法昌山 大林寺(岡山市西川原147)

本尊 釈迦・多宝・本化四菩薩

縁起

 日蓮宗の寺で、文禄元年(1592)実成院日典の創立にかかうr。日典は津高郡野々口村(現御津町)の豪族大村家の出で京都妙覚寺に入り第十五世を継いだ傑物、享禄元年の生れであるから、大林寺を創立したのは六十五歳のときであった。
 日典の門下から日蓮宗不受不施派の開祖日奥が出ており、後で述べるように大林寺が中途不受不施の禁令にふれて法灯中断の不運を招いたのも、このような法脈にあったからであろう。寺記に
 文禄元年実成院日典の創立なり、三十番神の絵像は加藤清正の感徳にて、当山第二世恵性院日南師の需め也、天正十年壬午十一月と記しあり。四代目寿正院日継師不受不施の変に当寺を退出と見えたり、其時此番神画像を所持して備中帯江村休岸山妙忍寺へ移転す。当寺十五世日明上人嫡弟の代に因縁ありて三十番神之画像壱幅当山へ納め帰さる。当寺は寛文年中に破滅に及ぶ、鎮守本尊の霊験に依て貞享年中に興起中興、四世日成師を後の開祖とす也寺記にあるように不受不施系の寺院であったため寛文の禁令によって寺は廃止となり、時の住職日継は番神画像を護持して備中帯江村の妙忍寺に立退いた。また同じ西河原にあった大林寺末の広田寺も同様の運命に陥ったが、ここの住職は還俗して土着している。
 その後二十年を経て蓮昌寺から自派の日蓮宗の寺院として再興すべく藩に出願し、許可を得て再興したのが現在の大林寺である。貞享四年(1687)八月五日の藩の留帳に「此寺ハ先年妙覚寺ヘ御渡シ被遺候七ケ寺ノ内ノ寺故、蓮昌寺ヨリ出願且方共寄合再興致度旨ニヨリ願意許可セラル、十一月四日蓮昌寺弟子回弁ヲ住持トス」とあるのは、再興手続きの根拠を示すものである。
 現在の建物は再興以後の建築と思われる。本堂は入母屋造本瓦葺の建物で南面しており、これに庫裡が接続して建っている。本堂の西に並んで入母屋造本瓦葺の帝釈堂があり、また番神堂(元禄八年六月建立)と山門がある。
 同寺の帝釈堂には伝教大師作と伝える帝釈天を安置し、庚申の日を縁日にしているので遠近から信者の参拝が多く、帝釈天の方で一般に知られている。温故秘録」の西河原村の頃にも「日蓮宗法昌山大林寺、帝釈堂あるにより俗にここを河原の庚申といふ」と載っている。