天柱山 安国頼久寺(高梁市頼久寺町18)

本尊 聖観世音菩薩

縁起

 天柱山安国頼久禅寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、暦応二年(北朝年号1339年)足利尊氏が再興して備中の安国寺と合した。当時、中国より帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。後に永正年間(1504年)松山城主上野頼久公が大壇越となり寺観を一新し大永元年逝去したので、頼久の二字を加えて安国頼久寺と寺号を改称した。
 その後、慶長五年(1600年)小掘新助正次が、備中国に一万石余を領したが、慶長九年に逝去したので一子作助政一(遠州)が遺領を継いだ。その頃の松山城は備中兵乱後で非常に荒廃していたため遠州は頼久寺を仮の館とし、またよく本寺を外護され、元和五年(1619年)までこの地にいた。
 本庭園はその頃の遠州の作庭になるもので、蓬莱式枯山水庭園で愛宕山を借景し、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現した庭園である。鶴島は三尊の石組を中心に周囲をサツキの刈込みで中島景観を表現し、亀島は亀の姿を具象的に表現している。又、山畔のサツキ一植の大海波を表現する大刈込みは、園内最も優れた美的景観を示している。このような築庭様式は、桃山から江戸初期に好まれたもので、現在まで旧態のまま保存されていることは、歴代城主の帰依の念篤きことと、歴代住職の愛山の念深きことによるものであって、遠州作庭中の傑作庭園と称せられており、昭和四十九年国の名勝(庭園)に指定された。また、松山城主三村家親、元親の墓が境内にある。
 尚、当山御本尊は、聖観世音菩薩で備中西国代五番の札所であり、昭和六十年三月に開創された瀬戸内観音霊場十三番の札所である。 

寺宝・文化財

・遠州自筆の禁札他遺愛品数点
・暦応二年(1339)西念勧進による石灯籠
・絹本著色釈迦三尊像(国指定重文)

市川俊介著『岡山の神社仏閣』より