瑞光山 仏心寺(岡山市湊451)

本尊 阿弥陀如来

縁起

阿弥陀如来を本尊とする天台宗の寺院で瑞光山仏心寺という。岡山藩主池田綱政がその姉にあたる一条右大臣教輔夫人の発願によって正徳四年(1714)に建立したものと伝え、池田光政の位牌や綱政の絵像を安置している。しかしこの寺の建立を発願したのは一条教輔の室(池田光政女)ではない、池田家の「社寺旧記」に
此寺建立ノ発起ハ岡山寺観音坊円然年来ノ願望ニテ、山門ノ雲空和尚ヘ、当国ニ台宗之律寺ヲ建立致度候得共太守ヘ達シ難ク、基院ハ一条大政所ヘ御帰依ニ候間政所ヘ申請アリテ太守ヘ通達相成候様周旋有之度旨ヲ依頼シ、終ニ綱政公ノ聞ニ達シ、公許容アリテ寺地ヲ申出ベキ旨命アリ、其事行ハレズシテ公逝去セラル
このように記している。説明を加えると岡山寺観音坊の円然が、かねてから備前国に天台律宗の寺院を建立したい志しがあったが領主綱政に直接願い出ることが難しい、そこで比叡山大楽院の霊空和尚に依頼して、一条大政所(関白兼輝の母即ち一条良輔室、綱政の姉)に話しこみ、実弟綱政を説いてもらうよう周旋方を依頼した、そこで霊空和尚から一条大政所に依頼し、綱政に観音坊円然の意志を通じて、はじめて寺院建立の段取りがついたのであった。しかし寺地を申出でるよう命令があったが、「其事行ハレズシテ公逝去セラル」とある通り、寺の建立を見ずして綱政は正徳四年十月二十九日に岡山城に永眠した。寺記には「草創は正徳四年九月発願主岡山寺円然、開山霊空大和尚殿堂建築之施主は一条政所輝光夫人及十方檀越之投財を以ってし、即山門安楽院支院にして律場也」の記事がある。おそらく正徳四年九月に綱政の許しが出たのであろう。
綱政の遺志をついで、その子継政は堂宇建立の資として円金千両を喜拾しており、また寺領百国と山林など施入、天台律宗の道場としてその隆盛を願っている。比叡山安楽院は元禄七年霊空和尚の代に天台律宗総本寺となったもので、仏心寺の草創はこれに遅れることわずかに二十年であった。
伽藍は北山の尾根に近い松林の中に南面して位置を占め、本堂は五間三面入母屋造瓦葺の建物で大棟を本瓦葺の箱棟とし、四面に本瓦葺の廂をおろし、正面に唐破風造の一間の向拝を付けている。大体この建物は仏堂というよりも大地主か豪族の住宅に近い大きな草屋根の建物で、向拝が玄関の役目を果たしている。奥に庫裡などがあるが、寺院としてはいかさかケタはずれの建物であるばかりでなく、本堂の段の南西の角には高い石積みの塀があったり、頑丈な石垣の上に分厚い練壁を築きまわし、内庭を囲む土塀を厳重に築いてあるなど、一見豪族の構え屋敷といった観がある。
表門は総ケヤキ材の薬医門である。本堂、表門の建物は草創当初からの遺構であるが、ほかに宝暦十二年建立の観音堂、憎k尼天堂がある。
門田字西浦にあった光明寺(延享四年建立)は明治四十四年六月十七日仏心寺に合併している。