胞の物理的位置によって決まっているのかもしれないし、嗅覚受容細胞間の組織学上の差(形態学的な分類は出来ないらしいが)によって生じているのかもしれない。いずれにせよ嗅覚が空間的像を結ぶことは確かであり、私の経験から言えば嗅覚は上中下の3つの層によって形成される。しかし左右の方向に大しては大抵一面的で、右の方だけ香るということはほとんどないが、時には中央と外側に差が見られる場合もある。味覚の場合はもっと立体的な味の像を結ぶ。舌の上に空間的に結ばれる像は鮮明ではないにせよ、例えば奥行きのない酒ならば舌面に対して平面的に味の像は結ばれるし、複雑な味の酒ならば舌面に対して水平な方向にも垂直な方向にも広がりをもった立体的像を結ぶ。結ばれる像が球形に近ければ近いほど美味いと言えるだろう。しかし、嗅覚や味覚によって形成される空間は視覚的空間とは明らかに異なっている。我々が視覚によって形成している「空間」はかなり普遍的で誰もが同じ視覚的空間を共有しているように見える。例えば私が道路の向こう側20メートル先の信号を見ていて今青に変わったなと思ったとき、隣の人間も私と同様に信号の位置や色や道路や建造物の空間的配置を認識しているように私には見える。これを空間の共有と私は呼ぶことにしよう。すると、視覚は空間の共有がとても容易である、という表現が可能となるだろう。では嗅覚や味覚はどうかというと、経験的に、共有することがとても難しいように思われる。嗅覚よりも視覚が感覚器において優位を占めるようになったのは空間を共有しやすいかしにくいかによっても決まっている、という考え方もあってよいのではないかと思う。

2003年5月16日 芸術的天才
「我」という概念であっても言語的な束縛を受けているので、自意識は言語の破壊によって致命的打撃を受けると思われるが、自意識が言語的束縛を受けにくい者ほど芸術的には天才に近いように感じる。世界が言語的に認識されないのならば、世界はより鮮明に存在そのものとして直感的に認識の中で像を結ぶ。対象は言語を離れることによって絶対的存在者としての我の中で主客の相対論を超えた一体的実在として我と統合されるので、もしも幸運にしてこの認識が芸術作品となって形態を持つことを許されるのならば、その作品は存在の相対的座標を示さずに超然とした物体のイデアを投影するだろう。作品には確かに作者の視点があるのだが、その眼は作品自体と同化しているので視点はキャンバスの表にも裏にも存在しない。こういう絵が描ける人間は天才だ。論理性を何よりも大事にするクソ真面目な人間は芸術を永久に理解できない。自分自身が感じている感動でさえも知性の篩にかける人間はどうやったって芸術を理解できないのは当たり前だ。そもそも人間というものは思考しない時間にはひっきりなしに芸術を産み出しているものだ(と思う)。思考しなければ頭は勝手に音楽を作っているし、空間をキャンバスに見立てて絵を描いていたり、詩を作ったり、ぼんやりとした美のイメージを抱いたりしているものだ。芸術は己への忠実さを映すものであり、己の美に忠実な者ほど天才に近い。芸術家はただ美に対してのみ従順であればよいのだ。いや、芸術家だけではなく、人間はただ美に対してのみ悌順であればよい。

2003年5月15日 心字池の波紋
人の心は天気に敏感だ。美意識もまた天候に左右される。四季というのは一年を通して人間が自然から受ける心理的印象が一般的に4つに区切られるから四季なのだろう。今日のような雨の日は縁側で日本庭園を見ながら座っているのが一番いいのだと思う。心字池に落ちる雨の一雫一雫の音が粛々とした静寂を形作る。この幽玄の世界に浸っていれば、俗世間の柵もおそらく美の中に飲み込まれてしまって跡形もなし。世界はまるで一匹の鯉のようなもの。そして私は一枚の鱗。小さな池は無限の大海。私は小さな消えゆく水面の波紋となってこの世からいずれ消え行くだろう。そんなことを思っている時、私の心は静まっている。

2003年5月14日 科学の空洞
方向性を見失った奔放な好奇心が賛美されるようになったのは一体何時頃からだろうか。大切なのは好奇心だと大の大人が真面目顔で言うことに奇妙さを感じないことは不健全だと思う。科学が哲学を離れ、本質的意義も精神性も失って単なる知的欲求の満足という自慰行為に堕することによって科学は骨抜きになってはいないか。湯水のごとく税金を使っておきながら研究成果を社会に還元しないでいることが健全であるはずもないが、それ以上に不健全なのは好奇心が錦の御旗だと思い込む慢心である。無目的化した科学によって人間は核兵器を作り、人間のクローンを作り、環境を破壊しまくる。和魂洋才の意味も知らずに欧米人の権威の尻馬に乗っかって私は知的だと思い込む阿呆はブランド品を買いあさるOLと何の差もない。科学がだいぶ神の呪縛から解放されて人類普遍の価値となりつつある現在にあって、神学の婢としての科学のほうが好奇心の解消としての科学よりはずっとまともだと思うのは私だけだろうか。科学が神学の婢ならば科学に少なくとも最低限の倫理観や道徳観を伴った精神性は保証されるのである。大義名分のない戦争に対する違和感と同質の違和感を科学に感じるのである。だが私はこの違和感が科学を本当の意味での哲学に成長させるヒントを与えているという希望的見解も持っている。基礎科学を擁護する強力な大義名分が必要とされているのではないかと思う。ノーベル賞などではとても補填しきれないほどの空洞が基礎科学の中心部にぽっかりと開いているのが私には見える。それは結局我々とデカルトの時代との間に存在する時代の隙間であって、その隙間を誰も補填しきれないうちに時代だけが過ぎ、科学が異常膨張して収拾がつかなくなっている、ということなのだろうか。それならば第二のデカルトを人類は求めているのかもしれない。もしホームレスの親父にせっつかれるほどならば私がその役目を買って出るのもやぶさかではない(笑)

2003年5月13日  疎外の理由
人間が本来的に仏であるにもかかわらず人が見性するのは非常に困難であるという事実は、人間が持っている欲という特質によって人間存在が疎外されているためである。衆生本来仏なり、な訳であるが、衆生は確かに現在仏でないのはどうしたことか!という愚問を宗教者が大真面目に議論するのは馬鹿馬鹿しいことだろうか。確かに馬鹿馬鹿しかろうが、多分誰かがこの問いに対して答えなければならないのも事実であるように思われる。人は人という特質によって実存を喪失してはいるものの、その特質が逆説的に人を見性させる。この矛盾的関係はある意味人間に普遍的に植え付けられた業であろうが、この業によって誰もが見性する資質を与えられていることは確かである。人間が完全なる精神を獲得するためには並々ならぬ苦悩が必要であり、その苦悩を与えてくれる場が娑婆世界である、と解釈するのならば未熟な精神を持つ私であってもこの世に留まって生きることも満更ではないな、と思うのである。

