藤田山 成就寺(御津郡建部町富沢682)

本尊  十界大曼荼羅

縁起
富沢藤田の地にあり、山号は藤田山、日蓮宗で本尊は十界大曼荼羅。天平勝宝年間(749〜757)報恩大師摩訶上人によって創建された。報恩大師は養老二年(718)現在の岡山市芳賀に生まれ、十五歳で出家し、芳賀坊と称した。備前備中の山の中で修行にはげみ、とくに法華経寺(現在の日応寺)に入り修行を重ねた。その後四五年間大非呪を持って数々の霊験を示したという。天平勝宝四年(752)はが坊は、孝謙天皇が病におかされたとき、宮中に召されて病気平癒の御祈祷をした。観世音の呪をとなえて御加持をしたら、っちまち天皇は全快されたという。天皇は芳賀坊の法力に感謝し「報恩大師」という名を授け「摩訶上人」という号を賜った。さらに備前四十八カ寺の建立の勅許を与えられた。それで報恩大師は、金山寺を始めとして、備前に四十八カ寺を建立された。その時最後に建てた寺は報恩大師の大願成就の寺であったので成就寺と名をづけられたと言い伝えられている。当初の成就寺は天台宗の寺院として山上伽藍を整え、山岳仏教の先鞭をつけ、五重宝塔が聳え、末寺三カ寺、十二カ坊、寺領七十五石余を有し中本山として隆盛を極めた。現在でも近在に「奥之坊」「杉本坊」「谷之坊」の屋号を持つ家々がある。建立から六百余年後の延文三年(1358)日蓮上人の會孫弟子大覚大僧正妙実上人に帰依していた金川の玉松城主松田元成の強要によって日蓮宗に改宗され、大覚大僧正が開基となる以後大いに伽藍を造営し宝器を備え、備前法華の中心的寺院として信仰を集めた。寛文五年(1665)の妙圀寺諸末寺宗旨改証文(妙覚寺文書)によると、成就寺内として「成就院、寺中慈仙坊・大林坊・学乗坊・中之坊、末寺蓮乗院・正光院・涌円坊・本住坊」の名がみえる。同六年に中ノ坊・慈仙坊・学乗坊は住僧還俗により廃寺となった。また、寛文法難以降は京都の具足山妙覚寺の末寺として現在に至る。成就寺は不幸にして明和三年(1766)仁王門を残してことごとく焼失してしまった。現存する建造物はすべてこのとき以降に再建されたものである。

寺宝・文化財
・山門

 享保三年(1718)九月の再建。三間一戸八脚門で、切妻造り、本瓦葺き。中には仁王尊(密迹金剛・那羅延金剛)安置している。明和三年焼失前の建造物は唯一この山門のみである。昭和十八年(1963)二月二十六日、町重要文化財(建造物)に指定された。

・三重宝塔
 文化五年(1808)の再建。県下十三基中の一基で、日蓮宗としては唯一の塔である。土台建ちで軸部は総円柱となり、組物は尾垂木のつく本格的な三手先で中備はすべて蓑束をつける。初重には四天柱を設け本尊を安置している。大工は旧市場村の藤井重太郎弘家等で本格的手法による三重塔で細部様式も整い、よく時代の特徴を現している。昭和三十八年(1863)二月二十六日、町重要文化財(建造物)に指定された。

・仁王尊
 山門には、向かって右に口を開いた密迹金剛神、左に口を閉じた那羅延金剛神を安置している。像高は二躰とも約2.0メートルで忿怒の表情には迫力があり、胸部外筋肉の表現はバランスのよい像となっている。運慶の作と伝えられている。昭和六十一年(1986)三月二十六日、町重要文化財(彫刻)に指定された。