2002年日記大魔王来たる
徒然なるままに

2002年12月26日 同一性障害
私が私の存在そのものによって幸福から疎外されているという事実を本当に私は受け入れてきただろうか。甚だ疑問でならない。確信ということと受容はどうも異なったことらしい。死の受容の段階性と同様に、自分に対して否定的事実を受け入れることは誰にとっても難しかろう。そして未だに死の許容に達していない私の精神の脆さと、他者の不幸を自らの痛みにしない器用さを持ち得ないことは大いに反省すべきことなのかもしれない。偽善を糾弾しながらも、私は偽善への憧れを捨てきれていない。幼稚園のお遊戯を皆が楽しんでいるならば、私も楽しんでみようと決心はしたものの、やっぱり楽しめないことに絶望感と虚無感を感じてきた。社会という構造そのものの大いなる矛盾に気付き始めてからもう17年が過ぎようか。私は未だに社会に馴染めないし、馴染めないからと言って見捨ててもおけない。それは結局私が人間を必要としていたということだろう。人間が死へ向かう私の心と体を生存の世界へ引き戻してくれることを期待していたのだ。その甘さに私は気付くが、困難極まりない現実に立ち向かう勇気を奮い起こす動機が欲しくてたまらず、いつの間にか動機のないことに対して恨みを抱いてきた。多くの決定的事実は私を打ちのめす。私が何を言ったとしても、何を行ったとしても人間は何も変わらないだろう。ならば全てを捨ててしまうほうがずっと賢明ではないか。そうは思うものの、何故そうしないのかは誰にもわからない。
かりそめの喜びに浸る度に憧れは他愛のない小さな砂粒にも等しいものへと姿を変え、虚無感は累積を続ける。自分の人生を矮小化することへの拒絶なのだろう。それは恐怖ですらある。怖くて堪らない。何一つしっくりくることのない人生を送って面白くもないことに笑ってみせ、窮屈極まりない世間の中で自分を常に偽りながら自分を偽善への憧れだけで叱咤激励して生きることの何と恐ろしいことか。何も達成しないままに、何一つ私自身に報いることなく、ちっぽけな栄誉にみっともなくしがみついている間に私は腐ってしまう。もう腐りかけている。私は恐ろしくて堪らない。私に時間はないのに、私の時間は無価値な行為に簡単に奪われてしまう。本当にこのままでいいのだろうか。私は自分が人間である事実を受け入れることが、この期においても出来ていないようだ。私が人間でないのならばこれほど悩むことはなかったろうに。どうして受け入れられないのだろう。臨床的に解明すべきだとさえ思う。種同一性障害とでも名づけるが良かろう。私は自分を何かに分類するという行為が許せないらしい。私を相対化するあらゆる行為はこれを認めない。

2002年12月24日 断食行の決意
全てはこの決断に繋がっていたのである。敬愛する平将門、二宮金次郎、それは結局成田山へ私の目を向けさせるためのものだったのだ。驚くほどの運命を感ぜずにいられない。何しろ全てがそこに集約されてしまうのであるから。私がどんなにそこから逃げたくても、その巨大な試練は否応なく私に圧し掛かっている。死ぬかもしれない。少なくとも死にかかることは目に見えている。それでもなぜ俺はこんな馬鹿なことをしようとしているのだろう。そこから何も得られなかったらただの暴挙にすぎない。誰が私の決意を理解できよう。全く理解不能であるに違いない。今まで経験をした如何なる経験とも比較できないほどの、想像を絶するほどの苦しみが待っていることも分かっている。恐怖もある。逃げたくなる。でもどうして逃げられないのだろう。多分誰も私を引き止められない。私ですらもう無理だ。逃げても不動明王は私の首に縄を括りつけてでも私を山まで引きずっていくだろう。受けて立つしかない。私が望んでいた命のやり取りはすぐ目の前まで迫っている。死しても悔いなし。
追記:新勝寺に目を向けたことは私にとって実に幸運だった。三週間の断食を決意したことで私の切迫感は頂点に達し、この悲壮なる決意が激しい緊張を私にもたらしたことで私の感覚を鋭利にし、結果的に見性できた。よって、結局この断食行はする意味がなくなってしまい、中止となった。私はこの時期精神的に非常に逼迫しており、その結果断食という死の際を見るほどの苦行によって道を獲得せんとしていたのだが、そのような苦行や非日常的異常体験の中に道などないことに気付いたのである。道は私の足元に転がっていたのだが、焦れば焦るほど道の所在は見えなくなるのである。釈尊は激しい苦行の末にその無意味に気付いたが、私はそれをやる前に気付いた分だけ幸運だった。この断食を決行していたとしても、私には何の益もなかっただろう。そこには私が求めるべき道は最初からないのだから。だからと言って苦行が全く無意味だとは言わない。苦行を通してその無意味に気付けば悟りは近いのだから。2005年6月

2002年12月21日 最後まで信じている何か
自分の人生に見切りをつける刻限は刻一刻と迫っている。見切りというのは変かもしれない。決断、とでも言うべきだろうか。ずっと失っていたものを取り戻す日が近づいているのかもしれない。最近あまりにも私は人間に慣れすぎた。それはいいことだ。私は人間に慣れる事によっていろいろなことを忘れてきた。だがどうして再び私に人の非難や嫉妬や陰口の存在を再認識させるのだ。忌々しい。誰も弱者の味方をしないから私だけが弱者の味方をしているのにもかかわらず。どうして誰も苦しんでいる人間のことを考えてあげないのだ。どうして弱い立場の人間のことを考えてあげないのだ。私がどんなに最善を尽くしても、寧ろ私が悪人に仕立て上げられていく世の中の仕組みには本当に辟易する。真の善を憎む偽善ばかりがもて囃されるというのはどういうことか。悲しくて悲しくて涙が出る。どうしてそんなに自分勝手に自己中心的に考えることができるのか・・・・・。他人の痛みを慮ることのできる人間はこの社会ではどうも悪人らしい。ならばどうして俺を死刑にする法律がないのかと疑問でならない。私はあの人がどんなに悩み苦しんでいるだろうかと思うと本当に辛い。そしてその痛みを理解できない人の冷たい心を思うともっと辛くてたまらない。そしてこんな馬鹿馬鹿しいことにこだわっている自分のことを考えるともっともっともっと辛くて堪らない。これほどまでに頑張って何とか世俗の世界で生きる道を見出そうと努力してきたけれども、どうしてそんな努力をしているのかもよく分からなくなってきた。私を理解していると思っていた人間も私を理解できなかった。所詮こんなものなのだろう世の中は。実に悲しいことだ。
何も望んでいないと思っていながら、実は私は望んでしまっていたのだ。高の知れた幸福などを求めてしまったのだ。もともと私にそんな平穏無事な人生は似合っていなかったのだろう。ずっと気付いていたことだったのに、無理に忘れようとしていたのだ。思えば私の外見も性格も何もかもが全て私の平安を妨げてきた。私の心身は嫌悪そのものだ。他者は私によって不快になるだろう。私の実体的存在は悉く否定され続けてきた。毎日毎日私は否定されつづけ、非難されつづけ、全く気の休まる場所などどこにもなかった。人間にとって私は否定すべき存在だった。あってはならないもの、存在してはならないもの、反逆者だった。人間と私は対義語ですらあった。裏切りと貶しと非難と憎悪と嫉妬と排斥によって人間は私に報いてくれた。何と有難い。それでも死を選ばない俺は単なる馬鹿だったと思う。私の遺伝的形質は私の存在を既に社会から追放しているにもかかわらず。それでもなぜ私が今生きているのか。きっと俺には最後まで信じているものがあるからに違いない。そしてまた、たった一人でも俺を理解できる人間がいる限り、きっと俺は生きるだろう。50歳無職住所不定になっても。この可能性はきわめて高いな。私に職などあるはずがない。

2002年12月20日 自給自足
全ての人間が納得できる公正さは存在しない。金とコネによって動く世の中を否定する前に意地汚い人間の本性を分析するほうが先だし賢明と言える。そして絶望すべき人間の本性と一切関わり合うことなく生きることは不可能でもある。努力すれば必ず報われるというのは当然嘘だし、そんな言葉は気休めにもならない。人間社会は個人個人の才能努力とは関係なく人的資源の再配分が行われている。そこにいちいち腹を立てたりするほうが馬鹿馬鹿しい。つい数百年前なら努力も才能も身分によって消し飛んでしまっただろう。
最近はこう思う。気兼ねなく誰もが浮浪者になれる社会はよい社会だと。勤労は美徳だろうが勤労しないことを生業としてもいいのではないか。彼らは勤労しないことによって勤労者に夢を提供する。勤労という束縛によって人の価値は貶められているからだ。金を稼ぐ人間は金を稼いでいない人間よりも上だとでも言うのか。そんな馬鹿な話があるか。人間がもし光合成できるのならばこんなにも人の心は疲れないだろう。もしも各個人個人が食料を自給自足できるようになり、税金という制度がなくなれば誰もがのんひりと楽しい毎日を過ごせるだろう。欲少なく、気楽に生きようとしても、結局他の生物を殺して食べなくてはいられない人の悲しさ。せめて他人から搾取せず、搾取されない社会を期待してしまう。死が美しく魅力的なのは死後は飯を食わずに済むからだ、というのも一つの理由だろうか。何しろ飢え死にする心配がないのだ!

2002年12月19日 消え去ったmust
体が痺れる。自律神経がどことなくぎこちない。自分自身に対して違和感を感じない人は自分に慣れているからだろうか。ではいつから?人は自分を自分として認めることだけを義務付けられていると考えたのならば、人の心は気楽になるよりも寧ろ気だるい嫌悪感を抱くかもしれぬ。現実を認める生き方は正しい生き方だが、認める行為は必ずしも現実に対して無防備に振舞うことではない。病気になったならば病気を癒すことを考えるべきであるし、なぜ病気になったのかを究明すべきだ。ならば、この現実世界の全ての事象の根幹とも言える原因性に目を向けてそれを究明し、その上で自由に対応する能力を身につけるべきといえる。自分に与えられているものが何であれ、その能力や環境に対して奉仕する義務はない。自分が自分として存在していることにだけ目を向けて自由に対応すべきだ。その対応は時としては知を否定し、知を捨て去るが、ある時は知を愛し、知を活用するだろう。
ある人がかつて私にこう言ったのを思い出す。こうしなくちゃならない、なんてことはないと。人生にmustはないというその主張を断固として拒絶した私は若すぎたのやも知れない。今となってはあの主張の正しさに気付く。確かに私に課せられていた重圧、義務、巨大で重々しく垂れ込めていた天は、今ではすっかり私の中の幻影として滅びてしまった。かつての猛威が嘘のように今の私は自由だ。天の束縛を打ち破って何人をも恨まずに我が道を歩むだけである。私が持っていると思っていたものは私のものではなかった。私が失ったと思い打ちひしがれた多くの存在も、結局私のものであったことなど一度もなかった。私は誰かが私を必要としているから存在しているのではない。私ですら私の存在を求めなかっとしても私は存在しているだろう。このどうにもならない存在の壁に穴を開けることはできなかったが、私は確かにその壁を「見ないこと」に成功した。私は私を拘束する牢獄の役割を放棄して、私に自由を与える主体となった。そして私の人生からは「なければならない」が消え去ってしまった。自尊と自信という枷は教会の飾り物に成り果てた。不可解で違和感の謂いであった現実はありありとその存在を謳い、痛みも苦悩も美の中に結実していく。全ては美の中に止揚されてしまい、そこには疑いを一蹴する卓越した沈黙の真理だけがあった。私自身への違和感は私と調和することを放棄してしまったがために私という存在は決定的に打ち砕かれた。私自身と私が調和「しなくてはならない」ということもないのだから、私は私と調和もしていないし不調和もしていない。私は私になりきって生きるだけだ。この快感を捨ててまで金など欲しいわけもない。与えられないものを望むことほど愚かな行為はない。

