本住山 実教寺(赤磐郡瀬戸町鍛冶屋1504)

本尊 十界

縁起
 鍛冶屋王子ヶ端にある日蓮宗寺院で、もと邑久福岡村にあったが、明治三十七年(1904)現在地に移転した。南北朝時代大覚大僧正の開基と伝えている。境内に開祖大覚大僧正と陰刻された方柱碑があり、この石碑の礎石は大覚の腰掛け石と呼ばれ、大覚がかつて邑久郡福岡村へ巡錫の時、この石に腰掛けて布教されたと伝えている。この碑は嘉永二年(1849)の建立であるが本堂とともに福岡の地より移されたものである。
 実教寺の歴史を物語る古文書の類は全く現存せず、中世におけるこの寺の消息は不明である。ただ当寺の四十七世である真鏡院日大による「旧記の聞書」が佐伯の本久寺に保存されているので、それにより当時の歴史をうかがって見よう。なお日大は明治三十七年当寺が福岡より現在地に移転した時の住職であり、本久寺住職を兼ねていたが、のちに本久寺住職となった人である。
 文明十六年(1484)松田元成は兵をおこして邑久郡福岡の城を攻めた。この福岡合戦によって兵火をうけて一山悉く焼き尽くした。長享年間(1487〜1488)邑久郡の豪族朝倉・馬場氏等が大いに復興に力を注ぎ、本寺及び子院五ヶ院を再建した。寛永九年(1632)十一月火災によって堂宇を失い、妙興寺に身を寄せわずかに一院を構えて法灯を守った。正保元年(1644)藩主光政に請い、旧地の十分の一をもって再興を許された。
 宝永六年(1709)十二月、民家の火災から類焼し一山焼亡した。二十五世了学院日憲復興につとめ旧観に復した。文化七年(1810)四月本堂を建立したが、この本願主は磐梨郡坂根村の大庄屋左近休兵衛で、この入用三六貫目を左近氏の寄付によった。なおこの時の檀家は二百五十戸であったという。
 明治四年(1871)五月十七日吉井川堤防の決潰により、庫裏・土蔵・鎮守堂・開山堂・大門などを流失した。以来、新政府による寺領の上知などのためしだいに衰微した。明治十二年(1879)伽藍擁護の上から二派に分かれ、その一派は太田村尾坂に民舎一戸を買い、私に実教寺出張所と号した。このため両派は法廷に争う結果となったが両派共に失態に終わり、このとき什器田畑等悉く売却され、住職も逃亡し同十七年より二十三年六月まで無住となった。
 二十数年にわたる軋轢を一掃して明治三十七年四月十七日現在地への移転を完了した。
   本願主 鍛冶屋 片山猪三郎 石井元八 羽原増次郎
   坂  根 戸田虎三
   客殿建立 明治二十五年八月二十五日
   宅地    三反歩寄附 石井元八
    〃     三畝歩寄附 大山吉五郎
   台所建立 明治二十六年十二月
   長屋建立 〃  三十一年九月
 以上が真鏡院日大による「実教寺旧記の開書」(明治三十九年十月一日記)の概要である。
 池田家文庫留帳の承応三年(1654)十二月十三日の頃に、次のような記載がある。「邑久郡福岡村実教寺に御褒美のため給米五石を下賜さる。是は実教寺が平常慈悲の行事あり、且この度乞食を憐み養いて一入奇特なる義これある由御耳に達し、蓮昌寺の末寺故蓮昌寺召連れ登城致す可き旨仰付られ、則ち御前へ召し出され、その後御料理を下され且左の如き御折紙を下さる」というので、この折紙は現在妙興寺に保存されている。その全文は『東備郡村誌』『赤磐郡誌』に記載されており、実教寺住職是要の慈悲の行事に対する藩主光政の賞詞である。また明治四年の寺領取調帳によれば、実教寺は福岡村のうち三石七斗五升、妙興寺は三石四斗二合の寺領を所有していたことがあきらかである。
 本堂の建築については、前述の通り福岡より移築されたため、その時大きな修理の手が加えられ、その後にも修理・改造の手が加えられている。桁行・梁間共三間(七・八〇メートル)で入母屋造本瓦葺で一間の向拝を附す。軒は二重半繁椎とし、軒下の組物は出三斗、中備は間斗束と質素である。天井は内外陣共竿緑天井(後補)で外陣は畳敷、内陣は拭板敷としたその奥に本尊十界の諸物を安置する。大棟両端の鬼瓦に「文化七年四月久志良村藤原忠蔵」の銘があり、前述の「旧記の聞書」の記載及び建築の様式からいって文化七年の建立に相違ないものと思われる。
 実教寺が京都妙覚寺の末寺でありながら寛文年間の寺院淘汰の対象とならず破却をまぬがれたのは、日蓮宗不受不施派が禁制となった時点で受布施に転校したためである。

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