太王山 本久寺(和気郡佐伯町佐伯473)

本尊 

縁起
 天正五年(1577)天神山城主浦上宗景を亡ぼした宇喜多直家は東備地方を弟の忠家に知行地として与え一万二千石を給した。忠家は寺山に居城を構えてこの地方の経営にあたっていた。当時の宇喜多家の武将の墓が現に本久寺境内にある。忠家一族は法華宗信仰が厚かったことと、支配領域の統制を強化する意味で、一国一宗制を実施した。そのため太王山にあった真言宗系の密厳寺に改宗を命じたが聞き入れなかったので退転を命じた。本久寺由来書によると、有力な僧侶は仏像経巻をもって本寺である東密系の京都東寺に引き上げた事になっている。天正九年(1581)忠家は居城を改めて寺として諸堂宇の移築を行い、天正一一(1583)に工事を完了した。現在の本堂は創建以来数回の修理が行われたが、創建当時の遺構がよく残り、鬼瓦などには忠家の家臣、奥方、女中などの名前の入ったものが現存している。

寺宝・文化財
・本久寺本堂
(県指定重要文化財)
 
宇喜多忠家が天正十一年(1583)太王山にあった密厳寺の諸堂宇の一部を中心に新たに建てたものである。桃山時代の建築様式を濃厚に伝えている九間四面(実測は南北18メートル、東西は16.5メートル)のもので、単層入母屋造(イリモヤヅクリ)、本瓦葺で亀腹の上に建てられている。腰の四面に勾欄(コウラン)のある椽(タルキ)を廻してある。軒は二重繁垂木(シゲタルキ)で、柱は円柱で斗拱(トキョウ)間に人物や花鳥の彫刻を入れた蟇股(カエルマタ)が置いてある。内部は内陣と外陣にわかれ、内陣は三間四面で南向の唐様須弥壇(カラヨウシュミダン)(仏像を祀る所)があり、宝相華(ホウソウゲ)や唐草模様の彫刻が壇の下部に施してある。外陣は畳敷で、内外陣の格天井(ゴウテンジョウ)には菊花や宝相華の絵が書いてある。慶安、元禄年間に大修理が行われてたが、創建当初の豪壮な桃山建築の特色がよく残っている。
・密厳寺石造九重層塔
(県指定重要文化財)
 この塔はもと太王山密厳寺境内にあったものを、大正二年(1913)本久寺二十三世日大が有力檀徒河野全吾を中心とする多くの協力者の努力によって現在地に移転したものである。基礎から九層の屋根の頂まで高さ5.23メートル、屋根と上層の軸部が一石で作られ、初層の塔身に四方仏が彫刻されている。右側面には「石塔起立志者、為法界利益也」とあり、左側面に「元享二年壬戊八月六日、勧進沙門行心敬白」とある。背面に「備前国佐伯荘太王山密厳寺」の銘がある。鎌倉末期の代表的石造美術品とでもいうべきものである。
・密厳寺石造五重層塔(県指定重要文化財)
 この塔は天明四年(1784)本久寺十三世日勧が太王山密厳寺境内にあったものを現在地に移転した。鎌倉末期の清涼寺系の石塔である。高さ3メートル、燈身と屋根は別石で作られている。初層の塔身に四方仏を刻み、右側面に「敬天長地久祈願円満、勧進沙門行心敬白」とあり、左側面に「結縁衆諸人等敬白、元享四年甲子二月二十二日の銘がある。造立の年は九重石塔より二年後であり、趣旨も異なっている。