2005年の日記
:現在の博士の事情2
老害の最たるもの
政策を立案したり意見を述べたりする人間は常に老人であり、現在厳しい立場に立たされている若者たちの意見や気持ちなどまるで考えていない。それどころか、日本の科学技術を今後100年間でどのように発展させていくかというビジョンもなく、国家に対する忠誠心もない。国を愛していながらこんな無責任な政策を取り続けられるとは到底信じられないし、科学のことより自分の老後のことが心配なのだとしか思えぬ。全ての学問領域と教育制度を大局的に俯瞰できる人間がいないどころか、自分のちっぽけな権力や縄張りを守ることのみに汲々としていて誰一人として真剣にこの国の未来を考えてはおらず、「これってちょっとよくね?」とか言っている若者と大して変わらない実に浅薄で行き当たりばったりの政策を立てて老人どもはその場をしのいでいるのだ。ポスドク問題はこの国の根深い精神の腐敗の結果であり、犯罪的ですらある知性の衰退の象徴だ。つまり、長期的で現実的な計画を立案する能力が国家機構
として欠如しており、将来の問題を常に棚上げにして傷口をかえって広げ、無意味にアメリカの政策を、しかも既に失敗だとわかっている政策まで導入しては当然のように失敗を繰り返し、一切反省することなくコロコロと政策を転換しては国民を徒に翻弄させて無駄な役人仕事を増やして内輪では忙しい忙しいと非生産的労働に疲れきっているのだ。何という無駄。何という不経済。何という容認しがたき不合理。
既に何のために科学が必要なのかさえも誰も解っておらず、非常に浅はかで中身のない観念的議論によって我々はいつも振り回されている。本質を捉えることを誰もしないので、結局誰一人として正論を吐くこともない。犠牲者たちが無口なのをいいことにやりたい放題に制度をかき回すだけかき回して、快復不能な状態にまで学問を貶めまくった。許しがたき背信ではないか。
なぜ大学院重点化などという馬鹿な政策を取ったのかを今さら掘り返して議論する価値は全くない。知性の欠如した耄碌痴呆老人どもの戯言に耳を傾けられるほど私は仁者ではない。思えば敗戦にせよ今の年金問題にせよポスドク問題にせよワーキングプアにせよ、自分たちが蒔いた種を全部丸ごと若い世代にツケを払わせる今の老人どもというのは、本当に度し難き連中だ。こんな奴らのための福祉とは実に片腹痛い。とは言え罪人を吊るし上げて断罪したところで博士の就職口が増えるわけでもなんでもない。そもそも就職口を増やす必要性など最初からなかったわけなのだから、ある意味今から増やせと言う方が無茶なのだ。
ポスドク問題は絶対に解決しません
悲観的かもしれないが、私はこの問題は解決されることは絶対にないだろうと予測する。その理由は、大学にせよ政府にせよ企業にせよ、解決としようとする意思がそもそもないからだ。私がソマリアの孤児の気持ちを推し量る事ができないように、今の博士の気持ちを推し量ることは彼らにはできないだろう。要するに人事で、どうでもいいことだ。人によっては博士課程に進んだお前らが悪いというような主張をする者だって多い。もちろん第一義的責任は、自分の人生の選択を誤った博士たちではないと私は思っている。
もし私が大学経営者であったとしたら、どんどん博士を量産するだろう。その方が儲かるのだから。バンバン入学させてバンバン学費と校費を儲けたほうがいいに決まっている。定員が増えれば増えるほど良いのだ。それでも学生が来るのならば、万々歳。まさに博士バブルと言ってよかろう。就職できないことなんて知ったことじゃない。そんなことお構いなしに入学してくれるお馬鹿さんがいるのだから笑いが止まらない。そういうそそっかしい連中をうまいこと言って博士課程に進学させて、実験の手伝いをさせて学費と校費まで丸儲け。タダの労働力である上お金まで払ってくれるのだから、こんなに素晴らしい制度があるだろうか。進学希望の学生を全員進学させたほうがいいに決まってる。そういうわけだから、大学院の定員を今さら減らすことはないだろう。もちろん、純粋に学問のために全てを投げ出すようなストア学派の哲学者ばりの賢者が上に立って思い切った改革をすれば話は別だが、そんな高潔な学者を私は見たことがないので、まあ期待はできない。