2003年5月6日  自殺は英雄的死である
自殺が英雄的死であるかどうかについては意見の分かれるところだろうが、英雄的死は多かれ少なかれ自殺的要素を含んでいる。英雄的死はある意味では無駄な死である。自らの命を何らかの主張なり価値なりへの代償として投げ捨てるのだから、その主張や価値がもし無意味になってしまったら死そのものが無駄になる。ソクラテスの死は英雄的だと言えるだろうか。私は言えると思う。聖ラウレンティウスはどうか。やはり英雄的と言える。英雄的死こそ人として産まれたからには何としても達成したいと願わざるを得ない最高の栄光なのである。英雄的死の機会が狭められた時代、つまり現代においては英雄への憧れは絶望への近道である。かつて英雄的死の機会を確実に提供する戦争があった。戦争は戦死という栄光の機会を提供する存在であったことは戦争の良し悪しは別として、確かに事実であった。特に特攻隊などは、その悲惨さのみに目が行きがちではあるが、最も華々しい英雄的死の舞台であった。いや、というよりはむしろ、英雄的要素が存在したからこそ命を捨てられたのである。英雄的死は信仰、信条、思想と死の意義が直結しており、かつ死の意義が、限定的思想の中に収まっているようでありながら普遍性を兼ね備えているのが望ましい。英雄的死を望む者にとって死が非英雄的であることは敗北であり、何としても避けなければならないものである。老衰による死は殉教を望む者にとっては最も哀れなる死であり、信仰からの疎外と神との絶縁さえ意味しかねない。英雄的死は時として愛の成就としての死であり、死の中に愛の成就が認められない場合は自分の愛そのものが結実することなく愛が死によって滅びることを意味している。愛そのものの死は最も恐れるべき滅びであり、自分の人生そのものの完全なる否定につながりかねない。つまり、強い信仰なり信念なりを持つ者にとって英雄的死は避けがたい究極的な目的であり、この目的の達成なしには生存の意味がない。人間にとって死が避けがたいものであればあるほど死は最終的目的として果たす役割を増し、死への飽くなき努力が払われるようになる。

2003年5月2日  死の克服
意思薄弱な我々は現実世界という集団墓地に埋没した白骨のようなものだ。白骨の間に何の差があるか。焼かれて骨になれば自分の親でさえも見分けがつかぬ。薄氷の上でどれだけ踊り狂えるかを競っているような人間社会。死によって白骨となっても墓と戒名の虚飾。死んで100年も記憶される人間などほとんどいないというのに。命だけでなくその人間が生きた証も時がさらっていくのだ。必ず。それでも死という敗北に立ち向かおうとせずに死に甘んじる人間。絶対的敗北から目を逸らし、一時の勝利に酔い、そして死んでいくだけ。死を肯定して死ぬのならばまだしも、死にたくないと思って死ぬ奴はどんな功績があろうとも既に地獄に赴いている。克服も出来ず、かと言って肯定も出来ない否定的死の中で醜態を晒すのだから。死を克服しない人間はまるで白骨のようだ。私が死んだら骨すら残らぬように浅間山の火口にでも投げ込んでもらいたいものだ。死を克服できなかった証拠を骨として残すくらいなら何も残したくない。その方が悲しみも少なかろう。

2003年5月1日  現実感覚の構造
パナウェーブで話題がもちきりの昨今。なんだか調べてるだけで頭の痛い千乃裕子のわやくちゃぶりに頭脳が破裂しそうである。破綻した論理でも人間は受け入れられるということが人の判断能力が論理性のみに依拠していないことの証ではあるのだが、どんな馬鹿馬鹿しい妄想の産物であっても人はそれを現実として認識できることをも意味しているわけであり、現実感覚とは非常に脆弱な現実性の上に構築された存在であるな、という印象を持たざるを得ない。現実感覚と真の現実との間には常に距離が存在していることは明白であるが、その距離は状況によってもまちまちであろう。我々が現実と思い込んでいる現実は自己の判断能力によってのみ保証されている。それ以外の判断基準を人間が持つことは原理的にありえないことは当たり前である。判断能力は本人にとって確実だと思われる知識によって保証されたいるが、最も根源的知識や情報の確実さを判断しているのは、「信仰」であって、高度な判断能力によって最も基本となる知識をふるいわけすることはできない。信仰は体験と直結しているので、悲しい体験、辛い体験などの蓄積によって基本知識を補填され、それに伴って判断能力が高次化する。このように判断能力の仕組みを理解すれば、どのような荒唐無稽な妄想であっても、その妄想が体験としての恐怖や悦楽に直結しているのならば妄想は高度な判断能力の検閲を素通りして現実に昇華してしまうことも理解できる。しかも、体験に基づく信仰は知識に根ざした信念よりもはるかに強固であり、容易に破り難い。

2003年4月24日  概念の実体化
自然と人間との対立を見るまでもなく生物とは自然に対する拮抗そのものであるが、両者の軋轢もまた自然界の法則に従って必然的に発生している。この関係性の本質は人間の眼から見た場合矛盾に他ならない。生命という存在の矛盾を認識しているのは人間だけだろうと思われ、この矛盾的関係を必然的拮抗と捉えて肯定できるのもやはり人間のみと一応考えてみると、私の命の存続を肯定できる方便もまた人間の視点でしか有り得ないということになる。例え他生物の生態について詳細に調べ上げてみたとしても人間の生態、とりわけ自己の生態についての観察以上に有益なものはなく、また哲学上のあらゆる問題に対してもこの視点抜きでは何も解決しない。心理的危機は人間の生態に強固に密着した現象であるから、ある思考とその思考に対抗しうる何らかの別個の心的作用の関係についての体験的認識を深めることによって危機的心理現象の原因については経験的に理解が可能である。我々は概念の創出が個人的経験や体験によって行われてきた現実を認めざるを得ず、その経験による概念の発生によって概念に架空の実体が与えられている。自然と拮抗し、反駁しあう人間存在という概念もまた「人間という体験」によって実体化させられた形而上の存在に過ぎない。概念の実体化という現象は人間の認識機構の中に巧妙に組み込まれた情報処理体系によって発生しているから、もし人間がこの体系を内包したたったひとつの閉じた認識体系しか有さないのならば概念の実体化の害悪を避けうる手段は全くないことになる。ところが、体験的に人間の認識体系は閉じていないことは断言できるので、概念の実体化さえも別個の認識体系から破砕可能であり、またさらに、複数の反駁し合う認識体系同士をたった一つの統合的認識によって折衷させることが出来る。この統合的認識は全体と部分という概念を受け付けない、超全体かつ超部分であるために論理の原理を脱却して複数の体系を統合できるのである。
追記:認識が閉じていない、という表現は非常に際どい表現である。ここの文脈で言っているのは、人間の認識体系が幾つかの部分に分解できるので、あるひとつの部分を別の部分から客観的に観察可能であることを示唆している。しかし、別の観点から言えば実は認識(この概念をどの程度まで拡大できるのかにもよるが)は閉じている。私はこの問題に関しては認識に替わる何か別の単語を用意してより正確に表現するべきなのかもしれない。2005年7月

2003年4月7日 大変不思議であるが、今私はかつてに比べたら比較にならないほど死に対して無関心になっているにもかかわらず、今自ら命を絶ってしまったとしても何ら違和感を覚えない。感覚器を通して外界からもたらされる全ての情報は、生きるための口実である。これは言い過ぎではない。自殺者は生きる希望を全てなくして自殺する場合が大半であるが、この場合彼にとって世界は自分を構成するための理由、つまり自分を生かす口実を完全に喪失してしまっている。生きなくてはならないという強烈な生への思いが人間を生存に繋ぎ留めている。そしてこの生きるための口実は肯定的である必要はない。目の前にぶら下がった幸福や未来への淡い希望だけでなく、恨みや憎しみも人間を生へと縛り付ける。我が祖母の生存の理由が大澤一族への恨みだったという事実を私は認めないわけにはいかない。愛する者を求めるように死を渇望していた私からその渇望が消え去ってしまった今、生の世界への渇望も同時に酷く枯渇したように一見見えるのは皮肉と言えばそうであろうが、実は死の渇望は死と生を特殊化し、神秘化していたということである。人間は生死を最も崇高かつ難解なテーゼとして本能的に特殊化してしまう。この誤謬が打破されるのならば、生死は特殊性を失って死は日常と同化してしまうのだろう。だから今私が自殺することに違和感など全くないのだ。まるで夕飯を食べて風呂に入ることのように、それは神秘性を剥奪されている。これを永遠の命と表現することは少々大袈裟というものだろうか。

