中津山 願興寺(赤磐郡瀬戸町肩背728)

本尊 千手観世音菩薩

縁起
 願興寺は孝謙天皇の勅願による備前四十八ヶ寺の中の一寺として報恩大師によって開かれたと伝えている。
 報恩が備前四十八ヶ寺を建立したころの日本の仏教は、まだ天台宗も真言宗も伝えられていなかったから、その宗旨はいわゆる南都六宗のうちのいずれかであったであろう。事実四十八ヶ寺の伝承をもつ寺の中には、法相宗や三輪宗であったと伝えている寺も数多くある。願興寺もいつのころか天台宗に改宗したものであろう。
 願興寺は創建以来鎌倉中期ごろまでの消息は全く不明である。相次ぐ火災によって記録が失われたものであろう。それ以後についても、元禄四年(1691)、大乗院秀伝による「備之前州磐梨郡中津山願興寺記」によってわずかに往時をしのび得るにすぎない。それによれば、建長年間(1249〜1255)本尊千手観音を盗まれたが、安阿弥(快慶)作の千手観音を入手して本尊とした。建武年中(1334〜1337)寺領四十斛を減ぜられ、康正年中(1455〜1456)には堂塔零落すとある。さらに明応元年(1492)兵火によって一山悉く焦土と化し、こ時本尊は大内村の光泉寺に難を避けたという。大永年中(1521〜1527)地頭によって寺領六十斛を取り上げられたが、高尾城主周藤飛騨守によって寺領二十斛が寄進された。天正年間(1573〜1591)、本堂が破壊したため本尊を僧舎に移した。堂塔は荒れるに任せていたが、文禄・慶長のころ豪円僧正によって堂宇の修復がなされた。豪円は永禄十一年(1568)金山寺の住職となり、慶長八年、比叡山正覚院に移った人で、金山寺に在住中、金山寺をはじめ末寺に至るまでその復興に力を尽くした。
 豪円の力で修復した願興寺の堂宇も、五十年余り後、明暦元年(1655)再び火災のため鳥有に帰し、代々の記録文書を焼失した。その後復興も出来ないまま、寛文六年(1666)池田光政の宗教政策によって廃寺となり、その年の秋には本尊を盗まれた。
 池田光政が寛文六年に行った寺院破却に当たって、公然と抵抗したのが金山寺である。寛文七年備前の天台宗中本山であり上野寛永寺の直末寺である金山寺は、本寺寛永寺に対して訴状を出した。それによれば、金山寺末寺の多くが、光政により破却、還俗を強いられていること、仏事・作善の停止を命ぜられたこと、また還俗僧侶がそのまま寺に居つき、寺で妻女と生活をしてもよいとされたことなど、光政の政策が幕府の仏法保護政策を批判するものであるという趣旨であった。寛永寺は門跡寺院の権式をもって幕府にはたらきかけた。幕府の寺社奉行は止むを得ず光政に対して事実の有無の調査を命じた。それに対して光政は次のように返答した。それによると、金山寺の申立てているような事実はなく、岡山藩領内での僧侶の還俗はむしろ寺院自体が、その経営不振から脱却するため、本人たちの意思でなされていること、一方、民衆の仏教から神道への転換にしても、藩から強要したものではなく、民衆の意志によるものであることなどであった。これに対し金山寺は、幕府の方策である寺請制度を全面的に否定して神道請にしたこと、そのため領内寺院の檀家が寺をはなれてしまったこと、さらに多くの僧侶が藩から還俗を強制されていること、特に神官になれば今までどおり寺の建物を残し、そこでの生活を保障するなど、その不当性を追及してやまなかった。さらに民衆の側としても、寺請が神道請にかわっても、僧侶が神官になっているので特別な意味がないこともあげて、破却寺院の復活を迫った。
 金山寺の強硬な申入れをうけた日光門跡の再三の働かけにより、幕府もやむなく岡山藩に対して天台宗末寺の破却処分の撤回をせまった。その結果、備前三十五か寺は金山寺へ、備中十九か寺は明王院にそれぞれ返されることになった。