私が企業経営者だったら博士の能力をよく分かっているので採用するだろうが、そんな企業経営者は普通いない。博士の社長がいないのだから博士なんか採用しません。そもそも博士課程は企業に入るための機関ではない。研究者を育てる機関なのだ。それなのに企業が「博士は使えない」と言うなんて、当然過ぎる結果。水泳選手に陸上競技をさせて、「使えない」と言っているのと同じ。水泳選手に走ることを要求するほうが間違っている。要するに使う能力のない企業が「博士は使えない」などという戯言をぬかしているわけだ。博士が使えないのではなくて、企業側に使う能力がないのだ。そして言うまでもないが、企業側に博士を使う能力を要求することも、同じように水泳選手に陸上競技をさせるのと同じということだ。どちらの側から見ても無茶なことを要求されている。
最近はポスドク問題もだいぶ話題になってきたので政府が何らかの対策を立てる可能性はあるが、歴史は政府が常に誤った対策案しか立案できないことを証明している。だから何らかの対策案を立てたとしても、間違いなくそれは博士たちや学問にとって状況を更に悪化させるものになるだろう。だから私としてはなるべく何もしてほしくない。碌な事しかしないのだから、何もしないほうがましである。だが、きっと役人はまたまた馬鹿な対応策を考えてもっともっと事態を深刻化させるだろう。国を悪くするのが役人の仕事であるのだから、それを邪魔してはいけない。博士号に括弧をつけるように改革するくらい素晴らしい仕事っぷりの役人様に何かを期待するほうが間違っている。水泳選手に陸上競技をさせようとするのと同じ。幼稚園児を厨房に立たせて料理を作らせてもまともな料理など出てきやしない。期待するほうが馬鹿である。
ポスドク問題は織り込み済みです
大学院重点化が招く結果は幼稚園児でもわかることであり、現在の博士の就職難というのは予想外の事態というものではない。要するにポスドク問題は織り込み済みの計画であったということである。そもそも大学院重点化というものは高邁な理想や目的によって行われた訳ではなく、単にお金の問題なのだ。大学院生が増えればそれだけ国からお金をもらえるということである。お金の問題なのだから、博士がどうなろうと、そんなことは知ったこっちゃない。就職できなかろうが飢え死にしようが行き倒れようが、そんなことは知らないわけである。人の不幸を踏み台にしなければお金が儲からないのならば、大学だって形振り構わず学生どもをこき使って騙して働かせて使用後は捨てればいいのだ。博士は最初から使い捨ての駒。大学の奴隷。金蔓。学生でなくなった時点でお払い箱。さようなら。そんな境遇になりたくてなりたくてたまらないマゾヒストなら進学することをお勧めする。言うまでもなくあなたが就職できないことは大学院重点化計画で織り込み済みだから支援なんて誰もしない。詐欺は騙すほうよりも騙されるほうが悪いというのがこの国の常識らしいのであしからず。
知の衰退
博士増産の裏には、知の衰退という問題が横たわっていると私は考える。10人で研究するよりも100人で研究する方が良い成果を出せるという時点で、今の学問というものは既に知性を必要としなくなっているということなのだ。加えて実験系では何億もの研究費を投入しなければ成果が出ない。学者ひとりひとりの知性の価値は恐ろしい勢いで低下しているということだ。我々は多くの知識と技術とを獲得したが、逆にひとりひとりの知性はますます矮小になっている。天才が不要になった時代とも言える。そして次に来るべき世界は、人間が研究しない時代である。今は大量の博士を兵隊として使って、それいけとばかりに突撃して研究テーマをやっつけているわけだが、それは博士の頭脳が必要なのではなくて、手が必要であるだけである。