2003年4月4日 人類以外で農耕文化を持つ生物は蟻だけだろう(多分)。なぜ蟻が食糧生産する知的能力を獲得しているのかは大きな謎である(と思う)。昆虫は人間と比べたら極めて単純な脳しか持っていないし、経験を蓄積することによって人間の眼に「知的」と映るほどの行動様式を獲得したという仮説も胡散臭い。多くの生物は、我々が本能と呼んでいるソフトウェアの中にどういうわけかわからないが知的に「見える」行動原理が書き込まれていて、そうした本能がどのような過程で形成されたのかは見当もつかない。人間の知性は本能の束縛から開放された自由な思考形態であるが、その知性を可能ならしめている原理を本能と呼んでいいことも事実であり、その意味では知性を開花させるように進化した人間の本能は如何にして獲得されたかが問題となる。知性からの疎外などという高度な哲学的問題を引き合いに出すまでもなく知性の位置付けは複雑な諸問題を孕んでいるが、生物の進化史の中で知性を本能の延長と考えて安堵しているのでは知性のことなど欠片も理解していないだろう。昆虫は知性を本能の中に凝縮させた、と言えなくもないし、そもそも本能は知性的であるいう表現も可能だと思う。微妙な言語的表現はともかく、生物とは実に深遠な存在である。

2003年4月3日 思想を持たないことは健全と言えるのだろうか。無思想という思想を抱く者にとっての知識は何の意味も価値も持たない情報に過ぎないと思われるが、このような原始的情報処理は確かに何ら世界に害をもたらさないという意味で健全である。情報は一個の独立した無機的情報から一歩も外に出ないし、それらが妄想や虚構に結びつくこともない。しかし一方で思想を形成することも人間にとって自然な行為であり、厳密な視点から人間を俯瞰すれば無思想な人間など一人も存在しないということになるのだろう。思想がある特定の形態を持ち、そこに妥協や柔軟性を一切伴わない時、そうした思想は極めて危険で不健康なものとなる。しかし、ほぼ全ての人間が固定化した思想を抱いており、そして多くの場合思想は理性的ではなく、主体性にも欠けているのだ。人間という価値を客観的に見る視点を持つ者は少なく、また自分の抱いている思想の実体にさえ関心を払っていない。厳密なイデオロギーや宗教教理の中に自分の思想を厳格な立場から位置付けをし、自らの思想を相対化することによって思想の厳密化をはかるような殊勝な者など皆無に等しい。もちろんこのように自己の哲学的な立脚点を知性的論理によって補完する立場はお世辞にも誉められたものではない。往々にしてこのような石頭な者達は根本的に知性にも理性にも乏しいのが現実だ。
知識が自分の思想を補強するだけの役割しか持たないのならば、それは知識そのものに対する冒涜と言える。知識が自分という意識を離れて存在しうる可能性に一度として目を向けないのは危険な思想的兆候だ。知識量と智恵の深さは何の相関も持たない。知識と教養も比例しない。ただ、知識の本質について目を向ける時間が一秒でもあるのならば、100万冊の本を読むことよりもいくらかはましであると思う。何しろ博識な者は自分が何でも知っていると思っているのだから。

2003年3月28日 厄介な。神を呼び求めるように真理を呼び求めてはならないとは。私たちが真に純粋なる善意思に従って真理を求めるのならば、どうして何者も真理を獲得していない事実に楽観的でいられよう。真理は所詮痕跡に過ぎなかった。人間の眼に隠されていた痕跡を暴露させることによって私たちは真理に近づいた錯覚を抱いて喜んでいる。私たちのうち誰が真理を希求して心の渇きを癒しただろう。幸福の幻影に付き纏われていつの間にか老いさらばえ、意識活動は衰え、私は確かに真理を切望した、という記憶だけを抱いて死へと向かうのだ。人間は誰であっても幸福を求める。しかし幸福が、それを求めることも求めないことも止めた時にしか実現しないことを知る者は驚くほど少ない。幸福とは人間に虚無感を抱かせない状態である。満足も不満も同じように幸福にとって邪魔な存在である。だから不満だらけの人生はご勘弁だが満足のいく人生も私にはいらない。ただ心安らかなる状態を私は欲しているだけだ。もし私が人間という絶対悪に対して植物に対するときのような愛を抱けるのなら、私の心は永久に安寧だろう。幸福と安心とは同義語なのだ。

2003年3月24日 一念一念を静めること以外に道はないという。しかし心の作用を完全に停止させることが私にできるのだろうか。死の認識によって生死を離れることはできるだろうか。その時私の情熱はどうなっているのだろうか。
私は私を駆り立てる美への情熱の所在を結局のところ知らないし、その情熱を傍観している自意識の所在も当然判然としない。私が美そのものであった時にはその美を認識している私は私の全体でもないし部分でもなく、そのような状態であることを私は美と定義し、美の真意が経験として意識上に屹立している。酒への情熱は酒の味と芳香を通して見える私の美であって、その美を容易に見出せない億劫さを自覚しているからこそ私は酒の中に芸術を感じているのだろう。美が困難であると知れば芸術が芽生え、芸術によって美は容易になる。だから芸術とは最後には芸術そのものを必要としなくなるものなのだ。芸術を必要としない芸術は既に完全な美の領域にあり、その時には一念一念は完全に静まっているはずだ。

2003年3月17日 最も深刻な精神の病は自分に対する違和感である。自己をアイデンティファイできない苦しみは何にも増して苦しい。その精神の病は時として死に至る病であり、自分の存在を否定することでしか自己を肯定できない限界的状況に追い込まれる。苦悩の連鎖反応によって妄想は爆発的勢いで増殖し、精神を食い尽くし、巨大な思考の迷宮を作り上げてしまう。しかし驚くべきことに、人間はこうした論理の迷宮に陥ったときに、その迷宮を巧みにかわす方法を心得ているらしい。コンピュータであれば単純にエラーを返すか無限ループに陥るわけであるが、人間はそうはならない。この機構は実に感嘆すべき構造を持っており、この機構によって複雑な自家撞着に陥っていても、問題の論理的構造を巧みに歪めることによって無効化してしまう。こうした超論理的作用によって人間はかろうじて精神を維持していると言える。例え自己否定によってしか自己を肯定できないパラドックスに陥ったとしても、この無限ループの外に別個の構造や意味や価値を仮定することによって自己構造を相対的に位置付けして精神を維持しようとする。これを一種のホメオスタシスと呼んで良いのかは専門外なので判然としないが、少なくとも私自身の様々な突発的もしくは持続的懊悩の解決は全て自己に内在する一種の先天的生命の機構によって必然的な解決を見せてきたのだと思う。そして、その解決は私自身が意識的であるとか、能動的であると信じ込んでいる意思の働きによっては少なくとも完全な解決を見せていなかった、という確信がある。だが一方で苦悩と懊悩の根源的原因もやはり同じように私の中に存在している先天的遺伝的形質に由来しているのであり、私は私という存在の根源によって苦悩とその解決を繰り返してきた、という表現が可能なのである。それどころか人間という苦の機構を宗教体験によって私が看破したあの瞬間でさえ私に内在する機構によって必然的にそれが現象したとも言えるのである。この事態に対して私はそれを的確に言語で表現し、意味付けする技量は私にはないし、そうする必要性もない。ただ、人間が苦の構造を透徹する勇気を持つのならば、自分という存在が無価値、無意味である立場に徹しているであろうし、その時には保身という意識も起こらずに純粋なる正義のみが燃え滓のように燻っているだろう。不思善不思悪なる正義が。

