室山 満願寺 慈眼院 (岡山市古都南方1200)

本尊 十一面観世音菩薩

縁起

南方の室山満願寺は備前四十八ヶ寺の一つと考えられている。この四十八ヶ寺の山上伽藍を建立したのは奈良朝時代、報恩大師の努力によったものといわれている。報恩大師は御津郡馬屋下村大字芳賀の出身で、若くして大和の地にいたり僧侶としての修行をつみ、吉野山にもとどまったことがあった。南北朝時代に編纂された虎関師錬の元享釈書には彼の伝記をのせている。
報恩大師は奈良の都を中心とする当時の仏教の隆盛の波の中に身を置くと共に、仏教の弊害をも身を以って体験したのに相違ない。彼は故郷備前の地に帰り金山寺以下の寺々の建立に努力したと考えられる。金山寺のような山上伽藍は或る意味では空海、最澄の高野山や比叡山の伽藍に先き立つものといえよう。
室山満願寺が報恩大師によって建立されたものか、以上のことから直には真ぜられないが、といって敢て否定出来る史料もないのである。寺の口伝によれば奈良朝の天平勝報年間(749)鑑真和尚の開基といわれている。鑑真はいうまでもなく唐から日本に招かれ東大寺に戒壇を設け、聖武天皇以下に授戒し、後唐招提寺の開山となった奈良朝の有名な帰化僧である。鑑真の活動は殆ど奈良の都を中心に行われ、備前の地に寺院を建立したとは、にわかには信ぜられない。しかし満願寺は他の四十八ヶ寺と同様に由緒の古い寺であり、奈良朝、或は平安朝の初期に山上伽藍の一つとして建てられたことは正しいと考えられる。
満願寺は南方の奥、室山の非常に静かな地にあって、東西及び南は芥子山々塊の丘陵に取囲まれている。修行の道場としては好適の地といえよう。平安、鎌倉時代のことは寺にこれを知る何の史料もなく一切不明である。わずかに寺の口伝によれば鎌倉時代末正和年中(1312〜1316)に火災があり寺内の建物を多く焼失したといわれている。
室町時代には金陵山西大寺の末寺になっていた。

忠阿上人の五輪塔

忠阿上人が西大寺修正会即ち会陽の際宝木の授受を始めたといわれている。
会陽は西大寺の寺伝に従えば旧暦正月元旦より十四日間観世音菩薩の仏前で秘法を修し、国家安隠、四民繁栄の祈願を行うのである。この法会は西大寺が創建せられて以来行われて来た。しかしこの法会に際し参拝者に別に宝木を授けるようなことはなかったが、今から4百年前、室町時代永正年間に西大寺の住職忠阿上人がこの法会の結願の日の夜、宝前の宝木を参拝者に授けるようになった。当時は信徒中のえらばれた者のみ授けられたが、次第に信徒参拝者がこれの授受を希望するようになった結果、はじめはくじによったが、後、参拝者の郡の中に投ずるようになったといわれている。
忠阿上人は西大寺縁起によれば、「今こ々に忠阿という十穀のひじりいませり、紀州の人なり、無二の願を記して再興の志切なり、これ又化身の隋一なるをや、干時永正四年丁卯雪月鬼宿にしるしをわり伝うる事しかなり」とある。忠阿上人が室町時代の永正年間西大寺にあって、寺家の再興に努力し、今日の宝木を参拝者に授受するようになったこと以外、上人の詳しい伝記は不明である。満願寺境内に上人の墓と伝えられる五輪塔があるが、満願寺が室町時代には西大寺の末寺であったので、上人が満願寺に止住したことがあったとも考えられよう。そのため上人の墓所がこ々につくられたといえよう。
巌津政右衛門の意見によれば、この五輪塔は形式から考えて室町時代のものと考えて誤なく、なかなか整ったものである。
満願寺境内には室町時代頃と考えられる小型の一石造りの五輪塔数基がある。

寺宝・文化財

・弘法大師御筆と伝えられる不動明王図。(麻地王図)
・恵心僧都筆と表書のある阿弥陀如来、(絹本彩色)
・雪舟筆の表書のある不動明王図(絹本彩色)
・磐若十六善神図、作者不詳
・狩野ウタノ介筆、愛染明王図、(紙本彩色)
・月天尊像図、作者不詳(紙本彩色)