2002年11月27日 見出されない「私」
稚拙な思考に甘んじたり、自分自身の卑しさを増大させるような考え方に親しむべきではない。世が弱肉強食の世界ならば勝者になるべきなのか。否。勝ち残ることよりも自分自身の卑しさに目を向けて敗者でも勝者でもどちらになることもなく真の敵の在り処を見極めよ。私は私を叱咤激励する。それは真の私自身に対して私は説教しているということだ。だから卑しき感情が私の中に起こったのならば、その在り処を突き止めるよう努めるようにしている。人間の心はまるで無数の癌細胞に冒されたような状態であり、この癌細胞たちは脳内を駆け巡り、神経細胞を食い尽くし、さらにはお互いが戦い合うよう仕向けるのだ。私は私の中の旧皮質と新皮質の間の戦いを見る。右脳と左脳の戦いを見る。その私の個人的戦いは、神話のような、人類の歴史の謂いでもあることに私は気づく。私に巣食っている輝かしき可能性はその可能性によって益々苛烈な戦いを私に強いてきたのかもしれない。人間とは自己矛盾という意識である。だからこそ矛盾の解法を何千年もの間人は探しつづけ、いつ終わるとも知れない知の生産に明け暮れているのだ。たとえそれが徒労だと私がどんなに主張したとしても、今後も人は哲学から開放されずに泣き喚くだろう。もし人が高度に知性的な生き方を目指せば人間に付着した澱んだ大地的情動に抗わざるを得ない。その存在を認識しつつも人は自分の右半身を切り落とすというのか。慧可の右腕とは大違い。彼はむしろ右腕一本失ってなんと多くの荷物を背負わされたことか。私は私の卑しさと一生付き合うだろう。私は私のどの部分も切り落とさない。私には切り取る部分はないし、付け足すべき部分もない。例え切り取っても付け足しても何も増えず何も減らないだろう。なぜならば私は私の全ての感覚と感情と認識のどこにも私自身を見出せないからだ。我が実存は非存在の中に逍遥していてどのような干渉も受けず、常住であり、それでいて既に滅した存在でもある。人生が不可解と言って自殺する人間の気持ちは分かるがその不可解を受け入れる生き方のほうが優れている。そのような人間は皆どこにも自分を見出しえない者たちだろう。それでいて私はここに存在していることも知っているのだ。

2002年11月18日 永遠の仕掛け
有を思えば無に転じ、無を思えば有に転ずる。表面をなぞっていては永遠の仕掛けを見抜けない。蜥蜴を捕らえるのに尻尾を掴めば尻尾は切れるだけだ。私を私以外の人間の誰が試みられよう。神を試みてはならないのならば自分を試みたらどうか。生きる意味を考える前に灼熱地獄から逃げる方法を考えるべきだ。どこにいる?と訊ねられれば苦の中にいると答える。さあさあどうだ、と生意気にも天は俺に難題を吹っ掛けてくる。ならば俺はその問題を無視して素通りすればいい。巷にあふれ返った偽の知の誘惑を振り切って全速力で死の認識へ向かったらどうか。役に立つものなどあるものか。心地よいものなどあるものか。なら何も傷つけない代わりに何も為さないのなら大したものだ。私の構造を解析できるのは私だけなのだ。だから私以外の何者も私に触れられない。私ですら触れたことのないものを誰が触れられる。ではその私とは?つまり触れられない所の私だろう。自分が赤ん坊のころの記憶もないくせに自分に触れられるとでも?そんな空虚な議論をこねくり回しているよりも何も考えずに酒を飲んでいたほうが何倍も良い事だ。おっと、良し悪しなどと口走ってしまったら私ももう終わりというものか。人間が本当に賢明なのならば死以上の快楽を考えてみろ!絶望する前に絶望の根を掴んで叩き壊してしまえ。私に飽きたのなら私も叩き壊してしまえばいい。いかなる存在も私は認めないだろう。やる気のない人間は実に賢なり。

2002年11月15日 放っておいてくれ
自らの思念一つ一つが自分の細胞を破壊している苦悩に耐えかねて、よりいっそうの破壊の刃を己に向けるのならば災いはその人間に付き纏う。怠惰の衣を纏った道化の話術に騙されて自らの思念の制御を怠るならば苦悩は止むことは無い。病を病として感じる者も、結局病によって存在を喪失する。苦の連環はどこまでも永遠に続くだろう。それを空と見ることは凡庸なことではないが実に凡庸極まりないことでもある。知識の洪水は大いなる災いだ。その圧力に押し潰されて更なる思念を呼び覚ます。災いなるかな思念。想起の力は虚しきものだ。根拠なき存在にしがみついて実体なき実体に縋りつく人間の不気味さよ。この災いの原因を探っている間に寿命は尽きて元の木阿弥。何百世代を経ようが進化という災難を避けうる術を人間は捨て去ったのだから始末が悪い。経典を有難がって経典の意味すら知らず、無功徳の呪文に力を見出し、挙句の果てには縁起を担いで地獄へまっしぐら。苦の実体に気付かずにただ飯を食らって糞を垂れて幸福な人生とは何かを考えるのだから泣けてくる。それよりも自分の愚劣さに気付いて下らない思念を停止せよ!こんな単純なことに気付かなかった自分にも同情を禁じえないが私は私のこと以外何一つ考える余地など無いと覚悟して愚者の道をただ一筋に歩もう。幸福に暮らそうということは不幸から逃れるということか?楽しい人生とは苦悩のない人生か?そんな博打に勝とうと思うことの何と非科学的なことか。真実を見出すものは賢者でも聖者でもない。人から尊敬されるから賢者なのなら私は賢者などご免こうむりたいもの。それよりも私を放っておいてくれたほうが私の思念が掻き乱されないからずっと楽しいわい。達磨がはるばる中国にやってきたのは難しい顔をしているくせに実はぼへーっとお気楽極楽人生を送りましょうっていうことさ。がむしゃらに壁に向かって血相変えて座禅してどこへ行く。俺は小便したいときに小便するぞ。それにいちいち疑問を抱いていたら寿命が尽きる前に智恵など掴めないわ。要するに考えないということは考えること以上に高尚な思考ってことだろ。考えることなんて猿でもできるわ。

2002年11月6日 穢れし人は我なり
生きるだけなら誰でもできる。だが全世界を敵に回してまで生きるのは困難極まる。人間の99パーセントが悪人であっても自分だけ正しさを護り続けられようか。この世は正しさに気付けば気付くほど生き辛くなるだろう。今までどれだけの誹謗中傷を私は受けてきたのだろう。人間に対して私が抱いてきた憎しみと嫌悪と不信感。その深い深い絶望の底に存在していたのは何だったか。自分が死の世界からこの地上に突き落とされた原因を必死で探し回っていた。死の渇望は巨大になり、それでも答えを得てから帰ろうともがいていた。そんな時があった。しかし今の私は気付いている。かつて嫌悪した人間の愚かさも、結局私が生み出していたものなのだと。世界が清いわけもない。人もまた穢れし存在。その理を素直に受け入れるしかあるまい。それでいながら私だけは堅固な存在であろう。そう思うのだ。

2002年10月28日 唯物と唯識と
唯識論と唯物論とでどちらが優れた考え方なのかは一度論議しておくべき問題のように思う。なぜならば、この議論が私の哲学の基本的立脚点を明示するのに格好な題材であると同時に、存在とは何かという最も根源的問題に議論が及ぶからである。私の哲学の基本的立脚点は哲学とは何か、哲学とはどうあるべきか、という点に対して徹底して思考した結果生じている。哲学の正当性は私にとって哲学の「用」に存在していることは大きく強調しておく必要がある。つまり、哲学は人間=私にとって生きる指針を与え、魂を癒し、生存の意味を与え、自由へと導くものである。もしある哲学が私に不安と苦悩と憂鬱だけを与えたのならば、それがどんなに弁証法的に正しんだというお墨付きがあろうと論理的矛盾の全く無いものであっとしても、それは死んだ哲学と言える。その意味で人間の数だけの正当性を持った哲学が存在することになるが、私が求めているのはその多様性を内包し、止揚させた形の普遍的な哲学なのである。
人間は唯物論的哲学を完成させることはできない。私は最初に断言してしまおう。一例を挙げれば、人間は自分が「物=生命を感じさせない無価値な存在」に堕することを本能的に拒んでいる。そして何かしら生命に物体を超えた神秘的働きの妙を見出す。生命に対して何の尊敬の念を抱かない者は異常者とされるだろうし、もし殺人を平気で犯すような非情なる人間を優れた人間として評価する社会が誕生したのならば、この理想的唯物論社会は既に人間という概念を喪失している。生命に対して我々が感じる何か特別な気持ちは確かに存在し、驚くべき普遍性を持っていることに誰でも気付くはずだ。我々はこの畏敬の念が無価値なものであるとして捨て去ることは到底できないだろう。しかし我々がどうしてこのような気持ちを持っているのかの科学的理屈を考え出すことには何も価値はない。なぜならば、その理屈が解明されたとしても我々は誰一人として幸福を享受できないからだ。もっと根本的なことを言えば、説明は理解ではないし、説明の有無にかかわらず、「存在する」と考えたほうがずっと収まりのいいものもたくさんある。我々は実に曖昧な世界に生きている。この曖昧な世界の中で最も真実在に近いものを自分の外側に求めるのならば、絶対に解決しない問題に挑みつづけて苦悩し続けて死ぬだけだ。私はこの永遠の苦悩を要求する如何なる哲学も宗教も決して受け入れない。物がアプリオリに存在するという考え方では絶対に迷宮を抜け出せないからだ。唯物論では、今私の目の前に机が存在することすら説明できないのだ!一方、主体も客体も存在しない世界で認識のみが実在であると考えると、実に見事に全てが解決するのである。私の認識作用が存在しないと私に納得させることは絶対にできない。しかし私の認識が存在することと私が存在することとは別の問題であり、認識が存在したからといって私が存在したり対象が存在すると考えることは間違っている。ここを勘違いしては駄目だ。ただ、もっと肝腎なことは唯物はおろか、唯識で留まっていても駄目という点だろう。私が求めているものはもっと深い。

2002年10月24日 時間と空間の深奥
時間とは何か、空間とは何か、という現代において純粋に物理学の領域に附随する問題に対して我々は哲学的に考える余地があるのだろうか。哲学は、人間が自然界を理解する最も合理的手段の一つである科学をその中に内包しているにもかかわらず、今となっては「正確ではあるが抽象的」な科学を我々にとって使い易い論理に翻訳して提供される、「いい加減だけど分かりやすくてだいたい当たってる」説明という代物に成り下がっていはしないだろうか。しかし、私の場合は科学の正当さよりも、私の哲学の正当さの方が遥かに、比較にならないほどの真理を示しているという確信がある。
時間とは何か、という質問は馬鹿げている。空間とは何か、という質問も馬鹿げている。「何か」という質問は、何かしらそれが絶対的確定的に存在する必然性を提示する必要があるわけだ。誰かが「それは何か」と訊いたのなら、彼はそれに実体があるはずだという先入観を持っているのである。この先入観に気付くのならば、その人は「それが存在するように私には思えるのですが、なぜそれが私にとって実体ある存在のように思えるのか」という質問に換えるべきだろう。さらに、「それが実体あるように感じられるのならば、それを実体として私に認知せしめている働きの性質は何であろうか」という質問になるだろう。よって、思慮深い者であれば、時間とは何かとは訊ねずに、私と時間との間に存在する性質の特性について訊ねる。それならば私は時間の本質について語る口を持っている。私はこう答えるだろう。「時間とは不可逆性である」と。時間とは私という存在を哲学的に仮定した場合に発生する2つの束縛のうち、不可逆性を提供する。もうひとつの束縛は空間的であり、「私が他人になることはできない」という束縛である。人間はこの二つの束縛のみを受けている。しかし、この両者は人間に対する全く同じ性質の制約の両側面であり、敢えて一言で言えば、私を私として認知せしめる「我」こそ、時間と空間の最も根源的な性質そのものなのである。時間と空間という仮想的実体は私は存在しているはずだという先入観によって亡霊のように現れる、強く硬い制約であって、そのようなものは所詮我々の意識作用の延長でしかないのである。