2003年3月12日 遊びは多様化しているだろうか。遊びが人間の最も根源的精神活動であるのならば、人間は遊びの中にこそ文化を紡いできたはずである。当然遊びは時代と共に変化し、多様化していると言えるが、遊びという非生産的、浪費的活動の中にどうして人間は生存の本質的意義や人生の大半を費やしてでも没頭さぜるをえない情動に駆られるというのだろうか。新しい遊びは我々の時間を奪い、場合によっては健康さえも奪いかねないというのに、遊びという肥大化した産業だけが人間の欲望を吸ってぬくぬくと肥え太っている様は正常と言えるのだろうか。そもそも遊びは本当に知的であろうか。異性への肉感的劣情のみを遊びと捉えるのならば、人間にとっての遊びも結局生存の呪縛の延長と言え、その活動は決して精神を開放などしてはくれないだろう。この意味において遊びとは所詮虚しさへのあらがいである。虚しい、満たされない、どこまで行っても心の隙間が埋められない、だからこそ人は遊びを求め、束の間の、一過性の、偽の安楽を求めてあちこちへと彷徨う。それでも私は遊びというものの中に人間の生み出した最も素晴らしい美への愛を感じているし、事物の完全性への憧れ、すなわちエロスを見て取る。芸術の領域が例外なく遊びであるという事実に私は従順に従い、それでいて遊びの聖域を築きたくて仕方がないのかもしれない。遊びに講釈はいらないが、私は下劣な遊びを遊びと呼びたくはないのだ。人よ、高貴に遊ぶべし。

2003年3月11日 知と智では受ける印象が違うな、とふと思う。それはともかく、知を携えて人が生きる所以は、その携えているところの知によって発生しているわけであるから、結局「知」とは自己完結の機構と言える。「空」という概念は人間の知の自己完結性によって、存在と非存在の境界が存在しないことを示していると言える。人間が「なぜ」「どうして」と考えた時、その疑問の発生する原因もまた最初の疑問の発生原因と同一であって、疑問は永久なる自己回帰に嵌まり込んでしまう訳だが、一歩その機構を客観的に洞察して非概念的思考を巡らせてみれば知の在り処は自ずから明らかになるのである。これは決して神秘的認識ではなく、知の存在を知りつつも知に頼らないというだけである。ここで働いている機構は無想像の機構とも言える。これは私たちが一時も休むことなく思考によって生み出している虚構の実体を認めない立場であるから、感覚器によって発生した刺激とその後に起こる認識の過程の中に何ら想像的活動を伴っていない。しかしむしろこうした無想像の認識は非常に創造的なのである。

2003年3月4日人間の欲望の成れの果てという言葉がぴったりの北朝鮮という国家を見ていると、人間への一種冷めた感情に襲われる。それほどまでに権力が大事なのかと思うが、権力への執着を否定する人間に限って自分の欲望への執着を断ち切れないものだ。金への執着、愛欲への執着、地位と名誉への執着、愛する者や物への執着。こうした愚かしいしがらみに捕われながらも、権力者の権力への執着を否定する気に私はならない。人とはそうして愚行に愚行を重ねて歴史を紡いできた。それを人類と栄光と言いたければ言えばいい。別にそれは構わないだろう。ある者は富を得て貧者を見下し、ある者は権力を得て人民をこき使ってきた。人は他人を従え、尊敬され、敬われ、崇拝され、ちやほやされ、誉め言葉をかけられ、愛され、傅かれ、尽くされたいがために努力する。どんな価値も他人とも関係の中に集約される。なぜ高級品が欲しいのか。他人に対して優越感を持ち、他人に羨ましがられ、羨望の眼差しで見られたいからだろう。どんなに豪華な食事も一人で食べては美味くはないのはなぜか。その美味いという情報を親しい者と共有することに価値があるからではないか。この世に誰一人他人が存在しないのならば軽自動車に乗ろうが高級外車に乗ろうが何の差があろうか。途方もない高額の高級車を買うのはただの見栄以外の何物でもないのではないか。学歴も結局ブランドであって人に優越感を抱きたい一心で勉強しただけなんじゃないか。その証拠に一流大学に入ったくせに大学で遊び呆けて留年する人間がいる。全身高級ブランドで固めてブランドの力を自分の力と過信して虚しい見栄を張り合っている輩もいる。しかしどんなに豪華な城に住み、豪華な食事をしていたとしても、他人という存在が欠如しているのならば虚しいだけだろう。自慢する相手もいないのならばどんな贅沢も実は無意味なのだ。つまり、人間の抱く満足というものは全て他人との競争の中での勝利によってしかもたらされないということだ。

2003年3月3日 驚くほど更新していなかった。それはともかく、孤独の意味は考えるものではなく感じるものであると深く思う。全ての存在は私の思考の中になど存在していない、ということか。どんなに多くの言葉を積み重ねても、それは未だに解読されていない文字と同じように真実在に関しては何一つ私に語りかけてくれない。私が本当に死にかからなくてはどうやって死の意味を私に教えられようか。孤独の意味も同じだ。何もかもが言葉を離れて存在しているのに、観念的空間に存在しているだけの虚無的実体に私たちは価値を見出してしまうのは悲しいことだ。現実に今飢えていない人間に飢えの意味などわかりようもなく、その意味で幸福なる無知の中に生きるか、不幸なる知の中に生きるかという二つの路だけがここに用意されている。だがどちらを選んでも何も変わらないだろう。私は今人生への疲労を避けているようだ。幸福なる知の幻覚を払拭し、自分という存在に何の価値も見出さず、それでいて虚無からをも開放されている。何もしないという事以上の菩提心はない、と言ってもいい過ぎではないと私は思うのだ。それはつまり、世を捨てて貧乏に暮らすのも、世の中で賢明に働いて偉くなって金持ちになるのも所詮同じようなもので、そんな輩は永久に真理などとは縁がない。私は真理などと言う無価値なものを求める気力がない分余程真理にも近かろう。ハリボテの真理などを求めるくらいならば大金の方がずっと仏法にかなっている。そういうわけだから私は歓喜天を罵倒しながらこうさけんでやろう。やい、歓喜天とやら。お前にどんな力があるか知らぬが力があるのならば俺に巨万の富と栄誉を与えてその力を示してみろ!さもなくば請願成就の後にはお前なんぞ忽ち放逐してしまうぞ!とな。
この場を離れて何処に理想の居場所などありえようか。そこに気付けなければ何千何百の経文の文句も無価値そのもの。他人が叫ぶことのできる説教はただ一言、今此処にいるお前だけを知れ、であろう。だから何人であろうとも私を救えない。歓喜と絶望の幻影を打ち砕いて我は我になりきって生きる。その意味で孤独は心地よく、私はどのような時、場所であろうとも私と共に存在し、だからこそ私は私の存在と同化することによって救いを深める。私が醜かろうと愚かであろうと貧乏であろうと他人から見てつまらない人生を送っていようとも、そんなことは私自身の救いとは一切関係なく、私自身は私の人生に満足もしなければ不満も抱かないであろう。私が私という存在をどこまで貫徹できるか、ということ以外に関心を払うべきものなど実は何もないのだ。
世界も私の哲学も矛盾だらけであるが、そんなことを気にしない奴こそ賢者だと言える。

