2005年の日記
:現在の博士の事情2

ポスドク問題
博士号を取得したものの定職に就けないポスドクの数は15000人を超えた模様だ。私はこの状況が政府の博士増産政策によって必然的に産み出された問題であることは既に書いている。この問題は政府の失策によって生じたものであり、博士は犠牲者であるという立場を私は堅持する。政策には責任が伴うからである。例えば私が軍の指揮官であったとする。私はインパール作戦に匹敵するくらい無謀な作戦を立案し、二階級特進を約束して有志で作戦参加者を募り、出兵してほぼ全員が戦死したとする。この場合私に全く責任がないのであろうか。確かに兵士は有志であったし、約束も果たした。しかし大多数が戦死する作戦を立てた時点で私の責任は重大なのである。余剰博士の問題は、ほとんどインパール作戦と同じくらい杜撰で無計画な政府の失策の結果であり、政府の罪は極めて重い。封建時代ならば腹切って詫びねばなるまい。
 ポスドク問題は一時しのぎの対処法ではなく、構造的に改革しなければならない。全ての博士の幸福と学問そのもののためにだ。一番効果的で素直な方法は博士の数を半分以下にすること。一度出してしまった学位は取り消せないが、これ以上博士の粗製濫造は絶対に許されない。このままでは日本の学位は国際的に最低の部類にみなされるかもしれぬ。博士の審査を徹底して厳格にし、博士を今の1/3まで減らすべきだ。そのためには博士課程への入学試験を厳しくするしかない。修士課程の定員も現在の半分まで減らさなければならない。大学院の定員を増やしたことがそもそもの間違いなのだ。はっきり言って社会には博士の受け皿はない。なのに会社に博士を押し付けるとは何事か。それを、社会がもっと博士を受け入れる態勢を整えるべきだと主張するのはあまりにも身勝手というもの。勝手に増産しまくった車を国民に押し売りしているようなものだ。車を一人2台所有するのを義務にしろと言っているのと全く同じこと。なんと無茶な話だろうか。
 研究は人間から生み出されるものであり、まともな社会生活を送れない人間は研究どころではない。定職に就くということはまともな人間として扱われるということであり、定職に就けないポスドクはまともな人間として扱われていないということだ。フリーターと同じなのだから。任期付きの助手ならずいぶんましだが、それでもいつも次の就職のことが頭に引っかかっているわけだ。こうした恵まれない環境の中でよい研究成果が出ると、別に彼らを就職させなくても成果がでるならそれでもいいという非人間的観点で物を判断する人間が出てくるだろう。全くふざけた話だ。その成果の幾分かは就職したいというモティベーションから生まれているのだ。自分からわざわざ任期付きのポジションには誰も就かない。ある意味仕方なく就いているのだ。このような心情を全く理解することなく、博士をまるで道具か物のように考えている人間が多いのだ。貧しくとも知的生活を送ることに充実感を味わえ、とか、期限付きがあたりまえという価値観になれ、とか、実に無責任なことを言う人が居るのだ。しかもそういう人間に限ってまともな給料をもらっている。そんな意見を言う資格のある人間は現在5年以上ポスドクで食いつないでいる人たちだけだ。老人たちは基本的に人事なので言いたい放題。私は、こうした無茶な意見にポスドクたちが決して賛同しないように呼びかける。なぜならば、自分はいいかもしれないが後進たちが大変な迷惑を蒙ることになるからだ。アニメーターの給料が超薄給なのは、手塚治虫が超低予算で鉄腕アトムのテレビアニメを製作したことが原因であると言われている。本人は製作できる喜びで満足なのだろうが、他の人に同じ価値観を押し付けることは許されない。自分は研究できればそれでいい、という価値観を持つことは一向に構わないが、少なくともまともな社会的生活を送りたいと思っている普通の感覚を持ったポスドクも大勢いるのだ。もしも、定職なく薄給で食いつなぐのが研究者というイメージが定着したのならば、まともな神経を持っている人間は誰一人研究者にならないだろう。現にそうなりつつあるように見える。絶対に現状を受け入れてはいけない。ポストは任期つきが普通、ポスドクは薄給で保障なし。これが「当たり前」になった時にはもう日本の学問はおしまいだ。まともな神経を持っている人は皆海外に逃げ出すことで多額の税金を使って育て上げた博士は悉く海外に流出し、一度このような流れが定着したが最後、もう誰も大量の頭脳流出を阻むことはできない。それ以前に優秀な人間であればあるほど学者への道を選ばなくなる。
 今はまだ頭脳流出は微々たるものだ。海外でポスドク生活を送っている人も日本で公募があれば大抵応募する。国内のポストに魅力があるからだ。しかしこうした状況は近い将来終わるかもしれぬ。任期付きでしかも薄給のポストを誰が好んで選ぶか。
 博士の数が国家の知的レベルを上げるのではない。科学技術水準と博士の数とは関係がない。1の能力のある人間が10人集まっても10の能力のある人には勝てないのだ。だから、際立って研究能力のある研究者を大切に育て上げることが最も大切なことであり、その方がはるかに経済的だ。どんなに能力がある教授でも10人も20人も学生が居たら面倒見きれないだろう。能力のある優秀な学生数人をみっちり鍛え上げるという方が、どう考えても良いわけだ。人海戦術でなんとかなるような研究ならばパートで雇えばいいじゃないか。わざわざ博士を雇う必要なんか全くない。どうしようもない博士論文を指導教官が逐一直して、審査でもほとんどが指導教官が質問に答えてあげてやっと取ったような博士号に何の意味があるのだろうか。最初から研究できないことがわかっている人に学位を与えて博士を増やして日本の科学が発展するのだろうか。むしろ、そんなどうしようもない博士論文を直して、審査して、という無駄な時間によって教授たちの貴重な研究時間が奪われているじゃないか。20年前から博士は余剰だったのに、さらに博士を増やして、しかも博士課程なんか全く必要のない大学にまで博士課程を設置し、ままごとみたいな研究をやって最後は学部長あたりが主査に対して「先生、なんとか通してやってもらえませんか、通さないと困るんですよ」とか言って、主査が仕方なく義務として通してあげたような学位に、どんな意義や価値や学問への貢献があるのか。そんなに学位が欲しいのならイオンド大学でインチキ学位を180万円で買えばいいじゃないか。

