清涼山 正覚寺(津山市宮部上1663)

本尊 千手観音

縁起
 当院は曹洞宗太源派に属する寺で、作陽誌には次の通りに記述されている。


 本尊千手観音 鎮守春日大明神 本寺夢中山幻住寺 境内東西百七十間南北六十五間となっている。本尊は千手観音となっているけれども現在の本尊は釈迦三尊であり、鎮守は白山大権現である。
 久米郡旭町大字北にある夢中幻住寺第二代の住職大庵洞益(1434〜1461永享6年より寛正二年まで二十八年間住職)は長禄二(1458)年、今の大字宮部下、久保神社の西隣に地に小さな寺を建て、「普門寺」と称した。しかし此の寺は未だ本山からも認められてあらず従って寺格もない平僧地であった。
 夢中幻住寺は永禄年中に失火、永禄九(1566)年より天正十九(1591)年まで二十六年間無住、其の後天正十九年に法山存悦が幻住寺に入った。此の人は元和五(1691)年迄二十九年間住職として幻住寺の復興に尽して功績のあった人である。此の法山存悦が幻住寺復興に尽した経験と才幹をもって宮部地方の人々に説き、喜捨を集めて、寺地を宮部上村の王子に定め、前記の普門寺をここに移して寺院を建設したのである。であるから此の寺の開基も開山も実際には法山存悦であるけれ共、普門寺の開山である幻住寺第二代の住職大庵洞益を迎えて勧請開山に据えたのである。時代はわからないが法山存悦の幻住寺10色在任中の天正十九年から元和五年に至る二十九ヶ年の間と推定する外ないのであって、かいざんは実際よりも百二・三十年も前に遡って長禄二(1458)年の普門寺の開山そのものが此の寺の開山とされたわけである。