2002年10月22日 ワタシのカラクリ
実に名とは空虚なる標識である。私が自分のことを「私」と呼んだその瞬間に既に「私」という言葉から私の本質は離れている。言葉とはこのように、その言葉を使った瞬間に言葉と、言葉の指し示す概念の本質とが遊離してしまう性質を持っている。この性質を知らずに我々が物の本質を名を使って示すことが可能であるという誤謬によって、多くの認識の間違いが引き起こされる。言霊とかロゴスとかいう言葉に我々は騙されて、言葉の中に神秘的働き、それは時として神の直接的力の行使を見出す。この錯覚は、我々が言語的認識を獲得したことへの種的自尊とでも呼べるものであり、言葉こそ人間の本質であると考えることに原因がある。ところが、我々はこの言葉の獲得によって多くの研ぎ澄まされた感覚や認知力を失っている。智恵の木の実を食べてエデンから追放されたように、我々は言葉によって組み立てられた自我を、完全無欠の直感智と引き換えに手にしたに過ぎない。その証拠に、一体誰が自分の名前に対して完全な違和感なく自分自身そのものを指し示していると確信しえる狂信を持っていようか。言葉は、その言語の音節の組み立て方だけでなく、文法までもが恣意的所産である。そこに完全な必然がないからこそ世界中に様々な言語が存在するのではないか。その言語にいつまでもしがみついて離れず、私が!と叫んだ瞬間私が離れていることにも気付かないことは、人間の持っている先入観の頑なさは実に容易に破壊しがたいものだ。「私」という言葉を発さないのならば私は確かに「私」なのである。しかし、「私」という言葉が一度でも実体を持った音節や、文字になった瞬間、例えそれが頭の中でだけであっても、「私」は全く全然私ではなくなってしまうのだ。多くの場合私は私になりきってさえいない。私が私になって、私を演じるのを停止したのならば、私は私の本質そのものと一体となって「私」という言葉からも離れ、ただ一つの灯火となって私自身を照らすだろう。その時、私と呼べる存在などどこにも存在しない。私と呼んでしまったら元の木阿弥なのだ。

2002年10月17日 道徳を超えし藝術
芸術の全てを肯定すべきか否かは芸術論を展開する上で不可避の問題と言える。それは芸術にさえ人間は道徳性を要求するべきかという問題である。我々は道徳性の否定として存在する芸術を認めるべきだろうか。私はこの問いに対して、この問いそのものが大きな矛盾を含んでいるとことを知りつつ、芸術家が道徳的であることを要求する。そもそも道徳性と芸術性は異なる次元の精神現象であり、極めて道徳的であるが故に芸術的だった人間などほとんど存在しない。それどころか、道徳的でないことによって芸術が光り輝くことの方が多いようにさえ思われるのはどうしたことか。それは芸術の根源が道徳の根源たる善意識=「美」と同一であるという私の主張に矛盾してはいないだろうか。私はこの矛盾が芸術の幼児性に起因していると見る。つまり、円熟した最高の芸術的境地に達した人間が驚くほど少数であるということである。芸術はその最高の段階においては道徳的であるどころか宗教的である。道徳と芸術の根源の同一性は、実は極めて深い認識の中において初めて成り立つものであって、多くの芸術家は善意識と無関係な精神的領域を行使することによって、善意識のほんの断片だけを作品に転写することしかできない。この段階では芸術的行為は低次元の知性や理性に頼っている。よって非常に幅広い次元の創作行為を我々は芸術と呼んでいるのだ。そして円熟していない芸術は時として非道徳的である。道徳的行為は非常に知的な行為なので、知性を否定することの意味を履き違えることによって芸術は非道徳に溺れる。確かにその知性の否定によって善意識の影がうっすらと映し出されるし、最高の円熟した芸術においては既に道徳を超えている。だから、君らよ道徳的であれ、と言われるべき芸術家の方が既に道徳的な芸術家よりも才能に恵まれていることの方が多い。しかし、私はその非道徳的芸術が道徳的になったのならば、それを通過点として最高の円熟した芸術、既に道徳意識さえ超越した芸術に到達する可能性があると考える。人は道徳的であって初めて道徳を超える。だから優れた芸術も一度道徳的にならなければ、超道徳的にならない。超道徳は非道徳ではない。普遍的善意識を掴み取れば、それを捨てることも自由なのだ!芸術は最後に全てを捨てなければ最高の芸術とはならない。

2002年10月15日 モラルの核心
先進的思想の形態のみを追従することほど危ういものもない。例えば男女同権という言葉の意味をまったく咀嚼せずに、単に男と女を同等に扱うことと解釈したのならば、男と女の間に存在する生物学的相違を全く無視した非科学的オカルト理論を勝手に自分たちで組み立てて自分を正当化するという愚行を犯す。この児戯にも等しい行為を人を指導する立場にある教師が臆面もなくやってのけるだから堪らない。自分に子供ができた時、子供を小学校に通わせることを想像すると、実に恐ろしい気分になる。自分が小学校で教わったことなんてものは人間に対する不信感くらいのものだ。最近では運動会のかけっこで順位をつけないらしいし、成績表も絶対評価などという意味不明なものとなり、文部科学省の知的レベルの稚拙さを遺憾なく発揮して失笑を買っているという。まあ「天下の(笑)」朝日新聞でさえ最近では思想的におかしいだけでなくて知的水準の低さまで露呈しまくっている始末なのだから日本の学力低下もここまでくると恐ろしい。最近某有名サイトに日本人のモラルの低下について書いた記事があったが実にまあ浅薄な意見だったこと。私が見るに、この知的水準の低下とモラルの低下は密接に結びついている。
人間が道徳的になるのは、一人一人が持つ誇りによってなのだ。自分を卑下しているものは決して道徳的にはならない。そして道徳は知性的行為である。知性なき畜生に道徳があろうか。自らが誇り高き存在=知性的理性的存在であると認識することによってはじめて人間は道徳的存在たりえるのだ。論理的合理的思考の極地として初めて真の道徳が体現する。人間は金持ちになっても貧乏になっても「理性的」にならない限り道徳的にはならないのだ!こんな単純なことにどうして気付かないのか。情けない。呆れるほど頭の悪い人間がメディアを通して偉そうに意見を述べている間は決して日本は真に知的にはならないだろう。知性を否定して情操教育もないのだ。正しい哲学を持たない大人によってますます子供は骨抜きになって論理的思考能力を蝕まれている。さらに高度なことを言えば、真に知性的な存在でなければ「人間が知性から疎外されている」事実に気付かないだろうし、ここに気付かなければ一度知性を放棄しなくてはならないことにも気付かない。だから子供は純真ではあっても決して道徳的ではないし、理性的でもないのだ。真の智恵は大人であるからこそ獲得可能なものだ。

2002年10月11日 問題は私のみ
何の意義あって自分の学問が存在しえるか、これを探求せずに漫然と思考を繰り返しても意味が無い。知者は須らく自らの実在性すら疑って根本から哲学を構築すべきだろう。哲学者たちは実に多くのエネルギーを費やして何とまあ意味の無い知識を積み重ねてきたことか。それらの思考のうち、今現在この私にとって意味のある思考など皆無に等しい。肝心なことは今現在ここに存在しているこの私を議論する哲学であり、それが私という個人に根差しているが故に普遍性を持つものである。そしてその哲学は断定形の、不動確固たるものでなくてはならない。曖昧模糊な抽象的議論に満足する輩は愚か者だ。正しい道を辿れば必ず信仰は確信となって人格を輝かす。その確信とは、ここに存在している私以外に求めるべき対象が存在しないという確信である。最悪な事態に陥った時とて自分が主人公であればよい。疑いが晴れて私の心は晴れ渡っている。なんと心地よく、清清しいことか。ただ私という問題だけを求めればよいのだ。もはや疑うことあたわず。

2002年10月2日 私が求める最高の男女愛
結婚や恋愛を如何に考えるべきかという問題に対して、私はおそらく誰も到達したことのない次元でその完成を目指していると知っている。その解決は一見矛盾しているようであっても、結局誰もが承認せざるを得ない、途方も無く高慢な野心と結びついている。それは、私が結婚を単なる「愛」の中に完成させるのではなくて、愛を普遍的な人類愛と共生させつつ智恵の中に集約させようとする試みだと言える。これは次元の異なる認識と感情を一人の人間の中に矛盾無く共存させ、それを哲学的に、たった一つの普遍的慈愛の中に止揚しようということだ。私はこの何人をも到達し得なかった、いや、何人をも試みなかった難題に敢然と立ち向かってみたいのだろう。それは善悪の意識を超えた次元でのみ解決しうるものであり、不断の精進と忍耐が要求されるだろうが、それが可能であるような気がしてならない。この漠然とした希望的観測がどのような推測から成り立っているのかを言語で表現することは極めて難しい。しかし、私が敢えて「ここに存在」し、かつこの世界で生きる意義を探求せざるをえないのならば、私は私を世俗の生活の中に置きながらも清浄なる道を歩み、「智」「美」「愛」より構成される我が哲学の一体的完成を目指したい。健康と美と幸福の3つの徳目を抱きながら。

2002年9月21日 財布紛失の哲学的意味
財布が紛失した。盗まれたのだろう。私は財布がなくなったことで悲しんでいる自分に愕然とする。私は何時の間にか財布に愛執を持っていたのだ。現金がたくさん入っていたからだろうか。高価な財布だからだろうか。カード類がたくさん入っていたからだろうか。いや、そんなことに関わらず、私は執着を引き摺っていたのだ。私の苦しみの根源は間違いなく愛執に他ならない。どうして財布が私のものであろうか。私自身でさえ私は所有していないはず。それなのに私は私の財布という観念に心奪われ、金銭的損失をはるかに上回る損失を得ている。これが愚かでなくてなんだ。私は私の中にこべりついた錆のような愚劣さに強い絶望を隠せない。そして私は何度絶望しようとも決して絶望しきらない自分を責める。生と死の間を掻い潜ってきたと思っている割には全く学習していないのではないだろうか。たかが財布で心をざわつかせる私の心はなんと強固に「心」を維持していることか。私は実体のない幻影に振り回され続けている。どうしてお前は絶対自由を求めないのだ、と自分に言い聞かせるが、私が本当はそれを獲得する道を避け続けていることは否定できない事実かもしれない。私は財布どころか自らの血液さえも鬱陶しいと思っていたのではないか。にもかかわらず、私のこの愚かさは一体いつから私に巣食っているのだろう。この深く澱みきった絶望を、絶対自由の中に止揚せねばならぬ。私が失った財布に百万倍する価値を失意の中に探り当てよう。どんなものもいずれ我が手を離れる。智恵以外の何物も我を追随しない。ならば智恵のみを頼りにすべきではないか。私は最初から何も失ってはいない。もともと持っていないものをどうして失えよう。私はむしろ不運を貰って智を得ている。我が哲学は過去少なくとも二度死んだ。しかしもう再び死に絶えることはない。艱難辛苦はきっと私を完成させると信じている。不運は私の信念を破れない。時間の不可逆性に絶望するのを止めよう。いいことがあるから悪いことがあると考えるのも止めよう。神々すら阻めぬ自由の砦は私自身の手でしか築けない。他人も死者も私の自由を阻む事あたわぬ。まして私の買った物、もらった物が私の自由を奪ってはならないのだ。私の自由を奪うのならば正義すら捨てよう。真に正しい道は正義すら打ち破るだろう。私はいつまでも雲でいなくてはならない。

