金剛山 観音院(和気郡和気町大中山1985)

本尊 聖観世音菩薩

縁起

 山陽自動車道和気インターを降り、備前方面に約1キロ。信号を左に折れ少し行くと左の山手に金剛山観音院と称する真言宗高野山金剛峯寺派西南院の末寺に属する古刹が静かにたたずんでいる。
 この大中山一帯、観音院のある北の山裾から向い側の山麓に至る広域にわたって、奈良時代の天平十九年(747)聖武天皇直願に依って僧行基の開基と言われる中山寺があった。そこには塔堂伽藍が競うが如く建ち並び、天平の文化を誇っていたであろう、井戸や遺構、それに遺物等が出土している。そうして、この寺は中山中納言の祈願所であったと縁起では伝えられている。
 しかし、建武三年(1336)南北朝の争乱に巻き込まれ、その戦火に遭い、寺の大部分を焼失した。その後の天正六年(1573)戦国の動乱の最中、織田信長の寺院勢力仰圧による戦火のため一院残らず焼失した。
 そうして、慶長六年(1597)権大僧都長円の手によって、その一部が再建され、百万遍の行事が始められ、五穀豊穣、家内安全、無病息災、延命などの祈願が行われるようになったと伝えられている。江戸時代の廷宝元年(1673)の三月に現在の観音院が建立され、元禄四年(1691)九月に真言宗本山高野山西南院より末寺として観音院の許を得た。この観音院は和気郡四十八ヶ所の一番札所にもなっている。
 この大中山には、中山寺と同じ天平年中に寺の鎮守神として祀られた八幡宮の社の他、室町、戦国の豪族武士であった中山氏に係る城塞跡の中山城、衣笠城跡等があり、昔を今に物語っている。