 作陽誌(西作誌)は元禄二(1689)年から元禄六(1693)年までかかって森藩の編纂した地誌であってこの頃ではすでに山号(清涼山)も寺号(正覚寺)もあり、本尊は千手観音、鎮守は春日大権現で夢中山幻住寺を本寺とするちゃんとした寺院に成長していたのである。
 此の時代の正覚寺の屋敷は王子の此処であったと、はっきりは示し難いが「字寺屋敷ニアリ」と書かれた文献がある。王子の谷の入口付近は畑地であり谷奥に向ってその畑地の左、小川を隔てた山麓に屋敷跡らしい所があり、ここを「寺屋敷」と呼んでいる。更に其の左に突出している峯の頂上には僅か乍ら盛り土がしてあって、あたりには川石が不規則に散乱している。盛り土の中心部には丸い石を中心にして長目の石もまぜて五個の石が花弁状に並べられて全体として花の形になっている所がある。これを古墳と見る人もあるが、散乱している川石は古墳の葺石としては様子がちがうし、特に花の形に配置された石は、ここが何かの仏教遺跡であることを示しているものの様に思われる。或は古墳を利用した仏教遺跡なのかもしれない。が、ここは寺域ではあっても寺の屋敷跡ではなく、寺に附属した何かの遺跡で、寺の屋敷跡はこれより遠くない場所と考えられ、この麓の現在「寺屋敷」と呼ばれている場所が此の時代の正覚寺の屋敷趾だと思いたいのである。
 王子時代の正覚寺は、作陽誌の頃即ち寺院としての条件を備えてから後二十年数年後の享保の極く初年に火災にかかり、建物は勿論、文書も什器も一切焼失して現今、当寺を徴証するに足る物何一つとして残っていないと言われている。此の火災は「享保年間にあった」とされているが、享保は二十年も続いているのであって、当寺の住職は第四代円通重達の時に当る。即ち、円通重達は元禄四年(1691)年就任、享保三(1718)年まで二十八年間の住職で享保年間の在任は三年間程であって、寺地を現在の大字宮部上一六六三番地と定め復興に努力したとあるが、火災でまる焼けになる。復興計画を樹てそれを実施に移す。享保三年には住職解任となる。といった具合にめまぐるしく事件が展開しているところから火災のあったのは享保の極く初年(元年?)としなければならない様に思う。
 王子時代の本尊は千手観音となっていることは前記の通りであるがこれは正覚寺の前身である普門寺の本尊が移されたものであろう。普門寺という寺号は妙法蓮華経の普門品からきたものであることはまちがいなく、普門品は別名「観音経」といわれるもので各地にある普門寺は全部観音様を本尊とするとは限らないにしても、普門寺と観音寺は同義であるので、宮部下にあった普門寺の本尊は観音様(千手観音)であったと見て先ずまちがいあるまい。
 享保初年の火災の際、本尊様は無事であったが焼失したかについては何もわからない。しかし、寺として最も大切な本尊様が若し焼失したものならば一番にそのことが取り上げられ、什器其の他は二の次のことであるはずのところ什器其の他の焼失のことは伝えられ乍ら本尊様のことに触れてないことは本尊様は無事であったとも解釈出来るのである。
 現在正覚寺の境内には入母屋造り瓦葺きの立派な観音堂があって千手観音の立像が安置されている。此の観音堂は、享保の火災から三十年ばかり後の延享三年(1746)年の上棟で、此の頃、理由はわからぬが本尊様を千手観音から釈迦三尊に変更することとなり、釈迦三尊像を求めて開眼して寺の本尊に据えると共に、此の観音堂を新築して今までの本尊様の千手観音像を此の観音堂におまつりしたものと思われる。
 鎮守の神の変更については何等の記録にも接していないが多分此の頃のことであろう。
 現在当寺院にある品物は本堂にある殿鐘は宝暦八(1758)年第七世泰辯守口和尚の時、盤子は安永三(1774)年第八世の玄中徹妙和尚か次の第九世功外実成和尚の代にお寺に納まっており、木魚は文政七(1824)第十五世管明霊源和尚の代にととのえられていて、これらはすべて火災以後のもので、火災以前の品物は見当たらない。
 現在の伽藍其の他一切は火災以後二百六十年程の間に出来たものであることは確実であって、本堂と客殿は一つ建物の中にしつらえられ、寺院構成の中心の建造物である。入母屋造り平入り、屋根は銅板葺きで東向きに据えられ、其の後は本堂に接続して位牌堂になっている。本堂の南一段高い所に観音堂があり、これは延享三(1746)年六世普鑑祖白和尚の時の上棟。其の傍に白山大権現の社がある。本堂と観音堂は廊下で接続されている。本堂の北は玄関をはさんで庫裡になっており、本堂の前は庭園で池と広い芝生に適当に樹木を配した平地とで構成され、観音堂のある一段高い屋敷との間の岸は常緑の潅木が植込まれてゆったりと場所をとり平安な感じの庭園である。此の庭園の東限は南北に長い白壁の塀であって、塀の北端は天保六(1835)年建築の鐘楼門である。塀の南の端は仁王門でこの三門(山門)の前は切り石の長い石段になっている。これら境内の建造物は、四時荘重な緑の森を背景として此の一角を占めているのである。
 更に嘉永三(1850)年の村の文書(畝並帳)によると正覚寺の田畑の所有は宮部上、下で三町九畝十三歩、高(標準収量)玄米で三十八石三斗一升七合で、両村を通じて最高の人の三町七反十四歩、高四十八石三斗五升に次ぐ第二位の分限書であって一段農家とは比較にならぬ程とびぬけた分限者であり地主であったのであるけれども終戦後の農地開放で之は失った。山林は現在の調査で十一町五反五畝五歩、之は現在もあるのである。
 現にこれだけの寺院の構成があり、寺院の維持や寺院としての活動の費用にあてる為の田畑山林のあったことは歴代の住職の熱意とそれに呼応する檀信徒の喜捨寄進のあったことを物語るものである。
 殊に享保初年の火災後逸早く復興に乗りだした第四世円通重達は自分の住職中に火災に逢ったことでもあり、復興に対する熱意は並大抵のものではなかったろうが、何分にも活動期間が多く見積っても三年間にも足りない短期間であったので其の実蹟はそれ程では無かったにせよ檀信徒の間に復興の機運を醸成した功績は大きかったことと思い、中興の祖と仰がれているのも無理からぬことである。
 第十世活能百宗和尚安永七(1778)年から享和三(1803)年迄二十六年間の住職であって、当山中興の名僧として当寺院の興隆に尽したことが今尚語り伝えられているところである。檀信徒の迷いを精神的に救済する衆生済度型の名僧と檀信徒に説いて寺院を立派にしていく型の名僧とがあるとして、百宗和尚を見る時、晩年隣寺の法林寺に入って火災後の法林寺の復興に尽して功績を残しているところから見て後者の意味の名僧であった様に思われ、だとすれば現在の正覚寺の伽藍のうち百宗和尚の代にできたものがかなりあるのではあるまいか。