万歳山 国清寺(岡山市小橋町二丁目4-28)

本尊 釈迦如来

縁起

臨済宗妙心寺派の禅寺である。太平洋戦争後の都市計画で、寺領の西を除く三面が著しく狭められたが、戦前の境内は3,237坪(10,682平方メートル)もあり、近世平地伽藍の偉観ともいうべき岡山城下第一の巨利であた。現在は門前を新京橋の東端にあたる国道が一段高く通過したため、甚ただしく景観を損じたが、しかし深い森にまもられた墓地を擁して静かな一郭をつくり、岡山の町とともに発展して来た禅院の面影をのこしている。
この寺は慶長十四年(1609)池田利隆が建立し、初めは法源寺と称した。利隆は姫路城主池田輝政の嫡子であるが、備前国の領主であるべき弟の忠継が幼少であったので、代って岡山に在城し、慶長八年から同十八年まで備前の藩政を代行した。その間国清寺も創立したわけであるが、法源寺から国清寺となるまでの経緯につき「池田家類纂」に、つぎの記事がある。
慶長年中利隆公創造法源寺と称す、輝政公薨し玉ひ法諡を国清院殿と称せられしより国清寺と改称す。興国公(利隆の法号)禅学を好ませられ京都妙心寺々中護国院の住僧天猷を招延ありて一寺を備前に建設し玉はんと思しけるが、天猷年老たるを以って其徒弟大華を聘せられる。慶長十四年(一作十五年)上道郡に法源寺と云へる古寺ありしを再興ありて法源寺と称し、大華をして住持たらしむ。十八年国清公薨去、興国公播州に移らせられ、又姫路に一寺を創立あって国清寺と称し、大華をして移住せしむ。
元和元年二月忠継朝臣逝去せらるゝの後、忠雄卿の指揮を以って忠継朝臣の法号に取り法源寺を龍峰寺と改称せらる。葢龍峰寺殿を此寺に葬り奉りしを以ってなり。元和二年興国公薨去、光政公移封により鳥取城下に一寺を建立あって又之を国清寺と号し、大華の弟子伝外をして住職たらしむ。寛永九年公再び備前へ移封に及んで龍峰寺を又国清寺と改称せらる。
利隆の藩政代行や、寛永九年のお国替えなどがあって、国清寺の寺歴は複雑化しているが、要するに、池田利隆が岡山在城のとき上道郡にあった古寺を現在の地に再興して法源寺と称し、臨済宗を岡山城下に導入した。慶長十八年姫路城主池田輝政が死ぬると、利隆はその遺領を継ぎ、姫路に国清寺を建てて輝政の菩提を弔うた。一方岡山では元和元年二月城主池田忠継が死去したので、法源寺に葬って寺号を竜峰寺に改めた。また元和二年には姫路城主利隆が没し、その嫡子光政は鳥取に移封されたので、こんどは鳥取城下に国清寺を建てて菩提寺とした。ついで寛永九年の国替えで光政は備前に帰って来ると、竜峰寺を国清寺と改称、祖父輝政と父利隆の霊をまつる寺とした。そして鳥取池田家に系脈をつたえる旧領主の忠継の霊廟と忠雄の墓所は、清泰院の管理となったのである。
このように寺名はしばしば変えられたが、伽藍そのものは慶長十四年に池田利隆が再興した法源寺の実態を伝えてきたわけで、戦災で焼失したカヤ葺の本堂は再興当初の遺構と云われるだい建築であった。
宗派関係では密教系統の寺院や日蓮宗の栄えた岡山の地に、臨済宗を招来した禅院として注目される。開山大華の法脈をひく寺院が数多く、児島の郡にある掌善寺・万年寺・向上寺・香養院・玉野八浜の宗蔵寺などいずれも国清寺の末寺であった。
戦前には広い境内に本堂・霊屋・束書院、霊供所・庫裡・鳥耕軒・鐘楼・禅堂・阿弥陀堂、陀祇天堂・観音堂・堅牢堂・山門・御成門などがそれぞれ位置を占めていたが、昭和二十年六月の空襲により、本堂をはじめ主なる堂宇を焼失し、残ったのは霊屋(池田忠継廟)、山門、鐘楼、稲荷堂、御成門の六棟にすぎず、本尊と同寺の名物「文がら観音」「阿古無地蔵」も辛うじて戦火から救われた。
国清寺には一般の檀家がほとんど無く、延宝二年二月池田綱政が施入した今在家村(現岡山市今在家)の中の二百石の寺領によって、明治以後も寺の経済が支えられていた。戦後の農地改革により唯一の収入源を失った同寺は、伽藍の再興が容易でなく、昭和二十三年に焼け残りの「大愚堂」を北に引き移して本堂とし、その東に客殿と庫裡を建てて寺院の体制をととのえた。
本堂再建 現在の本堂は先住崋山海応他界してのち後嗣光恵の代に再建された鉄筋コンクリートの大建築である。丸川設計事務所で設計、荒木組が施行にあたり、昭和三十九年上棟同四十年八月に完成、翌年五月妙心寺の大航宗琢菅長を迎えて落慶法要を行うた。
単層入母屋造桟瓦葺の堂で、旧本堂の跡に南面して建ててある。桁行五間(17メートル)梁間四間(13.41メートル)、周囲に幅一間(0.9メートル)の縁を設け、正面中央の一間に両開桟唐戸を吊り、その左右の柱間にはそれぞれ花頭窓を開く。内部は前面一間通りが外陣(土間)、中二間通りを縦に三つに仕切って、それぞれ畳敷、奥一間をまた三つに仕切り、中央の間の正面に須弥壇を設けて本尊をまつる。その左右は畳敷の控の間になっている。

観音堂の本尊 観音堂の本尊は聖観音坐像で俗に”文がら観音”とよばれる。この聖観音は曾て東山にあった天城池田家の祈祷所格厳寺に安置していたが、明治初年に同寺を国清寺に合併したため聖観音も共に移って来た。天城池田家は赤穂義士大石良雄の母の生家である関係から、義士の書翰をもって張り子の観音像をつくり、ひそかに義士の菩提を弔うたという伝承があり、今もなお張り子の聖観音は特殊な信仰をあつめている。
国清寺の山門をくぐるとすぐ東側に大竜寺がある。釈迦如来をほんぞうとする禅院で、本堂は入母屋妻入となり西面しており、戦災のときも難をまぬがれた。
同寺はもと児島の郡(現岡山市郡)にあった香養寺という国清寺の末寺であるが、弘化四年に国清寺境内に移して法源院と改号した。この寺号は国清寺の最初の名前である。
ついで明治二十二年六月赤磐郡周匝村(現赤磐市周匝)にあった国清寺末の大竜寺をも合併した。このとき寺号を大竜寺に改めたと云われる。