宝聚山 安楽院 上生院(岡山市桜橋4丁目3-2)

本尊 聖観音

縁起

聖観音を本尊とする真言宗の寺院であるが、草創は奈良時代に遡り備前国分寺の末寺として建てられたと云われる。寺伝に、「天平十年八月国守より赤坂郡高月村国分寺の僧に令して上道郡宇治郷網干の浦(今謂網浜)義冢山麓に一宇の寺を剏建せしめ義冢院と号し、国守任国の中に卒去ありしを義冢山に葬り当院をして事務を司らしむ。其の後当院破滅に及びしに、天平勝宝元年報恩大師備前四十八ヶ寺を創建せんが為に霊地を選ばんと国中を回歴するの時則此の網干浦に来りて当院の寺跡を感じて再興あり、応永二年寺号を安楽寺、山号を宝聚山と称し法相宗を改めて真言宗となす。康生二年六月当院造営大いに成る。天正元年宇喜多直家寺領として八町余の地を寄付す、舎弟忠家も一町余を寄進せり、小早川秀秋悉く没収す。元禄年中炎上、池田氏より寺領三石余を寄進せるが版籍奉還の時没収さる。」
現在の上生院は中途で今の地に移ったものであろうか、同寺から北へ約400メートルのところに網浜字堂屋敷という寺跡があり、弘徳学園が建っているが、この付近から奈良時代の布目瓦が多く出土する、寺伝の通り天平勝宝の草創とすると、この堂屋敷よりほかに適当な遺地が見当たらない。(市史古代編を参照)
同寺は昭和四年八月二十九日に出火、庫裡、客殿などを焼いたが間もなく再建し、又昭和十年には多宝塔(上・下層共方形)を建て、戦災後には本堂・客殿・庫裡・山門・多宝塔があった。昭和二十年六月の空襲には焼夷弾を受けて本堂・客殿・庫裡を焼失、現在の客殿と庫裡は戦後の再建である。