2002年9月19日 ライヨール
私の徹底した性格は死ぬまで治りそうにない。リーデルのグラスの次に必要なものと言ったらソムリエナイフ。この言葉は和製英語らしいがそんなことは置いといて、ここはやはり究極のソムリエナイフでないとワインに申し訳がない、と思い徹底的に調べてみた。するとどうもシャトー・ラギオールというものが究極らしいが、はっきり言って写真を見る限り俺は気に食わないのだ。エノテカで見たあの美しいソムリエナイフ(これは昨日ライヨールというものだと判明)と比べてなんと無骨な。機能的には良いのだろうと思うが、どうも俺は釈然としない。さらに俺を釈然とさせなかったのが、シャトー・ラギオールとライヨールの二つのソムリエナイフの間のかなり複雑な事情である。両者共にLAGUIOLEと同じ綴りであるが、読み方が違う。ライヨールという読み方はライヨール村独特の方言で、一般的にはラギオールと読むようだ。話を本質的にややこしくしているのは、シャトー・ラギオールはライヨール村で作られているものではないが、最初にLAGUIOLEの名称でソムリエナイフを作ったという事実である。一方ライヨール社のライヨール・ソムリエナイフは正真正銘ライヨール産だが後発である。ソムリエの世界で最もよく使われているのはシャトー・ラギオールであり、最高のブランドということになってしまっているらしい。尤もライヨールも最高なのだが、名前的にはシャトー・ラギオールには勝てないのが現状のようだ。さてさて私は困ってしまった。どっちも「本物」なのだから。機能と名前のシャトー・ラギオールか、美しさとライヨール村純正のライヨールか。結果的にはライヨールにしようと決心。やはりあの優雅な曲線美とライヨールという読み方に軍配だろう。ソムリエじゃないんだからある意味機能性は無用だ。しかもライヨールが機能的に劣るわけでもなし。単に最高のワインをビジュアル的にも最も美しく抜栓したいというただそれだけなのだ。その為にはやはり見た目が最も美しいと断言できるライヨールこそ私にふさわしい。よく考えるとものすごく贅沢な気がしてきた。いや、考える余地もなく贅沢だろう。たった一度ワインを抜栓するために高価なソムリエナイフを買おうなどと。しかも別に何かの記念日でもなんでもないのだ。すでに病気だ。
追記:このライヨールのウェイターナイフには結局名前を彫りこみ、愛用している。私のワイン生活になくてきならない一品だ。2005年6月

2002年9月11日 舶来文化
最高のワインを飲んでみたい、と思い始める。最高となるとロマネコンティになるわけだが、いくらなんでも最初からロマネコンティは値段的にも無理。なにしろ40万円以上する。まあそれは人生晩年の楽しみに取っておくとして、五大シャトーくらいだったら罰は当たるまいと思い、とりあえずいつが当たり年なのか、値段がいくらくらいか程度は知っておこうと調べてみた。すると以外にも5万円以下で当たり年の15年物が手に入るらしい。結局シャトー・ラフィット・ロッチルド86年あたりがかなり狙い目であるという結論に達する。何かにハマったり夢中になったりすると私は回り道をあまりしない。最初から「本物」を求める性格なのだ。私にとってのワイン入門がやはりシャトー・ラフィット・ロッチルドとなってしまいそうなのも当然と言えば当然すぎて意外性が全くないと言われそうだが、性格は簡単には変えられない。今までに飲んで記憶にあるワインなんてエシュゾーくらいしかないのだから、少しは舶来の文化に敬意を表してワインの名前くらい覚えてやるか、ととりあえず覚えたのが5大シャトー。生涯を通して記憶するワインの銘柄がここから倍増するのか、はてまた全く増えぬのか。それはシャトー・ラフィット・ロッチルドが俺を唸らせられるか否かにかかっているだろう。もし本当に美味かったのなら、きっといずれはロマネコンティ飲んでしまいそうで怖い。たかが酒にこんなに金をかけていいんだろうか。何か間違っている気もするが海外旅行行かないと決意すればそんなに贅沢でもない気もする。死ぬまでに最高のワインを10本飲むことにしよう。その方がランボルギーニを買うよりずっと自分らしい気がしてきた。
追記:この決意が運の尽きだった。結局ワインにすっかり魅せられて現在の私があるというわけだ。2005年6月

2002年9月9日 懐疑
気楽な気分になっている時に、自分は今心の底から気楽であるなと確信するようになったのは最近のことだろう。私は多数の人格の集合体であるから、一人の私が気楽であってもそれを疑問視する私もいて、そいつらが揃って「ああ気楽だ」と感じることは今までなかったことなのだ。だから私は心の底から気楽になったことは一度も無かった。でも不思議なことに最近はそうでもない。私が私を許すようになった。しかし決して私は自分の認識が退化したとは思っていない。私の認識は明らかに進化し続けている。懐疑がなくては進歩は確かに有り得ない。しかし懐疑のみに終わってしまう人間は懐疑に対して懐疑的になっていないために懐疑に終始することになる。懐疑に対してさえ懐疑的な者は懐疑を超えて無意味な議論に終止符を打つだろう。そして人格に懐疑のメスを入れて自分を分解しつくして懐疑を超えるのだ。宇宙空間でどっちが上か下かを議論することは無意味だ。しかし人間はこの種の議論を延々と繰り返している。それは虚論だ。宇宙での上と下の議論なら、こっちが上だと言えば違うと反論するだろうし、上も下もないと言えばいい加減だと非難されるだろうし、上とか下とかの議論は無意味だと言えば逃げだと言われるだろう。この問題に関しては誰もが常識的に馬鹿馬鹿しいと判るが、実はこの手の議論は世に溢れてはいないだろうか。こうした馬鹿な論議を回避するためには懐疑的な自分に対してさえも懐疑の目を向けなければならない。そうすれば際限の無い懐疑の連関に矛盾を見出して懐疑を超える道を探そうとするだろう。懐疑的な自分に懐疑的になるのはある意味当然のことだと私は思うのだが、「懐疑的でないはずの自分」=「気楽な気分の自分」に対してさえも懐疑的になることは難しいかもしれない。私はそれを本能的に行ってしまったが為に知を産む陣痛も激しかったということか。

2002年9月7日 知の意義の定立
ふとした拍子に思いつく洞察が大きな意味を持っていることは少なくない。昨日もふとした拍子にこんなことを考えて感慨に耽っていた。我々はこの宇宙が普遍的と思われる何らかの物理法則によって支配されていることを知っている。そして、宇宙は秩序だった構造を持っているのだと確信する。宇宙の進化の総てについて記述できるはずだと信じている。そしてその信仰を強固に補強するだけの科学的理屈を持っている。いつか我々が知りえるであろう宇宙の全体像について思いを馳せている。ところがである。この「秩序」や「構造」をそれらたらしめているのは間違いなく「無秩序」であり、「非構造」だ。宇宙には構造があるわけでもないわけでもないが故に我々は宇宙に構造を「発見」しているのである。もし宇宙が完全なる秩序と構造を持っているのならば、我々はそこに秩序と構造を見出しえない。我々が感覚と思考によって認識しえる「存在」は、須らく相対世界を超える渾然一体となった真実体の「側面」である。ところが待てよ、と私は思う。こうした人間の認識構造の仕掛けを私が見抜くことによって明らかにし た事実は、人間が直接に世界の真実体を認知しえる能力を有していることを示してはいないかと。そしてこの確信は私の中で決して揺るがないものであることに気付く。私はこの宇宙がコインのような存在であると見る。コインには必ず表と裏があり、表だけのコインは作れない。このコイン宇宙こそ人間が作り上げた人間の宇宙なのだ。しかし、実際の宇宙はコインの表にも裏にも存在しない。真中にも存在しない。両者の混合でもない。コインそのものでもない。そうではなく、宇宙は人間の作り上げたコイン宇宙を見ようとしない私の主体的働きである。人間の宇宙と真の宇宙とは関係を持っているのでも持っていないのでもない。両者は一致しないが一致している。真の宇宙は「さあさあ体内に澱んでいる言葉を皆吐き出して私を見よ!」と叫んでいる。ある意味これは宇宙の愛と言えなくもない。
ここで私は新しい人間像を提唱しよう。すなわち人間は、その素晴らしき論理的認識能力によって逆説的に論理を打破する存在なり。そしてこの宇宙と対話する。このような偉業、他のどの生命も成し得まい。人間は決して知から疎外などされていない!ああ遂に最大の難題たる知からの疎外を解決した。知の意義はここに実に強固に固められた。

2002年8月31日 大衆の本質
私はこの期に及んでも自分を大衆という枠の中に押し込めようとする意識が完全に拭いきれていないことを知っている。堕落は実に魅惑的であり、官能的だろう。それと同じように、大衆の中に埋没することは実に心地よいことなのだ。ポピュリズムの行き詰まった日本はある意味官能的だ。腐った果実は甘い。しかし堕落的行為が官能であるが故にソドムは滅びた。大衆に埋没することはまるで自殺の美学。頽廃は甘美な快楽によって人を滅ぼす。しかしその悲劇は愚かであるが故に美しくもある。私はこれを否定できない。大衆の中に属している、と言える者は何と狡猾なのだろう。大衆はその中に絶対悪を包含していようと何だろうと、数の威力によって自己を正当化してしまうのである。そしてその圧倒的な数によって人間の平均を生み出し、その平均によって人間存在を定義してしまう。つまり大衆の否定は人間存在の否定になってしまう危険性がある。この事実が人間肯定哲学を標榜する私にとってどれだけの障害となっているか、誰でも想像できよう。しかし私が「頽廃は美しい!」と叫ぶことはどうしても憚られる。できんのだそんなことは。それ故私は大衆の役割を厳格に設定することによって大衆に潜む絶対悪を知りつつ大衆を肯定することになる。そして最終的には大衆という概念を破壊する。そのためには「平均的人間はどこにも存在しない」ということを教育の力を借りて国民に認識させる以外ないだろう。平均的人間という言葉によってあらゆる悪が容認され、巨大悪が大衆という概念の中に発生すると私は考える。そしてその悪の官能的魅力によって人は簡単に大衆の中に「堕落」し、自己破滅的哲学を抱くようになる。その誘惑は間違いなく私にも及んでいる。しかし私はこの大衆を破壊し、大衆を「自立した人間」という非大衆の中に止揚することを目指す。そのためにはこう叫ばねばならぬ。「お前は断じて大衆ではない!」と。大衆の発生によって道徳倫理は衰退し、人間から思考能力を奪い去っている。私が理想とする社会は人間が総て特別な個となった社会である。国民主権やら基本的人権やら、実に迷惑千万な記述が憲法にあるものだと悲嘆ばかりもしてはいられまい。人間を甘やかすことばかり考える偽善者の戯言など須らく皆粉砕打破して本当のヒトに戻ろうではないか。本当のヒトとは独立自尊にして確固たる意識と意思を持った考えるヒトだ。もし天が存在するのなら、私は天に向かってこう言ってやろう。天よ、人に逃げ場を作るな!逃げ場を与えるな!ひとり孤独な路のみを与えよ!と。
まずは自分自身の甘っちょろい考えを粉微塵にしてやらなくてはならないだろう。自分に厳しくすることは難しいことだが。

2002年8月30日
不可知の世界に宝が眠っているにもかかわらず、人が五官によって感覚認知の世界に生きているのはどうしたことだ。これが人に与えられた宿業ならば、何故に人は不可知の世界に潜在する智恵を得ようとし、しかもそれが最高の価値であることを確信して翻らぬのだ。そして、その不条理さが不条理のまま人間を措定しているとは何という皮肉か。五官を失ってさえも仏の智恵を得るのならば人が人として産まれてきたことの何という下らなさ。不条理の中にだけ問題を解く鍵があるとしたら、私は敢えて不条理の中で蹲り、燃え盛る情欲の炎の中で不動の意思で心身を滅却しよう。もしも真の聖人に会ったのなら、私は彼に幾百の説法をされるよりもビンタを一発食らったほうが良い。それは私の中に燻っている火種を燃え上がらせる一撃。不条理なる人間を、一撃の真理によって哲学の中に完成させることは可能だろうか。言葉を超えた一撃を言葉で表現することに意味はあるだろうか。私は言葉という滓を残していくべきか。万人が喰らうことのできる滓の中に我は何をか残さん。仏陀の言葉でさえも既に滓なのだ。滓にならぬものはない。ならば万人の周りに存在する普遍的教師の存在を示唆してそれを我が滓としようか。私の哲学は私の哲学によっていつも殺される。これを自殺の哲学と呼ぶのが乱暴ならば、相殺の哲学とでも呼ぼうか。私は私に止めを刺す。しかし私が私を殺すことによって初めて私は生命を得ているのだ。永遠の命がほしいなら自分を殺してみよ。そうすれば私は再び蘇るだろう。その方法を私は我が滓としよう。何と美しい滓であろうかと私は思わず苦笑する。

