石井山 宝林寺(総社市清音古池174)

本尊 聖観世音菩薩

開基 元和二年祐誉法印

中興後、二十世に亘り法燈を護り現代に

 倉敷市から県道清音線を総社市方面へ向かって進むと、高梁川沿いにJR伯備線と平行して走る。大きなカーブを過ぎると、右手に三十戸余りの集落が見えるが、その一段上の山裾に石井山宝林寺がある。中興から数えて現在の住職は第二十世となるが、この間、三百七十七年の星霜を数えながらも現代にその法燈を伝えている。
 山裾の小さな集落を見守るように建つ同寺だが、白い塀が回り、立派な山門へと続く苔むした石段の一段一段が歴史の重みを感じさせる。
 開基は不詳であるが、『備中誌』などによると京都・仁和寺の末であったと記されている。この寺の歴史が明確になるのは、元和二年(1616)、祐誉法印による中興以後である。当時は客殿(梁行五間半、桁行七間)、庫裡などがあった。
 また、『備中誌』には、寛延三年(1750)七月の書上(中興から第三世)が記載されている。これによると、かつて古地の城主・石井中務丞同孫次郎、同四郎六波羅陣北条仲時に従って江州番場に討死し菩提所とし墓所があったが、今はなく、同寺の「石井山」の山号がその名をとどめている。
 また、書上には当時、住坊、阿弥陀堂、地蔵堂、観音堂などがあり、堂々とした結構を整えていたことが記録されている。天保年間(1830〜44)には、高徳の恵琳僧都が本堂を新築、客殿と庫裡の修復、さらに回廊を増築し輪奐の美を整え、伝燈の教化一山に満つる盛況をなしている。
 しかし、明治五年二月一日の朝、周辺の火災の類焼遭い、伽藍は悉く灰燼に帰した。その後、明治維新の国内政情不安により復興ならず、四十数年間に亘って住職が交代、一時は無住の状態もあったという。
 明治四十一年十一月、木村実重僧都が住して、十方の檀徒の門を叩き浄財を集めて、現在の姿に修復。昭和四年四月、現在は名誉住職の福家義純僧正がこれを受け継ぎ、さらに光章住職へと法燈が伝えられ、今日に至っている。

『高野山真言宗備中寺院めぐり』より