神遊山 圀勝寺 (小田郡矢掛町東三成1344)

本尊 地蔵菩薩

開基 天平勝宝八年吉備大臣吉備真備公

中興 享保十五年

吉備真備公の祖母の骨蔵器

 矢掛町の中心部から国道号線を通って東に約三キロ。そこに聳える鷲峰山の麓に吉備真備公ゆかりの神遊山圀勝寺がある。圀勝寺の創建は、天平勝宝八年(726)。吉備地方の大臣であった吉備真備公によって創設されたと伝えられている。本尊は地蔵菩薩である。昔は地蔵院、或いは中蔵坊得道寺とも称していたが、享保十五年(1730)政応の代に吉備公の父圀勝の名にちなんで圀勝寺と改称されている。
 この寺が世に知られるようになったのは元禄十二年(1699)に東三成字谷川内の丘尾から、吉備公の祖母の青銅製骨蔵器(国指定重要文化財)が掘り出され、同寺に祀られてからである。以来多くの人が、吉備公ゆかりの寺として遠近を問わず、骨蔵器などの拝観に訪れるようになったということである。
 骨蔵器は総高二十三・八センチで、口径十二・○センチ、高さ十五・八センチ、厚さ六ミリ、重さ四・九六キロの深鉢型の本体に、直径二十四・七センチ、高さ八・八センチ、厚さ六ミリ、重さ二・六七五キロの蓋が付いている。その蓋と一重の円圏がめぐらされ、内円に「銘下道圀勝弟圀依朝臣右二人母夫人之骨蔵器、故知後人明不可移破」と、吉備公の父である下道朝臣圀勝と、弟である圀依の母の骨蔵器であることを記し、外円には「以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成」と、紀年が銘文で記されている。
 この中で、「圀」という則天文字が使われているのが興味深い。則天文字は、唐の女帝・則天武后が西暦六九○年に制定したもので、その十六年後に日本で既に使われていたことになる。唐と吉備氏の直接的な文化交流の証であり、吉備氏の実力のほどが窺える。
 遺骨は、境内の小社殿を建立し祀られていたが、享保十三年(1728)に京都吉田家から「光明霊神宮」の神号を授けられた。この他、昭和十八年(1943)に骨蔵器の出土した付近から、陶骨壷、和銅銭、祝部土器、朱彩施された素焼きの祭器の破片などが発掘され、町指定の重要文化財として保管されている。
 また、同寺の境内には椿、桧、なぎなど数百年を経た大木もあり、町指定の天然記念物となっている。

年中行事

4月第1日曜日 椿祭

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より