2002年8月26日 お金
お金は卑しい、と思う心が自分にはあった。私は幼少の頃、物の値段を言うことは恥ずべき行為だと教えられた。「これいくら」と聞くことはタブーだった。すぐに物の値段を聞く人間は軽蔑すべき存在だった。しかしそうした金の蔑視が何らかの「誇り」に基づくものであるということにはなかなか気付かないものだ。値段を訊くということは金への執着であり、金に執心することは人間としてあってはならない、と言えば聞こえはいい。しかし別の視点から見れば、私にはお金への感謝が全くなかったのだ。今でもそれは薄いだろう。お金への感謝がないのでお金で買った物に対する感謝も当然薄くなっている。だがこれはやはり間違っているのである。金に執心せずにお金に感謝をする。これが理想的お金との付き合い方である。お金は決して卑しいものではない。お金が卑しく見えるのは、そのお金に振り回されている人間の心が卑しいからである。卑しい人間の持つ金は卑しい。卑しい人間はどんなに裕福になろうと、その金は卑しさを免れない。お金はその所有者の影を映す。自分のためだけにお金を使う人間はどこまで行っても徹底して卑しさが染み付いている。そういう人間を私は貧乏人と呼ぶ。そうした者は決して豊かになれない。豊かさはお金を得るだけでは得られない。お金を捨てることによって得られるのである。喜捨の精神こそ、本当の裕福さの本質である。

2002年8月23日 食の根本
人は豪華な食事をどれだけ食おうとも満足することはない。毎日ロマネコンティを飲んでも満足できないだろう。私は最終的には家庭の食事は一汁一菜にしようと決心している。家族が許してくれるのならば。私は在家にありながら限りなく僧堂に近い生活を送りたいのだ。私はこの歳にしては確かに相当色々な料理を食べてきた。昼飯に平気で何千円も出したりする。本郷界隈で開拓していない店はほとんどない。しかしあなたの好物は何ですか、と聞かれたらフライと答えるだろう。フライは行田独特の食べ物で一種のお好み焼きのようなものである。フライ屋にはフライ ヤキソバと必ず書かれていて、フライとヤキソバが食べられる。私は大抵300円のフライと250円のヤキソバを食べる。たった550円だが腹が一杯になる。安くて量があってうまい、庶民の味方だ。だが私はフライよりうまいものを10挙げられないかもしれない。世の中そんなものだ。
私は究極の美食を知っている。それは僧堂の食事である。朝は水のような粥と梅干。昼と夜は一汁一菜。麦飯と味噌汁と、あと一品は漬物などだ。たったこれだけ。しかしこの食事は究極の美食であって、これ以上の食はこの世に存在し得ない。何故か。それはこの食事が食の本質を語っているからである。食の本質とは何か。それは人間の心身を養うことである。単に栄養を取るだけのものではない。単においしさを楽しむためのものではない。禅の食は修業である。心を養っている。心を鎮めているのだ。栄養があってもそれが心を乱すものならば、心身を養ってはいないだろう。豪奢な料理に心を鎮める力はない。むしろ心を騒がせ。掻き乱し、心を罔(くら)くする。食の本質=人間の本質から人は目を逸らし、ますます奢侈に偏っていくだけだろう。それが単に感覚の楽しみに過ぎないからだ。しかし生臭物を一切食べない質素な食事は心を清くする。しかもその食事は厳格な作法に則った張り詰めた空気の中で食される。否応なく人間はその食事に一対一で向き合い、格闘する。そして自分が食と一体となる感覚を覚える。食べるという行為に秘められた真実に出会う。言うなれば食べるということを知るのだ。それは頭の中に突然突風が巻き起こるような鮮烈な感動を私に与えた。私は毎日食事をしてきたにもかかわらず、食べることが何なのかも知らなかったのだ!そしてこの真実を語ってくれる食事は、僧堂にしかないのである。どんなにお金を積もうとも決して食することはできない。それは出家するか、もしくは寺に頼み込んで中で修行するしかないのである。しかし私はこの食の本質をもっと多くの人間が知るべきなのだろうと思っている。そうすれば人間はもっと豊かになるだろう。
私は自分は究極の美食家だと思っている。究極の美食を知っているのだから。どんなに多くの美味珍味を食したことのある大金持ちであっても私以上に食を理解することは決してできないだろう。しかし、もしそうした大金持ちが自ら粗食に目覚めて毎日一汁一菜の食事をしているのだとしたら、その人はきっと自分の力で食の本質に気付いたのだと言えるかもしれない。人間は感覚の楽しみに満足することはできない。しかし心を鎮めることは最高の楽しみである。

2002年8月21日 全人類的意思と善
全人類的意思とは、人類の種的潜在意識のようなものであろう。どんな人間であってもこの全人類的意思によって生かされ、従っている。この意識は人類共通の無意識であって、一見個人的意識によってこの意思に逆らったとしても、その人間にこの無意識が無いわけではない。言い換えれば、全人類的意思とは種の束縛である。この意思は個人の集合としての人類社会が存在する以前に存在するもので、個人的意思にむしろ先立っている。天地自然の理と全人類的意思は別個であることも特筆すべきだ。人間の運命を決定している最も強力な力こそ、全人類的意思という種としての絶対限界である。我々は宇宙の法則に束縛されているが、それ以前に人間という種的束縛によって、その思考プロセスから衝動的行動に至る全意識乃至無意識的行動あるいは思考を決定されている。私はこの全人類的意思が私の意識の中で最も強力な機構として機能していることを、全人類的意思を介して知るのである。もし私がこの意思に忠実に従うのならば、私の行為は常に芸術的で道徳的となるだろう。私は種としての根源的束縛が人類に普遍的に存在している善意識と等価であると看破する。つまり、人間は人間であるという意識を持ったその時、底辺では間違いなくこの普遍的道徳意識が機能しているのである。そしてその源が人間という「種」の中に隠されていることを知るべきだ。人間とは善の機構である。悪は須らく全人類的意思に相対する個人としての「生存の束縛」に起因している。人間が生存の奴隷と化した時に成さない悪はない。全人類的意思が個人個人に宿っていることを知れば、その巨大な束縛はむしろ我々の精神を開放してくれることにも気付く。個人が生存の奴隷である時は全人類的意思は機能しない。全人類的意思でさえも当然一種の種的生存の束縛ではあるが、それでも我々は全人類的意思を善と名付け、正義と呼ぶだろう。最高級の正義を人類に私が求めるべきでないのならば、私は一種の方便として全人類的意思の存在と善意識の一致を示し、その意識を獲得せよと説くべきだろう。もし人が多くの能力を持って生まれてきたのならば、それは間違いなく全人類的希求なのである。全人類的意思は彼に何事かを期待し、希望し、栄達を切望しているだろう。たとえそれが天地自然の理に逆らって、天地を破壊し尽くそうとも。人はそれを善と呼ぶべきなのだ。善を超える哲学を人間が求めないのならば。

2002年8月9日 冤罪の美
冤罪はそこかしこに溢れている。巨大な波は無力な窮鼠を簡単に押し流す。この世で正義を為す事は極めて難しい。純粋な人間は良心との格闘に憔悴しきっている。責任と義務は正義を嵐のごとく薙ぎ倒してしまう。世の不条理を敏感に感じ取る知者は生きる気力を削がれている。「それでも信じられる最高の頼みは何なのだ?」と自問自答し続けている。正義が正義として機能しない時代にどうして正義という言葉だけが化石のように残っているのか。もはやそこには正義の残渣だけが惨めな痕跡を晒し、この滓を踏みつけて新しい時代を進めと教えられる。ロボット人間たちは毒を喜んで喰らい、誠実な正義の人を貶めていく。それでも私は純粋な人間を愛してやまない。その純粋な正義よりも輝かしい勝利はない。願わくば私は私個人に附随する志以外の穢れから我を守り、燃え盛る魂の中に邪念の薪を投げこみたくなる衝動を破壊したい。
完全なる確信がほしいのだが、それはきっと存在する。私がそれに従って生きればいい、という確信に至る、最も頼るべき寄る辺としての良心の源泉を掘り当てよう。しかしその欲求は逆説的には「冤罪を求めている私」を肯定しかねない。私は悲劇を待望しているのだろうか。抗いようのない悲劇によって私は私の正義さえも歴史的に成立させようとしているのか。受け入れざるを得ない突然の不運が私の総てを破壊してしまった後に残る最後の滓を見極めようとしているのだろうか。その残渣が宝石だと信じて。これは根拠のない信仰なのだろうか。私には如何なる不運に遭遇しても最終的に地獄を見ないという確信があるのだろうか。そんなに私は私が嫌いなのだろうか。私は自分の愚かさを晒したいだけなのか。冤罪の中に潜む美に、私は酔っているのか。確かに冤罪は美しい。比類なき不幸はなぜ美しいのか。なぜだろう。

2002年8月8日 論理の根本問題
論理に完全な正当性を与えうる魔法は存在しない。思考によって必然的に生まれるパラドックスを回避するには思考を停止するしかないが、思考を停止すると当然論理的思考も停止しているので論理が成立しなくなる。停止した思考を自己が客観的に「論理的に」思考することは不可能なので、停止した思考は論理的に存在しない。よって思考の停止は論理性の干渉から完全に免れているので矛盾が生じないのだ。矛盾を回避するために無限に論理を展開することによって一見矛盾を薄めることはできるが、永久に解決できないことが自明な命題を解決することはやっぱりできないのは当然である。ここでいう解決不能な命題は認識のかなり深部の問題であるが、ある恣意的公理を幾つか使って完全無欠の論理体系を作ることはできる。この浅い次元での認識に基づく論理体系は確かに無矛盾で魅力的だが、その論理体系が人間存在の根源に迫るほどの根源的哲学的問題を解決することは、全くできない。自然界の現象の客観的観察によって得られた複数の法則を組み合わせて我々は科学的に会話することが可能であるが、科学の指向性はあくまでも一定方向で、それはつまり認識の上層部を形成している人間の論理的体系を形成する性向に立脚していると思われる。この束縛、いや、当然の帰結としてのベクトルは、本質的問題から隔離した「人間」を創造しうる危険性があるかもしれない。いずれにせよ、論理に完全な正当性を与えうる魔法が存在しないことが「論理構造的に」自明であるので、我々はその構造を看破して本質的哲学的命題に対して思考を停止する試みを持つべきなのだ。難しいことではあるが。それは「考えないこと」でないことは言うまでもない。

2002年8月6日 私に先立つ人間
見たまえ。我が手が我が顔に触れた時、私は私に触れているのだ。こんな些細な瞬間にさえも我の統一性は失われてしまっている。私の中に我を求めて内側に自分を掘り進めていけばどんどんと私の外殻は剥離していくだろう。分裂しない精神の異常さは宇宙を支配するあらゆる物理法則すら蹴散らすほどの異常さを私に印象付ける。そう、私は考えることを停止した方がずっと私の存在は実感があり、考えれば考えるほど存在感は希薄になっていくのはどうしたことだろう。西洋哲学の権化たる科学哲学を私の哲学に擦り合せることの困難さは髪の毛一本で象を吊り上げるほどの困難さだ。完全なる真を否定した上では何も演繹的に導き出せない。私が窒息する瞬間に感じるであろう人間存在は明らかに今の私の存在とは異なっているだろう。ところが驚くべきことに、私は、私が私である以前に人間であるという実に驚くべき事実を知っているのである。
さてそこで私は思う。論理的思考を離れた認識形態を人類の普遍的認識様式として定着させることが可能なのか否か。もしそれが可能であることが何らかの科学的根拠を持って保証されるのならば、私の哲学の行き先のなんと透明なことか。私は如何なる方向へも躊躇なく進むことができよう。しかしそれが不可能であろうことは私の直感が警告している。実に一部の特殊な人間のみが到達しえる一種の芸術的境地は多くの人間にとって不可触の領域の御伽噺に過ぎない。神の奇跡の方がずっと実感があるだろう。マルコポーロがいくら東方の国々の様子を熱弁したとて、現実味のない戯言に過ぎないのだ。私はこの戯言を人に信じさせることに執心することなく、その体験そのものを価値として受け止め、更にそれが全人類的に普遍的価値となっていることを、それが机上の空論に終わる危険性を巧みに回避しつつ示すという恐ろしく器用な芸当を目指しているのだろう。何という無茶苦茶!しかしその無茶苦茶を強いているのは、私の我侭ではなく、全人類的意思によると言っても決して過言ではないはずだ。なぜならば私自身は私が認めようと認めまいと確かに人間であるのだから。私が私であるという以前に「人間」なのである。この詭弁じみた言葉は残念ながら確かに事実である。私は私が私であるという実感を失った瞬間でさえも決して自分が人間であるという意識を離れることができないということを知ったからである。それは、自意識の有無にかかわらずに圧倒的な現実としての人間意識が心身を含めた人体に覆い被さっているからである。私自身が定義されぬ次元でさえも「私は人間である」という仮説はアプリオリな公理だった。これを離れて誰も私自身を定義できないのだ。プロタゴラスが万物の尺度としての人間を主張するが、私に言わせれば実はこの万物には「人間としての私」さえも包含されているのである。よって、これからの哲学は、私が存在しない次元でさえも存立しえる「私は人間である」という絶対的公理に依って立つべきなのではないだろうか。この論理的矛盾を絶対の事実として容認できる頭を人類に期待する。