2003年2月18日 人生に面白いとかつまらないとか、そういう価値を持ち込んではいけない。人生が楽しければ死は恐ろしい。人生がつまらなければ、自分の存在を否定せざるを得なくなる。考える場所には真実などなく、思わざる場所にこそ真実が投げ捨てられている。真理はゴミための中にある。価値を離れていない人間に人生を語る資格はない。自分が成功しようと失敗しようと私という人間を支配しているこの宇宙を転覆などさせられない。だが人間は簡単に悪魔の誘惑に引っ掛かっては馬鹿馬鹿しい煩いを抱き、成功とか失敗とかいう幻想をいつまでも背負ってしまう。愚かなことだ。私はホームレスが人生の敗北者とは思わない。そもそも人生に勝ち負けなどあるものか。
少しでも感覚器官が正常に働き、正常に思考できるのならば、複雑な妄想によって生み出される人生の虚しさに呼吸もできなくなろう。虚しさは人生という幻想によって作り出されているのだから、人間に清いとか汚いとかレッテルを貼って虚しさを補強すべきではないのであるが。思い返せば私のこれまでの人生とは虚しさとの闘いであったと思う。虚しくて虚しくて虚しくて、窒息するような世界であったが、それは人生に価値を求めてしまったからなのだ。さらに私は価値を超えた意味をさえ求め、強く求め、ひたすらに求め続け、そしてその追求そのものが私に重荷となって圧し掛かっている事実に気付いた。一度として自殺を考えたことはない人間は哲学者ではないが、本当に自殺した人間もまた真の哲人ではないと言える。なぜならば、自分と世界の有様は一見しただけでもおぞましいほどに不潔であり、嫌悪すべき対象であり、自分が世界と相容れない存在であるという矛盾に嘆くだろうから、最初はどうしても徹底した自己否定と世界の否定に嵌ってしまう。しかし虚妄を打ち破って人生の価値も意味も破壊して、ただ一人今此処に存在する我に徹してしまえば、勝敗も善悪も浄不浄も生死も存在の拠り所を失って、現実が明々と浮き上がってくる。その時人生は存在しない。価値も意味も超克した人生を人生と呼ぶことを私は躊躇うからだ。私には過去も未来もない。そんなものは存在しない。我が自由の牙城には時間の束縛さえ及ばない。何を恐れることがあろうか。この心地よさを捨ててまで得るべき富と名声などない。

2003年2月10日 盆栽という芸術は完成された美の極致である。盆の上に完結した宇宙、それは須弥山世界を思わせる。一つの生命に閉じ込められた無限の時間と空間。閉じられているからこそ浮かび上がる果てのない世界。形態が、空間が、生命が、そのまま宇宙の縮図となっているからこそ、盆栽はそのままの姿で宇宙と一体となっており、自然と人間とが溶けあったその不可思議な物体は美以外のどのような言葉をも受け付けず、凛としてその存在を放射するのだ。何百年という年月が小さな盆の上に凝縮されたこの至高の芸術は人間の力だけでも木の力だけでも生み出されない。人間と木が、人為と自然が、命と宇宙が、盆という世界の中で混じりあい、完璧な美を謳いあげる。このような美の奇跡を前にして私はただただ感嘆する以外対応方法を持たない。完璧な芸術に評論や評価はいらない。ただ、その美に従順であればよいのだ。なぜならば、その美は我々の中に存在している美という至高の善意識なのだから。
善智識は美しい。自ら主張しないものは美しい。だから究極的な芸術は、意識しないところの芸術であって、つまりは私自身の無意識なる一挙手一投足なのだ。ここに気付けばどのような芸術の真価もたちどころに顕わとなる。意識下の芸術はすぐに馬脚を現して醜態を晒すだろう。芸術の庭に立ち、周囲を見渡せばそこに特別な存在など何一つないし、特別な美なんてものも存在しない。だから凡庸な絵を何千枚鑑賞しようとも、高さ20センチの小さな盆栽を見たほうがずっと美の真価を味わえることも多かろう。なぜなら、それは単なる一本の植物に過ぎないのだから。

2003年2月6日 私は迂闊という言葉が好きである。私自身の迂闊さは好きではないが、迂闊という言葉は好きなほうなのである。南無阿弥陀仏をお題目だと思っている奴は、迂闊としか言いようがない。迂闊という言葉は便利なのである。開運グッズを思わず買ってしまう迂闊さは愛すべき迂闊さだ。人が良いんだね。鎌倉の阿弥陀仏の大仏を釈迦如来だと思ってしまう某女流歌人の迂闊さとかは微笑ましくもある。だが、根源的な人間の迂闊さは見抜きがたく、それ故に改善も難しい。集合的迂闊、とでも言おうか。この潜在的迂闊が社会的迂闊となり、社会的迂闊は個人的迂闊に循環して迂闊の大海を作り出す。迂闊世界では人は漏れなく迂闊であり、その迂闊さは迂闊に気付かない迂闊さによって補強されている。学習によって迂闊さを回避できるのなら良いが、集合的迂闊は学習では回避できない。そして、こういう馬鹿馬鹿しい議論に真剣に取り組むのもやっぱり迂闊なのである。嗚呼何と愛すべき人の迂闊さよ。できれば迂闊にも私にお金をあげたり、おいしい食事をご馳走してあげたりしたらナと思う。

2003年2月5日 薄っぺらい価値観。薄っぺらい人間主義。そういうものが世界を席巻していても大声を上げて批判が出ないのが世の不思議と言えよう。しかし、全ての「うすっぺらーな」耳ざわりのいい言葉というやつは、人間がかなり普遍的に抱いている先入観に依存していると思う。その先入観とは、要するに自己の特殊化である。自分「だけ」が特殊であるという信仰である。この信仰は拡大されて自己を取り巻く人間「だけ」が特別であるという感覚に至る。この「特別」という言葉は大変な曲者だ。なぜならば、自分を含めた自分を取り巻く人間たちが「普通」であると思い込むことも既に自分を特殊化していることになるからだ。「普通」というのは十分過ぎるほど「特殊」なのである。もし自己の特殊化を完全に免れているならば、自分は「普通」でも「特殊」でもない、単なる「我」に見事に修まるのである。自分を特殊化することによって多くの妄想を抱いて人間は煩悩の中で苦しんでいる。エゴ丸出しで喚き散らす人間は既に地獄に落ちている。私は自分を特殊化しないことによって自分自身を救い出す。自分のもって生まれた心身をそのまま受け入れて、凡人にも天才にも俗人にも聖人にも、いずれにも属さない堅固な自分を築きたいと願ってやまない。自分を特殊化すれば必ず邪見が生じる。自分だけが偉い、自分だけは幸福になるべきだ、自分だけは成功する、そう思ってはならないだろう。逆に自分だけが苦しい、自分だけが悲しい、自分だけが苦労している、そう思ってもいけない。自分は同情されるべき人間だ、自分だけは世間から特別視されないはずだ、そう思っても駄目だ。特殊化された自己に真実の自己は存在しない。特殊化された自己は妄想の自己である。それは自分が勝手に想定した「普通」とか「特別」という枠に収められた架空の自己存在である。そんな場所に自分は存在しない。学歴は自分に枠を作るだろうし、職業も枠を作るだろう。そのように多くの枠に人間は縛られているが、その枠を勝手に想定しているのは誰あろうか自分である。誰かがその枠を自分に強制したことはないのだ実は。「ああせい、こうせい」と他人に言われても自分に枠を作ってはならない。他人の意見に従うなということではなく、枠を作ってはならないということだ。よい意見には従うべきだがそこに心を縛ってはならない。枠を作ったら即時に地獄に墜ちる。自分はどのような枠にも収まらない真に自由な心の働きであり、この働きはいかなる外界からの強制力も及んでいない。強制力は自己の妄想が作り上げている化け物に過ぎない。うすっぺらーな価値観に溺れて血の池を遠泳するよりも、自己の妄想を断ち切って自由な心の働きを楽しみながら祖師らと語らう方がどれほど楽しいことか。妄想と取っ組み合うだけでは何億劫かかっても心の自由と幸福は獲得できない。私は誰よりも愛する私自身を虚構の監獄から救い出したいと思うのだ。監獄を出る勇気は監獄に入る勇気に倍するのであるが。

