弘誓山 観音寺(勝田郡勝央町植月東895)

本尊 聖観世音菩薩

縁起

 比叡山延暦寺を本尊山とする当寺は、千百年の歴史をもち、行基菩薩の御作、聖観世音菩薩を御本尊として安置していますところから、弘誓山 観音寺といいます。
 平安時代の天安年間(857〜859)、比叡山第三祖慈覚大師によって、間山に(高福寺の一院としての説がある)創建された。その後(年代不詳、間山では火災説がある)、田井観音免(地名)に移転したが、天文十三年(1544)大洪水に遭い、御本尊以外の宝物・古文書等を流失し、建物は廃頽した。このため草創以来七百有余年の盛衰については詳らかではないが、田園化した田井寺跡は現在「観音面」の地名で残っている。
 また、寺盛の面影を偲ぶ次の御詠歌が、今に伝えられている。

『経塚のしるしの松の夕嵐絶えぬ御法の声かとぞ聞く』

 本寺が美作観音霊場三十三ヶ所第五番となっていることは、かかる寺歴からもうかがわれる。
 現在の地(植月東)には、慶長五年(1600)、先師実観の遺志を継いだ僧円慶によって移転築造された。以来円慶を中興開山の第一世として、住職三十世、四百年近くに及んでいる。
 作州の名僧として誉れ高い泰禅は、本寺第十一世住職であり、隠居後は、長尾山金光坊をはじめ、多くの寺蹟を遺している。本寺には泰禅が備えた大般若経六百巻や、泰禅木像・爪髪塔がある。
 また、本寺で植月小学校が明治八年に開校され、同十四年まで仮校舎となっていた。その頃、後に世界的労働運動指導者として活躍した片山潜も教鞭をとっていた。

《伽藍》

@本堂
当初、裏山の古墳台上に建てられたが、寛文年間の初めに焼失した。四世円耀は、火災から本尊聖観世音菩薩の尊像を守り、寛文六年(1666)同地に再建した。
その後、明和元年から安永四年(1764〜1775)にかけ、十世泰応によって、古墳台上より現在の地に移築された。建物は概ね三百年を経ており、本尊をはじめ八仏像が安置されている。

A内仏殿・庫裏
本堂と同期に再建され、修復されながら現在に至っている。内仏殿には、阿弥陀如来・知者大師・伝教大師が安置されている。

B阿弥陀堂
寛永八年(1631)、天台伝教二大師像を安置する祖師堂として創建されたが、寛文二年に永昌寺の本尊阿弥陀如来と十王尊等の諸仏を併置したことから、阿弥陀堂と呼ばれている。

C仁王門・鐘楼
寛政四年(1792)に再建された。仁王門の由来は不詳なるも、「間山高福寺門の仁王像を移した」との説がある。建物は町文化財に指定されている。  

D中門
文政九年(1826)に再建される。

E弁天堂
宝永六年(1709)に創建され、安永六年と昭和四十八年に改修される。

F境内建立像塔碑
 (1)法界地蔵尊石像(安永四年建立 1775)
 (2)宝篋塔供養塔等(明和〜安永年間建立 1767〜1777)
 (3)水子地蔵(昭和五十五年建立)
 (4)歌碑(昭和六十年建立)

G観音寺古墳
本山の裏山にある前方後方墳は、未発掘の大古墳であり町指定の史跡となっている。
 (裏山遊園地に詳細図あり。)