2002年7月31日 真のエルサレム
地に埋もれし黄金の矢を放て。我々が緑豊かな大地を駆け抜けた神々の時代に太陽の源を見よ。時代が心を開く。大いなる扉は太古から待ち侘びている女神たちの扉。運命の時は天よりの声響く時。高らかに鐘が鳴り響き、我々は戴冠する。その輝かしき智恵の王冠を戴きて空を見上げてみよ。目を凝らして。約束の地は既にここにあり。エルサレムに燃え立つケルビムの翼。彼らは旋回しながら歌い、賛美する。ここに集いし14万4千人の民よ。そなたらの思いは砂漠の砂のよう。そなたらの信仰は大洋に浮かぶ木片のよう。そなたらはもう神を推し量るな。歴史の断絶を望む者は諦めを望む者。その仮初の救いを捨ててこの地を去るのならば、人は容易く約束の地を手にするだろう。ケルビムの呪縛はエデンを望まない者に及ばない。敢えてエデンを望みて罰を受けるな。さあ、地に埋もれし黄金の矢を放て。そして神話のようにあれ。神は神を推し量らぬ者に授けるだろう、真のエルサレムを。その時、そなたらは真に14万4千人の民の一人である。
我はイスラフェルを見ない。彼は私の未来には無縁だ。我の無関心にアッラーすら跪く。

2002年7月30日 船橋随庵
高橋哲郎著「開削決水の道を講ぜん 幕末の治水家船橋随庵」を読み、初めて自分の先祖の生涯に触れることができた。船橋随庵の清廉な生き様に学ぶべき点は多い。ただただ自分自身を顧みるに、偉大な先祖に引き比べての自分の不甲斐なさに恥じ入るばかりである。私心無く、己に打ち克ちて、ひたすらに民のことを思い、自らは赤貧であろうとも冤罪で投獄の憂き目に遭おうとも挫ける事なく誇り高く生きた一経世家の人生に、私は何を学んでいくであろう。文武両道において藩内に並ぶ者のいなかった随庵の最大の偉業は悪水落堀をはじめとした一連の治水事業と膨大な著作であろうが、私はむしろ彼の純粋無欲で気高い生き様に偉大さを覚えてならぬ。そこに私は自分の求める最もあるべき人間の模範的姿を見る。人はたとえ業績があろうとも人格的偉大さがなければ只の凡人でしかない。私が幕末期最大の賢人と思っている佐久間象山が「私は識見では先生に一歩も譲らないが、勤勉努力の精力では到底及ばない」と随庵に語ったというのだから、随庵先生の勤勉努力は並大抵ではなかったということだろう。全く頭が下がりっぱなしである。こういう人格高潔で学識高い人間が政治手腕を奮ってもらえるのならば、日本も安泰なのであろうが、なかなかそうもいかないのはいつの時代も同じということであろうか。

2002年7月29日 文化の破壊者
市町村合併の波がついに私の住む町にも襲ってきた。合併に関するアンケートが私に送られてきたのだ。当然のことながら厳しい意見を書き綴っておいたことは言うまでもない。最近の合併市町の名称の浅薄さときたら、もはや幼児的とさえ言えるほどの拙さを遺憾なく発揮してくれる。特に某埼玉県庁所在地の名称など末期的だ。そもそも埼玉県の名称は埼玉県行田市にある有名な埼玉古墳群から出ており、埼玉はもともと前玉と書き、さきたまと読むのが正しい。前玉は延喜式にも記された前玉神社に由来しており、長い歴史を持った県下屈指の由緒ある歴史的地名なのである。その地名を、前玉とは何の関係もない大宮、与野、浦和が今は「さいたま」などと名乗っているのである。しかも平仮名で。これほど文化破壊的な暴挙もないものだ。つくば市にも呆れ返ったがそれを遥かに上回る酷さだ。私は埼玉古墳群で子供の頃から遊び、古墳と共に育った。古墳の歴史と文化の重さは子供心に大きな誇りと郷土愛を生み出していたのだ。無教養な馬鹿役人はそれを無残に踏みにじった。地名を盗み、勝手に名乗りだしたのである。何という蛮行!どうしたらこのような愚劣な行為を臆面もなく為しえるのか。私にとってこれは文化大革命に匹敵する程愚かしく破廉恥な行為だ。過去を踏みにじってでも新しい良いものを産み出しえるほどの能力はお前らにはないと断言する。文化を笑うものは自分を笑う者である。文化を理解しない者は自分を理解しない者である。格調低い地名の場所になど死んでも住みたくない。まして盗品を有難がったりしたら、人間としての質を疑いたくなるだろう。きっとこれからもくだらない地名が続々と誕生するのであろう。日本文化もここに極まれりだ。本当に極まっている。情けなくて涙が出る。無教養な人間につける薬は何億円払っても買えない。いずれ私も稚拙な地名の場所に強制的に住まわされる羽目になるのだろう。どうせ酷い地名ならいっそ○○市(仮)と付けておいてほしい。ローマ字表記の地名もやけくそっぽくて斬新かもしれぬ。地名を含めて名前などに心を奪われること自体馬鹿馬鹿しいことだと教えられているような気もする。確かにそうなのだろうが、文化を蔑ろにする馬鹿にどうしても腹が立ってしまうのだ。

2002年7月11日 出家と人間本性
ひどい下痢ですっかり体力を消耗してしまった感がある。病は人間にとって最大の苦痛である。形成されし存在の宿業とでも言おうか。形作られた肉体は一度平衡を失えば激しい苦痛を生み出す。肉体の崩壊を激しく拒む生命の力は苦痛の根源でもあるのだ。もし我が肉体が我が肉体に何の関心も示さないならば、苦痛なく我が肉体は朽ちていくだけだろう。むしろその死を受け入れることのほうがどれほど人間にとって心地よい ことだろう。力強いようで虚しくかぼそい死への抗いは私がどんなに精神的に死の受容を我が肉体に唱道しようとも、決して肉体は折伏されない。その徹底した拒否の姿勢は精神と肉体の宇宙を根源的に支配する「生への執着」の顕現だ。つまり、生きるということは死へ抗い続ける苦痛そのものに他ならない。肉体的苦痛は消し去ることも感じなくすることも不可能。ただそれをじっと心を落ち着けて耐え忍ぶしかない。この避けがたい苦痛が人間に精神文化を産み出し、高度な儀礼と祭祀が発生する余地を人間に与えている、ということは考えられないだろうか。避けがたい病と死、この絶対性に人は様々な健康観と宗教観を抱くのだ。健康を得るために人々は経験論的なものから荒唐無稽なものまで無数の迷信を作り出した。しかしなぜ人は健康を得ようとするのだろうか。例えばもし、健康な人は早死にし、病気がちな人は長生きするとしたら、それでも人は健康を求めるのだろうか。答えは是だろう。健康とは苦痛のない状態だからである。病気とは苦痛の伴う状態だからである。全生命が共通して求めているものは「苦痛のない状態」であって、苦からの脱却こそが生命の願いなのだ。よって人間の究極的本性とは何かと問われたら、私はこう答えたい。それは「生存作用が苦の原理であることを看破して、この苦の超克を願うこと」であると。この究極本性の前には、うまいものを食べたいとか、いい服を着たいとか、いい女と付き合いたいとか、金がほしいなどという欲望さえも高度で文化化さたれ欲求でしかない。世俗を捨てて道を求めて生きる生き方はかくして人間の本性の否定を免れるどころか、むしろ人間そのものを完璧に肯定した人間的生き方として肯定されうる。肉体的痛みよりもずっと苦しい痛みがあるのだから、その苦を乗り越えるための肉体の痛みは既に痛みではない。

2002年7月6日 イデオロギーなき輩
だいぶ精神が落ち着きつつある。湿度が下がったせいだろう。
日教組があるせいで都内は凱旋車でごったがえしている。九段のあたりはすごいらしい。あんな凱旋に何の効果があるというのか私にはさっぱり理解できないが、活動していること自体に意義があるのだろう。いつの間にかイデオロギーは決定的求心力を失って形骸化し、Ideologieと呼べぬ代物へと堕落する。これは普遍的現象なのだろう。現代修正主義者には気高き理想などなく、結果的に社会主義は敗北せざるをえなかった。これが弁証法の法則にしたがっての社会主義の再出発を意味するなどという戯言を信じるつもりはないが、少なくとも、既に求心力を持った骨太の共産主義イデオロギーは1956年の時点で敗北しているのだ!どのような理想も愚かな背信者たちによって腐敗させられ、結局は歴史の中に葬り去られた。もし自分が中国人ならもう一度革命を起こして資本主義を中国から一掃しようとするだろう。理想も何もないただの独裁軍事政権と化した中国共産党のような中途半端な連中をどうして中国人青年たちは見過ごしにするのだ。文革期には他国の多くの共産党を修正主義と批判していたくせに。お前らに熱い革命魂はないのか。まったくの腰抜けである。日本にも当然腰抜け左翼と右翼のみが跳梁跋扈し、どこを探してもIdeologieなんてものは存在しない。いい加減で中途半端で非科学的なオカルトインチキ社会主義者ばかりが目立ち、本気で共産主義国家を建設する気なんてまるでないとしか私には見えない。政権さえ取れれば理想なんてどうでもいいのだ。なんとも狡賢い奴ら。自分たちの背信によって敗れ去ったくせに、その歴史を振り返ろうともせずに相変わらず中途半端で妥協的社会主義政権を樹立しようとするとは、実に滑稽千万。やることといったら日本の戦争責任を追及することばかり。そんなことで政権が取れるなら取ってみろ!と言いたい。彼らの日本批判はスターリン批判とダブって私には見える。彼らが日本の戦争責任を捏造する手法は同士スターリンに罪をなすりつける手法と同じではないのか。もはや歴史を科学的に検証する目すら失った者は何のIdeologieも持たない偽プロレタリアートだ。マルクスは思想的厳格さ、理論的原則を放棄してはならないと明言し、理論と実践の統一的一貫性を説いている。そして何より労働者階級が権力を奪取する方法は「闘争」なのだ。小手先の与党批判や過去の粗探しばかりやって闘争の精神を失った者に勝利はなく、当然社会主義政権もこの日本には永久に誕生しないであろう。無駄だと判っていても理想のために決起して闘う若者は、闘わずに矮小な権力の保守に奔走する政治家たちよりもはるかに優れている。一貫性がなく、言っていることが曖昧で妥協的な理想なき人間ほど私が嫌悪する人間はいない。彼らは総じて無哲学である。