2003年2月4日 これを書くのは3日である。一日先のことを書いてみよう。
今日は楽しい気分である。生きていることは楽しいことだ。私のために時間を割いてくれる人間には深く深く感謝したい。そういう気持ちである。自虐に浸らない自分にも感謝する。生まれ変わるなんて御免真っ平だが産まれたことには取り敢えず感謝しよう。仏説熾盛光大威徳消災吉祥陀羅尼経と千手千眼観音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経にも感謝しよう。なぜこれらの経が臨済宗と関係しているのかは全く不明だが、すごく感謝はする。妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五にも感謝する。
↑と、わけのわからないことを書いていたが、今日4日も煩いのない一日であると思う。高圧条件でXe-SiO2系が安定化するという話は面白かった。予想を越えることが地球の中では起こっているということですナ。

2003年2月3日 4枚羽の鳥(恐竜?)がいたというのだから驚きだ。ぜひ見てみたかったものだ。どんな飛び方をしていたのか。それにしても世の中何が出てくるかわからんものである。もしかしたら自分も30歳まで生きそうな雰囲気が漂ってきた。
それはともかくスペースシャトルが空中爆発するというのだからたまらない。宇宙飛行するのも命懸けだ。だがある意味それだけ危険な仕事ができるというのは羨ましい。意味のある危険なんて望んでもなかなか得られない。無意味な危険はいくらでもあるが。さてさていつになったら私は地球を脱出できるだろうか。できれば世界で初めて宇宙で死んだ人間になってみたい。なんだか面白いじゃないですか。宇宙葬になるってのは。宇宙に棺桶が沢山漂っているなんてことになったら嫌だが。ふわりふわりと宇宙を漂って、そのうち宇宙線と塵の衝突で肉体は朽ち果てていくのだろう。途方もなく時間がかかりそうだが(はたしてどれ位かかるのだろうか)。腐らない自分が崩壊していく。とうに消え去った意識が塵芥に徐々に変わっていく肉体を見つめている。太陽がじりじりと照りつけ、皮膚を焦がす。眩暈がしそうな無重力世界に漂いながら、美しい大宇宙と一体となっていく。想像しただけで身の毛がよだつほどのおぞましさ。宇宙の中に自分が散り散りになった頃には人類はもう地球にいないかもしれないね。

2003年2月1日 時間が存在すると思うことは苦しいことだ。時間が存在したのならば苦しい過去と苦しい未来と苦しい現在に縛られて身動きが取れない。時間の観念を抹殺すれば不安も恐怖もなく、期待も希望も存在せず、後悔もない。ここまでの好条件が揃っていながら何ゆえ人間は時間というものを作り上げるのか。時間に自分を縛ってはならない。空間に自分を縛ってもならない。欲は私を縛る。欲を離れれば私は縛られない。無欲ならば何ものも恐れない境地に達する。乞食になることを恐れるべきではない。何も為さずにくたばることも恐れてはならない。私の才能は唯一私のためだけに存在しているものであって他人に奉仕する義務は私に存在しない。いくら他人に奉仕しても執着を離れられないのならばそれは徳にはならないし、何の功徳もない。寺を建立しようと病院を建てようと学校を作ろうと人から多くの賞賛を得ようと全く無功徳。餓鬼の世界で一生彷徨っているだけに過ぎない。他人を何千人助けようと自己を振り返らぬのならば何もしないほうがずっとましだ。自分の仕事が人類に貢献しているなどと自惚れるべきではない。人類に貢献する前に自分に貢献すべきだ。自分を助けられなくてどうして他人を助けられる。自分が溺れそうなのにどうやって他人を抱えて向こう岸まで渡れる。自分が向こう岸まで渡っていないのにどうして渡り方を教えられる。

2003年1月30日 離れる
賢者の縄を逃れ
天使の翼をへし折り
確固不動の心を得て
欲少なく
何一つ望まず
喧騒にも静寂にも浸からず
己のみを灯火として
己のみを頼りとして
この身のまま道を体得するならば
生死の境は打ち破られん

2003年1月28日 見性
2003年1月26日ほど、私の人生において重要な日はなかった。もしこの日に京都へ行かなかったのなら、東福寺へ行かなかったのならば、私の人生は間違いなく別のものになっていただろう。私が抱えていた苦悩、絶望はこの時点で限界に達していたのだと思う。15年間考えつづけ、悩みつづけ、苦しみつづけてきた。膨れ上がった巨大な苦悩の要塞は何度も私の生存を脅かしてきた。しかし、1月26日、福島老師の法話を聞きながら、徐々に自分が問題の核心に迫っていることに自分で気付きはじめていた。「現実を肯定するのが宗教である」という言葉が非常に大きな意味を持っていることが体内に浸透するように納得できたからだ。月例法話の後に福島老師と相見した際、私は率直に核心に迫る質問をした。在家の身でありながら宗教的世界に出ることはできるのかと。すると老師は何の迷いもなく「できます」と仰った。その瞬間だった。私の中に存在していたあらゆる苦悩が、迷妄が、絶望が、哲学的宗教的諸問題が、一瞬にして霧散してしまったのだ!信じられないほど感動的奇跡の瞬間だった。まさに瞬間だった。稲妻に打たれるような衝撃が私に走り、あらゆる苦悩が存在の所在を失ってしまった。何度思い出しても感動的瞬間だった。こんなことがまさか自分に起きるとは。私は心の中で「そうか!そうだったのか!」と叫んでいた。あまりの感動に思わず涙が溢れ、嗚咽を洩らしてしまった。初めて自分の才能が自分に報いてくれたと思った。遂に私は真の宗教体験を得て迷妄を滅ぼした。この素晴らしい体験、そして今の私の境地はどんな栄光よりも名誉よりも富よりも輝かしく煌いている。
悟りの内容とは何と当たり前のことか、としみじみと思っている。道はここにしかなかったのだ。我が身を離れて何処にも仏など存在しなかったのだ。どんなに苦行をして体を痛めつけても、神秘的幻覚を体験したとしても、こんな気持ちにはならなかっただろう。絶望の淵ギリギリの所まで追い詰められて私は遂に仏の本願を得て智恵の目が開かれた。もちろんこれは最初の悟りに過ぎない。これからもっともっと自分の境地を練っていかなくてはならない。しかしその段階での困難はもはや苦悩ではないのだ。
追記:確かにこの瞬間私は正しい宗教体験を得た。しかし、悟りは容易に退転することも体験した。悟りは一瞬だが、この優れた境地は人生を通して練り続けなければならない。ある意味、この見性の瞬間は新たな試練が到来することを暗示していたのだ。私の境地は今も完成には至ってはいないが、この悟りの瞬間からその完成は「切望するもの」から「約束されたもの」へと劇的変貌を遂げた。私が完全無欠の智慧に到達することは既に確約されているという絶大な安堵感があるが、そのための日々の精進は必要なのである。2005年6月

