日照山 萬福寺(総社市井出779)

本尊 地蔵菩薩

清水の地へ還坐した薬師如来

 都市計画で整備された総社市の市役所通りを南に入ると小高い丘に作山古墳があるが、そも北側の集落の中に日照山萬福寺がある。境内には本尊・地蔵菩薩を安置する本堂と薬師堂、鎮守堂が建っている。近くには備松山城水攻めの時の城主・清水宗治(1537〜82)と清水家の墓所もあり、総社の信仰史を秘めている。
 同寺一帯は明治二十八年七月、大水害に襲われており、記録類を悉く流失し、開基、開山などの歴史は不詳である。しかし、同寺境内に残されている墓碑や地元の『史誌』、さらに地元の人々の伝説など総合すると、歴史的にも信仰的にも重要なポイントを占める寺院であることが窺われる。
 同寺は備中国分寺の八つの塔頭の一つ。このことは『国分寺文書』にも明きらかで、当時の住職と思われる「萬福寺 諦光」と記された花押が押されている。残念ながら、開基は「不明文」となっている。
 境内の墓碑を見ると、「文政六年(1823)十月 阿闍梨証吽」の文字が見られる。文政は江戸時代後期で、おそらくこの住職の没年であるから、これ以前に開基されていたことになる。
 注目されるのは、同寺に「惣持院萬勝寺」と銘の入った大般若経が残されていることである。この惣持院萬勝寺は『備中誌』によると、貞治年間(1362〜68)に開基され、四国・与田寺出身で備中の数多くの寺院を再建したことで知られる増吽の再興となっている。
 国分寺を復興した増鉄もこの寺の住職になっているが、その後消滅し、現在は跡地さえ分っていない。増鉄が国分寺復興時に祀った勧進帳には「当寺本尊は薬師如来」と記されており、萬勝時から国分寺に移された。ところが、薬師如来は毎夜、増鉄の枕元に現れ、清水の地に帰りたいと告げた。増鉄も止む終えず、元の萬勝時跡へ移したと伝えられている。
 この薬師如来は明治初年、萬勝寺跡地から現在の萬福寺へ移されたもので、境内の薬師堂に安置されているものがそれである。大般若経もおそらくこの時に移されたものであろう。
 また備中高松城水攻めの時の城主で知られる清水宗治(1537〜82)が、清水家の菩提寺として建立したのが萬福寺で、萬福寺の近くには清水家、宗治と兄の月清入道の墓がある。
 萬勝寺跡地が現在の萬福寺かどうかは詳らかではないが、地元には「薬師さんのおかげで眼鏡をかけた人がいない」という自慢話も伝えられており、地元の人々の信仰秘史を含んで、今日にその法燈を伝えている。

年中行事

7月 薬師祭 8月 荒神祭

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より