例えばこんな未来を考える。実験は全部ロボットなりパートの小母さんがやってくれる。試料をセットしてボタンを押すだけなので誰でもできる。出てきたデータを解析プログラムに通して解析し、解析したデータを論文作成プログラムに通すと一瞬で論文が完成する。後はボタンひとつで投稿終了。こうなったら研究者なんて別に誰でもいいわけだ。実際今だって実験をちょっと手伝えば論文の共著者にしてもらえるわけだから、業績と知能なんてちっとも相関していない。ほとんど頭を使わなくても済む分野なんてゴマンとある。そういう分野なら頭数さえいればどんどんデータが出せるだろうから必然的に成果も出るわけだ。例えば、私が世界に一台しかない機械を持っていたとする。そして、その機械で実験したいという研究者が次々とやってきて成果を出して論文を書くとすれば、私は機械のメンテナンスをしているだけで自動的に年間100報の論文を荒稼ぎする事だって出来てしまうという事だ。いや、それどころか私が技術者を雇ってメンテナンスさえも人に任せていても、自分の名前を論文に入れることを条件に機械を使わせれば寝ているだけでも論文で出来上がる。さて、この状況で私の知性はいつどこでどうやって発揮すればいいのだろうか。研究者に必要な能力はどっからか金を引っ張ってくる能力だけである。それなら私は研究なんか辞めて貿易会社を作って何百億という金を稼いでからその金で趣味の研究所を作って研究者に解放したほうがいいのではないか。研究にとって必要なものは私の知性ではなくて金に過ぎないのならば、その方が私は科学に貢献できることになる。
話を戻せば、学問が知性から剥離することで、研究者の人数を増やせば成果が出ることになり、必然的に博士を増やせば国際競争力が高まるだろうという安直な発想に繋がって大学院重点化ということになるわけだ。学問の敷居が著しく低下することで研究室の労働力確保という形で博士は生産されていく。博士増産の深層には根本的な知性の衰退があるのだ。個々人の知性が学問と結びつかず、学者が頭脳労働者ではなく肉体労働者となっている。こんな我々に本当に真なる知を求める資質があるのだろうか。結局は学問と知が剥離し、学問は着実に錆付いていくのだろう。私が最も憂うのはこの点である。しかし知の復権という夢物語が現実になることなどないだろうし、それ以前にこんな観念的なことを問題としている人間は極めて少ないだろうと思う。
追記 知性からの疎外と科学からの疎外
私は知性からの疎外という難題を幾年にも渡って考え続けてきたが、これは人間を措定する知性そのものが人間存在を疎外するという極めて深刻な問題であった。あくまでも私個人が抱えていた最も頭の痛い哲学的問題であったわけであるが、実はもう一つの疎外が存在していることにこの文章を書きながら私は気付いた。それは科学からの知性の疎外である。そして、必ずやこの疎外問題が人類に課せられた最も深刻な哲学的難題として圧し掛かって来るであろう。科学は進歩すればするほどますます科学の母たる知性を必要としなくなっていく。科学は爆発的な増殖を続けていくことで、遂には誰一人として科学の真意を理解できなくなるだろう。現に前世紀の間にも加速度的に科学論文の数は増大し、研究者爆発と呼べるほどに科学者は増加した。そして、科学が我々に奉仕する時代は終焉を迎え、知性なき我々が科学に奉仕する時代となった。
知性の母たる人間存在を知性が疎外するように、科学の母たる知性を科学が疎外するのだ。ある意味必然的な現象とも言える、この疎外の連鎖を止める事はできない。人に奉仕するための法が逆に人を支配するようになったように。こんな世界に対して、私が多少なりとも暗澹たる気分にならざるをえないのは仕方あるまい。たとえ、万が一、ありえないとは思うが、ポスドク問題が解決したとしても、その背後にある科学からの疎外はもっともっと私の知性にとって重荷だ。