老害の最たるもの
 政策を立案したり意見を述べたりする人間は常に老人であり、現在厳しい立場に立たされている若者たちの意見や気持ちなどまるで考えていない。それどころか、日本の科学技術を今後100年間でどのように発展させていくかというビジョンもなく、国家に対する忠誠心もない。国を愛していながらこんな無責任な政策を取り続けられるとは到底信じられないし、科学のことより自分の老後のことが心配なのだとしか思えぬ。全ての学問領域と教育制度を大局的に俯瞰できる人間がいないどころか、自分のちっぽけな権力や縄張りを守ることのみに汲々としていて誰一人として真剣にこの国の未来を考えてはおらず、「これってちょっとよくね?」とか言っている若者と大して変わらない実に浅薄で行き当たりばったりの政策を立てて老人どもはその場をしのいでいるのだ。ポスドク問題はこの国の根深い精神の腐敗の結果であり、犯罪的ですらある知性の衰退の象徴だ。つまり、長期的で現実的な計画を立案する能力が国家機構 として欠如しており、将来の問題を常に棚上げにして傷口をかえって広げ、無意味にアメリカの政策を、しかも既に失敗だとわかっている政策まで導入しては当然のように失敗を繰り返し、一切反省することなくコロコロと政策を転換しては国民を徒に翻弄させて無駄な役人仕事を増やして内輪では忙しい忙しいと非生産的労働に疲れきっているのだ。何という無駄。何という不経済。何という容認しがたき不合理。
 既に何のために科学が必要なのかさえも誰も解っておらず、非常に浅はかで中身のない観念的議論によって我々はいつも振り回されている。本質を捉えることを誰もしないので、結局誰一人として正論を吐くこともない。犠牲者たちが無口なのをいいことにやりたい放題に制度をかき回すだけかき回して、快復不能な状態にまで学問を貶めまくった。許しがたき背信ではないか。
 なぜ大学院重点化などという馬鹿な政策を取ったのかを今さら掘り返して議論する価値は全くない。知性の欠如した耄碌痴呆老人どもの戯言に耳を傾けられるほど私は仁者ではない。思えば敗戦にせよ今の年金問題にせよポスドク問題にせよワーキングプアにせよ、自分たちが蒔いた種を全部丸ごと若い世代にツケを払わせる今の老人どもというのは、本当に度し難き連中だ。こんな奴らのための福祉とは実に片腹痛い。とは言え罪人を吊るし上げて断罪したところで博士の就職口が増えるわけでもなんでもない。そもそも就職口を増やす必要性など最初からなかったわけなのだから、ある意味今から増やせと言う方が無茶なのだ。

