安養寺(和気郡和気町泉609)

 照光山安養寺は寺伝によると、天平勝宝年間(749〜756)、考謙天皇の勅願で報恩大師が備前国に創建した48ヶ寺の1つである。その後200年余を経た村上天皇の康保年間に雷火により焼失。信源上人(播磨国書写山の性空上人の嫡弟)が勅を奉じて再建した。かくて当寺は村上天皇の祈願所となり山内五十坊が宇を連ねるまでに至った。
 鎌倉時代以後も鎌倉将軍、執権北条氏、足利将軍、守護大名赤松氏などの信仰をうけて繁栄を続けた。応仁の乱(1467)以来の赤松、山名の両氏による戦乱のため、頓に衰微し、永正年間(1504〜1520)に焼かれて常行堂・山王宮・香堂など十三坊を残すのみとなった。
 戦国時代の影響により寺領が廃絶していたが、文禄四年(1595)備前国の領主宇喜多秀家から寺領五十国の寄進があったが、慶長五年関ヶ原の戦いによる宇喜多氏の滅亡と共に新領主小早川秀秋によって没収された。慶長九年になり池田輝政により二町二反余を寄進され、明治に至ったが、その間に次第に衰え今では延壽院のみになった。
 当寺は、中世に於いては多くの僧坊と衆徒と寺領を有し、備前国新田荘の於ける最大の寺院として朝野の信仰をあつめたようである。

寺宝
・阿弥陀如来坐像(県指定重要文化財)
檜材、寄木造、漆泊。高さ139cm一見して藤原時代の和様を引いた表現になるが、理知的で聡明感にあふれた面相は明らかに鎌倉時代の作品である。

・木造鬼面(県指定重要文化財)
木造鬼面はいずれも桐材を用いており、彩色。阿形面は額の中央縦一列に大小2本の角を立てる赤鬼。吽形面は頭の左右に角を伸ばす青鬼。厚さは1.17cmといずれも薄く、阿形面長さ46.4cm、幅36.4cm。吽形面長さ48.5cm、幅37.0cm。様式上は室町時代の作と判断される。おそらく追儺面であろう。また、旱害のとき、この面に笹で水をかけるか、水で洗うと雨が降る。と伝えられている。

・安養寺古文書(県指定重要文化財)
安養寺文書の中には、北条泰時の菩提のため田畑を寄進した預所沙弥某の寄進状や、長禄元年(1457)12月2日に赤松氏の遺臣によって殺害された南方帝王第一宮及び宮を殺害した直後、後南朝方により殺された丹生屋兄弟の菩提のために田三反の寄進状の如き後南朝の悲史と赤松氏再興に関する貴重な資料がある。

・銅五鈷鈴(国県指定重要文化財)
総高17cmで、口縁部に「備前国新田安養寺了円之 建武五季三月日」の刻名を持つ。建武五年(1338)は北朝の年号で、室町時代初期の作品である。了円は、この五鈷鈴を使って帝道安泰を祈願した、と伝えられている。

・陣太鼓
南北朝から室町期に製作された岡山県内に現存する最古の太鼓。陣太鼓は、ケヤキ製の胴に牛革張り。革張り部は直径53cm、胴の奥行きは42cmの大きさ。革の面は九本の同心円で区画され、中心は左回りの三巴(みつどもえ)文、外周は矢車文を、白、赤、黒、茶と四色の顔料で表現している。革の縁には、花と唐草が絡み合った華麗な宝相華文も描いてある。