摩耶庵 (小田郡矢掛町本堀1388)

本尊 薬師如来

地域住民の心の支えとなった薬師信仰

 旧山陽道の十八番目の宿場町として栄えた矢掛町を東西に走る国道号線を井原市方面に向かって走り約二・五キロ行ったところの中川小学校交差点を北に入ると、摩耶庵がある。山を背負うように建つ同庵の前には池があり、その下に広がる集落の農業用水を供給している。現在は、兼務寺院となっているが、地域住民にとっては貯水池同様に日常生活には欠かせない心の支えの寺院である。
 同庵の開基は承安元年(1171)とされている。当時は釈迦堂と呼ばれ、明治十五年二月十六日に現在の寺号。摩耶庵に昇格するまで、正式な寺号はついていなかったようである。
 現在の本尊は薬師如来であるにも関わらず、釈迦堂と呼ばれていたのは奇妙に感じる。確かに、仏の位置関係を示す密教の胎蔵界曼茶羅では東方は薬師如来ではなく、阿弥如来が配置され、金剛界曼茶羅には宝幢如来が置かれ、薬師如来の姿は見当たらない。しかし、薬師如来は東方浄土の教主としており、密教でいう阿弥如来と同一と見ることができよう。 さらに、釈迦堂と命名されている釈迦如来との関係を見ると、薬師如来は釈迦如来、阿弥陀如来と並んで〃仏界三如来〃といわれており、その関係は証明できるのである。
 こうしたことから、同庵は釈迦如来を本尊としていたかどうか、不明であるが、釈迦堂として発祥し、後の全国的な薬師信仰に影響されたのか、本尊を薬師如来としている。明治十年の記録によると、信者百三十三人となっている。
 五年後の明治十五年二月十六日、正式に釈迦堂から現在の摩耶庵としての〃寺号〃を認められ公称している。昭和四年には釈迦堂を改築。さらに、六十二年に新築し、飛躍 的な発展とまではいかないにしても、地元民の篤い信仰によって摩耶庵の法燈は現代に受け伝えられていることは事実である。

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より