2003年1月20日 集合的我
非常に奇妙なことに、我々は我々の精神構造を解析する際に多くの間違いを犯すのである。自分の精神の構造を奇怪なことに何も知らない。この奇妙さをどう考えればよいのか。これは、私が今こうして思考している時点においても、思考の力学的力が思考の構造の歪みを生み出すため、と斬新に考えてはどうだろうか。もちろんこの文章が途方もなく矛盾した迷宮を形成していることは百も承知なのだが、この自己矛盾した精神という一種やるせない思想こそ人間精神の本質を示しており、精神の論理的不完全性が精神構造の中で精神の完全性と融合していると私は考える。数学の論理的整合性は我々の精神構造の完全性の一端を示しているが、それは精神の一領域に過ぎず、各々の論理的領域を繋いでいる糸は全く言語的ではない。最深部の無意識の広大な領域は言語を持たない。我々は自分たちの精神(知性や理性をひっくるめた全体)を過信している。その全体を論理的に解明することも論理的に把握することもできない。私は集合であってその集合のどこにも私の本質は見出せない。

2003年1月16日 イデアル人間
環境とは情報である。自分とは環境という情報から推測される主体である。環境=情報は無機的に独立した部分だけが積み重なっているわけではない。ひとつひとつの情報は有機的に結合し、個人個人それぞれの環境世界を築き上げている。この有機的情報世界によって無機的情報は価値を持ったり意味を持ったりすることになる。実に単純で誰でも分かる話であるが、問題はどのようにしてこの世界が形成されているかである。人間は自分の考えている世界が普遍的世界ではないことに気付いて初めて健全な自我に目覚めると思われる。成人式に参加している連中の大半はこのことに気付いているとは到底思えないが、「自分の抱いている世界が自分である」ことに気付けば自然と世界の成り立ちに対して興味を持つだろう。世界は築かれたものであり、アプリオリに存在してはいない。世界は人間の成長に伴って形成された架空の存在であるが、架空でない世界は存在しない。愚かなことに人間は自分で世界を形成しているという事実に気付かずに勝手に自分で世界を歪め、自分を一定の窮屈な枠の中に収めようとし、この作用に対する反作用として自分の世界(唯一絶対の真実としての狂信の対象であると同時に、この世界の構造が世界それ自体を閉鎖系たらしめているような世界状態)に反駁、抵触するあらゆる存在を無闇に否定しようとする。これが頑固という状態の説明である。柔軟な思考のできないということは、その人間の持っている世界の構造に欠陥があるということである。この欠陥は通常思考の柔軟性を有していた若い時期に様々な人間と接触することで克服されるものなのだが、若い時期にあまりに甘やかされて育ったりすると、赤ん坊の頭蓋骨のように思考能力は次第に硬くなってしまい、修復不能となる。頑固=思考力の劣った人間の頭の中では如何なる演算を行ってもその結果は自分という集合の中に収まってしまう。そこで私はこういう人間をイデアル人間と呼ぼう。自分という集合がイデアルなので、どのような状況に置かれようと他人から何を言われようと自分という集合は完結している。彼は自分以外の何に対しても関心がない。そして実はその自分の殻が恐怖によって成立していることに気付かない。頑固者で保守的(未成熟な自己世界を決して改めないような保守性)な人間はおしなべて怖がりな小心者である。

2003年1月15日 馬鹿の弊害
気狂いに刃物(気狂いを一発で変換できないIME2000の無能ぶりも気狂い沙汰だ)とはよく言ったものである。馬鹿に権利と人権も同義として定着させたい。愚者に本覚思想も道義か。自分で能動的に何一つ考えられない人間が権利や人権という言葉を覚えると、これほど性質の悪いことはない。かつてカソリック教会が一般人に聖書を見せなかったように、密教で理趣教をやたらに見せなかったように、高尚で捉えがたい概念を気狂いに与えるとそこから無限に幼稚な解釈を生み出して世間に毒を撒き散らす。まるで兎のように糞を撒き散らしていくのだ。そしてその幼稚さ故に自分は確実な正義によって理論武装していると信じ込んで自分の正しさを信じて疑わず、冷静に議論したりすることもない。我日に我が身を三省す、という言葉くらいは聞いたことがあるかもしれないが、原理主義者たちは全く反省をしない。反省は非常に重要な理知的行為であり、反省するからこそ人間はより高い認識へ到達するわけであるので、成長しない人間こそ馬鹿の典型といえる。類に漏れず人権擁護原理主義者にも反省と成長は当然皆無である。反体制万年野党原理主義者にも反省はない。理論至上原理主義者にもない。修正主義原理主義者としか表現できないようなケッタイな御仁にも反省はない。自分たちの抱いている原理の正当性(正統性)に関しても考えているようで考えていない。彼らは自分を相対化できない気狂いである。そうした数多の原理主義者たちの中にあっても最も多くの毒を撒き散らす奴等が憲法原理主義者を中心とする(?)左翼系自称インテリ馬鹿である。彼らにかかればどんなに高尚で高慢な理想を説いた哲学でさえも自分たちの屁理屈を補強するためのペテンの武器に変化してしまう。基本的に超自分勝手で自己中心、自分中心天動説を唱導する頭のてっぺんから爪先までこれ全て偽善という末法的馬鹿である。昨日某公○党の党首が小泉首相の靖国参拝に関して「政教分離の原則に抵触する恐れがある」などと真顔で言っているのである!これほどの大馬鹿が世の中にいるのか、と感動を禁じえなかった。感動を覚えた。この無責任で自分だけはどんなに滅茶苦茶でいい加減で支離滅裂なことをしても決して非難されまいという開き直った態度は創○学会員としての池○大○信仰によるのだろうか。それとも単純にこの人間が馬鹿なだけなのだろうか。自分の発言が自分の存在意義さえも否定しかかっていることに全く気付かないほど知能指数の低い人間が政治を行っていると思うと鳥肌が立つ。こういう格好つけの偽善者ぶった奴よりは土井○○子みたいに終始一貫して馬鹿な発言しかしない偽善が人間の格好して歩いているような真性の智恵遅れの方が潔い気がするが、どっちにしても気狂いに権力だな。
人権だの権利だのと主張する人間が例外なく途轍もなく頭が悪いことは調査する必要もないほどにほとんど自明であると思われる。なぜならば、人の言ったことを受け売りして喜んでいる自体既に無能の証であるからだ。彼らは知能指数があまりの低空飛行のため墜落してしまうのではないかと心配になるほどの連中なのだが、どういうわけか自分は頭がいいと思い込んでいるらしく、進歩的文化人という既に死語になった言葉に代表されるように彼らが自称インテリであることは事実なのである。どうも本は沢山読んでいるようなのだが、与太本しか読まないせいか優れた書を理解する基本的能力に欠けているせいかは知らぬが思い込みが激しく、それだけならいいが困ったことに執筆活動をするのだから迷惑である。大局的に見るということを敢えて避けているのか非常に苦手なのか、おそらく後者なのだが、皮相的感想を述べさせたらテレビに出てくるアホタレント並である。テレビ局に頭のいい人間がいるとは最初から思っていないのでテレビに何も期待はしていないのだが、どうも物書きも相当お頭の具合がよろしくないのが多い様だ。タレントは馬鹿でないとなれないのは周知の事実だが、頭が悪くても筆で飯が食えるのはどうかと思う。情報公開を叫ぶ前にお前らの知能指数を公開して欲しいと思うのはごく一部の人間だけだろうか(間違いなく一部か)。タレントの頭の悪さもどうにかしてほしいと思う(これは多くの人が思うと思う)。タレントで日本語を話せる人間は少数派だろう。アイドルや歌手ではまずゼロと言っていい。宇○田ヒ○ルは言語障害なんじゃないかと心配した人間も多いと思うが本当にそうなんだろう。文筆家(自称知事)らしい田中○夫に至っては日本語の語彙力が決定的に不足しているので英単語で補っているというくらい学力が低い。
でもそんなタレントや文筆家とは比較にならないくらい酷いのが文部科学省の生涯学習推進課課長である寺○研。こいつくらい気狂いに刃物という言葉の似合う奴もいないな。これほど救い様がないほど徹底的にどうしようもなくあらゆる形容詞を駆使しても表現し尽くせない程に頭の悪い人間もそうはいない。こんな人間が権力を握れるほど文部科学省というのは超低レベルな省庁なのだ。知識ゼロ、教養ゼロ、思考力ゼロ、こういう奴でも単に息して糞小便垂れてるのなら被害もないが、こんな伝説に残るくらいの驚異的超ド級の大馬鹿者が権力を持ってしまうと国家的悲劇が生じる。この男はどんな大失敗をしても自分が間違っているということに気付かないだろうから、誰かが暗殺するしかないと思う。こういう一見するといいこと言っているかもしれないという類の奴が国家を食いつぶす。もともと能力がないんだから彼自身の責任ではないと言えばそうなんだけど、なら少しは自重しろ。要するに俺が言いたいことは馬鹿のくせにでしゃばるな、ということだ。

