福滝山 千柱寺(高梁市巨瀬町六名7299)

本尊 十一面観世音菩薩

開基 推古天皇御宇聖徳太子

開山 弘仁年中弘法大師

弘法大師が柱千本を集めて建立

 秋葉山の東側の集落・六名の地に千柱寺がある。境内に入ると、下の枝が庭いっぱいに広がっている松の枝振りに驚かされる。「千柱寺タコ松」と名付けられ高梁観光百選の一つ。幹の周囲約二.一〇メートル、高さ約十メートル、地上一メートルぐらいの所から横に伸びた枝の長さは十メートルから十二メートルはある。樹齢は推定三百年は経っており、その枝振りが同寺の信仰の歴史を象徴しているようでもある。
 寺伝によると、推古天皇の御宇、聖徳太子が来遊し国家鎮護を祈願し数十の堂宇を建立。山の形が竜に似ていることから「福竜山」と名付けられたが、後に誤って「福瀧山」と書かれ、山号となったという。
 弘仁年間(810〜824)には、弘法大師が巡錫。朽廃した堂宇を嘆き、諸堂数十棟の柱千本を集めて建立し「千柱寺」と名付け、自らが阿弥陀、観音、勢至の尊像を彫刻し安置したという。文禄年間(1592〜96)に火災に遭うが、この尊像は災難を免れ、現在に伝わっている。
元々、同寺は現在地より北西へ約1.5キロの山上「寺屋敷」という地にあった。今でも瓦や井戸などが残されており、往時を偲ばせる。火災に遭う前の元亀年間(1570〜73)、時の住職・宥印法印は、山頂精舎の一宇が荒んでいるのを見て嘆き、現在地に移転。慶長年間(1596〜1615)には、時の小堀政一代官が参詣し、その由緒に感じ田畑山林を寄進。以来、松山城主は代々、旧例によって寺所有地の税を免じている。
 現在の本堂は文政十年(1827)、鎮守山王社は嘉永元年(1848)の建立。その後、同寺は宥印法印から数えて九世の法印が続くが、その後あえなく無住となっている。再興されるのは慶応二年(1866)。玉本大和尚が現在の庫裡を建立し、中興初代となっている。二代の福滝智明和尚は明治三十年、本堂西に金毘羅社を建立。三代佐々木快伝住職は、周囲の山々に「福瀧山四国八十八カ所霊場」を開創し、かつての隆盛を取り戻し今日に至っている。
 同寺什物の「大般若経写本九十三巻」は、垣武天皇の代の高僧・玄賓僧都が弘仁年間にこの地を巡錫し、大般若経六百巻を書写したものといわれている。

主な行事

一月五日 総代会・世話人会
四月八日 八十八カ所巡拝・壇信徒総参拝法話会
八月二十日 金毘羅宮並びに十一面観音菩薩奉納盆踊り花火大会
十一月一日 巡回布教法話会

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より