2002年7月4日 愚かな思考
智恵なき者というのは、矛盾を矛盾として認識できない者であろう。この本質的無知と等価と思われるいくつかの症状を列挙する。
@主体的に思考することができない。
A認識というものが多次元的構造を持つということを理解できない。
B自己と世界が乖離した思考に陥る。
@に関しては言うまでもない。主体的にモノを考えなければ矛盾が生まれようもない。主体的に思考することによって多くの矛盾が発生するのであるから。Aに関してはより高度なことなのだが、例えば今ある「個人」に関して議論していたとする。そんな時に突然「日本」に関する議論を割り込ませようとしたら、それは個人と日本という次元の異なる対象を全く同じ次元の対象として議論しようとしていることになり、これは論理的におかしいのであるが、それに気が付かない、といった状態である。深刻なのはBであり、しばしば害を為すことさえある。この問題はハイデッガーの「世界内存在」という概念と抵触する部分もあるのだが、私の言葉で記すとこういうことになる。例えばとあるA国人が、アメリカに対抗するために我々に真に必要なのはB国精神である、と主張したとする。しかしこの場合、B国人「そのもの」になることを絶対的に否定されたA国人である本人は既に真のB国精神の獲得が本質的に不可能であることは言うまでもない。つまり、自分の為している論理の中に自分が含まれていないことに気付かない、ということである。別の例を挙げよう。あるA国人が、「A国は酷いことをした」と息巻いていたとする。ところが、当の本人の言う「悪いA国」の中に自分が含まれていることを無視しているのは言うまでもない。このような矛盾に気付かない者はあたかも自分が「世界」から切り離された絶対的視点を持った神であるかのように振舞うので、当然自分が人間であるという意識さえも崩壊している。この場合世界は自分の存在領域の外側に存在している対象に過ぎないので、自己と世界との係りは主体と客体という完全な二元定式の中にのみあり、そのため自己は常に安定した位置を占められるので一見心地よい。このような思考形態を「自己と世界が乖離した思考」と呼び、単なる無知を超えて極めて独善的で無責任な人格を形成するので、心してこのような思考に陥らないように私も気を配らなくてはならないだろう。世界内存在たる人間は世界とは「部分と全体」という関係を一歩超えた一体的関係にあるので自己を世界から乖離させた議論は全て決定的矛盾を内包しているのである。

2002年7月3日 生の証
毎年のこととは言え実に酷い状態だ。神経全体が悲痛な悲鳴を上げている。人格がキリキリと軋んでいる。それでいて今日は何故か心が静かなのである。二ヶ月くらいの長期の休みがあれば山荘に引篭って生死を賭けた苦行でもしたいところ。どうしてこんなにまで命を燃やしたいのだろうか。剣豪がたちがかつて生死を賭けた真剣勝負をしなくてはならなかった理由と全く同じ理由だろう。ある意味戦い、戦争といった何時死ぬかわからぬ状況を欲して止まないのだよ人間は。結局死に接していないと生きている実感がないのだ。どんな達成が、どんな成功と栄達があってもそれが生の実感にならないことを知っている人たちが確かに実在した。そしてそんな化石のような日本人が今ここにもいる。不器用で、神経質で、我武者羅な男は不完全燃焼に妥協できない。奴はいつもこう叫んでいる。どうして死なないと判っていることに必死になれる!どうして死ぬかもしれぬような熱いものを俺に与えぬ!ある意味俺はテロリストが羨ましい。彼らは自爆するんだぞ。必ず死ぬんだぞ。それでも彼らはそれを選ぶのだ。それは単なる自殺ではない。彼らを批判するのは容易いが、彼らの燃え滾る魂に目を向ける者は少ない。かつて喜んで殉教の道を選んだキリスト者が数多くいた。彼らの心もまた神への熱き想いが死という極限的瞬間にどれだけ激しく、気高く燃え盛っていただろうか。一度も自分の魂の熱い躍動を感ぜずに生きる者よりも、その魂と一体となって死ぬ者のほうが何百倍も何千倍も幸福だろう。なぜならば、人は誰一人として自分が生きていることを本当には知らないのだから。だから求めてしまうのだ。生きている証を。でもそれは物質によってそれを決して証できないがために、唯唯一、死のみが本質的生を証するのである。その決定的証が正義と信念の名と共に魂を死へと昇華させた時、人は燃える戦車となって人の肉体と精神の束縛から完全に解放される。まるでエリヤのように。私は私の魂の炎によってこの肉体も精神も燃やし尽くし、唯死と一枚になってみるしかない。その経験がなくては、私は中道の意味すら解らない。そして何よりも、その経験なく人生を終えることに満足できるほどの器用さが私にはない。不器用で、神経質な自分にはとてもできないことだ。

2002年7月2日 哲学の最難題
口惜しいほどに前に進まない船を進めるのにある者はバタ足で後ろから押すだろうが、ある者は時間がかかってもわざわざエンジンを買ってきて取りつけるだろう。でもエンジンを取り付け終わった時にはバタ足の者は既に目的の島に到着してしまっているかもしれない。人生は実に短く、一時とて私を待ってはくれぬ。人生の時間を知ることができるのならば、何と楽に生きられることだろうか。しかし私は人生の時間を知らぬが故に前進するべきか、立ち止まって熟考すべきなのかも分からぬ。前進は無駄ではないのだろうが、そこに付随する意味は決して発見できない。ある意味私ほど割り切って人生を達観している27歳もいないのではないだろうか。人を駆り立てる情動でさえもそれが作られし幻影であることを知っているのであるから、言うなれば人生という手品の「種」といつも向かい合っている。そのため自分の感情さえも客観視してしまう。作為的でないものが自分の中に存在するとすればそれはすなわち「苦」だけである。苦しいと思うことだけが一番真理に近く、本質に近く、私そのものを映しており、私の理性の干渉を受けない。そういえばずいぶん前に私を評して感情がないと言った者があったが、それは私が強力な理性故に自分の感情さえも他人事のように感じる感性を持っていたからだろう。その意味では今の私は実に人間臭い。だがその人間臭さがどうして容認され得るものなのか、正直まだ私には判らない。もし、いや、これは真実なのだが、苦のみが人間の本質であるという事実に立ち向かうことが人に義務付けられているのならば、どうして人間は人間自身の本性によって疎外されているのだろう、という疑問が当然起こる。それは哲学的に、構造的に完全に正しく、否定の余地のない真実であるが故に私は絶望する。なぜならば、私自身がたった一人でこの哲学的超難題に立ち向かってその壁を打ち破ったとしても、人類そのものを肯定するという最終的哲学的ゴールに至りうる自信が私には全くないからである!それこそ梵天が勧請でもしてくれない限り一体誰がこの難題の解答法に「これは普遍的な解答法です」という折り紙をつけよう。すなわち、人間という問題があまりにも難しすぎるのでその解答を人類が共有することができないのである。そんなことは不可能なのだ。この事実に目を向けてなおかつ解答を得たとしても、結局それが密教という形態を取らざるを得ないのであれば、これほどの自己矛盾もあるまい。
人間がポリス的動物であるという本性を否定してまで私は答えを知りたくはないのだ。でももし私が欲していることが実は二者択一で両方を同時に得ることができないのなら、私は一体どちらを選ぶのだろう。ワカラナイナ。

2002年6月21日 心臓、その哀しき力
心臓の拍動ほど私の心を乱すものがあろうか。それは消しがたい不快な規則的振動を私に与えては心の平静を乱す。この心臓の拍動に勝てる者こそが、すなわち生の柵を越えた者なのだろう。心臓の拍動は私に、嫌というほど生きている実感を強引に与える。どんなにその存在を拒否しようとも、私が生きているということを見せつけてくるのだ。呼吸と心臓の拍動、それは哺乳動物における生命の証であり、この両者でもって生命を定義づけることができるほど、それらは生存作用の底辺にべったりとくっついた哀しき力なのだ。地球の重力が私を地上に縛り付けられているように、私の心臓は私を自由から切り離す。死以外に開放はないぞとばかりに私の血管を流れる血の一滴一滴が私の実存を締め付ける。この悲しみにどうして気付かずにいられよう。愛しい自分を私が守れないことは解ってはいるが、どうしてこの肉体への想いを全てかなぐり捨てなくては実存はないのだろう。なぜに世界は決して得られない「肉体そのもの」を生物に錯覚させしめるのか!その幻想のいとおしき我が肉体は探しても探しても存在せず、むしろその欲求は私を激しく苦しめているのだ。おそらく形而上の「呼気」と「心拍」こそが、私の存在の謂いなのだろう。私とは何ぞや、と聞かれれば、それは我が心臓の拍動に他ならない。それは私が哀しき人間、幻想の肉体を纏った哀れむべきヒトであることを証している。私が我が心臓を抉り出したい衝動に駆られることは、至極当然のことだ。人間以上に哀しき機構は存在しない。何ゆえに人がこれほど哀しき存在なのかは私にはわからないが。それでも人を憎まずに愛せるのなら、その哀しさこそが求めてやまない美の本質を抉っているのかもしれない。

2002年6月17日 死の際
自分がここに存在していることに何の疑問も抱かずに生きるのと、常に実存と向き合って血反吐を吐きながら真理を求める者と、どちらが幸福であろうか。不幸を不幸と気付く者と、不幸を不幸とも気付かぬ者とどちらが幸福であろうか。優れた知性を持つからこそ知性がない状態を理解し、その価値を突き止められると私は考える。不幸であると知るから不幸を乗り越えられる。自分の愚かさに気付かずに生きるよりは、敢えて愚かであれ。肉体の意味も精神の意味も知らずに無価値な人生を終えるよりは、完全な自由を手に入れて死のう。本当に欲しい物を手に入れたのならば翌日死のうと構わない。こちらからただ死を待っているなんて耐えられぬ。果敢に死に体当たりして、それを打ち破りたい衝動を抑えられない。自分に正直に生きるべきだ。心がそれを求めるのなら、それによって地位から財産から、さらに友人も肉親の情も愛する者さえも、それこそ何もかもを失ったとしても、命さえ失ったとしても、何の悔いがあろう。のうのうと堕落しきった平々凡々たる人生を送って無明の大洋の中に惑うよりも、完全無欠の勝利を求めていたい。何度も何度も敗れるだろうが、最後にはここに存在している最強最大の「自分」という敵を微塵に粉砕したい。気付く者は気付き、求める者は求める。誰がそれを強制しよう。自発的に求めなくては何事も極められぬ。まして、それが命さえ失いかねないものならば。快楽と楽しみだけを求める者には永久に理解できまい。楽しいことを頑張ることなら誰にでもできるが、激しい苦痛に立ち向かう者は稀だ。しかし死の際に立たずしてどうして生の真価を見出しえよう。どうして生きることの絶望を乗り越えられよう。そんなことはできはしないのだ。

2002年6月15日 足を引っ張る者
個人の才能を世界が必要としなくなったのなら、彼は一体何によって喜びの糧を得るのか。社会の一歯車となって生きることにどうすれば慣れるのか。300キロで走れるスーパーカーを買ったものの100キロでしか走れない道路しかなかったのなら何の爽快さがあるか!それでも人は彼の足をまだまだ引っ張り続けるというのだから恐ろしい。何しろ100キロでしか走れない車に乗っている奴が権力を握っているのだから堪らない。そのくせそういう人間はこう言うのだ。私は100キロで走れるんだぞ、すごいだろ!と。こうやって才能ある芸術家の多くが潰されているのだろう。道路がないのに誰が彼の才能を測れよう。測れないものはないに等しい。彼の才能は無意味といえる。教育とは、自由の中に放てば光る多くの埋没した才能を引き出さないことに熱意を燃やすことらしい。人よ、希望を抱くな。希望ほど人を苦しめるものが他にあろうか。叶わないからこそ希望であって、叶わないことに失望することほど馬鹿馬鹿しい徒労があろうか。でも私にもし無限の金があるならば、才能ある芸術家を多く育ててみたいものだ。おっと、これも希望であったか。

2002年6月10日 怒り
自分の考える正義の普遍性は極めて危ういのではないかと疑ってしまう時がある。しかし、当然の理を理として噛み締める時、正義云々よりも大切なものがあるような気がしてならない。正義のために人を殺していいのか、という問題があったとする。その是非よりも、人を殺すという害意を抱く自分自身の心に目を向ければ、それは許す許さない以前の問題として自分を苦しめていることに気付く。この世は歪みによって燃え立っており、人が悪を好むかぎり悪は決して消えない。世界平和などありえようか。平和の名の元に巣食う邪悪さえあるのだ。穢土を清らかにできないのなら、自分はその中にあって恨まずに生きようではないか。私を害する者があるならば、私はその者を害する心を遮断しよう。怒りを爆発させてしまった自分を顧み、敵を調伏させる以前に怒りの心を屈服させよう。私にとって最後まで大きな敵となるのは、おそらく正義の名の下の暴力。正義感故に暴力を揮ったとしても、それは小さな勝利だろう。大きな勝利は敵以上に自分を屈服させることだ。それが非常に難しいことはわかっているが。悪に対する容赦のなさの不動明王の如き自分が憤怒を超えられるのはまだまだ先かもしれない。