ポスドク問題は絶対に解決しません
 悲観的かもしれないが、私はこの問題は解決されることは絶対にないだろうと予測する。その理由は、大学にせよ政府にせよ企業にせよ、解決としようとする意思がそもそもないからだ。私がソマリアの孤児の気持ちを推し量る事ができないように、今の博士の気持ちを推し量ることは彼らにはできないだろう。要するに人事で、どうでもいいことだ。人によっては博士課程に進んだお前らが悪いというような主張をする者だって多い。もちろん第一義的責任は、自分の人生の選択を誤った博士たちではないと私は思っている。
 もし私が大学経営者であったとしたら、どんどん博士を量産するだろう。その方が儲かるのだから。バンバン入学させてバンバン学費と校費を儲けたほうがいいに決まっている。定員が増えれば増えるほど良いのだ。それでも学生が来るのならば、万々歳。まさに博士バブルと言ってよかろう。就職できないことなんて知ったことじゃない。そんなことお構いなしに入学してくれるお馬鹿さんがいるのだから笑いが止まらない。そういうそそっかしい連中をうまいこと言って博士課程に進学させて、実験の手伝いをさせて学費と校費まで丸儲け。タダの労働力である上お金まで払ってくれるのだから、こんなに素晴らしい制度があるだろうか。進学希望の学生を全員進学させたほうがいいに決まってる。そういうわけだから、大学院の定員を今さら減らすことはないだろう。もちろん、純粋に学問のために全てを投げ出すようなストア学派の哲学者ばりの賢者が上に立って思い切った改革をすれば話は別だが、そんな高潔な学者を私は見たことがないので、まあ期待はできない。
 私が企業経営者だったら博士の能力をよく分かっているので採用するだろうが、そんな企業経営者は普通いない。博士の社長がいないのだから博士なんか採用しません。そもそも博士課程は企業に入るための機関ではない。研究者を育てる機関なのだ。それなのに企業が「博士は使えない」と言うなんて、当然過ぎる結果。水泳選手に陸上競技をさせて、「使えない」と言っているのと同じ。水泳選手に走ることを要求するほうが間違っている。要するに使う能力のない企業が「博士は使えない」などという戯言をぬかしているわけだ。博士が使えないのではなくて、企業側に使う能力がないのだ。そして言うまでもないが、企業側に博士を使う能力を要求することも、同じように水泳選手に陸上競技をさせるのと同じということだ。どちらの側から見ても無茶なことを要求されている。
 最近はポスドク問題もだいぶ話題になってきたので政府が何らかの対策を立てる可能性はあるが、歴史は政府が常に誤った対策案しか立案できないことを証明している。だから何らかの対策案を立てたとしても、間違いなくそれは博士たちや学問にとって状況を更に悪化させるものになるだろう。だから私としてはなるべく何もしてほしくない。碌な事しかしないのだから、何もしないほうがましである。だが、きっと役人はまたまた馬鹿な対応策を考えてもっともっと事態を深刻化させるだろう。国を悪くするのが役人の仕事であるのだから、それを邪魔してはいけない。博士号に括弧をつけるように改革するくらい素晴らしい仕事っぷりの役人様に何かを期待するほうが間違っている。水泳選手に陸上競技をさせようとするのと同じ。幼稚園児を厨房に立たせて料理を作らせてもまともな料理など出てきやしない。期待するほうが馬鹿である。

ポスドク問題は織り込み済みです
 大学院重点化が招く結果は幼稚園児でもわかることであり、現在の博士の就職難というのは予想外の事態というものではない。要するにポスドク問題は織り込み済みの計画であったということである。そもそも大学院重点化というものは高邁な理想や目的によって行われた訳ではなく、単にお金の問題なのだ。大学院生が増えればそれだけ国からお金をもらえるということである。お金の問題なのだから、博士がどうなろうと、そんなことは知ったこっちゃない。就職できなかろうが飢え死にしようが行き倒れようが、そんなことは知らないわけである。人の不幸を踏み台にしなければお金が儲からないのならば、大学だって形振り構わず学生どもをこき使って騙して働かせて使用後は捨てればいいのだ。博士は最初から使い捨ての駒。大学の奴隷。金蔓。学生でなくなった時点でお払い箱。さようなら。そんな境遇になりたくてなりたくてたまらないマゾヒストなら進学することをお勧めする。言うまでもなくあなたが就職できないことは大学院重点化計画で織り込み済みだから支援なんて誰もしない。詐欺は騙すほうよりも騙されるほうが悪いというのがこの国の常識らしいのであしからず。

