妙覚寺(岡山市御津金川600)

 金川の町より加茂川に向けて少し行くと、日蓮宗不受不施派の総本山妙覚寺がある。

 この寺は、明治九年(1876)釈(しゃく)日正によって創建され、竜華教院といった。三年後、現在の本堂をたて、銘十五年(1882)妙覚寺と改めた。
 不受不施派の成立は桃山時代にさかのぼる。文禄三年(1594)豊臣秀吉は、先祖回向のため京都方広寺において千僧供養を行った。この供養への参加をめぐって、日蓮宗内であくまで宗規を守り仕出を拒否する一派(不受不施派)と、権力と妥協して宗を守ろうとする派(受不施派)とに分裂した。前者の不受不施派を貫き千僧供養出仕を拒否したのは、京都妙覚寺の仏性院日奥ただひとりであった。そのため日奥は妙覚寺を去り、迫害に耐えながら宗義を守った。

 次の徳川家康は大阪城に日奥と日紹(受不施派)とを対論させ、日奥を対馬に流罪にした。また、寛永七年(1630)見延山久遠寺派(受不施派)と池上本門寺流(不受不施派)とを幕府の命により対論させ、後者は宗論では勝利を得ながら政治的に敗北し、日樹など六人の僧は配流になった。不受不施派が徹底的打撃を受けたのは、寛文五年(1665)寺領は将軍の寺に対する供養であり、さらに道を行き水を飲むも国主の供養であるという論(土水供養論)に発展し、幕府はこの派を禁止した。そこで不受不施派は本寺を放棄せざるをえなくなり、一部には寺領は貧者への慈悲と解釈して、幕府権力に妥協する派(悲田派)もでてきた。
 このような日本的な経過は、当然地方各藩の取締につながる。備前国は京都妙覚寺の末寺が多く、不受不施派の勢力のもっとも強いところであった。岡山藩は幕命を受け徹底的な弾圧にのりだした。転宗をこばんで斬首、入牢、追放になった僧、信徒もすくなくなかった。寺313寺、585人の僧が追放された。そこで、「備前法華」から「備前真言」に移り、往時の日蓮宗の面影はなくなった。また、信徒のなかには、表向きは転宗をよそおい、内信では不受不施派を信ずるという”内信”になった者が多く、地下にもぐった不受僧とともに信仰を守りつづけた。
 幕末にあらわれた釈日正は、内信の者の統一をすすめるとともに、たびたび公認を訴え、明治九年はじめて公許を得て、難波抱節跡を入手して寺をたてた。こうして、日奥の京都妙覚寺の名に改め、不受不施派の本山となった。

 この寺には多くの寺宝がある。「銅板法華経」(県指定)の一枚があり、保延七年(1141)九月十四日の銘がある。また、「梵鐘」(県指定)は建長四年(1252)十二月の銘があり、もと備前金剛寺のものであったが、後瀬戸町肩背の徳王寺に移り、天正十年(1582)秀吉が備中高松城水攻めのとき、陣鐘として使用されたという。
 そのほか、「花鳥図」(県指定)は、桃山時代の巨匠長谷川信春(等伯)の筆になるもの。等伯前半期の作品で、彼独特の画風を形成しょうとしていた時期の貴重な資料である。「木造大黒天立像」(県指定)は室町時代の作で、全体を黒く塗り、拳印を結んで荷葉座に立ち、いかつい顔をした古様のもの。
 「世界図」(県指定)は、六曲屏風に世界地図がかかれている。江戸初期につくられたもので、暗礁の位置、交易国の地名、里移、商品名を列記している。アメリカは地図にかかれていない点おもしろい。
 これら以外にも重要な古文書や美術品などが多い。庭園にあるマリア燈篭は珍しく、御津郡下田の旧家墓地から移したという。

市川俊介著『岡山の神社仏閣』より