日照山 戒光寺(総社市三須1486-2)

本尊 薬師如来

中興開山 増吽僧正

密教隆盛ぶり伝える老樹

 第二十一番明光寺の東側に位置する日照山戒光寺も二十二番萬福寺の山澤心堯住職が兼務している。同寺は山裾に建っているが、本堂前の推定樹齢四百年を数えるという老樹の「コウヤマキ」(幹の太さ約2.9メートル、高さ約十七メートル)が、かつての周辺地域の密教隆盛ぶりを象徴している。
 戒光寺の寺歴も詳らかではない。『都窪郡史』によると同じ地域にある明光寺同様「日照山戒光寺は三須村大字三須字寺山にあり、真言宗、国分寺末、本尊薬師如来、應永六(1399)己卯四月僧正増吽創立、本堂梁三間、桁三間、庫裡あり」としか記されていない。おそらく、この地域一帯の寺院と同じように、讃岐・与田寺の増吽によって「日照山最勝院戒光寺」として再建され、今日に至っているものと思われる。また、宝暦年間(1751〜64)の国分寺の『本末取調書』にも、「開基不明、本尊釈迦牟尼如来、寺領壱町四反八畝、檀家数拾5軒」と記されている。ともあれ国分寺末として地元の信仰心に支えられて今日のその法燈を伝えた寺院であったことが窺える。
 同寺の状況を知るには、江戸時代に書かれたものと思われる『戒光寺文書』が唯一の手がかりである。これによると、史料は七つに分類され、善能和尚が寛政元年(1801)から享和元年(1801)までの諸事を三冊に分けて記しているが、その内一冊は現存しない。この史料から国分寺修復のために戒光寺が拠点とされていたことが窺える。
 また、時の住職である教融が記した嘉永六年(1853)から安政三年(1856)までの「諸願寺役記」を見ると、江戸・熊野田役所の重役に年賀状や祈祷札を献上していたことが窺え、また嘉永六年の「異国船追い払い祈祷の覚え」などから、相当な格式をもって祈願など仏事を行っていたようである。
 さらに戒光寺の「年中行事記事」も残されている。これによると本寺である国分寺の「御影供」や「光明会」「常楽会」などの出仕状況が記されており、当時の真言密教の隆盛ぶりを窺わせる。
 一方、国分寺の客伝の襖絵「風流陣図」を描いたことで知られる明治中期の画家・矢部楳山(1849〜85)は、この戒光寺に居住し、周辺の寺院の仏画補修にじゅうじしている。このことからも、同寺は国分寺を中心とする総社の密教寺院の隆盛ぶりを伝える貴重な寺院である。

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より