本蓮寺(瀬戸内市牛窓町3194)

山門

 この寺は、町並みの背骨にあたる万壷山の南の端にあたり、たてこんだ漁師町をすぐ下に見おろす高台にある。
 牛窓は、神功皇后が三韓征伐のとき、軍隊が沖を通っていたところ、どうしたことか牛がころんだというところからおこった地名だといわれ、古くから内海の要港として開けていた。
 この港に日蓮宗の寺ができたのは、元弘(1331〜1333)ごろ、京都妙顕寺の二世妙実(大覚大僧正)が西国に下向する途中、海路牛窓にたち寄って法華堂を建てたのがはじめだといわれている。のち、永享年間(1429〜1440)、本門法華宗(八品派)の祖といわれる京都本能寺の日隆は、布教のため近畿、四国、備前、備中をまわり、数多くの遺跡を残したが、とりわけ備前に力を入れ、直弟子日暁を派して布教に当らせた。日暁は熱心な態度で布教したので、牛窓の豪族石原但馬守道高が帰依し、すすんで開基大檀那になった。そこで、信者になるものが続出し、やがて日隆もこの地にくだり、法華堂を”経王山本蓮寺”と命名する。

中門

 道高は、二男愛千代丸を日隆の弟子として出家させた。彼は修業して、法名を蓮像院日澄と号し、日隆についで当寺の二世となった。当寺本堂(国指定)は、日澄が兄石原修理亮伊俊と協力して、名応元年(1492)に建立した。たてこんだ町並みを折れて石段をあがれば総門、境内には、本堂を中心に客殿、祖師堂、三重塔、鐘楼、両祖廟などが散在している。本堂の円柱の外側のものは、柱をけずりとりせんじて飲むと歯痛がとまるという伝えで、けずられている。
 江戸時代には、内海を通る賓客の仰接に、この寺が使われた。特に、朝鮮の国使が宿泊するための客殿は立派である。境内からは、波静かな瀬戸内の海をへだてて、小豆島の美しい島影や遠く四国の連山も展望できる。
                              市川俊介著『岡山の神社仏閣』より

本堂 祖師堂 両祖御廟
三重塔 鐘楼 鬼子母神堂