知の衰退
 博士増産の裏には、知の衰退という問題が横たわっていると私は考える。10人で研究するよりも100人で研究する方が良い成果を出せるという時点で、今の学問というものは既に知性を必要としなくなっているということなのだ。加えて実験系では何億もの研究費を投入しなければ成果が出ない。学者ひとりひとりの知性の価値は恐ろしい勢いで低下しているということだ。我々は多くの知識と技術とを獲得したが、逆にひとりひとりの知性はますます矮小になっている。天才が不要になった時代とも言える。そして次に来るべき世界は、人間が研究しない時代である。今は大量の博士を兵隊として使って、それいけとばかりに突撃して研究テーマをやっつけているわけだが、それは博士の頭脳が必要なのではなくて、手が必要であるだけである。例えばこんな未来を考える。実験は全部ロボットなりパートの小母さんがやってくれる。試料をセットしてボタンを押すだけなので誰でもできる。出てきたデータを解析プログラムに通して解析し、解析したデータを論文作成プログラムに通すと一瞬で論文が完成する。後はボタンひとつで投稿終了。こうなったら研究者なんて別に誰でもいいわけだ。実際今だって実験をちょっと手伝えば論文の共著者にしてもらえるわけだから、業績と知能なんてちっとも相関していない。ほとんど頭を使わなくても済む分野なんてゴマンとある。そういう分野なら頭数さえいればどんどんデータが出せるだろうから必然的に成果も出るわけだ。例えば、私が世界に一台しかない機械を持っていたとする。そして、その機械で実験したいという研究者が次々とやってきて成果を出して論文を書くとすれば、私は機械のメンテナンスをしているだけで自動的に年間100報の論文を荒稼ぎする事だって出来てしまうという事だ。いや、それどころか私が技術者を雇ってメンテナンスさえも人に任せていても、自分の名前を論文に入れることを条件に機械を使わせれば寝ているだけでも論文で出来上がる。さて、この状況で私の知性はいつどこでどうやって発揮すればいいのだろうか。研究者に必要な能力はどっからか金を引っ張ってくる能力だけである。それなら私は研究なんか辞めて貿易会社を作って何百億という金を稼いでからその金で趣味の研究所を作って研究者に解放したほうがいいのではないか。研究にとって必要なものは私の知性ではなくて金に過ぎないのならば、その方が私は科学に貢献できることになる。
 話を戻せば、学問が知性から剥離することで、研究者の人数を増やせば成果が出ることになり、必然的に博士を増やせば国際競争力が高まるだろうという安直な発想に繋がって大学院重点化ということになるわけだ。学問の敷居が著しく低下することで研究室の労働力確保という形で博士は生産されていく。博士増産の深層には根本的な知性の衰退があるのだ。個々人の知性が学問と結びつかず、学者が頭脳労働者ではなく肉体労働者となっている。こんな我々に本当に真なる知を求める資質があるのだろうか。結局は学問と知が剥離し、学問は着実に錆付いていくのだろう。私が最も憂うのはこの点である。しかし知の復権という夢物語が現実になることなどないだろうし、それ以前にこんな観念的なことを問題としている人間は極めて少ないだろうと思う。

追記 知性からの疎外と科学からの疎外
 私は知性からの疎外という難題を幾年にも渡って考え続けてきたが、これは人間を措定する知性そのものが人間存在を疎外するという極めて深刻な問題であった。あくまでも私個人が抱えていた最も頭の痛い哲学的問題であったわけであるが、実はもう一つの疎外が存在していることにこの文章を書きながら私は気付いた。それは科学からの知性の疎外である。そして、必ずやこの疎外問題が人類に課せられた最も深刻な哲学的難題として圧し掛かって来るであろう。科学は進歩すればするほどますます科学の母たる知性を必要としなくなっていく。科学は爆発的な増殖を続けていくことで、遂には誰一人として科学の真意を理解できなくなるだろう。現に前世紀の間にも加速度的に科学論文の数は増大し、研究者爆発と呼べるほどに科学者は増加した。そして、科学が我々に奉仕する時代は終焉を迎え、知性なき我々が科学に奉仕する時代となった。
 知性の母たる人間存在を知性が疎外するように、科学の母たる知性を科学が疎外するのだ。ある意味必然的な現象とも言える、この疎外の連鎖を止める事はできない。人に奉仕するための法が逆に人を支配するようになったように。こんな世界に対して、私が多少なりとも暗澹たる気分にならざるをえないのは仕方あるまい。たとえ、万が一、ありえないとは思うが、ポスドク問題が解決したとしても、その背後にある科学からの疎外はもっともっと私の知性にとって重荷だ。





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