 寛文六年いったん廃寺となった願興寺が復活を許されたのは寛文九年(1669)のことであり、このとき大乗院と大円坊が再興され、のちに大円坊は光明院と称した。延宝七年(1679)七月十日大風のため、本堂・仁王門とも倒壊した。貞享四年(1687)になって、さきに盗まれた本尊が岡山の大雲寺にまつられていることがわかり、大雲寺より返却された。このことについては、願興寺文書の中に肩背村が給地の藩士村上金助(四百石番頭)差出の手紙があり、この侍が大雲寺と懇意であったため、本尊返却について仲介の労をとったことが
る。
 池田家文庫元禄元年の留帳によれば、去る年寛永寺跡の頼みにより願興寺・元恩寺は再興されたが、二寺とも堂宇を失っているので、当時、明寺になっていた宗堂村の妙泉寺の本堂を元恩寺へ、客殿と仁王を願興寺へ、梵鐘は金山寺へ貰い受けたいと、金山寺役者修善坊常教院から藩へ願い出、その通り許可されたとある。また元禄七年の留帳には、元禄年間に妙泉寺の客殿と仁王を拝領し、本堂はこの明寺をもって建立したが貧寺であるため仁王門の建立は出来なかったので、このたび一間半に三間の仁王門を建立し拝領の仁王を安置したいという願書が願興寺より藩へ差出され許可されている。
 願興寺文書の中に元禄二年(1689)大乗院秀伝による「中津山願興寺本堂建立の事」という文書があるが、この元禄二年に建立されたのが妙泉寺の客殿を移築したもので、現在の庫裏と考えられる。また宝暦五年(1755)の願興寺記によれば、三重塔・毘沙門堂があったことが記され、往古は僧舎も十五坊を数えたといい、大乗院・法性院・多宝坊・泉蔵坊・光明院・大円坊・常住坊・無動院・法動院・西明坊・中蔵坊・E栄坊・
外三院があったが、その創建・退転など詳細については全く不明であると伝えるが、附近の地名に西如坊・大乗谷・赤井などがあり、塔の段という屋敷跡が残っている。
 現在の本堂は享和二年(1802)、大乗院賢忠・光明院祐憲によって建立されたものである。桁行三間(10メートル)梁間四間(10メートル)で入母屋造本瓦葺とする。軒は二重繁Dとし和様出組の斗Cをもって軒桁を受け支輪を架す。中備に花鳥・動物の彫刻のある蟇股を置き、一間の向拝を附す。回縁をめぐらすが正面一間を吹放しの外陣にしつらえている。外陣の天井は鏡天井とし彩色の竜を画く。天井板を少しずつずして絵柄に喰い違いをつくっている。竜が夜な夜な水を飲みにでるので、それを封ずるため天井板をずらして打ちかえたという伝説があり、文政三年沙門有隣筆の銘が見られる。内陣は外側三方を畳敷とし、内側を一段低く拭板敷とし中央奥に和様三手先斗Cの宮殿をしつらえ、その中の厨子に本尊の千手千眼観世音菩薩像を安置する。天井は格天井で各格間には人物・花鳥・仏容・その他を極彩色で画き、これも外陣の竜と同じく文政三年有隣の手になるものである。記録によればこの天井画の結縁者の連名一巻が厨子の中に納められているとあるが、現在は不明である。

寺宝・文化財
・仁王門
 
桁行三間(五メートル)梁間二間(3.05メートル)入母屋造り本瓦葺一重半繁Dとし組物は出三斗組で中央の間に蟇股を置いた三間一戸の八脚門で仁王を安置し、柱は全て面取方柱としている。この門の建立年については、「寛永三歳岩生郡大井村山名清兵衛建立仁王門」の文書があるので、前述の延宝七年(1679)の大風によって倒壊したのはこの門であり、その後元禄七年(1964)のころに再建されたものと思われる。しかし宝暦五年(1755)の「願興寺記」によれば、当寺の門が三間に七尺の大きさであったことが明らかであるから、現在の仁王門とは異なっており、また建築様式から見ても十八世紀末期のものと見られるので、宝暦五年に存在した門は何かの理由でまもなく再建されたとみるのが順当であろう。