国富山 少林寺(岡山市国富2丁目1-11)

本尊 聖観音

縁起

聖観音を本尊とする臨済宗妙心寺派の禅院で国富山少林寺という。創立は江戸初期で、池田輝政の第六子輝興が播州佐用から転じて同国赤穂城主となったとき菩提所として建てた盛願寺を、のちに岡山に移したものと云われる。「野史」によると、輝興は元和元年六月播州佐用の地を領し寛永三年八月従五位下に叙し右近衛将監となり松平姓を受けた。同八年赤穂城主池田政綱(輝興の兄)が死んで子が無かったので輝興を赤穂に移して跡を嗣がせた。このとき五万四千七百石(野史)とも三万七千石(国史大辞典)とも云われる。正保三年発狂して備前に流され翌年五月、三十七歳で没す。法名を松巌英少林院という。
こうした輝興の経歴に照らし、赤穂から盛巌寺を岡山に移したのは正保三年で、当時は西片上町の西部にあったが、輝興の死後現在の地に移してその菩提所とし輝興の法号に取り少林寺と改称したことが知られる。
本堂は単層・入母屋造本瓦葺の南面した建物で、この地に移転した当時の建築と思われる。本堂の北手に書院と庫裡が続き、ほかに観音堂、地蔵堂、陀祇尼堂、山門があり、また茶室が二棟ある。
林泉が有名で、これは書院の東庭として江戸中期につくられた観賞式の庭園である。眼前に聳えた操山の山腹を取入れ、池をうがち花卉珍木を植込んで閑静な趣きにつくり、さつきの刈込みがもっともよい。
この寺には「五百羅漢」として遠所に知られた羅漢堂があった。天明八年八月に落成したもので桁行十間、梁間三間入母屋造本瓦葺、四方に廂をふきおろした大建築、内部に檀を設けて本尊釈迦如来と百余からだの身の羅漢木像を安置していたが、昭和十四年火災にかかって全焼した。
少林寺の境内は操山の西面景勝の地を占めているだけに文人墨客と縁故がふかく、従って詩碑歌碑の集まるところとなっており、高野竹陰の歌碑、岡直廬の歌碑、西村燕々の句碑、狩野永朝、矢部楳山、山本梅子の記念碑などがある。