明光山 妙勝寺(岡山市船頭町69)

本尊 法華首題釈迦多宝四菩薩

縁起
 京都妙覚寺系の日蓮宗寺院である。当寺は京都妙顕寺二世妙実(大覚大僧正)が師命を受けて中国巡錫のときにこの地に留まり、法華堂を設けたのにはじまると伝え、妙実を開基にしている。当寺の「由緒書」に
 当山ハ人皇八十九代後村上天皇御宇興国三辛巳年大覚大僧正中国弘通ノ際当地ニ錫ヲ留メ給ヒシ時、後醍醐天皇勤仕ノ武士多田頼貞厚ク覚師ヲ請シ法ヲ聴カシム、阿比宿縁アリテカ頓ニ悟リ捨邪帰正信仰益々深ク遂ニ邸ヲ改メテ法華堂ト為ス、是レ当山ノ草創ナリ因テ大覚大僧正ヲ仰テ開祖トス。
初めは法華堂であったが、のちに独立した寺院になったもので、牛窓の本蓮寺なども法華堂から発展して寺になっている。しかし妙勝寺の場合は、ほど遠からぬ浜野に、大覚大僧正や多田頼貞と深い関係をもつ松寿寺があって、両者の間に争いを生じたり、南北朝の乱世が終るとやがて室町時代の不安な世相がつづき伽藍の建立も思うように運ばず、近世初頭まで法華堂のままで法灯を続け、宇喜田直家の岡山入城後に至って、寺院としての整備ができたようである。
江戸初期にこの寺が衰微して本山妙覚寺の直轄に移った事情の最大なるものに不受不施派禁制による弾圧がある。寛文年中この禁令にふれて追放に遭い、本寺である妙覚寺に寺を引き渡したのであろう。元禄十年の再興は不受不施を離れた日蓮宗の寺院として更生したもので、大林寺の場合と同じ経路をとっている。妙勝寺の末寺であった七日市の青林山円光寺も不受不施禁制によって追放となり、往持は立退き、寺は廃寺となった。
 妙勝寺と密接な関係のある能勢修理太夫頼吉の墓は同寺の境内にあり、豊鳥石製の五輪塔でかなり損傷しているが近世初頭のものとして間違いないようだ。鐘楼の南手にたけの高い豊島石製の大覚塔が立っており、これと並んでいるたけの低い五輪塔がそれである。宇喜田家分限帳(群書類従所収)に四百石能勢勝右衛門とあるのがこの頼吉であろうか。
 二日市に中世阿比という豪族が住み多田頼貞との関係も深く、また大覚大僧正に帰依して、自分の居舘を法華堂になおした、これが妙勝寺縁起にある法華堂で、現在の寺地はすべて阿比氏の屋敷跡と伝えられる。
 昭和二十年六月の空襲では、付近一帯焼夷弾の犠牲となり、妙勝寺の建物-本堂・客殿・書院・七面堂・法珠堂・毘沙門堂・鐘楼・山門-一棟残さず消失、残ったのは意思の大覚塔と能勢頼吉の墓塔と大銀杏一株だけであった。又本尊と重要文書、什器の一部を疎開して残した、戦後はこれを頼りに伽藍の再興にかかり、間もなく庫裡を建て、入母屋造の本堂を再建、昭和二十七年には西村多吉の寄進になる大鐘楼(欧文入りの平和の鐘)が成り、また山門も建てられた。そして三十三年に現在の本堂を建立、旧本堂(これも戦後の再建)を客殿に直して伽藍を整備した。
 本堂は消失した本堂の跡に建てたもで、五間六面入母屋造、総円柱、桟瓦葺の建物、東を正面にしている。