西大寺 観音院(岡山市西大寺中3丁目8-8)

 金陵山西大寺は真言宗高野山派の別格本山として栄えた。 開基は遠く奈良朝天平勝宝三年(751)にさかのぼる。周防(山口県)の皆足媛(みなたるひめ)が千手観音を本尊として、金岡荘松中島(西大寺金田)に一宇を建てたことにはじまる。宝亀九年(778)、紀伊の安隆上人は皆足媛の援助で伽藍を創建し、"犀載寺(さいたいじ)"と名づけた。この寺名は、安隆が資材を運んでいたとき、槌の門(つちのと)(大槌・小槌両島の間)で突然竜神があらわれ、犀の角を授け「この角を埋めた上に堂を建てよ。」と告げたところからだという。
 この「犀載寺」がどうして「西大寺」になったかについては諸説がある。寺伝では、後鳥羽上皇が北条氏調伏の祈願をしたとき、御宸筆によって西大寺と記されたところからという。頼山陽は「山陽遺稿」の「西大寺石門碑」に、足利尊氏が東上の途中、武人は文字を知らず、音(おん)だけ聞いて西大寺と変えたと書いている。いずれも納得のできない説である。岡大名誉教授藤井駿氏の「額安寺領の備前金岡荘」という論文のなかで、多くの古文献や南都西大寺との関係を追及し、創建当時から西大寺であったと結ばれている。
 創建以後三、四百年は文献がなくよくわからないが、寺運はしだいに隆盛したようで、鎌倉時代には一山の寺域は十数町の広大さを誇り、堂塔僧坊が立ち並んでいたようである。正安元年(1299)の雷火で伽藍を失い一時的に衰微したが、南北朝時代の古図によると、その面積は一町五段余(15アール)とある。 南北朝以後当時の塔頭は九つあったが、室町初期は成光寺が別当をし、中期は清平寺がこれに当り、天正(1573〜1591)ごろから今の観音院がこれに当った。
 由緒ある当寺は、鎌倉時代には天皇・将軍の祈願所であったが、応仁の乱(1467)以後、各領主-赤松氏、浦上氏からも崇敬を受けていたが、特につぎの宇喜多直家、秀家は多くの寺領などを寄進した。小早川氏、池田氏からも寺領の寄進を受けて明治維新を迎える。
 このような名刹だけに当寺は多くの文化財をもつ。
○会陽(県指定) 西大寺というとすぐ"会陽"(裸祭)と答がかえってくるぐらい有名。安隆上人が寺を創設したとき、奈良東大寺実忠上人が修正会(しゅしょうえ)(正月に修する法会)を伝えた。十四日間の祈祷を経て満願にになると、ことし一年の五福を授ける意味で、その牛玉を信者のなかの年長者や講頭に授けた。ところが、その牛玉をいただいた人はご利益があったので、年々希望者がふえ、奪い合うとちぎれるので、永正七年(1510)に忠阿上人が牛玉の紙を宝木に変え、その宝木を群がる信徒のなかに投げ、これを得た者に五福を与えるようにした。このとき初めて"会陽"と名づけた。
 会陽は年々盛んとなり、天下の三奇祭として大阪四天寺の牛玉出(こだせ)と岩手県水沢市の薬師堂の蘇民将来の祭とともに全国に知られるようになった。
○銅鐘(国指定) この鐘は開山安隆上人が児島の海上で竜神より得たとか、神功皇后の三韓征伐したのち新羅から貢物をする途中、下津井沖で落とし、後漁師が網に引掛けたのを寄進したとも伝えられる。また、宇喜多直家が岡山城を築くにあたり、この鐘を陣鐘にするため、鐘のいぼ三つを打ち落として、竜神に丁重なお祭をして持ち帰った。しかし、どうしたことか鐘は少しも鳴らず、また元通りに寺へ送り返した。のちしだいに癒着して、寛文九年(1669)典翁上人のときに全く痕跡もみえなくなったという。
 この鐘の作風から考えて朝鮮鐘であることにちがいなく、新羅鐘を受けついだ高麗時代の梵鐘と考えられるから鎌倉時代であろう。

○狩野永朝絵馬(市指定) 本堂大床の東面の上に掲げられている。永朝は京狩野九代永岳の子で、天保二年(1831)京都に生れ、父に師事し山水花鳥を得意とした。一時田中山雷といった。この絵馬は本堂付近でもみあう裸の大群衆、それをとりまく参拝客などをえがいたもの。明治十年の作。
○牛玉所宮 牛玉所権現とともに金比羅大権現を安置している。明治の神仏分離で、四国讃岐国象頭山からここに御本体が移された。

別格本山西大寺 別格本山西大寺 千手院

市川俊介著『岡山の神社仏閣』より』