石向山 光明院 西明寺(総社市新本7281)

本尊 阿弥陀如来

中興開山 天文年間増海上人

「義民墓」に、その行跡偲ばれる

 JR伯備線総社駅から十キロほど西へ向かうと新本という所がある。その新本のちょうど中心辺りに位置する新本小学校の西隣の高台に石向山光明院西明寺がある。本尊は阿弥陀如来で鎌倉時代の作といわれている。他に毘沙門天像、青面金剛像も安置されている。
 西明寺は今から千年ほど前に字竹切というところに創建された。延元二年(1337)には、福山合戦の戦火に遭い近くにあった円尾寺と共に焼失。その後二百年間を経て天文年間(1532〜55)に、増海上人が現在の場所に移転させ再建している。文化十五年(1818)には大十八世宥音上人が、近くにある小砂塚古墳の石を使用して石垣を築き境内を拡張し諸堂を建立した。宥音上人は後に高野山寶池院の住職を兼ねた人である。これらの建物は昭和三十六年に本堂を残し焼失している。残った現在の本堂は、第二十四世実応上人が明治十四年に再建したもの。また、山門は川辺の蔵鏡寺が洪水に遭ったとき譲り受けたもので鎌倉時代のものといわれている。
 西明寺の寺の名については、次のように伝えられている。まず山号は、寺の南方に鷲峰山中之院(現在棒沢寺)のある鷲峰山山頂に弘法大師が仏法の修行をしたといわれる岩窟があり、その岩石に対面していたので、石向山と名付けられ、院号は、本尊阿弥陀仏如来が諸仏の中で、光明第一であることから光明院と定められた。また、寺号については本尊が西方極楽浄土の教主で、常に光明あまねく照らしているから西明寺と名付けられたという。
 西明寺には義民の墓がある。この「義民墓」は、享保三年(1718)に、岡田藩主への直訴を決行し、酷かった藩の悪政から新本の村民の生活を救った四人の墓である。四人は直訴の後、死罪となっている。
 義民となった四人の墓は現在、総社市重要文化財に指定されている。当時は表立った奉賛はできなかったが、後の昭和二十七年には、四人の偉大な行跡を永久に忘れることのないようにと地区内に「義民碑」が建立されている。毎年七月には義民奉賛会を中心に地区を挙げて義民祭が執行されている。特に「義民踊り」は有名である。
 西明寺には寺宝の入定千年御遠忌の時の錦織の御影が伝えられている。

年中行事

正月元旦 護摩供 2月 節分会
7月または8月 義民祭 8月 施餓鬼会
12月21日 納の大師蕎麦切り祭り その他 春・秋彼岸会

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より