聖満山 大福寺 法成院(岡山市御成町15-4)

本尊 阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩(阿弥陀三尊)

縁起

真言宗の寺で、寺伝に『天平勝宝年間備前四十八カ寺の一として和気郡伊部に建立したるが寛永年間岡山に移せり、寺領三石、』とある。
 現在の山号は岡山(当時上道郡門田村)へ移転後の改称であろうか、備前四十八カ寺の一つとして和気郡伊部あるのは小幡山長方寺光明院で、この寺は現在も伊部に存続して居り、文禄四年書立ての金山寺文書「備前四十八箇寺領御分国大社領目録」のなかに「小幡山三十石」とあるのが長方寺にあたる。和気郡中四十八カ寺に数えられた寺院で江戸初期に退転したのは木倉村(和気町木倉)にあった市倉山宝城寺、すなわち前記の金山寺文書に「市倉山十五石」とあるがこの寺である。同寺はのちに日蓮宗改めていたが不受不施に関係のあったものか、寛文年中に退転している。このとき岡山に移って真言宗に改め、山号寺号院号ともに改称したのであろうか、しかし、四十八カ寺中寛文年間までに転退寺院十カ寺を数えるので、他の寺院が移って来たのかも知れない。
大正十五年八月廿五日に同じ門田にあった幣建山能満寺大徳院を合併した、大徳院は宝永七年六月、国富瓶井山安住院末として創立した真言宗の寺院であった。戦災前には本堂、庫裡、客殿、祖師堂、山門などのほかに毘沙門堂、木山堂(本尊木山、牛頭天王)、観音堂(二)、大黒堂、十三仏堂、瘡守堂(本尊瘡守大菩薩)などがあった。昭和二十年六月の空襲のとき、この付近にも多くの焼夷弾が落下して、同寺の南方丘上にあった神宮奉斎殿は全焼し、大福寺は本堂(入母屋造本瓦葺)と庫裡、客殿、祖師堂、山門など北の段にあった建物は難を免れたが、南の段にあった毘沙門堂ほか多くの小堂は殆ど焼失した。寺領は740坪を有していたが、戦後南の段は住宅地に開放し、寺境を本堂のある段だけに縮小した。