弐等山 地蔵院 金前寺(総社市上林250-1)

本尊 金輪仏頂如来

開基 天平年間行基菩薩

飢饉を憂い衆生済度を願い入定した増辨和尚

 備中国分寺の五重塔が聳え春には一面蓮華が咲き、秋には黄金色の稲穂が垂れる肥沃な田園風景が広がる吉備路の情景から、享保年間(1716〜36)数度に亘って大飢饉に見舞われたことなど想像もつかない。この飢饉に衆生済度を願い入定した僧がいる。国分寺と緑山古墳の北側にある弐等山地蔵院金龍寺の第十四世増辨和尚である。
 金龍寺は天平年間(729〜749)、行基菩薩開基と伝わる古刹。密教修練の道場として知られ、特に雨乞いに霊験があり天聴に達し、「金龍」の二字を賜って、金龍寺の寺号を公称したと伝えられている。また、山号の「弐等山」は「等しく三密が顕われた」ともいわれ、密教修練道場としての由緒を残している。
 本堂、大師堂、庫裡、鐘楼、山門など端正な佇まいを見せる境内と向き合って小高い山裾に小さなお堂が建っている。増辨堂と呼ばれる増辨和尚入定墓で市指定重要文化財になっている。また、山門前の石仏も有名である。
 元文四年(1739)に足守藩士水野金兵衛が記し、時の住職妙道が書写した「増辨和尚入定弄引」によると、増辨和尚は寛文十二年(1672)、総社市惣社諸上の松尾惣右衛文の三男として出生。十三歳のとき、金龍寺住職の増満法印のもとで受戒し、名を茲観、字を増辨と称した。その後、高野山に登り修行し、帰郷して二十八歳で金龍寺住職に晋山した。
 享保三、四年(1718、19)の飢饉のときには衆生済度のため、二十一日間の断食をして祈願。さらに、十三年後の享保十七年(1732)には大雨に加えて、イナゴの害のため大飢饉に見舞われ、尊お惨状は目を覆うばかりだったという。
 この惨状を憂いた増辨和尚は、この飢饉を救おうと十穀断ちを行ない、弘法大師入定九百年遠忌に当たる享保十九年(1734)三月二十一日、享年六十二歳。大師の入定と同じ歳と月日に「唯頼め、みなかなえんとちかいせし、我らは天にのぼる身なれば」との辞世を残して、金龍寺前の石室に入定した。
 五十六億七千万年後の弥陀菩薩の出現を待って入定した弘法大師同様、総社における入定留身の信仰の原点を垣間見る思いがする。

年中行事

1月第2日曜日 初護摩供 9月 秋彼岸会
3月 春彼岸会 12月 除夜の鐘
8月 盂蘭盆