仏住山 蓮昌寺(岡山市田町1丁目4-12)

本尊 法華宝塔首題、多宝

縁起
蓮昌寺は岡山県下の寺院中もっとも大規模の伽藍を擁し、城下町の発展とともに栄えてきた日蓮宗の寺である。法華宝塔首題、多宝を本尊とし、桃山時代の建築にかかる七間八面(桁行八八尺梁間八三尺)の大本堂と室町時代に建てた三重塔ーともに国宝に指定されていたーをはじめ客殿、庫裡、仁王門、中門、鐘楼、二天門、蓬莱堂、祖師堂、護法堂、七面堂、茶堂、一丸堂(慶長十五年建築)千仏堂、摩利支天堂、多宝塔など多くの堂塔がたちならび、寺中に妙善院、林照院、不染院、実如院、本成院、覚善院(これら諸院は昭和十六年に本末分離して独立)などがあった。境内の面積四、二七四坪余(約一四、一〇四平方メートル)、これが空襲前まで続いた蓮昌寺の概観である。
蓮昌寺の縁起については諸説あり、『康永元年宗祖日蓮三世の法孫日像、西国弘通の砌松田左近将監元賢帰依にて、上道郡字御堂に仏住山蓮昌寺を創立、松田家より百二十石寄付』と寺記にあり、康永元年(一三四三)の創立を伝えているが、「備陽国志」では、正慶年中(一三三二〜一三三三)の創立を伝え、建武中興以前にさかのぼるものとしている。

備陽国志は寺僧の説として正慶の創立を掲げ、ついで天正年間宇喜多直家の再興したものであることを述べている、なお「吉備古今鑑」も蓮昌寺が榎馬場にあり、のちに森下に移し、また現在の地に移転したことを記し、和気絹(宝永六年編)もすでに同様の移転経過をしるし、なお御堂屋鋪については「森下町の東裏、仏住山蓮昌寺中頃此所に有りその跡故御堂屋敷といふ今桃木植」と解説してある。
蓮昌寺が外濠の外に移されたのは慶長六、七年の頃で、宇喜多氏が滅亡し、そのあとに入城した小早川秀秋が外濠(いわゆる二十日濠)を掘り、郭外に寺院を配置した時の計画工事により。和気絹にも「仏住山蓮昌寺、金吾中納言より今の寺屋敷寄付」と見える。
同寺ははじめ蓮台寺と称したが、金山城主松田左近将監元喬の法名蓮昌院殿秀哲日妙大居士に因み蓮昌寺と改めたと云われる。天正年中宇喜多直家が寺領三百石を寄進し、慶長年中小早川秀家が五百石に加増、寛永九年池田光政が入国してのちも寺領は先規に準じ、寺中四十八刹を数える隆盛をきわめた。諸説を総合して、同寺が松田氏によってはじめられ、爾後宇喜多、小早川、池田と代々の領主の庇護のもとに大世帯を維持して来たことに間違いなく、桃山時代の建築として国宝に指定された巨大な本堂は、おそらく慶長六,七年のころ、森下から現在の地に移転して来た当時の再建であったと考えられる。また室町時代の建築として国宝に指定されていた丹塗の三重塔は、森下から移転したとき共に引き越したものとされていたが、戦災後塔の基壇を取り壊したとき、床下に埋めた多数の一文銭が表れ、その中に「寛永通宝」が交じっていたことによって、慶長の移転説に疑問を生じてきた。
なお「備陽国志」によると、蓮昌寺は寛文年中不受不施派禁制に布令が出たとき、末寺や寺中に退転するものが多く、寺領を没収、寺地の一部を公収されるという危機に遭遇した。しかし元禄年中に第三十世日遙が藩に歎願して寺領六十弐石五斗七合を復し、元禄十一年五月備前国にある同宗二十カ寺の取締に任ずることになった。
こうした寺院関係は明治以後多数の変動があり、また寺中の諸院も昭和十六年に法規に従ってそれぞれ本末関係を離れて独立したが、しkしなお大寺院の風格は失わなかった。
昭和二十年六月の空襲では、付近一帯火の海と化し、さしもの大伽藍も一棟残さず全焼した。そして最後まで寺を護った住職高見慈悦もまた猛火の中に寺と運命を共にした。
戦災後は昭和二十四年に児島の常山にあった常山寺の本堂(四間七面入母屋造機瓦葺)を譲りうけて移築、これを本堂に当て、庫裡、山門、一丸堂をみつぎつぎに再建した。ついで鉄筋コンクリートで本堂の改築にかかり、四十二年末に竣功した。
こんどの本堂は関西建築事務所の設計、中国建設工業会社の施工になるもので、塀面約四〇〇平方メートルに建てられた二階建ての洋館、後部に本尊の大曼陀羅を掲げる塔が付属している。重層の鉄筋コンクリート建て本堂はまだ少ないが、これに冷暖房装置を施し、全国に類例のない本堂に仕上げたところに特色がある。

蓮昌寺塔頭六院

蓮昌寺の広い境内には明治年間まで七つの塔頭があった。何れも元禄三年(1690)の創建で七〇坪ないし、二〇〇坪程度の寺地を劃した小寺院の集まりであった。そのうち大乗院だけは明治三十八年八月に吉備郡穂井田村に移転し、戦災直前まで残ったのはつぎの六院である。

名称 堂宇 境内
妙善院 本堂、妙見堂 164.7坪
林照院 本堂、庫裡 147.0坪
不染院 本堂  69.5坪
実如院 本堂、日朝堂 112.8坪
本成院 本堂、日親堂 224.2坪
覚善院 本堂、聞法堂 108.7坪

これらの塔頭は戦後の宗教法人法を待たず、昭和十六年に施行された宗教団体法によってそれぞれ現状のままで本寺を離れて独立しており、ただ実如院だけが蓮昌寺に合併していた。
岡山が空襲を受けたとき蓮昌寺は全焼、こっれら旧塔頭もことごとく消失し、残ったのは妙善院と不染院の」共同の山門になっている薬医門が一棟だけであった。戦後になると蓮昌寺の境内14,100平方メートルは復興都頭五院の屋敷は都市計画の街路網が蓮昌寺の境内ふかく入りこんだので、全部旧境内の外に出てしまい、それぞれ市中の寺院となって再建され、あるいは他へ移して再興するものもあった。

寺宝・文化財