四王山 多聞寺 (小田郡矢掛町矢掛2056)

本尊 毘沙門天

開基 天文二年精良法印

中興 元禄五年快翁法印

火災で眼を火傷した大師像が薬屋に

 旧山陽道の宿場町として古くから栄えてきた矢掛町の中心部に四王山多聞寺がある。境内に入ると〃合掌の鐘〃と呼ばれる色鮮やかな鐘楼堂が眼に飛び込んでくる。世界平和を祈って昭和四十一年に建立されたものである。
 多間寺は天文二年(1533)精良法印によって、鷲峰山山頂の御室派中本寺棒沢寺の末寺として開創されている。その後、元禄五年(1692)に快翁第二十世住職によって中興され、現在の場所に移転している。本尊は毘沙門天像。他に弘法大師が自身を彫った二十八作の内の一つと伝えられる大師像が安置されている。
 本堂は二間四面の大師堂で、同町にある旧本陣・石井家の寄進によるものである。寛政九年(1797)には、檀徒の手によって客殿、住職の手で庫裡が再建されている。その後、文化九年(1812)三月九日に火災で焼失している。
 この時の火災で、本堂は全焼したのに大師像だけは不思議と無事だったという。
 「火災の時、火の回りが早く、寺の者はなす術もなく見守っていると、この大師像は自分で本堂から出てきたという。その折、眼を焼かれていた。その夜、矢掛の奥、高梁の薬問屋の戸を叩く音がする。主人が戸を開くと、眼に火傷を負った僧侶が立っており、薬をくれという。主人が薬を与えるとお礼を言ったかと思うとす−つと消えてしまった。翌日になって多聞寺が火災に遭い、不思議にお大師様が助かったことを聞かされ、あの僧侶がお大師様だったのかと了解した」。
 この話が広まって、〃多間寺のお大師様は眼の病気に利益がある〃と信仰を集めるようになり、毎年八月二十一日の夏の大祭には、一万人を超える参拝者で境内に入ることさえ困難だったという。
 その夜焼けた本堂は、当時住職だった法印恵則上人によって再建されている。現在の本堂はその時のものである。
 多間寺の歴代住職の中には、高野山無量光院に転住した、第二十七世尊了上人や、京都大覚寺門跡になった楠木玉諦大僧正がいる。
 ちなみに、宥禅副住職は、桂米朝門下の落語家で桂米裕として、芸能界を始め各方面で活躍している。また、多間寺は中国楽寿観音霊場第八番札所となっている。

年中行事

1月3日 毘沙門天祭 8月20、21日 弘法大師更の大祭
毎月第2回金剛講毎月日大師講   

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より