西岡山 四王寺 (小田郡矢掛町東川面1702)

本尊 阿弥陀如来 聖観音(二体)

開基 寛永十九年弘雅法印

中興 明和四年了宜和尚

長い歴史の中で四ヵ寺が合併

 旧山陽道の宿場町として栄えた矢掛町の中心部から北西へ約二キロ離れたところに西岡山四王寺がある。
 四王寺は、長い歴史の間に四ヵ寺が合併し現在に至っている。かつての寺号は妙覚寺で、昭和八年三月三十日に同町江良の金剛院と合併したことにより四王寺に改称されている。その当時の空覚第十八世妙覚寺住職は、金剛院を兼務していた。妙覚寺は主として東川面地区に 金剛院は西川面地区にそれぞれ檀家を有していたが、両寺の総代らの間で合併の機運が熟し、住職をはじめ関係者の尽力により合併が実現した。
 この時、既に妙覚寺は開創当初の阿弥陀如来、田寺観音堂の十一面観音、高峰山頂観音堂の聖観音三ヵ寺の本尊を合祀しており、金剛院と合併したことで四ヵ寺の本尊が集まった形になった。そこで「四仏の集会王所」にちなんで四王寺と名付けられた。
 妙覚寺は寛永十九年(1642)頃、弘雅法印によって中興開基されたと伝えられている。弘雅法印は、阿弥陀如来を勧請し、現在の地に堂宇を建立している。同じ頃、同寺近くの田寺観音堂の本尊十一面観音が妙覚寺に移されたと伝えられている。また元禄年間(1688−1704)に高峰山頂観音堂の本尊聖観音が妙覚寺に移されたと伝えられている。
 寺伝によれば、高峰山頂の観音堂から放たれる御光が夜な夜な笠岡から鞆の沖を照らし、余りにも明るすぎて漁ができず困っているとの漁民の苦しみを聞いた弘宥・妙覚寺第三世住職が、法力をもって御光をおさめて妙覚寺へ迎えたと伝えられている。聖観音は蓮台を合わせると高さ約二メートルあり、行基菩薩の作と伝えられている。
 歴代住職のなかで、妙覚寺第十二世住職となる楠玉諦大僧正は、大覚寺門跡になった人である。現在の井原市門田の出身で、天保五年(1834)に十七歳で妙覚寺に入住し、弘化二年(1845)二十八歳のときに矢掛の多聞寺へ転住している。後に高野山に登り良基・海應等に就いて事教二相を習学。高野山の南室院、報恩院、仁王院、五智院、大聖院、宝性院を歴住。その後、笠岡の一遍照寺の住職も務めた後、再び妙覚寺住職も務めている。華厳学の大家で明治二十年に大覚寺門跡に就任し、同二十五年には真言宗長者となっている。

年中行事

正月 修正会 1月10日頃 鎮守祭
1月20日前後  本尊供 4月20日前後 施餓鬼会(春の総供養)

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より