大日山 覚王院 慶岸寺(岡山市灘崎町彦崎773)

本尊 大日如来 

縁起 尼僧管理の小寺院で、児島霊場第五十五番になっている。曽原の一等寺の末寺的存在であるが、仏像その他特筆すべきものが多い。
 慶岸寺の創立については、記録がないため分明でないが、仏像等から平安時代中期の創立と考えられる。またこの寺は彦崎トンキリ城主に属した寺と考えられ、したがって仏像も現在の寺にふさわしくないほど立派であり、また檀家も一般住民の間に少ないのも、このゆえと考えられる。
 江戸初期ごろまでは、寺の位置は彦崎馬場にあって、相当の勢力を有していた様子であるが、池田候の廃仏放火の厄にあい全焼したと伝えられている。本尊であった大日如来像は、他の二体の脇侍と共に難を避けて、川池(現在の慶岸寺西方百メートルのところ)に沈めたのを後に引きあげて、了泉庵に仮安置した。それを某寺院の懇望で一時移譲したが、幾多の奇蹟があるとかで、ついに某寺院が返還して来たので、再び了泉庵に祀った。そこで本尊が再び帰ってこられたというので、遍照庵、大日庵と号を改めた。前記慶岸寺はついに復興出来なかったが、この伝えに基づいて近年大日庵は前記慶岸寺の寺号を襲名した。これが現在の慶岸寺である。
 本尊は杉山良阿時代の建築fで、大正年間のもので、歴史的、美術的にも見るべきものはない。
 本尊は前記大日如来(胎蔵界)で、脇侍として不動明王と毘沙門天があある。本尊大日如来像は、旧慶岸寺時代の隆盛を偲ぶに足る尊容をもつ極めて立派なもので、現在国指定重要文化財となっている(昭和二十四年五月二十八日指定)。
 また毘沙門天は岡山県指定重要美術品となっている。

寺宝・文化財

大日如来像 木像より宝木造に至る過渡期的形式を有している。作者の在銘なく、平安時代中期の作と考えられる。
毘沙門天像 室町時代の作として、県重要美術品に指定されており、平安朝の系統による比較的優れた作品である。特に両脚の強く立った表現は、この像の最も成功した部分でもある。光背、台座(共に享保年間の後補)の他は、完全に近い程保たれている。
不動明王像 不動明王は毘沙門天像より時代の降るもので、桃山時代から徳川初期へかけてのころの製作と考えられるが、平凡な作風である。台座、光背は享保年間の後補である。