金光山 岡山寺(岡山市磨屋町5-5)

本尊 阿弥陀如来・千手観音・釈迦如来

縁起


 金光山岡山寺は阿弥陀如来・千手観音・釈迦如来を本尊とする天台宗の寺院で、「備陽記」によると、天平勝宝元年報恩大師が勅命を奉じて四十八カ寺を開いたとき第二番に創立したのがこの寺で、ついで六十二代村上天皇天暦年中に信源上人重ねて七堂伽藍を再興した。本堂七間四面千手千体を本尊と崇め、常行堂は5間四面普賢菩薩を安置、鎮守は山王廿一社と護法天等をまつると伝えている。しかし中世以前は今の内山下にあったとし、やはり「備陽記」につぎのように金光山の由来を述べている、ただし、この一節は今村宮の社記の一節と同型の美文で綴ったものである。
 (前略)昔此寺は今岡山之城二之郭之内に有之と云、其時の景、東は大河漫々と流れ弘誓の深を顕す、南は平砂渺々として功徳を表す、西は園広々として民屋軒を並べ、北は霊社嶽々として和光同塵の月闇夜を照らす、霊神遊化の巷日映地暖にして天龍棲所の堺卉花撫月光を播す、故に金光山と名付ると云へり。岡山の地主万機帰依の雄尊也

金光山の由来については異説があり、同じ「備陽記」の岡山寺観世音由来記によると、天平勝宝のむかし、から川という所に金光某という殺生を好む武士が住み、岡山返に出て鹿の通路をさぐっている間に、偶然地中から千手観音を発掘してにわかに発心、観音堂を建てたのに起因すると、観音霊験記を引用している。
 何れにしてもはじめ岡山城二ノ郭にあったが、天正元年(1573)宇喜多直家が岡山に入城して城郭を修築するにあたり、寺を城西に移し、天正十八年宇喜多秀家のときに山崎町に移転、さらに慶長六年小早川秀秋が現在の磨屋町に移したという寺記は信ずべきで、城下町整備の進行状況を知ることのできる史料の一つである。
 この寺は入母屋造の本堂のほか如来堂、三王堂、客殿、庫裡などがあった、昭和二十年の空襲のとき全焼、わずかに本尊その他を避難させたにすぎなかった。現在の堂宇は戦後のもので未だ仮堂の域を出でず、寺域も都市計画によって狭められた。
  清鏡寺 寺中に清鏡寺(本尊毘沙門天)、本住院、一乗院、徳元院があったが、清鏡寺だけ残して他は昭和六年に合併、清鏡寺は戦災で焼けたあと、同じ位置に再興した。