平医山 円覚寺 薬師院(岡山市磨屋町2-18)

本尊 薬師如来

縁起

真言宗多聞院派の寺で戦災前は磨屋町の一郭に1155坪の寺地を有し、五間六面の本堂と上道郡沼城の書院を移した客殿をはじめ、庫裡・経蔵・茶堂・仁王門・護摩堂・祖師堂・観音堂・如意輪堂・十一面堂・弁天堂・山門など多くの堂宇が群をなし、旧市域における真言宗の寺院中第一の伽藍であった。また往時は寺中に惣福寺・正善寺・安楽院・弥勒院・不動院・金剛寺・吉祥院・法厳院・明星院・明王院など十指を屈する塔頭を擁していたというからその盛時もしのばれる。もっとも塔頭諸院は漸次廃合を行い、金剛寺と明王院、法厳院、地蔵院とが残ったが、明王院ほか二院を明治四十五年に金剛寺に合併し、別項のように塔頭をはなれて独立した。

本尊薬師如来は高さ1.70メートル金銅製の立像で後に付記する「岡山平医山略縁起」にあるように、むかし上道郡平井沖の海中から漁夫の網にかかって引揚げられたものと伝え、以前は山号を平井山と称したと云われる。
備陽記に「此寺古は御野郡円覚村に有之由岡山繁昌に付此処へ引たると云ふ」とあって、現在市域になっている旧福浜村字円覚にこのこの寺があったとし、また和気絹には「平医さん円覚寺薬師院、磨屋町、昔当時本尊海上に光あり、円かくといふ所より上る故」と本尊の揚陸の地を円覚とし、これに因んだ寺号のように解釈している。大伽藍であるだけに、その旧地がいろいろ議論されて来たが、旧版市史に「その創建の地は明かなざるも、南方に移転と共に徳光寺(寛永の頃)と改め、更に現地に移転して現号に改めたるもの如し、寺領三十七石なり」と見えるのが真に近いようである。
なお、金山寺編照院所蔵の文禄四年十二月吉日、宇喜多秀家在判「備前国四拾八ヶ寺領並分国中大社領目録」の四十八ヶ寺外寄付寺領の条に[徳光寺弐拾石」と記してあるから、徳光寺の寺号は寛永以前からあったことがわかる。
岡山市が空襲を受けたとき伽藍は全焼、本尊薬師如来の金剛仏は防空壕に非難させてようやく無事なるを得た。しかし戦後の復興が大変で、昭和二十一年四月に現在の柳川ロータリーになっている一部に仮堂を建てて本尊を安置し、ついで二十二年十一月に現在の位置に切妻造桟瓦葺の本堂を建て、二十四年に庫裡を再建して寺院の形をつくった。しかし北と東の両面を都市計画のために削られ、寺領は戦災前の三分一に近い約400坪(約1320平方メートル)に縮小した。つぎに等身大の金剛仏の本尊はその由来が児島湾干拓史の傍証的史料にもなるので、「備陽記」所載の縁起を次に揚げておく。
  岡山平医山略縁起
抑当寺平医山円覚寺造立の由来を尋るに、昔当国平井の沖に一つの大なる光物有て西方より飛来、其光照渡りしに諸人是をあやしみ船をうかべて網を海中に下しければ網にかかりたる物あり、則是をみれば薬師如来の金像其長五尺六寸、光明赫々として引き上げ奉る。何方より来り給ふと云事をはかりしる人なかりしに、いづくともなく独の怪しき人来りて告て曰く、此尊像は昔釈尊天竺摩伽陀国に於てみづから閻浮檀金を以て七仏薬師の像を造りたまひし内の一つ也。今此土の衆生を化導したすけ給はんため来現したまふ也と云終て其形消すが如くにかくれ失せぬ。是より国人信心を発し敬ひたっとびて一堂を荘厳し此像を安置し奉る則円覚寺これ也。(中略、薬師経の功徳を述べてある)今此寺にまふでくる人まさしく東方瑠璃世界に至り得たる心地して信心をこらし祈念せば金仏則真仏にして衆病悉除の大誓願を蒙り、現当二世心身安穏の楽を請けよろこばんこと何の疑かこれあらむ。元和六年寛永十八年両度仁和寺法務親王令旨を其時の往持僧に給はり先件の諸事を感じ給ひ、後代の鏡としたまふ(後略)。