常立山 長泉寺(和気郡和気町日笠上1563)

縁起

 備前地方は、備前法華に安芸門徒と称されるように法華宗(日蓮宗)の寺院が数多く存在している。現在岡山県には162ヶ寺の寺院があるがこの数は四国4県の寺院より多いのである。これは南北朝時代大覚妙実僧正(1297〜1364)に依って布教がなされことごとく他宗寺院を改宗していったことによる。僧正は日蓮聖人から帝都(京都)布教の遺命を託された日像上人(1269〜1342)に深く帰依し妙実の名を授かり弟子となり備前・備中に伝道備前法華の礎を築く。これは僧正が福輪寺(真言宗)の僧と問答をなしこれを輪破、このことにより松田氏一族(後に西備前の松田といわれる豪族)が僧正に帰依、福輪寺を蓮昌寺と改めここを伝道活動の拠点としたことによる。
 日笠の地名は平安末期日笠将監親政が水精山(212m)に城を築いて本拠としたことを基とする。その氏は坂上田村麻呂の子若狭の国日里宇まで遡る。やがて戦国の世に移り日笠氏は頼房の時代を迎え初代より数えて九代目の子孫であった。主家浦上氏は赤松家からの分派であったが、内紛により三石城主浦上村宗が赤松晴政との戦いにて討ち死にするやその子政宗・宗景は室津城に移った。やがて兄弟は不仲となり日笠頼房の勧めもあって宗景は天神山(409m)の山頂に城を築き東備〜美作地方を納めた。日笠頼房は熱心な法華経の信者であり日笠下則定(現在片山部落と河本部落の間)に日笠山乗蓮寺という寺を建立している。三つの坊があり木倉地区には末寺があるほど立派な寺で京都妙覚寺の流れ(不受不施)を継ぐものであった。後年、浦上・宇喜多氏の間で戦いが起こり日笠の青山城は丸焼けになるのだが乗蓮寺は兵火から免れ無事であった。これは最初に触れたように岡山の武将は法華信者が多く宇喜多家も又そうであったことが幸いしたのであろう。しかし、この乗蓮寺も寛文五年(1666)の不受不施派の禁制施策により池田光政によって翌六年取り壊された、これは光政の儒教への傾倒と備前法華に対する敵愾心等々の理由があるにしても、その数寺院313ヶ寺僧583人を淘汰した。
 天正十四年(1586)邑久郡久々井村に宇喜多家家臣藤田甚左衛門に依って開基された常立山長泉寺を乗蓮寺廃寺より32年後の元禄十二年(1699)水精山中腹に移転建立開基藤田氏は日笠氏の後天王久保山城にてこの地を治めたとされている武将である。約300年後の平成九年(1997)檀信徒により四年の歳月と約一億円余の工費にて新築された。開山上人は本行院日宥上人、現世上人は二十二世でありタ第四世圓明院日惺上人よりここに住したものと思われる。城跡に建つ長泉寺は真東に向いており春・秋の彼岸には朝日が須弥壇に吸い込まれるようになっている。また長泉寺の井戸は年中涸れることなく清らかな水をたたえている。

寺宝・文化財

・鐘楼
・番人堂