2003年1月11日 根本概念たる美
我が哲学の創造の根拠は唯一美意識に拠らざるを得ないという根拠は、美以外に完全な普遍性を何の論証もなしに究極的懐疑主義者たる私に確証させるものが何一つ存在しないためである。美は完全に存在の中において独立した価値であり、あらゆる行為や現象を人間にとって意味付ける能動の根源である。このような美の基本的性質は、美意識以外の知覚的認識を受け付けない。美は存在と非存在の中間であり、どのような言語に翻訳されてもその実体には遜色ないが、それでいて美という言葉すら拒む。この絶対矛盾的抽象実体だけが根拠とされる哲学は当然超越的であり、哲学の構造そのものが哲学を否定もするし肯定もするという特異な性質を内包してしまう。しかし、その絶対矛盾の非限定的総体を、私は美の哲学と呼ぶのだ。境界もなく、限界もなく、全てを完全に内包しているが、現実問題について何一つ限定的論証を与えない。一見無価値であるが故にその価値は輝き、完全無欠の智であることによってその完全性さえも否定してしまう。この哲学は完全さえも超克している。人生に絶望すればするほどこの偉大なる智によって絶望はそのまま光悦に転化されてしまう。神の如き美の導きによって身体的拘束も限界も哲学的難題も全てその限界性を持ちながらそのままに美の中に止揚されてしまう。このような神秘的性質は何物かによって恣意的に定義つけられた概念の延長でもないし、演繹的に導かれる帰結でもなく、研磨された美的直感と徹底的洞察によって感得されるものである。美の実体が存在するから美しいと感じるのではなく、美意識そのものが独立して存在しており、この意識によってしか自己の行為を納得できる形で道徳的たらしめる方法が存在しないという事実に目を向けた結果、必然的に美は宇宙の中心概念となるべきなのである。

2003年1月8日 種的制約
遺伝的形質の超越以外に救済の道は有り得ない。人間という種の制約をどのようにして打ち破るかが問題なのである。もし人間が単独行動を生活の基本と置く非社会的動物であるのならばこれほど事態は深刻ではないし、哲学や宗教が抱えざるを得ない根本的矛盾はいとも容易く解決してしまう。しかし、ポリス的動物である人間がその社会性を肯定しつつも個人的幸福や開放を達成することは、そもそも目的そのものが自家撞着に陥いざるを得ない。この壁に対しては妥協か、超越かが要求されるが、妥協と超越との間の激しい軋轢も結局何人も縫合して解決する方法を見出しえていない。この絶望的状態に対して、新しい科学的知識体系を有効に利用して普遍的解決方法を導出する試みは避けられないのではないか。種的制約をもし人間が自らの力で破壊する勇気を持つのならば、個人と社会は調和するだろうか。結論から言えば既存の全ての価値体系を破壊してしまわない限り、個人的救済を社会的価値の中に還元できない。全く新しい価値体系を創造すること以外妥協なき超越を実現する術はない。

2003年1月6日 思いつきを入れる器
一瞬一瞬の刹那に過ぎる思想の断片を紡ぐ作業は楽しいが、具体的に一度しかない人生の舵取りをすることは何とも億劫なことである。もし完全に自分自身を信じられるのならば良いが、少しでも弱い気持ちになってしまうと恐怖が私に取り憑く。よって、如何にして思いつきを確信に変えていくかが大切だ。私の思いつきは例外なく途方もなく大きいので、それを入れる器がなかなか見つからないので困る。どこに売っているのか、でかい器は。

2003年1月4日 集団という悪
捨てることは困難なことである。手に入れることよりも困難といえる。しかし捨てることによって無を手に入れていることも確かである。何故に捨てなければならないのか。その理由は自明である。権利を放棄することなしに義務の消滅は有り得ないからである。人間へ圧し掛かる重圧は義務によって生じ、義務は人間の最も健全な精神を蝕む。義務は集団の中で生じるが、集合の意思は分別を破壊してしまう恐るべき悪徳だ。周囲の人間が悪人ならば、朱に交わって善人も悪人になるだろう。しかしその集団の中では悪こそ正義であり、その偽りの正義に従って一部の人間を排斥し、迫害する。常に一部の人間を敵に仕立て上げることによって虚構の正義を築き上げて自分たちの悪を隠すのである。集団とは悪であると言っても過言ではない理由はここにある。世界はこの悪の論理によって、それが悪だと知りつつも人間は悪に従って一部の善人を吊るし上げるのである。弱い人間たちは額を寄せ合って敵作りに励み、それによって自己を防衛しようと必死になっている。確固不動の自己を築く自信がないからであろうか。自分を常に多数派の中に置くことに必死になっているので平気で正義を踏みにじることができる。これが世間的に「良い人間」の正体である。出る杭を打つことしか頭にない。善人の足を引っ張ることしかしない。一見協調性があるようで実は自分のことしか考えていない。他人の世話をする時は下心のある時だけであり、本当に困った人間を助けることは面倒なのでしない。目の前で人が殺されかかっていても助けに入らない。駅で大勢の眼前で人が殴られても犯人が捕まらないほどに世間の正義は腐敗しきっている。こんな臆病な人間ばかりの中で善悪を唱えることほど馬鹿馬鹿しい徒労はないのである。三島由紀夫が割腹自殺しても世間は何も変わらない。この現実に泣きたくなる人間の何と少ないことか。





戻る