竜峰山 清泰院 (岡山市浦安本町28)

本尊 釈迦如来

縁起
 竜峰山清泰院は釈迦如来を本尊とする臨済宗の寺院で、戦後まで小橋町の国清寺の西隣にあったが、都市計画などのため昭和三十九年に浦安に移転した。
 同寺は旧鳥取城主池田家の家祖池田忠継(法号・竜峰寺殿)の廟と、堂二代忠雄(法号・清泰院殿)の墓所をまつるために設けたもので、山号と寺号は二人の法号によっている。
 忠継は小早川氏断絶ののち、備前一国を領し岡山城主となったが元和元年二月岡山城に死去し、遺骸は小橋町の法源寺の境内に葬り、法号に因んで法源寺を竜峰寺と改め、廟の近くには『見桃庵』を建てて守らせた。忠継の跡をついで弟の忠雄が岡山城主となったが、寛永九年四月江戸で死亡、遺骸は岡山に運んで竜峰寺境内に葬り、墓所の南隣に『伴松庵』を設けて供養させた。
 ついで同年八月の国替えで忠雄の嗣子光仲は鳥取移り、鳥取から池田光政が岡山に帰ってきた。このとき光政は鳥取城下にあった祖父輝政の菩提寺『国清寺』の寺号を岡山市に移し、竜峰寺を国清寺と改め輝政ならびに父利隆の菩提寺とした。
 慶安四年(1651)、見桃、伴松の二庵を併せて法源院を創立、臨済宗妙心寺派の精舎とし、ついで明暦二年(1656)鳥取城主池田光仲の命により精泰院と改称、この寺に要する経費は一切鳥取の池田家が支弁した。六また近くの花畑には鳥取から派遣された番士がいて、長屋があり、多いときには十五、六人の番士がいて、昼夜交替で墓所の守衛にあたり、明治維新まで続いた。
 明治十年ごろ清泰院の長屋や付属地は寺の所有になったが、鳥取池田家からは給与が来なくなり、忠継廟と忠雄墓所を守りながら窮乏の生活を送った。太平洋戦争終了後はいよいよ寺の維持に困り、昭和二十三年に花畑の番士長屋跡三五六坪を売却して維持基金をつくった。ついで都市計画ならびに国道二号線の新京橋通過による道路敷に二八〇坪を無償で割き、寺院の移転のさい六五〇坪を市へ売却、あとに宅地一五〇坪を残すだけとなった。
 浦安に移った泰清院はもとの本堂を南面して建て、寺院と庫裡を新築、山門はもとの一畑薬師堂を移して改造したもの。このうち本堂は承応二年(1653)に建築した五間四面(柱間)の堂で、入母屋造本瓦葺とし、内陣の正面に仏壇を設け、その傍らには鳥取城主などの参詣のとき使用したお成りの間がつくってある。