如意山 持済寺 延寿院 (岡山市小串2360)

本尊 薬師如来

縁起

高野山真言宗の寺院である。慶安二年(1649)の再建である。小串の小浦の地に寺屋敷と伝えられた所があり、保寿山延正坊と、医王山正福寺文殊院の二カ寺があったが、寛永中期に持山が崩れ二カ寺とも倒壊した。その使用可能の残在を収集して一寺を再建した。これが現在の籔内の丘にある延寿院である。
これより前、寛永二十年(1643)三月、備中国三島より三島市兵衛といえる人小串に来住す。この人を慕って三島より快尊法印が来村し、檀家の請により文殊院の住職となった。快尊師が慶安二年に延寿院を再建した。正保二年(1645)四月には文殊院の釣鐘を鋳造寄進した遺跡である。
小串小学校は明治六年、延寿院を仮用して創立、当時の住職は尊上智淵師である。師は小串村松屋清七(鎌田)の末子に生まれ、一三歳にして剃髪して染衣となる。幼名を正信房という。金陵山西大寺観音院の如法印の弟子光素師に従す。のち小串延寿院の智元師に従す。在住三十余年におよぶ。阿津宝積院の住職常応師と従弟にあたる。
智淵師は性頗る温厚篤実にして厳格であった。仏学の傍ら儒学を深究せられ、詩詠狂歌を好み書に能なり、延寿院に転住されて以来、子弟の教導懇切で、その学徳を敬慕して門に入る者の数多く、夙に謹王の志厚く「普天下莫非王土」の七字を自書して常住の室に揚げ朝夕これを誦せり。寺を教場に仮用するに当たり、教育のため国家の為なれど進んで快諾され、児童の教養補導に努力を惜しまなかった。また貧民救助に尽くした功績数知れず。檀家一同こぞってその篤志を称揚された。明治十六年四月十八日没。享年六十四歳。
延寿院は吉備温古秘録にも児島郡小串村の条に高明院とともに載せてある。往時は相当栄えた寺であったが、明治以後衰微をつづけ、今は本尊と不動明王を祀る堂だけが淋しく残っているのみである。