宝福寺(総社市井尻野1968)

山門

 総社市内を抜けて堪井に出る。そこより道を東に約1キロ、JR伯備線の手前を北に山道を行くと秋葉山山麗に、画聖雪舟ゆかりの名刹井山宝福寺がある。
 当寺の歴史は古い。寺伝によると、もと天台宗の寺であったが。鎌倉時代中期、鈍庵のとき禅宗(臨済宗東福寺派)に改めた。鈍庵は経と東福寺の開山聖一国師の弟子であったので、国師を招じて当山第一世にしたという。しかし、これは名目だけで、実際は鈍庵が改宗し、第一世住職として活やくした。それ以後、代々の住職に名僧がついたので、寺運は隆昌の一途をたどり、最盛期には東西一八町、南北二十町の広大な寺域に、六十余坊が立ち並び、井山の谷は大禅林を形成していた。
 いまでは、いまでは、本寺の宝福寺と般若院(はんにゃいん)とうい塔中(たっちゅう)があるだけで昔の面影はみられない。これは戦国末期の備中兵乱のとき、戦火にあって三重塔をのぞき、すべての堂宇を焼失した。その後寺の再建はしばらくできなかったが、江戸中期以降に建てられたもの。山門・仏殿・方丈・庫裡・禅堂・鐘楼・経蔵など禅宗様七堂伽藍をしだいに完備していった。

仏殿

 現在の諸伽藍と関係はないが、雪舟等揚の若き日、この寺の小僧として修行中、絵ばかりかいていたので、住職は雪舟を本堂の柱にしばりつけた。雪舟は流れる涙を足にとめてかいた鼠が、動き出して雪舟をしばっていた縄をくいちぎったという伝説は、あまりにも有名である。この話は後年雪舟の偉大さをあらわすためにつくられたものであろう。
 由緒あるこの寺には、多くの指定文化財がある。まず、ここを訪れていちばんに目に映ずるのは、丹と白の色采あでやかな三重塔(国指定)である。寺伝によると、鎌倉時代の執権北条時頼が全国行脚のときこの寺にたちよって寄進したと記しているが、永和二年(1376)の銘文が発見された。これにより南北朝時代の創建ということになる。また、仏画に「絹本著色地蔵菩薩像」(国指定)と「絹本著色十王像」(国指定)とがある。前者は室町時代初期の製作と思われ、後者は中国の明時代の周東村の作といわれる。
 また、余韻の美しい梵鐘(県指定)は、銘文によると応仁二年(1468)に熊山霊仙寺のために寄進されたものであることがわかる。

三重塔

 寺域に「雪舟顕彰碑」がある。建立年代は昭和初頭で、巨大な黒曜石の表面をみがいたみごとなもので、上部に雪舟の画と雪舟の自画像、その下の撰文は吉備津神社神官で国学者の藤井高尚、万葉仮名の書は頼山陽という豪華版である。さらに刻んだ人は田鶴年という当寺の最高の石工。仏殿の中央の鏡天井には、画僧・鰲山(当寺から出て庭瀬松林寺住職になった)がかいた竜がある。この竜が夜な夜な近くの白蓮池に水を飲みに抜けでるために、鳴動して人々を恐れさせたのでこれを防ぐために竜の目に釘を打ちつけたという。

万丈

 古寺であるだけに、伝説や文化財が多く残っている。

              市川俊介著『岡山の神社仏閣』より