弘法寺(瀬戸内市牛窓町千手)

 岡山から牛窓に向かって県道を行くと、右側の山あいに二層の堂々とした構えの山門(仁王門)が、ぽつんと建っている。よく見ると、左側には「千手山(せんずさん)弘法寺」と彫った石柱が立っており、ここが有名な弘法寺参道の入り口であることがわかる。
 弘法寺の歴史は古い。天智天皇の勅願によってでき、千手(せんず)と名づけた。養老年中(717〜723)(717〜723)雷火によって仏閣僧坊のすべてを焼失し、のち報恩大師が備前四十八カ寺の一つとして、興法寺として再興された。祖の興法寺は四十八坊の偉容を誇っていたといわれるが、また雷火で焼けてしまい、弘法大師が大同二年(807)当山に方三丈の堂を建立し、自ら千手観音像をきざんで安置したので、寺号も千手山弘法寺といわれるようになったと寺伝に記している。
 現在、山頂に類焼をまぬがれた堂行堂と御影堂、山麓に大門と十王地蔵堂がある。残った塔中の遍妙院、東寿院はそれぞれ独立法人になっている。

山門 遍明院 遍明院

 当山のもっとも栄えたのは、鎌倉時代から南北朝時代にかけてのことと考えられる。そのころも朝廷の祈願所であり、後醍醐天皇論旨の写しなどもある。観応元年(1350)足利尊氏は西下して備前国福岡(邑久郡長船町福岡)に滞陣し、弘法寺に戦捷祈願をした。「足利尊氏御教書(みきょうしょ)」(県重文)にそえて、「藍革肩白腹巻(あいかたしろはらまき)」(国重文)「太刀銘備州長船盛光」(国重文)を供えた。当時は寺僧七十五人いたことが弘法寺衆徒等連署置文に記しているところからも寺勢の盛んなことがわかる。
 なお、当寺は和名抄の備前国邑久郡邑久郷にあり、中世には豊原荘に属していた。この荘は皇室の荘園で、後白河上皇の御領であったこともあり、当寺東寿院持仏堂の本尊「阿弥陀如来立像」(国重文)は、名工快慶の作であり、開眼供養は吉永宮前大僧正御房真性の手によった。
この真性は延暦寺の座主であり、後白河院の孫以王の子息である。
 世がくだり戦国の世になると、備前、美作と備中の東半を領有した大領主宇喜多氏は、この豊原庄の土豪から身をおこしたので、当寺との関係が深く、宇喜多秀家は寺領百十石を寄進している。この寺領高は金山寺につぐ多額のもので県内第二の額である。
 江戸期に入ると、岡山藩主池田氏の信仰も厚く、池田光政の寛文六年(1666)寺院淘汰のときも、一坊も廃止されなかった。さらに遍明院には「お成りの間」と伝えられている部屋があり、藩主のご参詣もあった。
 当寺の本坊は遍明院で、多くの塔頭の中心的立場にあり、一山の長老が院主となった。明治初年には四院あったが、現在は遍明院と東寿院だけになった。
 本坊遍明院の本尊は「五智如来」(国重文)で、中心の仏木造大日如来坐像は典型的な藤原後期の作で、密教の官能的な表情がただよっている。また東寿院にも名工快慶の銘がある「木造阿弥陀如来坐像」(国重文)がある。鎌倉時代の力強い快慶派の特色をよく示している。
 この寺の名物は、毎年五月五日に行われていた練供養(ねりくよう)である。昔から大和の当麻寺(たいまじ)、美作誕生寺とこの弘法寺の行事が、天下の三大練供養といわれていた。ここでは、大観音菩薩に奉持された中将姫が、阿弥陀堂前に立つ迎え仏のまねきによて、極楽浄土である阿弥陀堂へ導かれるようになっている。この行事は報恩大師が始めた(寂然上人記録)とか、弘法大師から始まる(片岡八幡宮通夜物語)とかいわれるが、千手寺の古文書では鎌倉期に如法経行道として行われたと記している。
 この伝統ある行事は、昭和四十二年に弘法寺本堂・普賢堂・鐘楼・多宝塔などの重要な文化財を焼失したときから、とりやめとなった。

市川俊介著『岡山の神社仏閣』より