2002年6月1日 樹にちなんで
木々のざわめきは心地よい。あの木々は二本足で自由に歩き回れる人間たちに憧れを抱くだろうか。それともせわしなく動き回り、わずかばかりの寿命しかない小さな我々を哀れむだろうか。
人は不自由を買うことに勤しむ。物を買えば物に心は奪われるだろう。地位があれば地位に、職があれば職に、学歴があれば学歴に、金があれば金に心は縛られる。所有しつつ、物を持ちつつ心を自由に生きることはなんと難しいことか。願わくば動かざる大木のような強い意志と風に全てを任せる自由な心を持っていたいものだ。全ては心を主体とし、心によって形成される。肉体的束縛は忍耐しても、心は不浄なる対象から免れていたい。絶対自由以外の何に価値を見出そう。自由の中でこそ愛を貫くべきだ。
肉体を魂の牢獄と捉えるギリシア的見解はごもっともだろう。しかし肉体なくして精神はないのであるから、心は永遠の束縛機構だ。しかし心が存在するという見解そのものを打ち破り、心の境界を粉砕することによって肉体を伴いつつ絶対自由を獲得することはできるはず。その時我は天地を呑吐する。風は我が呼気となる。自分は生きながら死者の智恵を得たいのだ。

2002年5月31日 自立せし死
4月から6月にかけては自殺が一番増えるときく。なるほど、私が決まって六月になるとひどい欝状態になるのも私の個人的バイオリズムというわけでもなさそうだ。内分泌系の作用なのかどうかはわからないが、少なくとも気候的要因は大きそうだ。今年も生き延びられるよう強く意思を持たないと甘美な死の誘惑にさらわれそうになる。死ほど甘美なものはない。生に留まる理由よりも死を選ぶ理由のほうがはるかに多くの言い訳を考えられる。我々はいつも日常的に生死の境界を見ている。電車のホームから一歩線路に入ればそこは死の世界だ。この世とあの世の境で必死にこっちの世界に留まっていようと努力しなくてはならない。死が勝手に私に降りかかってくるのも確かであるのに、誰もが手に入れることのできるものなのに、私はその瞬間へ熱い想いを馳せる。私を生に縛り付けているしがらみは自死がおそらく苦痛を伴うものであるという予想と、生のくびきたる自己愛ではないだろうか。自分という問題を解くことなく死ぬことは少々悔しい気もする。人生がもっと短いものならぱ、人はもっと多くの希望ある日々を送れるようになるだろう。寿命が長くなっても、人生自体が薄まっていくだけだ。寿命なんてものは50年で十分だ。ちなみに人間50年とは寿命が50年ということではなくて須弥山世界の一日の時間を言っているに過ぎない。そんなことはどうでもいいか。
感覚的、詩的な単語の羅列の中に美を見出すのと同じように、飄然とした自然界の元素構成は無秩序の交響曲を単元的でない美の領域で奏でている。無理数があるから有理数が美しいように、察知し得ない形而上の非論理性に及んだ思考は明確な宇宙の論理性に美の発見を見る。永遠の命題がそこに存在しているのならば、そしてそれが死に関する命題ならば、私はその完全な予言に神秘を感ぜずにはおれない。芸術の中に暗く沈んだ深く冷たい闇の欝然に、人間を寄せ付けぬ死の領域が非概念的に広がっている。統括も分類も論理も否定された美の深奥は、ただ、私自身の永遠の眠りと同義であり、中身のない世界の卵を守る言い訳を無限に考え出すことほどの徒労を私に強いながらも、厳然として、死はあらゆる「説明」を媒介せずにその存在を自ら確証している!それが思考が停止した時に完全無欠の自由となって私の肉体を破壊することを、私が私に啓示するのだ。さあ、叫べよ、お前を愛しき領域から追放した憎むべきこの天体の創造主への呪いを、と。だが、私の猜疑心と理性がそれに抗っているのだ。まるで人間の仕掛けた罠を本能的に察知する野生の鹿のように。だが、いずれきっと死王は私を見ないようになる。糸の切れた凧の行方がわからないように。

2002年5月24日 自己愛
私は困った人をどうしても放っておけない性格だ。電車通学していると駅という不特定多数の人間が集まる場所を通過しなくてはならず、そうすると必然的に困っている人を度々目撃することになる。すると衝動的にその人を助けてしまうのである。このような行為によって私が直接利益を得たことなど一度もないのだが、結果としては感謝される。こうした利他的行為は自己の経験から他者の気持ちを推量することによって生じる同情心に基づくと思われる。この行為が前頭連合野で起きているかどうかはともかくとして、この内発的衝動の結果、抽象的な内的「徳」を自分は得ることになる。その意味で感謝するのは相手の方よりも、むしろ善行を為さしむる機会を与えられた私のほうである。親切で一番喜んでいるのは親切をした側である。このような同情心を持たない人間、もしくは、その心僅かにして行為に発展しない者は自己愛的であり、自己中心的であると考えるのは間違いだ。自己愛と自己中心は全く異なる概念であるどころか、正反対でさえある。同情心を持たない人間は自己を愛する方法を知らない。真に自己愛的な人間は自己を愛するが故に自分を最も喜ばせる方法としての利他的行為に及ぶはずである。自分のことが心から嫌いである人間は例外なく冷酷である。悪が自分を傷つける行為であることを知りつつそれを為すのであるから。愛はそれが具現化されるその行為の中に本質があり、許し、庇い、同情することであり、それは自分を愛してくれる人間に対して可能な行為だ。しかし、もし自分が愛に関して主客不分の存在である事実に目を向けたならば、愛する主体が愛される対象であるという永久連鎖によって完全無欠の愛が内在していることに気付くはずである。明日食う米に困っている人が他人に施せないように、自己愛に気付かない者は人を愛せないだろう。逆に多くの富を持った人が貧者に施すように、無限の自己愛を持った人は無制限に人に尽くすことができるはずである。私はそう考える。

2002年5月23日 パスカル的人間像の死
認知神経学の進歩によって人間の意識の構造が物質科学的に解明されることよりも、その科学的事実をつきつけられた人間がどのようにして新しい人間観を構築していくかの方が余程興味をそそられることだ。しかし、この時人間は人間存在が一切の神秘性を纏わない単なる対象に落魄れること対して適切な対処法をおそらく持てないだろう。この予測からすると、私が個人的に遭遇した「知性からの疎外」というただごとならざる哲学的大問題が、いずれ全人類的に降りかかるであろう最も深刻なる問題となりうることを意味してはいないだろうか。すなわち、人間「ホモ・サピエンス」が進化の過程で獲得した、人間を人間足らしめる「知性」は既に人間にとって本来的意義を完全に失った無用の能力となりかねない。人間が考える葦だったのならば、そのパスカル的人間像は死に、「人間とは悩める形式である」という実存探求の中にこそ人間を定義しうる本質を求めるべき時代が必ずやってくるだろう。そうした時代の到来を私は予測しているが、もしそうした問題が起こらないのであれば、それは人間が知性の本質を理解する能力を決定的に喪失した生物であることを意味している。知性とは何か、という問題は知性を如何に捉えるべきかという問題である。知性的思考によって螺旋のような論理の迷宮に紛れ込んで自分自身を見失うような事態が強制的に否応なくいずれ発生する。それを引き起こす原因は紛れもなく科学の進歩であるはずだ。

2002年5月16日 未来の政治
理想的政治形態に関して考えた者は多いが、私が考える近未来的理想的政治形態は2つの必要条件がある。1つは完全な社会理性の実現、もうひとつは国民が納得する公正さである。社会理性の実現は人類の悲願だが、これは直接公正さとは結びつかない。私は誰もが納得せざるを得ない公正さを実現するためには、国民一人一人の受け取るべき報酬がその国民の生産性に比例していることが条件であるように思う。個人の才知と努力の積、一種の仕事量を換算できれば良い。そしてまた、公正な課税が大切であり、努力すれば努力するほど損をすると思わせるような税制は国家全体の生産性を大きく低下させているように思う。

2002年5月15日 善意思
何事に対しても素直に感謝できる気持ちが持てるのならば、それこそがまさしく円熟した人格と言えよう。しかし、人間というものはとかく現在の環境にすぐ慣れてしまい、それが当たり前だと思ってしまう傾向が強い。かつてどんなに困窮した生活を送っていたとしても、現在豊かな生活を送っていると過去のことは忘れてしまう。自分とて、自由に水が使えることに無上の幸福感を味わった7年程前の経験など、もう今となっては頑張らなければ思い出せない。人が求めてやまないものは幸福であるはずであるが、実はその幸福は求めれば求めるほど遠くへ行ってしまう。結局最高の智恵とは、何一つ思い通りにならないこの世に真剣に目を向け、論理的に構成されていない宇宙の本質を直感知によって体得する以外にない。なぜならば、無尽蔵の欲望を満たすことはできないのだ、ということが自明である以上、完全無欠の幸福感とは自己の欲求とは無関係である所の道徳的衝動の達成によって獲得可能だからだ。つまり、究極的善とはその行動によって獲得される無上の幸福感によって定義されるべきものである。そしてまた、善以外にその幸福感を提供してくれる内発的衝動は存在しないのである。その意味では、多くの達成感を与えてくれる創造的活動でさえも、究極的善の前には霞んでしまうものだ。感謝の心はこの究極的善意思の側面である。感謝があればそれは思いやりにも通じていくものだ。
もうひとつ大事なことは、この究極的善意思の普遍性である。私はこの善意思はあらゆる人間に普遍的に存在していると確信している。その意味では性善説であるが、人間の善意思は強力な自我によってしばしば被覆される。自我は人間が進化の過程で獲得した独自の自己意識であり、この自我が「自分自身」であるとほとんどの人は解釈している。ところが、実は自分自身=自我という解釈は重大な哲学的誤謬を含んでおり、この解釈をアプリオリに受け入れることによって様々な論理的矛盾が起きるのである。最も顕著な矛盾は、自己否定である。否定している対象は主体でもあるわけで、自己の定義そのものが怪しくなる。コギトで定義されるところの我とは如何なる我なのか。それが私の自己意識であり、自我であると考えることによって全ての哲学的矛盾は生じているのである。私が主張したいことは、多くの人が自分自身だと信じて疑わない自我は自分自身を完全無欠の幸福へとは決して導かないということだ。むしろ、その自我が自分自身そのものではなく、自分の一側面に過ぎないと自ずから知って、自我によって隠されてしまっていた多数の自分の断片に目を向け、究極的善意思の発見に努めるべきだということだ。究極的善はそれ自体に価値があるのではなく、その効力に価値があるという点も重要だ。頭ごなしに悪いことをするなと教えられたとて納得はしない。そこに完全な満足と幸福があるから善を行えと教えるべきである。1の悪を行って10のものを手に入れるよりも、1の善を行って10^10000000000000のものを手に入れることのほうが如何なる価値感においても優先されることは反論の余地がない。

2002年5月9日
俺は運とかいう自分の力でどうにもならないものってのが大嫌いだ。だから俺は博打は絶対やらない。最初から負けるに決まっていると分かっているから。もしそれが自分の力で何とかなるものなら何とかするのが男ってもの。でも世の中は努力で何ともならぬものが圧倒的に多すぎる。圧倒的に運がない自分としては腹が立つのも山々だが、まあ仕方あるまい。運も実力の内というが全くその通りだろう。せめて自分は細々と食いつなぐことにしますか(笑)でも自分が本当に困ったら誰かが助けてくれちゃうのかなあ。ま、その前に全く別の道を見出していそうな気もするが。

2002年5月8日 ハングリー精神というのは人間の低次の認識を行使する仕事なら糧となるだろうが、少なくともハングリー精神むき出しで哲学はできまい。禅寺において質素で制約の多い生活を強いられるのは高次の煩悩を抑制して低次の煩悩のみに集中させるためだ。明日の糧をも得られぬ人間は学問どころではない。

2002年1月12日 久しぶりに復活か? とりあえずもう2002年になってしまったということですな。今日はちっとお茶の飲みすぎか。気分はシャオパイロン。とりあえず何かたまには書こう。

2001年12月19日 そんなに問題オオアリなんですかねえこの日記もどきは。敢えてもどきと書いているあたりに気付くものがあると思っていたのだが。たまにはホントのことも書いてるけど。というわけでここらでおひらき





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